アドヴェントが始まります!(11月29日~12月5日のみことば) - 2020.11.27 Fri
先日の日曜日は、次週(11月29日)から始まるアドヴェントに向けてクリスマスの飾りつけなどの準備をしました。
こちらは受付班。「あれ?この布だっけ?去年どうしてた??」全員記憶があやふやです(笑)
あ、右側のツリーは献品していただいたおニューのツリーです!!
飾りつけとは別に、付設幼児園のキャンドルサービスのために会堂窓に暗幕も。
だけど、私たちの会堂の窓はとにかく縦長!!
一番高いところは椅子に脚立を載せて設置するほど。
写真は二番目に高いところ。
道具を駆使して…がんばれ!!
ちなみに設置しているのは牧師です(笑)
今年はクリスマスも例年のように大々的に参加のお声がけがしにくいですが、こんな時だからこそ、クリスマスの喜びを一人でも多くの方と分かち合いたいとも思っています。
クリスマスのイヴの礼拝もライブ配信する予定ですから、どうぞ教会に来れなくとも、インターネットを問うして共に礼拝に参加してくださいね。
今週も皆さんの上に神さまの祝福がありますように!!
***今週のみことば***
※聖書の箇所は日本聖書協会の聖書本文検索から読むことができます。⇒こちら
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11月29日(日) 箴言17章1-7節
一言メッセージ: 今週は箴言17章から始まります。最近読んでいる箴言は、ほとんどが節ごとに独立した格言です。だから、人によって目に留まる節は違うことでしょう。今朝、私の目に留まったのは3節「銀にはるつぼ、金には炉、心を試すのは主」です。金や銀は高温で熱し、不純物を除外して鋳造します。同じように、私たちの心を鍛え、信仰の純度を高めていかれるのは主なる神さまだと言うのです。鍛えるための出来事が1、2、4、5節なのかもしれません。例えば1節、誰の目にもカサカサのパン一片より、いけにえの肉の塊の方が価値あるものでしょうが、けれど価値ある肉を得るために大事な家族と争うよりも(いけにえの肉の一部は、肉を献じた家族に返され、家族で食べるものだった)、神さまの平安をいただき、互いに分かち合えるパンの一片の方が幸せだと賢者が告げたことも、そんな訓練の一つなのでしょう。
神さまに従うこと、それは一見すると無価値なものに見えるかもしれません。けれど、神さまを信じ従うことは、未来が見えない私たちにとって、明確に未来への期待を与える約束なのです。
今朝は日曜日。疲れているから家で寝ていた方がいいかも…ではなく、どうぞ一緒に礼拝しましょう。今日からアドベント、イエスさまの誕生を待ち望む期間ですよ。一緒に救い主誕生をワクワクしながら待ち始めましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝のみことばは、私たちに神さまの訓練を思い起こさせます。あなたは時に私たちを鍛えられます。それは、私たちの信仰の純度を上げるためでしょう。確かに今、コロナ禍の中で私たちは日頃になく、あなたへの信仰がどれほど祝福かを実体験しています。神さま、ぜひ私たちがコロナ禍で転んで終いにならず、あなたへの信仰をより固く確信することになりますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。
30日(月) 箴言17章8-15節
一言メッセージ:今朝の箇所もなかなかに面白いみことばが並びます。そんな中、「あれ?どういう意味?」と読み直してしまうのが8節です。「賄賂は贈り主にとって美しい宝石。贈ればどこであろうと成功する。」これ、「賄賂」と書かれるから誤解が生じるのです。「賄賂」と聞くと、越後屋が悪代官に最中に忍ばせた小判を贈り、「越後屋、お主も悪よのう」「いえいえ、お代官さまほどでは」「へっへっへ」みたいなやり取りを想像するのですが、この「賄賂」というヘブライ語の別訳は「贈り物」です。箴言18.16なども参照に成りますが、「贈り物」と読み替えますと、「贈り物は美しい宝石のようだ。贈れば、受け取り手は喜び、あなたを格別に覚えてくれるだろう」です。この「格別に覚えてくれる」の意味合いが強くなって、見返りを求めるニュアンスが出てくるから「賄賂」との訳も出てくるのですが、私たちは「贈り物」と読みましょう。
さて、今、私たちが思い起こしたい「贈り物」は救い主イエスさまです。神さまは私たちに素晴らしい贈り物として救い主イエスさまを贈ってくださいました。それも、私たちがその贈り物を本当に身近に覚えられるように、神さまは民のただ中にイエスさまを贈ってくださったのです。それが家畜小屋の飼い葉おけに寝かされた赤ん坊です。今、私たちは神さまからこれほどまでに覚えられ、救い主イエスさまが与えられていることをぜひ強く思い起こしましょう。私たちは今も神さまの眼差しと、イエスさまの伴いをいただいて生かされているのです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝の箴言は難解ですが、でも私たちのイメージを大きく膨らませてくれました。あなたが私たちに与えてくださった救い主イエスさまは、私たちにとって何者にも代えがたい素晴らしい祝福でした。でも神さま、この贈り物を今も知り得ず、どこに人生の希望があるのかと模索する人々が多々おられます。特にコロナ禍の今、そのような方々が溢れています。神さま、どうか今年のアドベントが、そのような方々に救い主イエスさまをお伝えする機会となりますように。私たちに言葉と勇気を与え、伝道させてくださいますように。御子イエスさまの御名で祈ります。アーメン。
12月1日(火) 箴言17章16-22節
一言メッセージ:今朝のみことばも面白い。16節は賢者の痛烈な皮肉です。「愚か者が知恵を得るための代金を手にしている。しかし、知恵を得ようにも、そのために知恵がない。」落語みたいです。
そんな箇所の中で今朝、目に留めたいのは22節です。ニュアンスを強調して訳しますと、「身体は喜びや希望を抱いていると元気が出るが、沈み込んでいると骨さえも枯れ果てたように、弱ってしまう。」諺に「病は気から」とありますが、聖書も同じように、心と身体の関係を語っているのです。その上でさらに覚えたいのは、私たちの喜びや希望の源について、です。一般の人にとっての喜びや希望は「あれが達成した」とか「これを手に入れた」など何らかの具体的な好条件が根拠となって喜びや希望を感じるでしょう。けれど、私たちクリスチャンの最も大きな喜び、希望の根拠は「神さまがおられ、イエスさまがおられる」です。私たち自身に何も喜べる材料が無かったとしても、「でも神さまがおられるっちゃもん、大丈夫ばい」「今しんどくても、イエスさまがちゃ~んと導いてくださるたい。今だけ頑張りゃ、次は祝福があると」と期待できる。それがクリスチャンに与えられている大きな恵みですし、特権です。今日も喜びと希望の根拠である神さまに「神さま、今日もひとつよろしくです」と祈って始めて参りましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝のみことばに私たちは、あなたがいてくださること、イエスさまが救い主であることが、私たちにとってどれほど大きな喜びであり、希望かを確認しました。今、私たちはクリスマスに向けて、救い主イエスさまの誕生を待ち望むアドベントの時を過ごしています。どうぞこの期間、普段以上にあなたに思いを馳せ、ワクワクしながら過ごすことができますように。今日もどうぞひとつ、よろしくお願いします。イエスさまの御名で祈ります。アーメン。
2日(水) 箴言17章23-28節
一言メッセージ:今朝、目に留まる御言葉は24節です。「分別のある人は顔を知恵に向け、愚か者は目を地の果てに向ける。」平たく言いますと、「分別ある人は神さまを向き、神さまの知恵を求めて生きるが、愚か者は見当違いに明後日の方を見ている」です。これ、とても大事なことなのです。
私たちは腹が痛い時には内科に行きます。怪我をしたら怪我に行きます。歯が痛ければ歯科に行くし、ぎっくり腰になったら整形外科に行きます。腹が痛い時に眼科に行く人はいないし、歯が痛いのに皮膚科に行く人はいない。私たちは患部に応じて、誰に見せたらいいか、誰の助言を得ればいいのか、考えて行動します。では、祝福に満ちた人生を生きるには誰に聴けばいいのでしょうか?自分で未来が見通せない時に私たちの未来を知り、導いてくださるお方に聴くのが最善です。それが神さまです。箴言の賢者は「分別ある人は顔を神さまの知恵に向ける」と語りました。それは時代を超え、今を生きる私たちに対しての示唆でもあるのです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。昨日から12月に入りました。世間でもクリスマスムード一色になってきましたが、神さま、どうぞ今、クリスマスの希望が一体なんであるか、なぜ祝いなのかを改めて思い起こさせてください。そしてどうぞ、救い主イエスさまの誕生を自分たちだけでなく、多くの方と共に分かち合させてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。
3日(木) 箴言18章1-12節
一言メッセージ:今朝の箇所では、神さまに従う人と神さまから離反する人が対比されています。その中で目が留まる言葉は2つあります。1つは3節「神に逆らうことは侮りが伴う」ということ、もう1つは11節「財産は金持ちの砦」という言葉です。これを関連付けて読むと、神さまに逆らう人は財産などのように、自分にとって非常に価値あると思う根拠があるからであり、その根拠ゆえに神さまを侮るのです。このことは、信仰の利点にも繋がります。神さまを信じる私たちは、自分が絶対ではないと知っていますから、普段から驕り高ぶることを自制しようとする。自分の思惑や願望に引っ張られるよりも、「神さまの御心は何だろう?神さまは今、私に何を示しておられるだろう?」と問うことは、私たちを侮りや驕りから遠ざけようとする作用があるのです。
今朝のみことばの終わり、12節で賢者は言います。「破滅に先立つのは心の驕り。名誉に先立つのは謙遜。」私たちは驕って大失敗するのでなく、神さまに、そして人に謙遜に生きていきましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝は私たちに自制を思い起こさせてくださいました。人は驕り高ぶり、あなたを侮る時、大失敗をしでかします。そりゃ、私たちも失敗を繰り返しますが、でも、あなたに誠実である時、「おぉ、やばいやばい」と事前に気づかされますし、やり直せる程度の失敗に留まることができます。神さま、どうか私たちが今日も驕ることなく、あなたに誠実に向き合って生きることができますように。神の子でありながら私たちの傍らに生まれてくださった救い主イエスさまの謙遜な姿を思い起こしながら祈ります。アーメン。
4日(金) 箴言18章13-24節
一言メッセージ:昨日の「驕り」と同時に私たちが注意深くあらねばならないのは、思慮深さです。私たちの周囲で度々目にすることは、例えば17節です。最初に自分の正しさを訴えて、被害者として自己主張する人は、初めは同情を集めます。けれど、次に訴えられた側の主張を聞いた際に、「あれ?思っていたのと状況が違わない?」と思うことは多々起こります。何故ならば、最初に自己主張する人は自分の被害を訴えるけれど、自分の加害など都合の悪いことは言わず、自分の味方を得ようとするからです。その結果は、当初の願いとは逆に、最初に主張した人ほど悪い印象を持たれてしまう。また、13節のように、過ちを指摘されても感情的な口答えに終始する人は、周囲から呆れられるものです。また19節などは「本当に信頼したのに一度こっぴどく欺かれたならば、信頼していた者ほど近寄りがたく、断固たる態度を取られる」とも語ります。今朝の言葉は「うわー、あるある、そういうこと」と思えるケースを示しながら、誠実な言動に努めることを勧めてくるのです。今朝は言葉について考えました。最後に読みたいのは21節です。意訳しますと、「死も生も舌の力(ことば)に左右される。だから、ことばを大事に使う者は信頼と祝福を得る」です。賢者の勧めのように、大事にことばを語る一日としましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝は「こういうことあるなぁ」と思わされる例が幾つも示されました。神さま、私たちに与えられた言動は賜物です。誠実な言葉と行いは周囲の信頼を勝ち取り、一方でその場しのぎに語る言葉や、我が身可愛さの行動は信用ならぬ者との認識を持たせてしまいます。神さま、どうぞ私たちに、言動を律する力をお与えください。いつもあなたを身近に感じ、あなたの御心を想って語り、行動する自分たちであれますように。祝福と導き手なるイエスさまの御名で祈ります。アーメン。
5日(土) 箴言19章1-3節
一言メッセージ:今朝は短い箇所を選びました。というのも、この箇所はとても重要な示唆だからです。1節で賢者は「貧しくとも、神さまに正しい道を歩む者は、以下の人々よりも遥かに幸い」と語ります。「以下の人々」とは「唇の曲がった愚か者(嘘を常用する者)」であり、「自分を知らぬ者(2節前半)」であり、「焦りすぎて視野狭く、大失敗をやらかす者」であり、「無知」のために取り返しのつかない事態に陥っているのに、「主に対して心に憤りを持つ者(「物事がうまくいかないのは神さまが自分を祝福しないせいだ」と神さまに責任転嫁する者)」です。私は現代の社会のように、何かというと「自己責任」という言葉が弱い人を切り捨てる風潮には大反対ですが、その一方で自分の非を認めず、周囲の責任にして自分を顧みないこともまた間違っていると思うのです。
信仰は時に私たちを甘やかすこともあります。宗教改革者の一人にフランスのジャン・カルヴァンという人がいました。彼は予定論と呼ばれる理解を主張しました。それは「救われる人は既に神さまに決定され、予定されている」という主張でした。これは当時のローマカトリック教会の腐敗に対する痛烈な批判でした。当時のローマカトリック教会は甚大な資金不足のため、「このお札を持っていたら神さまに救われる」という免罪符を販売していました。神さまの救いを金銭で得られるものだとしたのです(使徒言行録8章のペトロの怒りをなんと思っていたのでしょうか)。カルヴァンはそんなカトリック教会への批判として「救いは神さまの御心による決定であって、人間が勝手に売り買いできる事柄ではない!」と主張した、それが予定論でした。けれど、それから数十年後、カルヴァンの死後に彼の弟子の中には「既に神さまによって救いが約束されていて、自分たちは救われているのだったら、今から罪を犯したって問題ないじゃないか」と主張し、好き勝手な行いをする人たちが出てきてしまったのです。信仰が悪用された例です。
そう思い起こしながら今朝の箇所を改めて読んでみましょう。嘘をつき、己を知らず、思慮に足らず、とりかえしのつかない事態に陥っていて、そのくせ神さまに憤り、「神さまはどうして自分に有利に働いてくださらないのだ」と騒ぐ者ではなく、貧しくとも神さまに正しく歩む者でありたいものです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝は信仰が時に私たちをダメにすること、信仰が自分を甘やかす言い訳にされることの危惧を分かち合いました。人は弱いですから、自分に都合よくみことばを捻じ曲げる誘惑にかられます。けれど神さま、どうぞ私たちの都合であなたを用いるのでなく、あなたに御心に誠実に従う私たちであらせてください。どうぞ私たちの思惑でなく、あなたの御心で私たちを導いてください。心から祈ります。アーメン。
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