12月20日~26日のみことば - 2020.12.19 Sat
明日はいよいよクリスマス礼拝。アドベントクランツに4つ目のろうそくが灯ります。
今年はいつものようにポスターをたくさん掲示したり、チラシをたくさん配ったりと大々的な参加のよびかけはできませんでしたが、それでも一人でも多くの方とクリスマスの喜びを分かち合いたいと願っています。直接来ることができない方も、ぜひYouTubeのライブ配信などで参加してくださいね。
明日の礼拝では、教会学校小学科の子どもたちがハンドベルの特別賛美をしてくれます。
例年なら劇や歌をしているのですが、今年は大きく声を出すものは感染防止の観点から難しく、いろいろと悩んだ結果、声を出さないハンドベルをすることになりました。
11月から毎週コツコツと練習を積み重ねてきましたから、ぜひ明日の本番で練習の成果を発揮できますように。ベルの響きでクリスマスの喜びを皆さんにお伝え出来ますように。
また24日は19:30からクリスマスイヴ礼拝です。こちらもライブ配信いたしますので、ぜひご参加くださいね!!
皆さんのクリスマスがイエスさまの伴いをじんわり感じるクリスマスとなりますように。。。
***今週のみことば***
※聖書の箇所は日本聖書協会の聖書本文検索から読むことができます。⇒こちら
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20日(日) 箴言24章1-12節
一言メッセージ:今朝、ドキッとするのは10-12節です。「苦難の襲うとき気力を失い(弱気になり)、力を出し惜しみ、死に捕えられた人を救い出さず、殺されそうになっている人を助けず、『できなかった(知らなかった)』と言い訳しても、心を見極める方(神さま)は見抜いておられる。」今の時代、「助け合い」だの「絆」だの、標語だけは大々的に言われます。でも、本当に助け合いが、絆が築かれているのでしょうか。12月6日にThe MANZAIという番組がありました。毎年、ウーマンラッシュアワーというコンビが、かなり突っ込んだ政治ネタをやります。今年のネタの一部を紹介します。「この前ねぇ~。麻生太郎が言ってましたよ。政治に若者が無関心だと悪いように言うけども。政治に無関心なことは悪いことじゃないと。例えばね、アフガニスタンなどに行って、地雷を踏んで、命を落として、それで初めて政治に対して関心がでる、みたいなことを言ってますね。この国では地雷を踏むことはないから、政治に無関心でもいい、みたいなことを言ってましたね。そこで思ったんですね、ちょっと待ってくれ。確かに地雷を踏んではないけど、福島では原発事故で故郷を奪われた人がたくさんいるし、沖縄なんかではね、基地をいっぱい押しつけられて、静かな空とか青い海とか、人間関係を壊された人がいっぱいいるわけですね。朝鮮学校のこどもたちはですね、自分たちのルーツを学ぶという当たり前の教育の権利すら奪われ続けている。彼女たちは、ずーっと声をあげ続けているんですが、声を上げ続けても、みなさんが無関心だったら、彼らの声はずーっと聴き取れないまま。ずっと、泣き声を放置するままじゃないですか。私は気づきましたよ。日本のこと平和って言いますが、平和ってなんだ、っていったら、彼らの声を聴かないことですよ。聞かないから平和を実感できるわけですよ。無視すりゃぜんぶ平和ですよ。だから、その泣き声っていうのは、ここ(テレビ)に持って来なきゃいけない。芸人が持ってこなきゃならない。これニュースキャスターじゃだめ。政治家じゃだめ。彼らは悲しい話を悲しいようにしか伝えないから。お笑い芸人は悲しい話もこうやって伝えることができる、笑いにすることができる。痛みに触れて和らぐことができるわけですよ。だからお笑い芸人ていうのはここに持ってこなきゃいけないんですよ。もっともっとここに持ちこまないといけないわけなんですよ。」
彼らのネタはネトウヨたちからものすごく批判されています。もはや敵意だらけの誹謗中傷です。でも彼らは毎年、こういうネタをやり続けます。正に声なき人の声を代弁しているのです。
今朝はクリスマス礼拝を守ります。人間の現実を見ないふりするのでなく、そのただ中に飛び込んできてくださった救い主がイエスさま。私たちも改めて「視野を広げねば…」と思わされます。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝のみことばに、お笑い芸人のネタを思い出しました。「聞かないから平和なんだ」との指摘は見事に今の時代を射抜きました。わたしたち自身、無関心とは言わずとも、伝聞レベルで留まっていたかもしれません。でも神さま、あなたは人の苦難の現実のただ中に救い主イエスさまを生まれさせてくださいました。どうぞイエスさまを信じる私たちも今の時代に無関心でなく、目を開いて知ることができますように。そして、この現実に寄り添ってくださるイエスさまを信じるがゆえに笑い、期待し、勇気を出すことができますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。
21日(月) 箴言24章13-22節
一言メッセージ:今朝のみことばも神さまに従って生きることを勧めることばです。私の目が留まったのは16節です。「神に従う人は七度倒れても起き上がる。神に逆らう者は災難に遭えばつまずく。」「七度」は実際の数字ではなく、「何度でも何度でも」という象徴数字です。賢者は「神さまに誠実に向き合い従う人は何度だって立ち上がれる」と語るのです。
神さまを信じ、従う人も苦しいことはあるし、時に理不尽な攻撃を受けたりもします。でも、これは私の体験上もそうなのですが、神さまの御心に従おうと決断した結果、他人から攻撃されても自分の中でファイトが湧いて来るのです。「神さまの御心と信じて決断したんだから、この攻撃も神さまがどうにか整えるだろう」という信頼できて、相手に対しても恥じることなく向き合おうとできるのです。一方、神さまの御心は関係なく、自分の思惑で突っ走ったり、感情的な発言などへの批判について攻撃を受ける時には、がっつり落ち込みます。その違いは、神さまの御心を求めて従っているかどうか、です。皆さん、本当に大事な決断をする時ほど、ちゃんと御心を求めて決断しましょう。その時、私たちは何度だって立ち上がれます。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝のみことばは、私たちが決断する際、何を考えれば良いかを示します。それは、あなたの御心です。あなたの御心に従って決断する時、一時的に批判にさらされたり、攻撃を受けても、あなたがその事態を放っておかれることなく、御手を差し伸べ、整えてくださいます。神さま、あなたに従うことが私たちにとって最善の決断です。どうぞ日々、あなたの御心を求めて決断する私たちであれますように。私たちをよく知った上で、なお寄り添い生きて下さる救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。
22日(火) 箴言24章23-34節
一言メッセージ:今朝のみことばは、誠実であること、実直に生きることを勧めるみことばです。時に私たちは誠実に、実直に生きることが非効率的で愚かに見えることがあります。23節にあるように「えこひいき」したり、されたりして、仲間をたくさん作って生きる方が良いように思えます。でも、賢者は言うのです。神さまに誠実に生きねば人は過ちをしでかしてしまう、と。29節には「人がわたしにするように、わたしもその人に対してしよう。それぞれの行いに応じて報いよう」という言葉があります。意味合いは「みんなやってるから、私もえこひいきしてくれる人には、罪があってもひいきしよう(24節も参照)」ということですが、大変恐ろしいことに、彼は神さまが聖書の様々な箇所で「誠実に生きる者には、その行いに応じて報いよう」と語っている言葉を悪用しているだけなのです。言い換えるならば、神さまのみことばに従っているような体裁を作りながら、自分本位に神さまを利用しようとしているのです。正しく生きるとは、神さまの御心を模索して生きることです。私たちは正しく生きる者でありたいものです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今の社会を見ますと、あなたの正義と公正とはかけ離れた状態に見えることでしょう。政治は率先して「えこひいき」を行い、私腹を肥やす者がさらに権力を持とうとします。でも神さま、それらはあなたの目に決して義とされないでしょう。まことの裁き手は主なる神さまであり、あなたは一人ひとりを正しい目で見極めておられます。どうぞ私たちが日々、あなたに誠実に生きる者であれますように。悪を行う者も、あなたの懲らしめを受けて悔い改め、生き直すことができますように。全ての人の救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。
23日(水) 箴言25章1-7節
一言メッセージ:今朝からは「ソロモン王の箴言」と呼ばれる箇所です。早速、2節から難しいことばが書かれます。これは「世界を不思議な仕方、私たちには分かり得ない仕方で治められるのは神さまの誉れ。一方で、その神さまの不思議さを見極めて民を正しく治めることが王の誉れ」という意味です。掘り出した銀を細工するために高温の炉で溶かして純度をあげるように、王(指導者)は自分の中の無益な思惑、たとえば名誉欲やプライド、驕りなどは捨て去るべきと、賢者ソロモンは語るのです。イエスさまのことを思います。神の身分でありながら、私たちと共にあるために、一人の赤ん坊として生まれてくださった救い主。名誉もプライドもなく、逆に私たちに全てを委ねるほどに信頼してくださったイエスさま。私たちはそんな最も尊い存在が私たちの傍らに来て下さったからこそ、神さまの救いの決意に心からひれ伏しました。さぁ、明日はいよいよ救い主誕生のクリスマス。今日はワクワクしながら、救い主イエスさまを想って過ごしましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。ソロモンの箴言は、私たちにあなたへの信仰の前に、私たちもまた純度を高めるように、プライドや思惑に振り回されないように生きるようにと促します。それは、正に赤ん坊となって私たちの傍らに生まれてくださった救い主に倣うように、でした。神さま、どうぞ私たちをさらに純粋で粘り強い信仰者として育て導いてください。今日一日、様々な出来事を経験しながらも、イエスさま誕生をワクワク期待し、あなたの御心に従って生きる者となしてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。
24日(木) 箴言25章8-15節
一言メッセージ:今朝のみことばは私たちに「今、どんな言葉を語るのか?」と問いかけながら、「時宜にかなった言葉(今、神さまが示されている言葉)」を語るように促します。例として14節「雨雲が垂れ込め、風が吹くのに、雨が降らない」とありますが、これは乾燥地帯であるイスラエルを思い起こして読んでみましょう。雨雲を見て、人々は農作物を育てるために雨が期待します。なのに、降りそうで降らない雨雲に人々が苛立つ様が例にあげられました。これは「実現できもしないのに、壮大な贈り物を吹聴してまわる人」のことです。私たちはそのような時宜にかなわぬ言葉しか語れない者ではなく、神さまから示された言葉を語る者でありたいものです。
では、今の私たちにとって「時宜にかなう言葉」とは何でしょう。今日はクリスマスイブと考える時、今日、語るべき言葉は喜びの知らせです。ルカ2章で天使も羊飼いたちに告げました。「民全体に与えられる大いなる喜びを告げる。今日ダビデの町に、あなたがたのために救い主がお生まれになった。」今日は喜びを告げ知らせながら一日を過ごしてまいりましょう。
今夜の礼拝は19:30からです。ご家族やご友人が興味を持ってくださる方々をどうぞお誘いくださいね。また夜、お会いしましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝、私たちは時宜にかなうことばを語るように促されました。考えてみますと、私たちはいつも自分のことばかりを口にし、あなたの御心に基づく言葉をどれほど語っているでしょう。「わたしは、わたしは」と自己主張を繰り返すばかりで、「神さまはね、イエスさまはね」と喜びの知らせを語り継いでいたでしょうか。でも神さま、今日はクリスマスです。救い主イエスさまの誕生を喜ぶ時です。どうぞ今日、わたしたちは時宜にかない、救い主誕生の喜びを告げ知らせることができますように。今夜のイブ礼拝、喜びをもって集うことができますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。
25日(金) 箴言25章16-28節
一言メッセージ:今朝の箇所では16節と27節で「ハチミツは美味いけど、食べすぎ注意」と語られます。それは、自分たちの中で節度を持って生きることの勧めでした。そう思って今朝の箇所を読む時、18-22節に目が留まります。18-20節は傷口に塩を塗り込むように、苦しむ人をさらに痛めつけることは止めなさい、と勧められています(20節の「ソーダの上に酢を注ぐ者」は意味が分からないので、「ソーダ」をアラビア語で「傷口」と読み替えてみましょう。すると「傷口に酢を注ぐ者」という愚か者の姿が浮かび上がってきます)。賢者はそうやって「苦しむ者をさらに苦しめる、愚かな光景はあちらこちらにある」と示しながら、21-22節「(でもあなたがたは)憎む者にパンを与え、渇いているなら水を飲ませなさい」と語ります。その理由は「あなたは彼の頭に炭火を積むことになるから」です。分かりにくい表現ですが、「敵に反省の機会を与えることになる」という意味でしょうが、敵を味方に変えて共に生きる機会となるし、それは神さまにも喜ばれる、と賢者は語るのです。もう年の瀬、私たちは今年、どんなことで怒ったでしょうか。まだ怒りがあるならば年内に解消し、和解を実現して年を越せたらいいですね。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝の箴言は、私たちに自分の感情に流されるのでなく、敵を味方に変えるような配慮を持つように促します。言われるほどに簡単でないですが、でも、みことばの通りにできるならば、どれほど素晴らしいだろうかとも思います。神さま、どうぞ今年抱えたわだかまり、御心ならば乗り越えるための一歩をチャレンジさせてください。平和の君、和解の主なるイエスさまの御名で祈ります。アーメン。
26日(土) 箴言26章1-12節
一言メッセージ:今朝の箇所は全て「愚か者」に関する格言です。すっごく興味深いのは4節と5節は、それぞれの前半でまるで逆のことを言っていることです。4節は「愚か者にはその無知にふさわしい答えをするな」と語るのに、5節で「無知にふさわしい答えをせよ」と語っています。どうして正反対のことを言っているかと言うと、この格言は生活での指針であり、読者である私たちが「それぞれの生活の具体的な場面にて、どちらの指示に従うのが適当かを判断しなさい」ということだそうです。では、実際に4節と5節の後半部を含めて考えてみましょう。
4節は「愚か者にはその無知にふさわしい答えをするな」と語ります。その理由は「あなた」、つまり読者を優先的に考えているからです。「愚か者に合わせて無知な答えをすると、あなた自身が相手と同じように扱われてしまう」と賢者は警告するのです。
一方、5節です。「愚か者にはその無知にふさわしい答えをせよ」です。それは「はいはい、そうやんね」と軽く受け流すような返答をイメージさせます。どうして、そんな返答が勧められるかと言えば、それは愚か者自身が「こんなに真剣に応えられたら、俺って結構すっごいこと言ってるっちゃない?」と勘違いしないように、です。
賢者の格言はとても面白いですね。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝は「愚か者」がテーマとなっていました。「賢者、ちょっと口悪すぎやろ」と思いますが、でもそれは、賢者が私たちに「愚かになるな」との示唆なのでしょう。神さま、どうぞ私たち、日々あなたの知恵を悟りながら生きる者であれますように。今年も間もなく終わります。どうぞ最後まであなたの守りの中で歩ませてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。
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