9月6~12日のみことば - 2020.09.07 Mon
昨晩は台風が九州を通過し、予報では、これから徐々に収まっていく予報ですが、今もまだ強い風が吹いています。
教会にあるヤシの木のような高い木が倒れたら…と心配していましたが、幸いにも倒れることなく、教会また附設の幼児園も被害なく過ごせそうです。
各地にも大きな被害がでませんように、またこれから台風が上陸する朝鮮半島の方々にも大きな被害が出ないことを祈ります。
さて、先週は牧師の休暇のためお休みしていましたが、今秋からまた日々のみことばを掲載します。
今週もみことばによって支えられ、歩むことができます様に…(^^)
***今週のみことば***
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6日(日) 詩編119編97-104節
一言メッセージ: 今朝のみことばで、詩人は神さまの律法に従うことを「愛している」と表現しました。そして、神さまの律法に従うことによって「私は知恵ある者となった(賢くなった)」と語ります。今朝は「賢さ」について考えてみたいと思います。聖書の語る賢さは「学校の成績が良い」とか「モノをよく知っている」といった知識でなく、「何が正しいことで、何が全てを整えるか」を悟り得る知恵です。また「今、何が得か」と近視眼的に物事を捉えるのでなく、「神さまが必ず導いてくださるのであれば、何が神さまの御心に沿う事柄か」と未来を見分けます。前半の「何が正しいか」を悟る知恵については私たちも意識しやすいのですが、後半の「未来を意識して」は苦手な方も多いでしょう。でも、私たちの見ている現実はあまりに一時期のものです。例えば、流行なんてワンシーズンで終わるものがいっぱいじゃないですか。人の力も一時期のものです。平家物語も冒頭で「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。奢れる人も久からず、ただ春の夜の夢のごとし」と語っています。「平家でなければ人ではない」とまで驕った人々も、歴史を見れば、その繁栄は一時のものに過ぎません。それが、人の限界です。人の目を惹く繁栄は、いつも限界だらけなのです。だから詩人は、人の賢さに留まるのでなく、神さまの知恵、神さまの賢さに生きることを勧めます。今日は日曜日、礼拝の日です。巨大な台風10号が近づく中なので、不安を感じる方はネットでの礼拝参加もお勧めします。場所は様々ですが、私たちは今日も自分の思惑、理解、経験、感情で全てを判断するのでなく、神さまの知恵に生きる者となりましょう。
祈り:天のお父さま、今朝のみことばをありがとうございます。今朝のみことばは私たちに、あなたの御心、知恵、律法に生きることが何よりも賢いことだと告げました。神さま、私たちは弱く、いつも目先の事柄に右往左往し、あなたの御心よりも自分の思惑を優先し、あなたの導きよりも自分の感情に走り、あなたの祝福よりも今の損得を考えてしまいます。でも神さま、私たちは一時的な威勢でなく、あなたからいただく永遠の祝福を求めます。どうぞ、私たちに日々、あなたの御心を悟らせ、従わせてください。今日もどうぞ礼拝に集い、あなたの御心を知ることができますように。救い主イエスさまのお名前で祈ります。アーメン。
7日(月) 詩編119編105-112節
一言メッセージ:105節は119編の中で最も有名なみことばでしょう。「あなたのみことばは、わたしの道の光。わたしの歩みを照らす灯(ともしび)」。
詩を読んでいますと、詩人は神さまのみことばに従っているのに苦しい状況にいるようです。107節では「甚だしく卑しめられている」し、110節では「(神さまに)逆らう者が常に罠を仕掛けて」いる状況です。私たちは詩人を見ながら、神さまに従ってもつらい経験があるし、最後には厳しい結末が生じるのではないか、と不安を持ちます。
でも、冷静に今一度、詩人の言葉に目を留めましょう。彼は「神さまのみことば」を「歩みを照らす灯」と語っています。灯が照らす先はせいぜい数mです。そもそも遠い先々までは照らしません。でも、一歩先を確実に照らします。詩人はそれで良いと言うのです。何故なら、私には一歩先しか見えなくても、神さまのみことばによる一歩一歩は完全な祝福に至るための一歩ずつなのだから。詩人はそうやって、一歩先を積み重ねながら、神さまに従うことを信頼しているのです。
彼の信頼の強さをもうひとつ分かち合いましょう。105節の「みことば」はヘブライ語ダーバールです。これは、「word(ことば)」の他にも「event(出来事、事件)」や「fact(事実)」という訳もできる言葉です。詩人の確信はここにも見られます。神さまのみことばは人生の中で、言葉として知ることもあれば、出来事や事件として起こったり、何が本当に正しいことかを示す事実として現れるのです。私たちの人生にも実現します。私たちはみことばを読み、日々の生活の中で実現されている神さまの出来事を見出していけるのです。
今日から新しい週の働きが始まります。今週、どんなダーバールと出会うでしょうね。
祈り:天のお父さま、今朝もみことば(ダーバール)をありがとうございます。あなたのみことばは、私たちの人生を導く光であり、私たちの一日一日を確かな歩みにさせる灯でした。私たちは弱く、先が見えないため、人生の中で何度、「思ってたのと違う!」と落胆してきたことでしょう。でも神さま、あなたに従う時、たとえ一時的に落胆しても、あなたは私たちをそのままに放置しません。あなたのみことばは、私たちの人生に確かな出来事、事実として実現していきます。神さま、私たちはその時を期待しながら待ちます。どうぞあなたの御業を私たちの上に実現してください。今週もあなたへの期待に生きることができますように。救い主イエスさまのお名前で祈ります。アーメン。
8日(火) 詩編119編113-120節
一言メッセージ:今朝のみことばには「心の分かれている者」が登場します。ここで言われる「心が分かれている」とは、神さまの律法を知りながら、神さまから離れる者です。何故、人は神さまから心が離れてしまうのか。それは「わたしは○○がしたい」からであり、神さまに従うことが自分たちの願望や思惑を否定するように感じるからです。でも改めて考えてみてください。神さまに従うことが楽であり、安心なのです。神さまの祝福はこの命が終わったとしても、その後までの約束です。
今の時代、将来の不安が多いため、皆が必死になって貯金したり、他人と関わることを避け、我が身を守ろうとしています。でも、私たちは神さまを身近に感じることによって、神さまの整えと導きの中で生きられます。神さまに従う人を笑う人もいます。でも、そのような方々はいざ、自分の力や理解を超える出来事に直面した時、どこに平安を得るのでしょう。自分や周囲の力に依拠して生きる時、その限界を超えた時、何が希望となるのでしょう。私たちの希望は自分たち自身にはありません。ただただ神さまにあるのです。そう思う時、私は神さまを信じて生きることが「楽」だし「安心」と思うのです。信仰は喜び、慰め、元気、優しさ、希望、その他もろもろ、私たちを生かす力を与えてくれます。そして、信仰は私たちに信じたように生きて良いのだと後押ししてくれるのです。
祈り:天のお父さま、今朝、私たちはみことばに「心の分かれている者」のことを考えさせられました。私たちも時に、あなたに従うよりも自分の都合や願望を優先します。その結果、一時的な楽しみは得られるでしょうが、あなたに従うことによる平安や期待は感じられません。あなたの前に大らかに過ごすのでなく、周囲の目に振り回されてしまいます。そう思う時、私たちは過去を整えていただき、今を期待に満たし、将来にわたる約束を与えてくださるあなたを信じ、従います。救い主イエスさまのお名前で祈ります。アーメン。
9日(水) 詩編119編121-128節
一言メッセージ:今朝の箇所はとても面白い表現があります。122編で詩人は神さまに「わたしの保証人になってください」と訴えているのです。今の時代、何かと言うとすぐに「責任」という言葉が口にされます。「責任」と言ってしまえば、物事のミスや、押し付けられた結果が出せないことが、その人の失態として押し付けてしまえるからです。でも、この論理は究極的には破綻しています。何故なら、ミスのない人間などいないからです。今朝のみことばがキラリと光って見えます。詩人は神さまに「あなたがわたしの保証人になってください」と訴えます。予期せぬトラブルが起こっても、精一杯取り組んだのに物事がうまくいかなくても、それですべてが潰えてしまうのでなく、そこからさらに御業が起こることを願うのです。
恩師の関田寛雄牧師が言っていました。「キリスト教信仰は『にもかかわらずの信仰』。私たちがどれほど苦境にあろうと、『にもかかわらず、神さまはおられる。イエスさまが伴ってくださる』から、私たちにはどんな時にも希望が与えられています」と。
詩人もそんな心境なのでしょう。社会の理不尽を前にして126節で詩人は言います。「(今こそ)主の働かれる時です」!何とすがすがしい信仰でしょう。無責任なのでなく、責任感があるからこそのことばです。精一杯生きた上で物事が惨状で終わってしまうのでなく、ここから神さまの御業が起こるし、自分がその目撃者として、最後まで向き合うからこそのことばです。わたしたちもピンチの時に、その場で一言祈りましょう。「神さま、今こそあなたの働かれる時です」って。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝のみことばはとても私たちの心を自由にしてくれます。あなたが私たちの保証人です。だから私たちは自分たちにでき得る精一杯の働きを誠実に行います。でも、私たちの限界の先は神さま、あなたの御業に期待します。「さぁ、今こそあなたの出番です」と祈って、あなたの御業を見届けます。どうぞ、慈しみ深く、あなたの僕のために計らってください。主なる神さまに祈ります。アーメン。
10日(木) 詩編119編129-136節
一言メッセージ:今朝の箇所で詩人は社会の理不尽さ、人々の不信仰さに大きく落胆しています。そして神さまに「憐れんでください(132節)」と訴えています。では、その「憐れみ」とは具体的に何か。それは129-130節です。詩人は自分自身がしっかりと神さまの御心を守ることが周囲への証となること、その証によって人々が神さまに従うことの幸いと確かさを理解していくことになるだろう、と考えていることです。言うなれば、詩人は「私を祝福してください」と自分のことを願ったのでなく、自分を通して人々が神さまを信じるようになることを願ったのです。詩人は切実です。131節では「わたしは口を大きく開き、渇望しています」と語っています。それほど精一杯祈っているのです。
私は今朝のみことばを読みながら、週報3面のスケジュール欄で祈り続けている方々のことを思い起こします。礼拝に時々来てくださる方、行事だけ顔を見せてくださる方、一時期来ていたけれど今は来られない方、一回だけ来会された方など、おられます。その方々もきっと私たちと同じく、神さまを渇望していたのです。でも今はお越しになっていない。今、その方々はどうしておられるのだろう。もし機会が与えられるならば、また礼拝を御一緒したいし、私たちの教会でなくてもどこかで礼拝に集っていて欲しいと願います。今朝は上記の方々や家族、友人たちのことを祈りましょうね。
祈り:天のお父さま、今朝のみことばをありがとうございます。今朝、みことばを読みながら、私たちは最近、礼拝におみえにならない方々のこと、礼拝に連れてきた家族や友人のことを思い起こしました。今は新型コロナウイルスの懸念もありますから、余計に難しいかもしれませんが、神さま、どうか憐れみをもって私たちの祈りを聞き届けてください。どうぞ、私たちが今朝祈る方々と共に、礼拝に集う機会が与えられますように。イエスさまのお名前で祈ります。
11日(金) 詩編119編137-144節
一言メッセージ:今朝の箇所、詩人の気持ちは私たちの気持ちに近いです。彼は社会が神さまの御心に反れ、強い者の横暴や理不尽がまかり通っていることに、「どうして、まっすぐな神さまの裁きが実現されないのか。なぜ、神さまの正義が行われないのか」と憤っています。彼は一生懸命に神さまの御心を実行しようと努力するのですが、141節では「若いねぇ(別の訳では、「幼い、弱い、ちっぽけ」も可)と侮られます。でも、彼は一時の感情に流されず、じっと耐えながら、神さまのみことばに生きようとしています。144節の月本昭男訳(祈祷会で使っている注解書の著者)は「あなたの定めは永遠に義です。私に分別させてください、わたしは生きましょう」となっています。
先週と今週は行けていませんが、ここ最近、人吉に水害ボランティアに行っています。教会関係の方々と一緒ですが、神学生も数名参加しています。20代前半から僕と同級生までですから、親しく話しています。彼らと話していると、20代前半の神学生の真っすぐさがとても印象的です。それこそ「若さ」ゆえか、極端なまでに真っすぐで危うさも感じるのですが、でも同時にとても好ましいのです。私も神学生時代、誰に対しても「おかしいものはおかしい」と言い続けてきました。そんな私も今は42歳。少しは人との対し方や話し方は柔らかくなった(?)し、早急に結論を出すことなく、可能な限り時間をかける粘り強さも付いたかもしれません。でも、根っこの部分であの時の真っすぐさを保ち続けたいと思います。私の中で変わるものと変わらぬものがある。変わらぬものは、神さまへの純粋さでありたいのです。皆さんは、年を重ねる中で何が変わり、何が変わらぬものですか?
祈り:天のお父さま、今朝のみことばをありがとうございます。今朝のみことばに自分の若い頃を振り返らされます。あなたを知って信じた時と、今の私は、どう変わり、どう変わらないでしょう。見た目や体力などは変化してきたでしょうが、でも、神さま、あなたへの純粋さは保てていますでしょうか。バプテスマを受けた時のあの喜び、あの感動、神さまに従うことにワクワクしていた、あの純粋な信仰を私は今も保てているでしょうか。もし、どこかあなたへの信仰がマンネリ化して、感動を失ってしまっていたら、どうぞ、私をもう一度、磨き上げてください。上っ面の言葉としてみことばを受け止めるのでなく、あなたが今の私に語りかけてくださる呼びかけとしてみことばを読ませてください。いのちのみことばなるイエスさまによって祈ります。アーメン。
12日(土) 詩編119編145-152節
一言メッセージ:今朝のみことばで、詩人は切実に神さまを呼んでいます。145-146節では「(あなたを)呼び求めます。こたえてください。掟を守ります。お救いください。定めを守ります」と連呼します。何故なら、150節で迫害する者が近くにいるからです。では、そんな不安の中で詩人は何をしているのでしょう。彼は目を凝らし、耳を澄まし、神さまを感じとろうとしているのです。147-148節で、彼は「夜明けに先立ち、みことばを待ち望み」「夜警に先立ち」神さまに意識を集中しているのです。その理由こそが今朝の箇所の中心です。彼は151節で、敵よりも神さまこそが自分の身近にいてくださることを確信しているからです。時々、「神さまの御心が分からない」と思う時があります。反省を込めていいますが、その時の私は「神さまの御心がわからない」のでなく、「私の願いに沿って神さまが動いてくださらないから分からない」だけです。でも詩人は目で見えず、耳で聞こえなくても、神さまが今日も、今この瞬間にも私の傍らにあると確信している。だからこそ、神さまを感じるために彼は意識を集中させているのです。一週間の働きも今日で終わりです。ぜひ今日寝る前にでも、一週間を振り返ってみてください。感謝なこともあれば、訳の分からない事柄もあったでしょう。注意したいのは、訳の分からない事柄です。その時、神さまは私の願いと別のことを考えてらっしゃったのかもしれない。私たちが気づいていなかっただけで、神さまはいつも私の傍らにいて、私たちの将来のために最も必要な整えを行ってくださっていたのかもしれない。そんな発見を積み重ねながら私たちの信仰をより強く、より希望に満ちていきましょう。大丈夫、神さまは私たちの思惑を超えて力強く、粘り強く、愛情深い方です。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝のみことばに私たちは一週間を振り返りました。今週、わたしたちはどれほどあなたに気づいて過ごしてきたでしょう。あなたはいつも私たちの傍らにおられ、慰め、励まし、諫め、教え、庇い、守り、整え、導いてくださったですが、わたしはどれだけそのことに気づけたでしょう。もし気づけていなかったならば、どうぞ今夜、一週間を振り返る時に、新たな発見を次々と見出させてください。発見の分だけ、詩人のようにあなたへの信仰を強くすることができますように。明日、爽快な目覚めと共に礼拝に集うことができますように。イエスさまのお名前で祈ります。アーメン。
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