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2020-09

9月27~10月3日のみことば - 2020.09.28 Mon

9月も最後の週となり、間もなく10月になります。
新型コロナウイルスの影響で普段通りの生活・活動ができなくなってもう半年がたとうとしていますね。いわゆる「新しい生活様式」に慣れてきた面もありますが、やはり気兼ねなく人と会ったり、食事をしたりできないことのストレスは大きいですね。
また、非正規雇用の方やお店や観光業の方々など、生活に支障の出ている方も多くおられ、終息の予測のできない中で厳しい状況をみるにつけ、新型コロナウイルスの終息と苦しい状況の中にいる方に手を差し伸べられる社会の実現を祈らずにはおれません。

しかし、一方でこの状況だからこそ新しい可能性を発見したり、今までのやり方を見直すことができるのではないかとも思います。私たちの教会もこの新型コロナウイルスのことをきっかけにYouTubeでの礼拝ライブ配信を始めました。そのことを通して、礼拝に来たくても来ることのできな方にも時を同じくして共に礼拝できる可能性を考えています。
もちろん、問題点や考えなければならないこともたくさんありますが、今この時に神さまはどんなことを求めておられるのか、そのためにどんな方法があるのか祈りつつ考えていきたいと思わされています。
先日の日曜日の礼拝メッセージでも、神さまを信じる時、私たちは固定観念から解放され、自分の中で「ひっくり返し」を経験するのだというお話を聞きました。
お話の中で紹介された西部・そごうの「さ、ひっくり返そう」という広告。とっても印象的でした。
公式ホームページで動画を見ることができるので、ぜひ見てみてくださいね。
 ⇒西武・そごうのページ
メッセージを聴いておられない方ホームページの礼拝メッセージページやYouTubeページでチェックしてみてください。
 ⇒礼拝メッセージ音声配信
 ⇒9月27日メッセージ・YouTube配信
  ↑今回はライブ配信がうまくいかなかったので、聖書朗読とメッセージのみ再配信中。

今週も皆さんの歩みの上に神さまの守りと導きがありますように!


***今週のみことば***

※聖書の箇所は日本聖書協会の聖書本文検索から読むことができます。⇒こちら
・訳名選択     : 新共同訳
・旧新約・続編選択 : 詩編→旧約聖書
・書名選択     : 詩編
・章選択      : 該当章数を入力(章まで入力するとその章すべてが表示されます。)

27日(日) 詩編131編1-3節
一言メッセージ:131編の詩人は女性ではないかと言われています。彼女は1節で「高くを見ていません。大き過ぎることを、わたしの遠く及ばぬ驚くべきことを、追い求めません(大それた欲を持っていません。自分の手に余る事柄は求めません)」と神さまに語りかけます。「神さま、もっと私に恵みを!こうしてほしいです!」と訴えるのでなく、沈黙して、赤ん坊が母からの授乳で養われるように、幼子が「お腹減った」と言いながら母に頼るように、彼女も神さまに養われていることを素直に感謝しました。そして3節で、神さまを素直に信じて生きることを呼びかけます。これが131編です。
  131編を読みながら、私たちは「足るを知る」ことの大事さを思い起こします。私たちは非常に貪欲で、「もっとこうしたい。もっとこうありたい。もっと認められ、大事にされたい」との渇望があるように思います。もちろん、向上心という意味では大事なことでしょう。けれど今の社会などは、他者との比較ばかりを行い、不平不満で心がいっぱいになっている人が多いように思うのです。131編は私たちに静かに告げます、「今すでに神さまにいただいている祝福を思い起こし、感謝しなさい」と。今を神さまに感謝しつつ、一日一日を歩み続ける。そんな歩みが3節の「とこしえ」へと繋がるのだと思うのです。今日は日曜日、礼拝の時です。神さまに感謝して。礼拝に集いましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝の131編は私たちに「足るを知る」こと、今あなたにいただいている恵みを数えて感謝することを教えてくれます。神さま、私たちは131編にドキッとします。私たちは、あなたにいただいた恵みを素直に感謝していましたでしょうか。不平不満で陥り、あなたを待ち望む前にいら立ち、あなたを軽視していませんでしたでしょうか。もしそうであるならば、ごめんなさい。どうぞ許してください。そして今一度、あなたに感謝して生きる者とならせてください。今日のみことばに感謝し、救い主イエスさまのお名前で祈ります。アーメン。

28日(月) 詩編132編1-18節
一言メッセージ:132編は非常に難解な詩編です。ダビデ王朝への愛着が強いのですが、旧約聖書の歴史であるサムエル記や列王記には、1-5節のような「ダビデが神殿建築の場所を探すために労苦した」という記述は見当たらないのです。残っているのは歴代誌上22章、28-29章だけです。歴史が食い違うので、読者である私たちは混乱してしまいます。じゃあ、この詩から何を見出そうかと言いますと「ダビデは熱心に神さまに応答したいと願った」という姿勢です。私たちは日々、神さまの祝福を「当たり前」と誤解してしまうほど、日常的に祝福を与えられています。ダビデはそんな神さまの祝福に、自分なりに応えたいと願ったのです。その姿勢が尊いのです。
  最近、長男が「お父さん、お手伝いしたい」と度々言ってきます。私はその申し出が既に嬉しい。私たちが神さまに応えたいと願う時、神さまも同じ気持ちでいてくださるのだと思います。それこそ、神さまが自ら業を行われた方が遥かに素晴らしい結果でしょう。でも神さまは私たちの成果や結果よりも、その心をこそ喜んでくださいます。そのことを思い起こしながら、今週も始めていきましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。週の働きの始まりに、みことばは神さまに誠実に応えることを示してくれました。そりゃ、私たちが何かやるよりも、あなた自らの御業の方がはるかに優れています。でも、あなたは私たちの行動の成果や結果よりも、その心をこそ喜んでくださるでしょう。そして、私たちの足らぬ働きに祝福を増し加え、あなたに御業として用いてくださいます。神さま、この新しい週、あなたは自分たちなりにあなたにお応えする一週であれますように。小さな働きを喜び、用いてください。私たちの父なる神さまに感謝し、祈ります。アーメン。

29日(火) 詩編133編1-3節
一言メッセージ:133編は、バビロン捕囚から解放され、イスラエルの帰還した民が、共に集い礼拝できる幸いを感謝し、賛美した詩です。50年を超える捕囚生活で正直、イスラエルに戻れるなんて考えても無かった民が再度集い、共に礼拝できる感動を歌った詩です。
私たちも5月31日のペンテコステ礼拝にてこのみことばを分かち合いました。新型コロナウイルスの緊急事態宣言後、礼拝に集えた時にこのみことばを分かち合ったのです。あれから4ヵ月が経ちました。今も新型コロナウイルスの恐れはあるものの、私たちは毎週、会堂で礼拝を守っています。毎週の礼拝が当たり前のように感じられてきた人たちもいるかもしれません。でも、わたしは礼拝に集えたことの感動を忘れずにいますし、もう1つ、願いをもちつづけています。それは、病の方々や、医療従事者である仲間たちが礼拝に帰ってこれることです。特に中司万寿夫兄や山口有佳姉、門内正子さんのような医療従事者の方々は新型コロナの最前線で必死に苦闘しながら、同時に自分たちがウイルスを持っているかもしれないという緊張感の中で必死に医療を守っています。その心身のくたびれは半年以上続いています。本当なら、彼ら彼女らこそ一緒に礼拝して、ホッとしてほしい。でも、彼らは今も自分たちの働きに向き合っています。その献身的な姿勢に私は頭が下がるし、この方々のために切実に祈らされます。「神さま、仲間たちをお守りください。共に座り、共に礼拝する祝福を一日も早く取り戻させてください。」どうぞ皆さんも一緒にお祈りください。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝133編で「兄弟が共に座っている、なんという喜び、なんという恵み」とのみことばを読みました。読みながら、私たちはこの新型コロナウイルスの感染拡大の中で、必死に最前線で戦っている医療者の仲間たちのことを思い起こします。半年以上、緊張と通常以上の勤務体制が続いています。神さま、どうぞその一人ひとりをあなたが顧み、祝福し、慰め、力と希望を与えてください。また一緒に礼拝できるように導いてください。私たちにいつも伴い、共に生きてくださる救い主イエスさまのお名前で祈ります。アーメン。

30日(水) 詩編134編1-3節
一言メッセージ:134編は大好きな詩です。この詩は120編から続く巡礼詩集の終わりの詩で、エルサレムの巡礼を終え、それぞれ故郷に帰ろうとする人々に祭司が呼びかけた詩です。巡礼にやって来た人々にはそれぞれの事情があったでしょう。願いが叶えられたことの感謝で来た人や、純粋に礼拝したくて来た人もいたかもしれません。でも、様々な課題に苦しみ、故郷から避難するようにやって来た巡礼者や、神さまに縋りついて「もういい加減にしてくれ、助けてくれ」と訴えた人もいたでしょう。集まってきた人々は皆、事情を抱えていました。でも、今、巡礼を終えて故郷に戻ろうとする人々に向かって、祭司は「主の僕らよ、こぞって主をたたえよ」と呼びかける。本来、旧約で「主の僕」と言えばアブラハムやモーセ、ダビデのように偉大な人々を指す言葉です。でも祭司は名も記されぬ巡礼者を「主の僕」と呼びかけます。「神さまがその一人ひとりに目を留め、一人ひとりを理解してくださり、一人ひとりに御手を差し伸べて導いてくださるから、安心して、神さまに従い、賛美して生きていきなさい」と促してくれるのです。何と心強く、嬉しいエールでしょう。
  私は今、思うのです。私たちも社会の中で小さな民のひとりです。でも安心しましょう。私たちも主の僕とされています。だから希望をもって、今日も神さまを賛美して初めていきましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。134編に私たちは元気と希望をいただきました。わたしたちは小さな民の一人にすぎないと思っていました。でもあなたは、そんな私たち一人ひとりに目を留め、「我が僕」と呼び、祝福してくださいます。神さま、どうか、その幸いをいつも思い起こして生きる者とならせてください。救い主イエスさまの御名で心から祈ります。アーメン。

10月1日(木) 詩編135編1-21節
一言メッセージ:135編は出エジプトの物語を思い起こしながら、神さまを賛美し、従い続けようと呼びかける詩です。今日は4節に注目します。「主はヤコブを御自分のために選び、イスラエルを御自分の宝とされた」ですが、この「宝」は文語訳聖書では「珍寳(うづたから)」と訳されています。その意味は「誰もが評価する宝物なのではなく、『なんでそんなんが宝物なの?』と言われるのに、その人にとってはかけがえのない宝」です。これは素晴らしい訳です。何故なら、イスラエルは宝となり得ぬ地域であり、民だったからです。地図でイスラエルを見ますと、南はアフリカ、東はアラビア世界、北は今のヨーロッパを結ぶ中間地点、交通の要所でした。だから、古代世界で覇権を握ろうとする強国はいつも他の地域への侵略のためにイスラエルを侵略しました。一方、イスラエルはいつも強国に翻弄される弱小民族でした。弱いのです。でも、神さまはそんなイスラエルを選び、支配ではなく、宝物とされました。ここが面白いのです。他の国々は利のためにイスラエルを支配しようとしました。でも神さまは彼らを宝物にされた。その理由は申命記7.6-8「ただ、神さまの愛ゆえに」です。
神さまが民を愛してくださったが故に御業を実現してくださった。その愛は今、私たちにも同じように注がれています。私たちも社会ではちっぽけな存在です。でも大丈夫、わたしたち一人ひとりは神さまの宝物。私たちは神さまの目に尊い存在なのです。どうか自分を小さいと誤解せず、胸張って、感謝して今日も歩み出しましょう。
祈り:天のお父さま、今朝のみことばをありがとうございます。神さま、あなたはイスラエルの民を、そしてわたしたちを御自身の宝物としてくださいました。私たち自身に何か価値があったのではなく、ただあなたの愛ゆえに、です。その愛は一時的な好み程度ではなく、ご自分の独り子イエス・キリストが十字架にかかってまで救おうと決意くださるほどの愛でした。神さま、わたしたちはあなたの愛によって生かされていることを改めて思い起こします。どうか、私たちが自分たちを見失わず、あなたの愛に感謝して誠実に生きる者となれますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

2日(金) 詩編136編1-26節
一言メッセージ:136編は礼拝での交読文として歌われた詩です。各節の前半部は「〇〇に感謝せよ」と祭司が歌い、後半部を会衆が「慈しみはとこしえに」と応唱する詩です。
  皆で読むととても気持ちの良い詩ですが、じっくり考えると不思議に思う言葉も含まれています。例えば、10節で「エジプトの初子を討った(命を奪った)」ことや、19-20節の「〇〇を滅ぼした」は、イスラエルの立場から見れば祝福と思うかもしれませんが、討たれた側の立場から見れば理不尽な話です。また16節のように「イスラエルの民に(40年)荒れ野を行かせた」ことは、純粋に感謝なのでしょうか?でも、詩人は「感謝せよ」と語ります。
私たちは詩人の言葉に、自分たちが近視眼的で、いつも目先の出来事や事柄だけで「幸い」とか「不幸」を結論付けがちだと教えられます。神さまの御業は今、目の前の事態が結論ではないのに、私たちは目先の出来事だけで判断してしまいます。でも、詩人は「慈しみはとこしえに」と歌い、「とこしえ」に目を留めよと促します。労苦も「何故?」と訴えたい出来事も、今の私たちに見えていないだけで、神さまの御業の中では必ず幸いとなり、「感謝」に変わる。136編は、神さまの御業を長い時の中で見極めることを示しています。焦らない、焦らない。安心して、今日の一日を歩みましょう。
最後に、僕の願いの1つ書きます。新型コロナウイルスが終息した後、私たちも久留米教会として「〇〇に感謝せよ、慈しみはとこしえに」という詩を皆さんで紡ぎ、礼拝で朗読したいのです。「〇〇に感謝せよ」は皆さんが1つずつ考えてください。ご自分の体験、気づき、喜び、今分からない出来事です。そんな出来事を話しながら、皆で「慈しみはとこしえに」と呼び交わし、神さまに献げたいのです。終息後の礼拝が楽しみです。久留米教会の136編を作りましょう。
祈り:天のお父さま、今朝のみことばをありがとうございます。136編を通して私たちは、目先ではなく、あなたの御業を長い時間の中で判断することに気づきました。あなたの御心は私たちには簡単に理解できません。「何故?どうして?」と訴えたい出来事も起こるのです。でも、神さま、あなたはそんな出来事さえも、あなたの御手の中で整えてくださり、最後には「感謝」と言えるように用いられるでしょう。神さま、私たちはたとえ今、分からない事柄を抱えていても、それでもあなたを信じ、あなたに従います。どうぞ、今日の一日を守り、明日の一日を導き、そんな積み重ねの中で、あなたの慈しみをとこしえまで続け、お与えください。イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

3日(土) 詩編137編1-9節
一言メッセージ:詩編137編は背景が分かりやすい詩です。詩人はバビロン捕囚で連行された神殿詠唱者です。彼は「バビロンの流れのほとり」に座り、悲しさや口惜しさに泣いています。祖国は滅び、連行されたバビロンでユーフラテス川の川さらいをさせられていた時、彼は現場監督であるバビロンの役人から「お前、神殿詠唱者なのか。じゃあ、何か神殿での歌を歌え」と命じられました。4節で彼は断固拒否したように書いていますが、それは願望であって、現実は歌わざるを得なかったのでしょう。だから1節で、彼は泣いているのです。7節のエドムは、エルサレム陥落時にバビロンに加担し、戦後、イスラエルの土地をかすめ取った近隣の民です。詩人はそういったエドムやバビロンへの口惜しさと自分たちの境遇の悲しさを歌ったのです。
  今日で今週の仕事が終わりですね。この一週間、みなさんは充実して過ごせましたか?仕事のこと、家庭のこと、人との付き合い、全てを「感謝」と言える人は幸いです。一方、悔しさや悲しさ、挫折を経験した人もいるかもしれません。だって、人生には往々にして、そういう経験が起こるものですから。では、今朝の詩編はそんな私たちに何を示すのでしょう。それは、そんな口惜しさを神さまにそのままぶつけたらいい、ということです。時々、「神さまにこんな嫌なことを祈っていいのかな?」と質問される方がいますが、大丈夫、祈って下さい。神さまは私たちの状況をちゃんと理解してくださった上で、私たちの思いのたけを受け止めてくださいます。そして私たちの願い通りでなくとも、後に最善と思えるように、御心を行ってくださいます。だから安心して、今の思いを祈っていいです。新しい週に向けて、神さまによって心身の慰めをいただきましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。詩編137編は、自分たちの思いのたけを包み隠さず、神さまに訴えて良いことを教えてくれます。口惜しさも後悔も、不甲斐なさも罪悪感も丸ごと、神さまはちゃんと受け止めてくださいます。そうやって神さまに受け止められるからこそ、私たちは新たな忍耐と展望をもって、もう一度、自分たちの境遇に向き合わせていただけます。神さま、最善の聞き手となってくださいましてありがとうございます。どうぞ、あとは御心のままに御業を行ってください。救い主イエスさまのお名前で祈ります。アーメン。

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Author:久留米キリスト教会
福岡県久留米市にある久留米キリスト教会のブログです。
わたしたちの教会は、日本バプテスト連盟に加盟する、プロテスタント派のキリスト教会です。
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