11月22日~28日のみことば - 2020.11.21 Sat
11月も下旬に差し掛かっているというのに温かい日が続いています。
来週からはまた少しづつ気温ががっていくようで、身体がついていかないですね(>_<)
寒暖の差で免疫力が下がらないように、気を付けつつ毎日を過ごしたいと思います。
健康には身体の健康はもとより、心・魂の健康も大切。
今週のみことばが皆さんの心と魂の健康のお供となりますように!
***今週のみことば***
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11月22日(日) 箴言15章13-19節
一言メッセージ:今朝の箇所を読む中で、ふと問いが起こってきます。それは「豊かな人生とは何か?」です。そして、その答えは「過度に持ちすぎず、過度に不足せず。神さまを信じて歩み、イエスさまに伴われている実感を持ち、周囲と共に生きること」じゃないかと思うのです。
牧師になる前ですから、もう15年以上前でしょう。韓国人の友人から韓国の大企業サムスンの創業者一族の話を聞いたことがあります。彼らの持つ財産は莫大で、何世代にもわたって、悠々自適な生活ができるほどの財産があるそうです。では彼らは幸せかと言えば、そうは見えないのだそうです。家族の中で権力争いと、倫理的な事件が多いのだということでした。友人は言いました、「財産を持っていることが必ずしも豊かな人生ではないことを資産家が示しているんだよ」と。
彼の話を聞いてから15年が経ちますが、彼の言葉はますます重みをもって響いてきます。現在の社会ではますます「金だけ、今だけ、自分だけ」の風潮が強まり、格差は広がっています。もちろん、食べることができないとか、住むところがないという状況では、不安や憤りによって人は心身ともに殺伐としてくるでしょう。だから、「文化的な最低限度の生活(憲法)」は絶対に必要ですが、でも、食べるに不足しないほどの生活が確保されているならば、人生の豊かさとは人との比較で決まるものではないことを多くの人が気づくようになるでしょう。その時、私たちが見出すのは、自分たちを深く愛してくださる神さまの存在であり、いかなる苦境にあっても伴ってくださるイエスさまであり、そして信頼し、共に生きる人々の存在なのです。だから最初に戻ります。私は「過度に持ちすぎず、過度に不足せず、神さまを信じて歩み、イエスさまに伴われている実感を持ち、周囲と共に生きること」に豊かさを見出すのです。今日は日曜日、神さまとイエスさまと、兄弟姉妹たちと共に礼拝に集いましょうね。10:30にお待ちしています。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝、私たちは人生の豊かさについて考えました。賢者の言葉は「過度に持たず、過度に不足せず、神さまを信じ、イエスさまに伴われ、周囲と共に生きる」ことを示します。神さま、どうぞ私たちが、社会が煽る価値観に翻弄されず、誠実にあなたと向き合って生きる者であれますように。今日も多くの兄弟姉妹と共に礼拝を守ることができますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。
23日(月・休) 箴言15章20-27節
一言メッセージ:今朝の箇所の中で、私は2つのみことばに目が留まります。1つは21節「意志の弱い者には無知が喜びとなる。英知ある人は歩みを正す」です。アメリカ大統領選挙で敗北したトランプさんが、まだ大統領として威勢よく差別発言を口走っていた頃に、彼への批判としてよく耳にした言葉に「反知性主義」と「ポスト真実」という言葉がありました。「反知性主義」とは知的権威やエリート主義に対して懐疑的な立場をとる理解です。「ポスト真実」は客観的事実よりも個人的信条や感情が優先される傾向でした。この2つが結びついていたのがトランプ大統領であり、安倍政権でした。どちらも、自分たちの個人的信条を優先し、客観的事実や社会の現状を捻じ曲げ、人々の感情的なうっ憤を煽って対立を生じさせ、そのどさくさで自分の我がままを政治で実現してきました。残念なことに、心に余裕を無くした民衆は感情に突っ走り、多様な意見を自分を否定するクレームとしか理解せず、考えることを放棄して、感情を煽る政治家に乗っかってしまいました。彼らは箴言が語るように、「無知を喜びとし」、歩みを正すことを拒否しました。その結果が今の世界です。時代は変われど、箴言の言葉がどれほど的確かを今、私たちは確認します。
そんな時代の反省と共に、もう1つ目に留まるのは24節です。「目覚めている人には上への道があり、下の陰府を避けさせる。」正しく神さまに目を向けている人には、この状況から這い上がり、滅亡を回避する道が備えられているのです。
今日はお休みの日ですね。英知を持って明日から歩み出せるように、頭と心と身体としっかりリフレッシュする一日にしましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝のみことばは、私たちの生き方のとても具体的な示唆でした。私たちは頭と心と体力と余裕を無くした時、周囲の指摘に対して、客観的な判断よりも自分たちの感情的・心情的な反発に走ってしまいます。その結果、私たちはどれほど失敗を繰り返してきたことでしょう。今朝のみことばにて賢者は、「英知ある人は歩みを正し、目覚めている人には上(神さま)への道が備えられる」と語りました。神さま、どうぞ私たちが日々、あなたに誠実に向き合い、自分をも客観的に見定めることができますように。様々な課題の中にあって、平安と整えと導きを与えてくださるイエスさまの御名で祈ります。アーメン。
24日(火) 箴言15章28-33節
一言メッセージ:連休も終わり、今日から今週の仕事が始まる人も多いでしょう。その仕事はじめに、今朝のみことばはとても適格です。先ず目に留まるのは28節です。「神に従う心は思いめぐらして応答し、神に逆らう口は災いを吐く(失敗を生じさせる)。」賢者は「神さまに従う心は、物事について思いつくままに反応するのでなく、考えを巡らして応答する」と語りました。これ、当たり前のようですが、とても重要な事です。私たちの失敗の最たるものは、熟慮せず、感情的に行動することによって生じます。特にやらかしてしまうのは、人から諭されたり、懲らしめを受ける(批判を受ける)時です。そういう時ほど、私たちは冷静に受け止めるのでなく、感情的な反発が出てしまいます。箴言の賢者はそんな私たちに告げます。31-32節「命を与える懲らしめ(批判)に聴き従う耳は知恵ある人の中に宿る。諭しをなおざりにする者は魂(命)を無視する者。懲らしめに聴き従う人は心(信頼)を得る。」そして、そんな、きちんと批判を受け止め、自分を正せるのは、33節「主を畏れる」ことから始まるのです。今週の仕事はじめ、私たちは神さまを畏れ、周囲の指摘には冷静に耳を傾けて歩み出したいものです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。最近の箴言のみことばは、私たちの弱い所を的確に指摘してくれます。私たちは過ちを指摘されると、熟慮せずに感情的に反発を生じさせがちです。でも、賢者は「正しい批判に耳を傾けよ、熟慮して応答せよ」と告げます。神さま、どうぞ今朝のみことばを日々、忘れずに過ごさせてください。感情的になりそうな時ほど、あなたへの畏敬によって冷静さを保てますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。
25日(水) 箴言16章1-6節
一言メッセージ:今朝の1節は分かりにくいのですが、とても大事な指摘をしています。1節を他の訳で読みますと「人は心の備えをするが、舌の答え(ことば)は神から来る」です。「人は心の奥底にある思いを取り繕って話そうとするが、ふとした際に隠していた本心がことばになって出てきてしまう」というのです。それは2節にも繋がります。2節「人が取り繕って自分を清く見せようとしても、神さまはその心の奥底までちゃんとご存知だからだ。」だから3節「あなたの言動を神様に委ねなさい。その時、神さまはあなたを整え、堅実に生きられるようにしてくださる」です。
人間は弱いなぁと思います。何か問題が起こり、周囲に自分の窮状を訴える時、私たちは自分がどれだけ傷つけられたかは盛大に語るのに、自分が傷つけたこと、自分にとって不都合なことは隠し、割り引いて話しがちです。そうやって、周囲を誤魔化し、自分の味方を作ろうとしても、神さまには全てがちゃんと見えているのです。そして、必ず誤魔化しはボロがでてしまう。
だから賢者は、自分の弱さをも神さまに委ね、神さまの御心を模索して生きることを勧めます。弱さを含めて全てを受け止め、整え、導いてくださる神さまに従って生きることが最善なのです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝のみことばも、私たちが隠していた本音をグイッと指摘します。神さま、あなたの前に私たちは隠し事などできません。あなたは全てを御存じで、私たちの本音をも引き出されます。だから賢者は、神さまに信じ、委ねて生きることを勧めてくれました。神さま、どうか私たちがあなたに誠実に従い、人々に対して御心のままに生きる者であれますように。救い主イエスさまにお委ねして祈ります。アーメン。
26日(木) 箴言16章7-15節
一言メッセージ:今朝の10節以下は「王」の格言です。「王は神さまの代務者として働く」という理想に基づいた格言です。ただ、今日皆さんと分かち合いたいのは主に7節と9節なので、王の格言は省略させてもらいます。
先ずは9節。分かりやすく解説しますと、「人は自分で『こうやって、こうやって、こうしよう』と計画をする。けれど、実際にその一歩一歩を備えてくださるのは神さまである」です。だからこそ、神さまを蔑ろにした計画は頓挫すると賢者は語ります。一方、神さまの御心に基づいて生きる時は7節。「主に喜ばれる道を歩む人を、主は敵と和解させてくださる。」なんと大胆で想像を超える御業か。神さまは私たちが敵対する人との和解へと導いてくださるのです。自分たちの力では乗り越え難い敵意や、相手への無理解。「あいつはこう思っているに違いない」と悪い想像をして、敵意ばかりが募る私たちなのに、神さまはそんな敵対する人と友達になるように導いてくださるというのです。神さまの御業はどう実現されるか、本当に不思議としか言えないのです。
私は小学生の頃までは「将来、牧師になりたい」と言っていました。しかし、中高生くらいから、牧師の過酷さが目に留まり、大学進学を考える頃以降、「牧師にだけは絶対になりたくない」と考えました。そんな僕が神学校に進むことになったのは、就職活動中の挫折でした。活動中に、「自分は教会で生まれ育ち、聖書や教会のことは知っていたはず。なのに、何もわかっていなかった」と突き付けられる経験をしたのです。それで、「牧師にはなりたくないが、もう一度、聖書のことを知りたい」と思い、神学部に進んだのです。入学後も紆余曲折がありました。短く書くことができないほどに苦しい経験もしました。けれど不思議なことに、そんな経験を通して、私は「自分は牧師となるべく神さまに召された」との確信を強めていったのです。神さまの導きは不思議です。私たちでは「あり得ない」と結論付けていた事柄すら、御心の前にはひっくり返っていく。今朝のみことばの9節は私自身の経験でもあります。だから私は今、今度は7節のみことばに期待します。
祈り:天のお父さま、今朝のみことばをありがとうございます。神さま、私たちはあなたの導きの中で生かされています。けれど、私たちは時にあなたの導きを忘れ、自分たちの計画や都合を優先して、先々を計画します。神さま、あなたの目に私たちの計画が義とされないならば、どうぞ大胆に私たちの人生を修正してください。あなたの御心が実現されることこそが、私たちにとっても最善です。どうか、私たちでは想像もできなかった御業を体験させてください。あなたの導きに期待し、イエスさまの御名で祈ります。アーメン。
27日(金) 箴言16章16-25節
一言メッセージ:今朝私は16節と25節に目が留まります。知恵や分別は一見しても形を持ちませんから、多くの人には存在しないかのように見えます。けれど、そういった形の無いものが本当に大事なものなのだと思うのです。
以前、ある葬儀に参加した際、びっくりしたことがありました。遺族の方々が葬儀の合間に話していたのは「どこそこの株で幾ら儲けた」とか、「あそこの土地は今なら幾らで売れる」といった話題でした。きっと、それらは、その方々にとっては未来を保証してくれる頼みどころなのでしょう。でも、身内が亡くなり、命について考える時に、彼らの関心が財産のことというのに寂しさを感じました。申し訳ないですが、その方々が亡くなる時、財産は何一つ持っていくことができないし、その財産によって救われることも一切無いのに。25節が語るように、自分の想定では真っすぐな人生でも、命の主は神さまに他ならないのです。
箴言の賢者は「知恵、分別を持ち、主に依り頼んで生きよ」と告げます。多額の財産を持ちながらも先が見えずに生きることと、祝福に満ちた人生を歩ませてくださる方を身近に感じる知恵と分別に生きること。どちらが幸いか、改めて考えさせられます。
祈り:天のお父さま、今朝のみことばをありがとうございます。今朝は、知恵と分別を持って生きる者でありたいと願わされます。私たちの社会が価値と見なす財産は、私たちが生涯を終える時には何の力も持ちません。せいぜい、葬儀を盛大にする程度です。でも神さま、私たちは死の先についても祝福をいただきたいと願います。どうか、命の主であるあなたに依り頼み、知恵と分別をいただいて生きることができますように。復活の主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。
28日(土) 箴言16章26-33節
一言メッセージ:今朝は31節「白髪は輝く冠、神に従う道に見出される」という言葉が目に留まります。古代社会において、人の寿命は短く、戦闘や搾取によって亡くなる人たちは非常に多かったと言われます。だから老齢に至る人は神さまの祝福をいただいた特別な人と考えられました。そして、畏敬の念で見られる人々でした。
日曜日の夜、我が家が楽しみに見ている番組に「鉄腕ダッシュ」という番組があります。TOKIOというグループが何年もかけて農業や漁業、無人島開拓など、様々な企画に取り組む番組です。先週の放送は稲刈りでした。毎年、福島で米作りをする彼らですが、今年は春先にコロナ拡大のため県跨ぎの移動ができず、20年の米作りの中、初めて東京で米作りをすることとなりました。畑を水田に作り変え、メンバーの自宅で発芽からはじめ、田植え、手入れ、収穫となったのですが、放送では収穫した米を例年、一緒に米作りをする福島の年輩の方々にも送り、東京と福島でそれぞれに同じ米を焚き、中継を繋いで一緒に食べていました。TOKIOのメンバーが東京から尋ねるのです、「今年の米はどうです?」福島の方々が「甘みも粘りもある良い米だ。畑から田んぼに変えた年で、あんなに暑くって、それでもこんだけできたら上等だ。ようやったよ」と口々に言う。それを聞いたメンバーが「あの人たちに褒められると本当に嬉しいよなぁ」と喜んでいました。
その光景を見ながら「良いなぁ」と思ったのです。手取り足取り米作りを教え、失敗を繰り返しながらも決して見捨てず、精いっぱいの努力を理解した上で、「ようやった」と声をかける年輩の方々と、その言葉の背後にある年月を思い起こしながら励まされる若手。そこには、正しい世代間の関係を見る思いでした。
今はコロナ禍真っただ中。日に日に感染者数が増えて、誰もが不安になっています。そんな時だからこそ余計に、互いを思いやり、理解し合い、励まし合う、そんな関係が必要なのですね。箴言の賢者は、ならず者の暴言、陰口、不法を行う者の言動を警告しながら、神に従うことを勧めるのです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝は正しい世代間の関係を想わされました。現代社会は変化が激しく、時に世代間で互いを理解し合おうとせず、それぞれの価値感で相手を裁こうとする傾向が強く見られます。けれど神さま、賢者は互いを理解し合い、共に支え合って生きることを促します。どうぞ今、久留米教会をそのような教会へとより成長させてください。ここに集う人々が互いを思いやり、理解し合い、支え合う群れであれますように。また、新たに加わる方々をどうぞ一人、また一人と増し加えてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。
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