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2020-11

11月15日~11月21日のみことば - 2020.11.13 Fri

新型コロナウイルスの第三波が来ているという報道に心のざわつく今週です。
久留米市ではまだ第三波の波は来ていませんが、またいずれ感染者数がふえていくのでしょうか。
「Withコロナ」として新しい生活様式にも慣れつつある中、どこか新型コロナ関連のニュースにも慣れてきてしまっている自分がいる事にも驚きます。
でも今、改めて新型コロナウイルスを患って苦しんでいる方、コロナ禍に会って困窮している方々、またその治療のために最前線では働いておられる医療従事者のみなさんのために祈りたいと思います。
また、このコロナ禍にあって自ら命を絶つ方が増えているとの報道も耳にします。どうか、そんな方々に聖書からのメッセージ「あなたは愛されて必要とされている存在なんだ」ということ、そして「助けてと言っていいんだ。共に生きていこう」ということを伝えられるよう、わたしたち教会もできることをやっていきたいと思わされています。
コロナ禍にあって毎週ブログにアップしているこの日々のみことばも、どうか読んでくださっているみなさんの生きる支えや希望、いえ、そんな大それたものでなくとも、小さなたのしみとなりますように。
新しい週のみなさんの歩みのためにお祈りします。


***今週のみことば***

※聖書の箇所は日本聖書協会の聖書本文検索から読むことができます。⇒こちら
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11月15日(日) 箴言14章1-5節
一言メッセージ: 箴言14章は「知恵」がメインテーマとなりながらも、それぞれの節が独立した格言です。みことばメールで区切って読み進めるのが難しいですので、あまり深い意味なく今日は5節まで区切ってみました。そんな1-5節の中で、異質でありながら、とても私の心をとらえて離さないのが4節です。「牛がいなければ飼い葉桶は清潔だが、豊作をもたらすのは牛の力。」すごく現実的で、そしてホッとすることばと思いませんか?家畜小屋を清潔に保とうと願っても、その家畜小屋に住まう牛が手伝ってくれるからこそ畑は深く耕され、糞は肥料となり、実りは豊かになる。これ、私たちの人生に置きかえて考えてみてください。たとえば「自分を律して誠実に生きていくことは大事。けれど、自分だけを律して生きることで周囲が罪を重ねねばならない状況が放置されることは果たして正しいのか?」などですね。生きるということは一見すると矛盾だらけのように思えるものです。誤解がないように言いますが、私は「綺麗ごとだけで生きていけない」と言っているわけではありません。そうではなく「矛盾を抱えながら生きることこそが人生じゃないか」と言いたいのです。さらに言うならば、「矛盾の中でこそ、私たちは救い主イエスさまと本当に出会うのだ」とも思うのです。何故なら、イエスさまこそが「神の子であり、救い主でありながら、救われるべき相手である私たち罪人に寄り添うべく、人として生まれ、人生の喜びも辛苦も経験し、十字架上で罪なきままに私たちの罪を丸ごと引き受けて死んでいく」という最大の矛盾を示したのですから。でも、その矛盾だらけのイエスさまにこそ私たちは神さまの愛と救いを見出したのです。そんな私たちだからこそ、自分たちの人生の矛盾と向き合いながら、この矛盾に満ちた私たちと共に生きて下さるイエスさまと出会えるのだと思うのです。今日は日曜日です。矛盾に満ちた私たちと共に生きて下さるイエスさまと出会うべく礼拝に集いましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝私たちは、人生の矛盾について考えました。神さま、私たちは人生において様々なことに悩みます。あなたを信じながら、でも何があなたに正しい道なのか、分からないことも多いですし、何より、自分たちが願うこととあなたの導きとの矛盾を感じる時などは悩みます。でも、今朝注目したみことばは、そんな矛盾に満ちた私たちにとって励ましであり、平安をいただくみことばでした。神さま、あなたは私たちの矛盾の中でこそ、より身近に、より温かく感じられるのだと思います。救い主イエスさまは正に矛盾だらけの私たちに寄り添い、救ってくださいました。神さま、どうか悩む時こそ、あなたの慰めと愛を感じ、導きを信じることができますように。私たちに寄り添ってくださる救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

16日(月) 箴言14章6-13節
一言メッセージ:今朝のみことばも神さまの知恵に生きることについて語っています。そんな中で、今朝注目したいのは12-13節です。「人生の前途がまっすぐなようでも、果ては死への道となることがある。笑っていても心の痛むことがあり、喜びが悲しみに終わることもある。」何だか寂しくなるし、週の初めに見たくないみことばにも感じられます。でも、このみことばを昨日の2節と合わせて読んでほしいのです。共通するのは「まっすぐ」という言葉ですが、「まっすぐ」ということばの使われ方が違います。2節では「主を畏れる人はまっすぐ歩む」と語ります。それは「神さまに向かってまっすぐ」という意味です。一方、12節の「まっすぐ」は「人間の前途」です。つまり、私たちが自分たちで考えて「まっすぐ生きている」と思っても、それは2節で「主を侮る者は道を曲げる」ということばのように、神さまにまっすぐではないかもしれないのです。それが私たちの思い込みや固定概念の故かもしれません。でも、このことばを別の視点で考えてみれば、私たちにとってマイナスや過ちとしか思えない出来事にこそ、神さまの御心があるのかもしれないのです。神さまは私たちを鍛えるためか整えるためか知りませんが、でも、神さまが私たちを導かれる時、決して順風満帆なだけではない。普段以上に切実に祈って、みことば読んで、矛盾と直面しながら、「神さま、とにかくあなたの御心と信じながら歩みます。間違っていたら訂正ください」と願いながら生きるのです。その時に、車を運転していて間違ったらカーナビが「新しいルートを検索します」と言うように、神さまの訂正を願うのです。案外、それこそが神さまへの「まっすぐ」な道なのかもしれませんね。さぁ、新しい一週間、神さまのまっすぐを求めながら歩み出しましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝は、わたしたちの思う「まっすぐ」と、あなたに通じる「まっすぐ」が違うこともあると分かち合いました。いつでも、どんな状況においても、あなたの御心が間違いなく分かるなら楽なのですが、私たちにはあなたの御心を完全に理解することはできません。だから私たちは今週も迷いながら、悩みながら、矛盾を抱えながら歩みます。どうか、いつも私たちに目を留め、時に軌道修正を加えながら導いてください。私たちに伴ってくださいます救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

17日(火) 箴言14章14-19節
一言メッセージ:さて、今朝のみことばはなかなかに難解です。結論を言いますと、賢者は「信仰と共に、熟慮を持って生きなさい」と告げています。14-15節を解説しながら読むとこうです。「二心ある者(神さまを信じながらも、神さまの示唆に生きることをせずに、自分の考えに生きる者)は自分の決断に満足し、善人も自分の行いに満足する。未熟者は何事をも信じこむ。しかし、(信仰と)熟慮ある人は、自分の現状に留まるのでなく、自分の歩む道を見分けようとする。」賢者は「二心なく、善人だから良い」と終わるのでなく、「信仰と共に熟慮を持って生きなさい」と勧めます。
  16-19節も同様に解説しながら読むとこうです。「知恵ある人は神さまへの畏敬によって悪を避けるが、愚か者は高慢で自分に自信を持つ。短気な者は愚かな行為に走り、策を弄する者は神さまに憎まれる。浅はかな者は無知のままだが、熟慮ある人は神さまからの知識(知恵)によって繁栄する。だから、神に逆らう者のように後悔と失敗だらけで生きるのでなく、神に従って生きる者となりなさい。」何だか、イエスさまが言われた「蛇のように賢く、鳩のように素直であれ(マタイ10.16)」を思い出しますね。私たちは鳩のような素直な信仰と共に、蛇のような賢さ、熟慮を意識しながら今日を過ごしてみましょうね。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝のみことばは難解でした。みことばは私たちに素直な信仰だけでなく、熟慮して生きることを促します。神さま、私たちは善人であろうとするだけでなく、きちんとあなたの示唆に基づく生き方を見分けることができますように。今日、どうぞ私たちに、あなたの示唆に気づく鋭さと、御心を悟る知恵とをお与えください。イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

18日(水) 箴言14章20-27節
一言メッセージ:今朝はみことばにいきなり躓きます。20節「貧乏な者は友にさえ嫌われるが、金持ちを愛する者は多い。」でも21節では「友を侮ることは罪。貧しい人を憐れむことは幸い」と語られる。矛盾するように見えるのですが安心を。20節の意味合いは「貧しい者は周囲の重荷となるが、裕福な者は安心して付き合える」です。今朝の箇所を読む上で大前提となるのは、「富とは神さまに誠実に従って得るものであり、神さまを蔑ろにする者の富は一時的な泡に過ぎない」という理解です。そう思うと、20節は「神さまを蔑ろにする者は周囲に頼るばかりで、自分で労することをしないから、周囲の重荷になる」という意味になるのです。今朝のみことばで賢者は「口先だけの言葉(23節)」や「無知(24節)」、「欺きの発言(25節)」を避け、神さまを畏敬して生きることをひたすらに勧めます。何故なら、その生き方こそが「命の源(27節)」だからです。私たちの「命の源」は神さまにこそある。この極めて単純で明快な真理を意識しながら今日を歩み始めましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝、賢者は私たちに「神さまこそが私たちの命の源である」ことを告げ続けます。私たちは弱く、すぐに目先の事柄に右往左往しがちです。あなたの御心よりも自分たちの都合や願望に目移りしてしまいます。それが決して祝福に至らないと気付くのは、後々になってです。神さま、どうぞ私たちの愚かさ、無知をお赦しください。そしてどうか、命に源なるあなたを信じ、誠実に従って生きる者とならせてください。いつも私たちに伴ってくださる救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

19日(木) 箴言14章28-35節
一言メッセージ:今朝のみことばの中で私に目に留まるのは32節です。「神に逆らう者は災いのときに退けられる。神に従う人は死のときにも避けどころを得る。」面白いと思うのは、神さまに逆らう者も、神さまに従う人も、平時は同じように生きていることが前提となっているのです。けれど、その違いが明確に出てくるのは「災いのとき、死のとき」です。これ、具体的に考えれば分かるのですが、私たちは困難に直面したり、「死」のように自分の力で対処できないトラブルに巻き込まれたとき、何をしますか?私たちがするのは「神さま、どうか助けてください」と祈ることです。当たり前ですが、神さまを信じない人たちは祈ることができません。何に祈ればいいかが分からないのです。その時、人の無力さや限界だけを感じながら絶望してしまうのです。そう考えると、神さまを信じるということは、私たちにとって平安を得るための保証でもあると気付かされます。
  17世紀のフランスの数学者であるパスカルは著書『パンセ』の中で、信仰について面白いことを言っています。要約すると、「神さまがいるかどうか、私たちに分からないけれど、信じて生きてみればいい。神さまがおられるならば、この世での命を終えて天に帰った時、豊かな祝福を得るだろうし、もし神さまがおられないとしても、誠実に命を全うしたことは変わりない。であれば、神さまを信じて生きた方が良いじゃないか。」ものすごくユーモラスだけど、確かにそうでしょ?神さまがいないと思って生きることに、何か祝福があるのでしょうか?今朝の箴言で言えば、「神さまがおられる」と信じることで災いのときにも平安があるし、事実おられるのだから、死のときにすら守られるのです。信じるって祝福ですね。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。あなたがいてくださり、私たちの神さまであられる。それがどれほど祝福であるか、私たちは改めて考えました。あなたがおられると信じることは、私たちに勇気と未来への期待を湧きおこらせます。災いや死のときにすら、わたしたちはあなたに安心し、委ねられます。神さま、今日もあなたを信じ、歩み出します。どうぞ平安に祝福を加え、今日もお導きください。イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

20日(金) 箴言15章1-7節
一言メッセージ:箴言は「ことば」に関する格言が非常に多いです。それは、ことばが神さまからの賜物であり、知恵と直結しており、どんなことばをどんなふうに用いるかによって人生が大きく変わるからです。3節に見られるように、神さまは善人も悪人も変わらず目を注いでおられます。だからこそ、私たちは今、どんなことばを語るか、という意識が必要なのです。
  以前も書きましたが、僕は牧師になってたくさんの失敗を経験しながら、1つの癖ができました。それは、人に話す際に「これを語ることによって何が起こるだろうか」と一瞬考えるようになったのです。目の前の人が抱えている悩みや問題を思い起こしながら、同じ意味合いを伝えるにしても理解してもらえることばを選ぼうとするようになったのです。特に相手を諭したいときのことばには気を付けます。1節にあるように「傷つける言葉は怒りをあおる」だけだからです。もちろん、いつもいつも配慮できているわけでなく、未だに「あっ、言っちゃった」と思う時もあるのですが、でも、意識していることでトラブルは随分と減ったと思います。ことばは私たちに与えられたコミュニケーションの賜物です。大事に使いましょうね。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝も賢者は「ことば」について格言を記しました。神さま、私たちはあなたから与えられた賜物であることばを上手に使えているでしょうか。熟慮せず、思いつくままに暴言、失言を吐いていませんでしょうか?人を活かすことばを語り、真意を伝えることばを使えているでしょうか。どうか、あなたの賜物を正しく使わせてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

21日(土) 箴言15章8-12節
一言メッセージ:今朝の8-9節のみことばはとても考えさせられます。「主は逆らう者のいけにえをいとい、正しい人の祈りを喜び迎えられる。」古代イスラエルの神殿にはいけにえを献げる風習がありました。いけにえは、神さまへの感謝であったり、悔い改め、謝罪の意味合いもありました。そんないけにえについて、賢者は「主に逆らう者もいけにえをすることができる」という当たり前の事実を告げます。つまり、形式だけならば敬虔に振舞うことができるのです。でも賢者は続けます。「主は逆らう者の形式だけのいけにえを好まず、誠実に信じる者はいけにえなどなく祈りすらも喜んで受けとめられる。」さらに9節では「主は逆らう者の道(生き方)を厭うが、従うことを求める人(悔い改めてやり直す人)を愛される」とあります。神さまは、過ちを犯した人たちが自分たちの失敗に気づき、神さまに正しく立ち返ることも喜んでくださるのです。そう聞く時、私たちは何を思うでしょう。10節のように神さまの諭しを「不快に思う」とか「懲らしめを憎む」ことなく、きちんと聞く者でありたいと思います。聞くことはやり直すための最初の一歩です。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝の箴言は「形式だけ取り繕っても神さまはちゃんと全部知っておられる。だから、神さまに喜ばれる者として生きなさい。失敗したらやり直せばいい」と諭します。神さま、私たちは罪ある者ですが、でもあなたに従いたいと願います。どうぞ、みことばに聴き、やりなおす決意とチャレンジをさせてください。日々、あなたに立ち返り、新たにされますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

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