10月11日~10月17日のみことば - 2020.10.11 Sun
季節外れの台風の被害を心配していましたが、少しずつ進路がそれ大きな被害はなさそうで、ホッとしています。
お店に並ぶ果物やお花を見ると「秋だなぁ」と感じます。
今日の教会の講壇のお花もまさに秋!!
綺麗なピンクのコスモスが飾られました。
コスモスの花は、生えているものを切って1日するともう花が散ってきてしまうそうで、この講壇のコスモスはお花の担当の方がお友だちに頼んで今朝きって分けていただいたそうです。
礼拝にきた方々は「わぁ~」と声を上げて写真を撮る方も多くいらっしゃいました。
綺麗なコスモスと(換気のために開けている窓から吹き込む)秋のさわやかな風の中での礼拝のひと時、感謝でした。
また、今日は1ヶ月前に教会員ファミリーに生まれた赤ちゃんが初お目見え。かわいい姿にみんなメロメロ。これもまた大変感謝なことでした。
皆さんはどんな一日を過ごされましたか?
今日から始まる1週間も神さまの守りと導きがありますように!!
***今週のみことば***
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11日(日) 詩編145編1-21節
一言メッセージ: 145編は大きく2つに分けて読むことができます。前半の1-13節は神さまがいかに偉大かを語ります。13節などは、「神さまが永遠の主権者」と、絶対者たる姿を際立てます。これが後半14節以降、非常に興味深く展開します。13節までで「むちゃくちゃ偉大な神さま」と言われていたのに、その神さまがちっぽけな私たちに目を留め、その傍らに歩み寄ってくださり、一人ひとりを助け起こしてくださるのだと告げるのです。14節では「倒れようとする人をひとりひとり支え」、15節では「食べ物をくださり(15節)」、18節では、助けを求めて呼ぶ人「すべてに近く」いてくださり、「まこと(真実)をもって呼ぶ人すべてに近くいてくださる」。ものすごく身近な存在として神さまが描かれるのです。偉大さと身近さ、この2つの要素を繋ぐのが、神さまの恵みなのです。
私たちはこの詩編を読みながら、改めて神さまについて考えます。教会では「神さまが私たちと共にいてくださる」と繰り返します。私たちを愛してくださり、私たちの祈りに耳に傾け、一人ひとりを自分たち以上に理解し、未来を見定め、導いてくださるのだと語ります。でも、それは決して当たり前ではない、信じがたいほどの御業なのです。私たちは毎日、神さまの信じがたいほどの恵みをいただき、御業の中で生かされている。今日は改めて、そのことを思い起こすのです。
祈り:天のお父さま、今朝も145編のみことばをありがとうございます。今朝は、あなたがどれほど偉大な方であるか、同時に、私たち一人ひとりに目を留め、応えてくださることがどれほど深い恵みであり、愛であり、祝福であるか、改めて示されました。神さま、あなたが神さまでいてくださることを心から感謝します。この恵みを忘れることなく、今日も過ごすことができますように。救い主イエスさまのお名前で祈ります。アーメン。
12日(月) 詩編146編1-10節
一言メッセージ:146編から詩編の終わりに至る150編までは「ハレルヤ歌集」と呼ばれます。神さまへの賛美を歌った詩編群です。146編では、神さまへの賛美が歌われますが、同時に、王である神(10節)が、社会的に弱い立場に置かれた民に目を注ぎ、顧みてくださること(7-9節)を具体的に列挙しています。そこには、現実の世界があまりに世知辛く、「君侯(3節。権力者や富裕層という意味)」によって弱い人々がますます追い詰められていく様を目の当たりにする詩人の「こんなんで良いわけがない」との思いも含まれているのでしょう。
私は7-9節を見ながら今の社会の状況と重なって思えます。「虐げられている人」は理不尽な現実に苦しむ民であり、「飢えている人」は格差が広がるのに“自己責任”と切り捨てられていく人々を思い起こします。「捕われ人」は会社など、所属する集まりの中で言いなりにされている人たちの姿が、「見えない人」は病の方々、「うずくまっている人」は社会の中で孤立し、居場所を失った人がイメージされます。「寄留の民」は居場所を失った人たちであり、「みなしごとやもめ」は具体的な助けを得られずに追い詰められている人たちです。詩人はそういう人たちを数えながら、「神さまはその人々を見捨てない、神さまは希望なきところで希望を生じさせる」と断言します。だって神さまだから。
幼稚園の頃に習った賛美歌はこんな歌詞でした。「どんなに寂しい時にも、どんなに悲しい時にも、イエスさまが一番、イエスさまが一番。たとえそれが、どんな場合でも、イエスさまが一番、イエスさまが一番。だってイエスさまは神さまだもの、だってイエスさまは神さまだもの。」シンプルな賛美歌です。でも、シンプルゆえに、最も大事なことを示します。「だってイエスさまは神さまだもの」。
146編10節で言えば、「だって神さまが永久に私たちの王様だもの。」現実は世知辛くとも、その現実を整えていかれるのが神さまなのです。神様がおられるということ、それは単なる夢想でなく、極めて確かな支えであり、希望です。さぁ、今朝も神さまを信じて、歩み出しましょう。
祈り:天のお父さま、146編のみことばをありがとうございます。今朝は古い賛美歌を思い出しました。「イエスさまが一番、だってイエスさまは神さまだから」。神さま、私たちは現実の課題を前に、時に無力感に苛まれます。でも、146編もこの賛美歌も、極めてシンプルに真理を告げます。あなたが私たちの永久の王であり、イエスさまが救い主です。その神さまが、イエスさまが私たちに目を留めていてくださるのだから、私たちはいかなる時にも期待します。神さま、どうぞあなたの御心を示し、御業を行ってください。あなたの救いがこの社会に実現することを願い、祈ります。アーメン。
13日(火) 詩編147編1-20節
一言メッセージ:147編も神さま賛美のハレルヤ詩です。神さまの恵みの広さ深さを一貫して語ります。幾つかピックアップすると、4節で神さまは数えきれないほどの星1つ1つに名前を与え、理解し、目を留められるように、6節、貧しい人々、弱い人々にも目を留めてくださいます。8節で大地に雨を降らせ、草花を芽生えさせますが、9節で神さまに世話される生き物は「獣、からす」さえ、です。獣は荒っぽくて従順とは言えませんし、からすは聖書ではずる賢く穢れたイメージの鳥です。でも神さまはそんな「獣やからす」さえ養ってくださる。「まして人間はなおさら…」と詩人はイメージします。だからこそ10節以降、神さまが私たちに何を求めるか、詩人は書きました。それは「馬の勇ましさ(軍事力)や人の足の速さ(訓練された歩兵をイメージ)ではなく、神さまを畏敬する者、神さまの慈愛を待ち望む人(11節)」です。神さまは私たちが畏敬の念で神さまを信じ、平和を実現すべく(14節)、みことばをもって私たちを祝福される(18節)のです。
最後に注目したいのは19節です。「主はヤコブ(イスラエルの民)に御言葉を、イスラエルに掟と裁きを告げられる。」神さまは「御言葉と教え」を告げるのです。それは、人々がちゃんと神さまの御心を理解して応答することを願っているからです。神さまはただ私たちをがんじがらめに支配するのでなく、私たちが自分たちの意志で神さまに従い、祝福を享受して生きることを願っておられるのです。それは、今日も同じです。今日私たちは一日、神さまの恵みに感謝し、「今、わたしに何を示しておられるかな」と思い起こしながら過ごしましょうね。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。あなたは私たちをロボットのように何も考えずに従わせるのでなく、子どもたちが少しずつ成長するように、私たちにも迷ったり考えたりしながら、あなたに従うように成長することを願ってくださいました。神さま、お判りでしょうが、私たちは相当に迷います。時に、御心に気づかず、自分勝手に過ごします。でもどうか、その都度、あなたの恵みと示唆に気づかせ、立ち返らせてください。失敗さえもあなたに従うことを感謝できるための経験にしてください。この祈りを私たちの救い主イエスさまのお名前で祈ります。アーメン。
14日(水) 詩編148編1-14節
一言メッセージ:148編は「ハレルヤ詩」にふさわしく、むちゃくちゃスケールのでかい詩です。1-4節では「○○よ、主を賛美せよ」とのパターンがありますが、その部分は礼拝の中で、祭司が前半を語り、会衆が「主を賛美せよ」と呼び交わしていたと考えられます。つまり、礼拝で皆が一緒に歌った賛美歌です。
そんな賛美の中で、詩人はあらゆるものに「主を賛美せよ」と呼びかけますが、その範囲がとてつもなく広い。1-6節は天上の存在を歌い、7節からは地上を歌います。その7節初っ端は「海に住む竜、深淵」が呼びかけられます。それらは、古代世界では「深淵」は神さまの力の及ばぬ所であり、「竜」はその深淵に住む怪物のイメージです。でも詩人はそんな、神さまの力の及ばぬ存在に真っ先に「賛美せよ」と求めます。続けて、自然現象、自然、動物と進み、11節から人間を記します。人間の支配できる範囲などせいぜい11-12節なのに、神さまへの賛美はそんな人間の限界を超えて広がると歌われるのです。一方で、限界だらけの人間も、神さまへの賛美において、あらゆる存在と1つにされるとの示唆も含まれています(14節)。とにかくスケールのでっかい詩なのです。
今朝、148編を読みながら思うのです。この偉大な神さまが、ちっぽけなはずの私たちに目を留め、愛し、導いてくださる。それはなんてすごい恵みなのか、と。今日も新しい一日が始まります。さぁ、詩同様に私たちも神さまを賛美し、気持ち大きく今日をスタートしましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。148編は私たちにあなたへの賛美の喜びと高揚感を思い起こさせてくれます。今、新型コロナの渦中で私たちは制限多く、賛美歌も皆で心行くまで歌うことができません。でも神さま、どうぞ私たちに、心からの賛美をさせてください。そして、この世界が私の敵なのでなく、あなたを賛美する仲間であるとの喜びを思い起こさせてください。この祈りを救い主イエスさまのお名前で祈ります。アーメン。
15日(木) 詩編149編1-9節
一言メッセージ:長かった詩編も残すところ2編となりました。149編は「新しい歌(今、神さまが与えてくださった祝福に、あなたのことばで応答すること)を主に歌え」と呼びかけます。ここまでは同じような詩編が多かったのですが、149編が特徴的なのは4節で「主はご自分の民を喜び…」と、神さまが私たちの賛美を喜んでくださっていると記されていることです。私たちが何か、優れた能力を持ち、優秀な成果を上げたから神さまの喜びになるのではなく、ただわたしたちが神さまを喜んで賛美する姿が、神さまにとって何ものにも代えがたい喜びだと記されているのです。昨日で我が家の三男が生後5か月になりました。最近、彼は目が合うと笑いかけてくれます。その笑顔が私には嬉しい。神さまの喜びもこれと同じじゃないでしょうか。私たちが嬉しそうに賛美する様は、神さまの喜びなのです。さぁ、今日もスタートします。「神さま、よろしく」とか「神さま、ありがとう」と思いを込めて祈り、今日を始めていきましょう。
祈り:天のお父さま、149編のみことばをありがとうございます。詩人は神さまへの賛美の呼びかけと同時に、私たちの賛美があなたの喜びだと教えてくれました。神さま、私たちは時に、あなたからいただく恵みを当然と誤解し、あなたに応答することを怠っていたかもしれません。でも、今日からは、もっとあなたを身近に覚えて過ごします。どうぞ私たちのその時々の感謝や賛美を笑顔で受け止めてください。この祈りをイエスさまの御名により御前にお献げいたします。アーメン。
16日(金) 詩編150編1-6節
一言メッセージ:長かった詩編もとうとう終わりにたどり着きました。ほんと長かった(笑)。
さて、150編は神さまへの賛美を壮大に呼びかけています。1節の「大空の砦」ですが、当時の世界のイメージは大地の上にドーム型の半円球の天が被さっていると考えられていました。だから「大空の砦」とは全世界を指します。詩人は、世界に神さまへの賛美を呼びかけているのです。
注目したいのは6節「息あるものはこぞって、主を賛美せよ。ハレルヤ」です。「息あるもの」はヘブライ語ネシャマーです。創世記2.7で、神さまが泥をこねて人間を創った後、その鼻に「命の息」を吹き入れましたが、その「命の息」がネシャマーです。つまり、「息あるもの」とは、神さまによって生かされている全ての存在なのです。神さまに命を与えられて生きている者たちが、声を上げ、角笛などの楽器を鳴らし、神さまを賛美する。神さまからいただいた息を用い、神さまへの賛美という息で応えるのです。詩編全150編の締めくくりは素晴らしくハッピーなのです。
さらに締めくくりという観点で見れば、6節の終わりの言葉、全詩編の締めくくりのは「ハレルヤ(主を賛美せよ)」です。詩編は1編1節「幸いなるかな」で始まり、150編6節は「ハレルヤ」で終わります。その間には様々な詩がありました。詩人たちは時に苦難を嘆き、敵の存在に怯え、自分の人生が理不尽だと叫び、罪を悔い改めて赦しを請い、でも希望を見出し、神さまの御心に驚き、守られたことを感謝し、未来に期待しながら、詩を紡がれました。それはまるで私たちの人生のようでした。でも、その終わりは神さまへの賛美なのです。人生は紆余曲折ありながら、でも最後は「ハレルヤ」との神さまへの賛美で締めくくられるのです。とても嬉しくなる示唆ですね。私たちはいかなる人生であろうと、神さまと共に生きるなら、その終わりは賛美なのです。
祈り:天のお父さま、今朝の詩編150編をありがとうございます。とうとう詩編を読み終えました。長い学びでしたが、本当に深い示唆と慰めをありがとうございました。これまで読んできた詩編の1つ1つは、まるで私たちの日々のようでした。感謝したり、嘆いたり、喜んだり、怯えたり。私たちは日々、右往左往しながら生きています。でも神さま、わたしたちはあなたのみことばをいただきながら、日々歩みます。あなたによって整えられながら、慰めと希望を得ながら、導かれています。その歩みはあなたへの賛美で締めくくられていくのですね。神さま、感謝します。本当に弱く、すぐに惑う私たちですが、どうぞ引き続き、あなたに整えられながら信じて従い続けられますように。感謝し、期待して祈ります。アーメン。
17日(土) 箴言1章1-7節
一言メッセージ:今朝からは箴言を読み始めます。最初は福音書を読もうかと思っていましたが、何となく続きで、古代イスラエルの格言集である箴言を読み始めます。福音書はできれば、年明けからレント、イースターにかけて読もうかと思います。少しずつ箴言を読み始めていきましょう。
さて、今朝は1.1-7です。箴言の序文です。箴言はイスラエルの知恵の象徴であるソロモンが編纂したと言われますが、古代イスラエルの賢者たちがソロモンの名を借りて編纂したと考えてくださいね。さて、その序文である2-6節で賢者は、「この箴言は人生迷う人々の道しるべなのだ」と力説します。そして、箴言の最も基本的な考えとして7節を語ります。「主を畏れることは知恵の初め。無知な者は知恵をも諭しをも侮る。」神さまに畏敬の念をもって向き合うこと、それが最善の生き方の基本なのです。人は誰しも、自分の経験や常識、思惑を判断基準にして生きています。でも、それらは、限界ある人間の判断に過ぎません。賢者は最も正しい判断を得るのは、神さまとの誠実な向き合いにこそある、と語った。それが7節でした。
先日祈祷会で読んだ詩編119.24では、神さまの御心を「わたしの良き相談相手(岩波訳)」と訳されていました。そう、神さまの御心は私たちに今何が大事なことであるか示す最善の相談相手なのです。箴言の学びも、この基本を常に思い起こしながら始めて参りましょう。
祈り:天のお父さま、今朝から私たちは箴言を読み始めました。その始まりに、みことばは「あなたを畏れることが全ての初め」と告げました。神さま、どうぞ詩編に続き、箴言の学びでも、私たちにあなたをまっすぐに信じ、誠実に従う姿勢を身につけさせてください。これからの学びに期待し、イエスさまの御名で祈ります。アーメン。
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