戦中・戦後の記憶 +8月16日~22日のみことば - 2020.08.17 Mon
8月も半ばを過ぎ、いよいよ暑い毎日です。
皆さん体調を崩しておられませんか?
さて、ブログの記事でも触れていた通り久留米教会では毎年8月は平和を覚える月間として礼拝をささげています。メッセージの内容も平和メッセージとなっています。
さて、ブログの記事でも触れていた通り久留米教会では毎年8月は平和を覚える月間として礼拝をささげています。メッセージの内容も平和メッセージとなっています。
また、今年は週報(教会の礼拝プログラムやお知らせの載っているプリント)の四面に「戦中・戦後の記憶」として教会のメンバーの方に文章を載せていただいています。
今回はその文章もここに載せることにします。
どんどん戦中・戦後のことを語れる世代が少なくなる中、大事な証言です。
私たちもこの証言を受け止め、引き継いでいきたいと思います。
~戦中・戦後の証言①~
終戦10ヵ月前に生まれた私には、戦争の記憶は全くありませんが、耳にしてきた断片をつなぎ合わせてみます。
両親は結婚後北九州に住んでいました。戦況が厳しくなるにつれ、八幡製鉄所や山田弾薬庫が標的になり、危ないということで、父の実家に疎開したようです。疎開先は、久留米の藤山町。私には2歳上の兄がいて身重の母は大変だったと思いますが、祖父母や伯父伯母達に守られての出産だったと想像します。母の実家はというと、久留米駅近くの問屋街にありましたが、終戦間際の8月11日の空襲で焼けだされ、母方の親族もまた藤山の父の実家で世話になったようです。
大変な苦しい中で、助けられたり、助け合ったりの時代だったようです。
~戦中・戦後の証言②~
戦争が終わった時、私はまだ2歳。祖母と二人暮らし。終戦後のことしか分かりませんが、書いてみます。
祖母は父の帰りを待っていたように亡くなりました。伯母さん達家族が上海から熊本に引き揚げてきて、従姉妹二人が我が家でくらしはじめました。そして従姉妹の父が結核で亡くなり、上の従姉妹も結核になり病院で亡くなりました。下の従姉妹と私、小学生になり復員してこられる方を、学校から、学校近くの駅に何度か迎えに行ったことを覚えています。
放生会に参道のたいこ橋の手前で傷病兵の人が白い服を着て、アコーディオンを弾く姿を何度も目にしました。戦争が終わっても、傷ついた人達が私のまわりにもいたことを思いおこされました。
***今週のみことば***
※聖書の箇所は日本聖書協会の聖書本文検索から読むことができます。⇒こちら
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16日(日) 詩編116編1-19節
一言メッセージ: 今朝は敗戦記念日から明けた16日であり、神さまと向き合う礼拝の時です。今朝の116編はそんな一日の始まりにふさわしい詩です。
116編の詩人は1-11節で、何らかの危機に直面しています。具体的には分かりませんが、「死の綱(3節)」とあるので、死を意識するほどの危機のようです。けれど、そんな中で彼は神さまを「呼ぶ(2節、4節、13節、17節)」のです。そして12-19節は、危機を脱した詩人が神さまに感謝すべく、神殿で感謝の献げものをしています。
116編で注目したいことは2つ。1つ目は10-11節で詩人が、「激しい苦しみ」に襲われて、自分の境遇を惨めだと痛感していますし、不安のために「どうせ人は欺く」と不信感に苛まれていることです。時々、「信じれば、惨めさや不信感に陥ることなく、いつも平安に生きられる」と思う人がいますが、私たちの実態はそうではありません。信仰を持っていても、時に惨めさや不信感に陥る。では信仰者と信仰の無い者とは何が違うのか。信仰者は惨めさや不信感に苛まれながら、それでも神さまを信じられるのです。「私が惨めであっても神さまがおられる。神さまが自分に目を留め、必ず救ってくださり、全てを整え導いてくださる」と信じるから、私たちは自分の限界を超えた希望をいつも感じられる。これが私たちの信仰の強さなのです。
2つ目に注目したいのは詩の中で4回繰り返される「呼ぶ」という言葉です。ヘブライ語のカーラーが使われていますが、その意味合いは「声に出して語り掛ける」です。十戒に「主の名をみだりに(いい加減に)唱えてはならない」とあるように、イスラエルの民にとって神さまを呼ぶことは非常に重たい事柄でした。でも詩人は神さまを何度も何度も「呼ぶ(カーラー)」する。それは、自分の都合で神さまを利用するような呼びかけではなく、神さまと人格的に向き合う行為でした。言い換えるならば、生涯をかけて神さまを信じ、向き合い続けるのです。その時、詩人は神さまが自分に手を差し伸べ、顧み、整え、救い、導いてくださった。だからこそ、彼は神さまに感謝の献げ物を携え、神殿(礼拝)へと向かうのです。
今朝は敗戦記念日から一夜明けた16日です。戦後75年、私たちは未だ神さまの平和を実現できていません。それどころか、今の政治の風潮は昨日の総理の平和式典でのコメントしかり、歴史を歪曲し、戦争を容認するような動きも強くなっています。私たちはそんな政治を前に無力さ、惨めさも感じそうです。でも、その中で私たちは信仰を新たにされるのです。神さまの平和は今も変わりなく示され続けている。争いでなく共存を、敵意でなく愛を行うべく、私たちは今朝も神さまと出会う(カーラー)することから平和を歩み始めるのです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝の116編は私たちに生き方の大事なヒントを与えてくれます。惨めさや不信感の時にも私たちはあなたを信じ、あなたと向き合い続けます。その時、あなたは私たちを強くし、状況を必ず整え、救い、導いてくださいます。神さま、戦後75年、未だあなたの平和を実現させることができていませんが、でも、私たちがあなたと向き合いつつ、声を上げ続けます。どうぞ、あなたの平和を世界に実現してください。平和の君なるイエスさまのお名前で祈ります。アーメン。
17日(月) 詩編117編1-2節
一言メッセージ:今朝の117編を読んでの最初の感想は「短い!」です。でも、117編は短いながら、内容は豊かです。117編には民族主義的な思想はなく、「全ての国、全ての民」が神さまを賛美することを求めます。その神さまは私たち人間の力、理解、常識、想定を超えて、そして時の流れすら超越する、力強い神さまです。先週、私たちは戦争の記録をテレビやニュース、その他いろいろな時に見てきました。誰もが「もう二度と戦争をしてはならない」「核兵器なんて必要ない」と思うのに、日本政府は戦争できる国づくりを進めているように見えますし、世界的な「核兵器禁止条約」にも同意しません。平和の願いすら、政治の道具にされています。でも、今朝の詩編は、そんな政治的駆け引きすら超えて、ただただ偉大な神さまの前に世界が共に集い、共に生きることが詠います。神さま、どうぞ私たちの社会にあなたの平和を実現してください。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。117編はすべての国、すべての民があなたを賛美し、あなたの偉大な御業によって平和な世界が実現することを願いました。神さま、私たちも同じ思いです。どうぞあなたの平和を来たらせてください。平和の君なるイエスさまのお名前で祈ります。アーメン。
18日(火) 詩編118編1-29節
一言メッセージ:118編は昨日と打って変わって長いのですが、内容は喜びの詩です。この詩は大勢の会衆が一緒に賛美しているイメージです。1-4節は全体の賛美ですが、5-21節は個々人が自分の体験に基づいて、「わたしは神さまに救われた」と単数形で歌っています。そんな個々人の体験が歌われた後、22節からは会衆による大合唱となっています。個々人の救いには様々なケースがあるようですが、共通している思いは22節「家を建てる者の退けた石が隅の親石となった(「『こんな役に立たないもの』と思われていた、取るに足らぬ存在、事柄、人が神さまの救いのきっかけとして用いられていった」)という驚きです。神さまの御業は本当に不思議な仕方で実現していくことを118編は歌っています。
私たちは誰しも思い起こしたくない失敗や後悔があります。キリスト教の歴史でもそうです。初代教会の指導者ペトロたちは、イエスさまが十字架にかけられる時、イエスさまを見捨てて逃げ出しました。本来ならば、そんな大失敗は想い起したくもなかったでしょう。でも、その話は全ての福音書が記しています。何故か。それは、正にそんな大失敗、後悔こそが、救いのきっかけになったからです。キリスト教が「許しの宗教」と言われるのは、最初の指導者たちであるペトロたち自身が、イエスさまを見捨てるという許されざる罪を犯しながら、でもそのイエスさまによって許され、救われ、もう一度イエスさまに用いられていったという不思議な御業によって、でした。
人間は必ず失敗をします。現代社会はそんな失敗を許さず、裁きます。でも、神さまは許し、もう一度立ち上がらせてくださるのです。わたしもあなたも、そうやって立ち上がらされるのです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。118編は神さまの偉大な、そして不思議な御業を歌います。自分たちの目には、もはやどうしようもない、諦めざるを得ない苦境でさえも、あなたは不思議な仕方をもって私たちを救ってくださるのです。118編は大会衆の賛美ですが、神さま、今、わたしもこの賛美に加わります。私もあなたに救われた経験、その喜びを思い起こし、あなたの賛美に加わります。ちっぽけな私たちですが、どうぞ生涯、あなたを信じ、従い抜くことができますように。救い主であり、隅の親石となってくださったイエスさまのお名前で祈ります。アーメン。
19日(水) 詩編119編1-8節
一言メッセージ:今日から始まる119編は全部で176節にも及ぶ長大な詩です。すごいことに、119編もヘブライ語のアルファベット1文字につき8節ずつ、各節の冒頭が指定のアルファベットから始められる、すごいアルファベット詩です。さらに驚くのは、各節に「律法」を意味する8つの単語のどれかが入っているのです(8つは「律法」「法」「言葉」「掟」「命令」「定め」「指図」「仰せ」)。これほどの詩を一回で読むのは無茶なので、8節ずつ、読んでいきましょう。
1-8節は「幸いな人とはどんな人か」を語ります。それは「律法の道(人生)を歩む人」です。4節では「命令を守る」とありますから、人によっては、律法を守ることを「堅苦しい、押し付けられた」と感じる人がいるかもしれません。でも、そこで「もし、全てが自分の思い通りに生きることになったら…」と想像してみてほしいのです。一時的には、自分の願い通りであることは楽しいでしょう。けれど、私の思うがままと、他者の思うがままが必ずどこかでぶつかり、対立や争いが起こる。そうなると、もはや収拾がつかないでしょう。こう考える時、神さまの律法の意味が一端でも分かるのです。神さまの律法は、自分が驕り高ぶることを防ぎ、他者と共に誠実に生きるための掟でもあるのです。詩人はだからこそ、神さまの律法に生きることを幸いと語りました。
祈り:天のお父さま、今朝もわたしたちにみことばをありがとうございます。今朝から119編を8節ずつ読むこととなりました。始まりは、神さまが与えてくださった律法の意図に気づかされました。あなたは私たちが他者と共に平和に生きるために、律法を与えてくださいました。今、平和を覚える8月、私たちは他者と共に生きること、特に敵と共に生きることの難しさを考えています。でも、あなたの律法は私たちを他者と共に生きるようにと促してくださいます。神さま、どうか今、私たちがあなたのその意図を受け止め、他の人々と共に生きていく道を見出すことができますように。平和の君なるイエスさまのお名前で祈ります。アーメン。
20日(木) 詩編119編9-16節
一言メッセージ:119編9-16節はヘブライ語アルファベットの2番目、ベトから始まる8節です。内容は、引き続き律法を守ることの幸いを歌うのですが、注目したいのは9節で「どのようにして若者は歩む道を清めるべきでしょうか」と、若者に特化して書いていることです。
自分が若かった頃のことを思うと、恥ずかしいことを数々思い起こします。いつも真っすぐで真剣ではありましたが、今思うと、やることなすこと極端であったり、楽観的すぎたり、考えが足りなかったり、モノが見えていなかったり、独りよがりだったり…でした。例えば、大学生1年生の頃、高校までの生活からの解放感でしょうか、あれもこれもやってみたいと、サークルにバイトに趣味に教会活動(自分の教会でも、連合や連盟でも)、あれこれと役割を引き受けたことがありました。結果、自分の力不足のため、お引き受けした役割の1つ2つ、中途半端に投げ出したことがありました。今でも思い起こすと、恥ずかしいし申し訳ない思い出です。きっと、多くの人が若い時には、自分を過信し、結果、自分を見失うのだと思います。そんな中、詩人は「若者たちが歩むべきをどう守り抜くか」を教えています。それは、人の限界や弱さを知りながらも、それでも愛し、導いてくださる神さまとしっかり繋がっていることなのです。
私は今も、教会を離れた若者たちのことを思いながら祈っています。「神さま、〇〇がひょっこりと教会に帰ってきますように。ちゃんと教会に根差し、あなたと向き合い、かつて教会に来ることが喜びであった時と同じように教会に集うようになりますように」と。皆さんも是非、ご自分の周りの若者たちのために祈ってくださいね。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝は若者たちのことを思い起こしました。若い頃は誰しも失敗を繰り返しがちです。でも神さま、若者たちがあれこれと失敗を重ねるのは、自分の人生の盤石な土台、自分の人生を導く指針を求めているからです。神さま、あなたこそが人生の道しるべ、あなたこそが希望の源です。どうか、そのことを若者たちにも示してください。私たちもかつて放蕩しながら、でもあなたに繋ぎ留められたように、今、若者たちにも信仰の素晴らしさを示してください。救い主イエスさまのお名前で祈ります。アーメン。
21日(金) 詩編119編17-24節
一言メッセージ:17-24節で詩人は、自分のことを「この地では宿り人(寄留者)に過ぎない」と言っています。寄留者とは、自分の土台や基盤、故郷を持たない者のことです。彼は人生の不安を覚えているのです。実際、20節の「あなたの裁きを望み続け、わたしの魂はやつれ果てました(別訳では「擦り切れるほどに憧れました」)とあります。
大学生の3年生から4年生の頃です。同級生たちの中で先々を考える仲間たちは、早々に就職活動をはじめ、あれこれとチャレンジを始めていました。一方、私は自分自身が何をしたいのか分からず、就職活動は後手になり、非常に悶々としていました。あの頃の私は寄留者のような心境でした。自分が周囲から遅れることに焦り、でも何を生涯の仕事にしていいか分からず、何が自分に最適か分からず、毎日がただ漠然と過ぎて、自分が取り残されているような気持ちでした。あの頃の自分にアドバイスするならば、「がむしゃらでもいいから動いてから考えろ」なのですが、私はがむしゃらに動いてみて、神さまが示してくださる方向を見出しました。不思議な経緯で献身し、今、牧師14年目です。牧師の職務はハードですが、ものすごく充実していますし、神さまの導きがあるから非常に平安です。一時的な困難も必ず乗り越えられる。そのためにも大事なことは、神さまに忠実であること。今朝の詩、とても実感をもって味わっています。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝の箇所で詩人は自分のことを寄留者、根無し草だと訴えています。人生を盤石な土台を見出せていないからです。神さま、私は今、自分の体験を通して、「人生の盤石な土台は神さまだ」と告白します。あなたを信じ、あなたに従うことは、先の見えぬ人生でも確固たる希望を与えます。神さま、どうか今この確信を、それぞれの心に浮かぶ人々にも与えてください。皆があなたという人生の土台を得ることができますように。救い主イエスさまのお名前で祈ります。アーメン。
22日(土) 詩編119編25-32節
一言メッセージ:25-32節はあなたを信じた者の歌です。彼は地べたに這いつくばるような状況の中で、神さまを求め(25節)、「偽りの道をわたしから遠ざけてください(29節)」と願います。「偽りの道」は、「こんなはずじゃなかった」と愕然とした経験です。「良かれと思ったのに、なんでこんなことに」とか「思っていたようにならない」とか「誰それに騙された」とか。そんな経験の中で、詩人は、神さまを信じることにたどり着きました。
私の祖父は30歳で牧師になりました。幼い子ども3人を抱えていたのに、「おそらく今後、(金銭的には)親孝行できない」と考え、それまでの仕事の退職金を一切両親に渡しての献身だったそうです。何がそうまで祖父を突き動かしたのか。数年前、大叔父(祖父の弟)から聞いた話では、「兄貴は戦争中、非常に優秀やったけど、家族がキリスト教徒だったから海軍に入れんで、陸軍に入れられた。それも、大陸の田舎の方にやられたらしい。それでも軍国青年として真っ正直に生きてきたのに、敗戦で全てが崩れ去った。それまで天皇の臣民(臣下)であることが美徳の風潮だったのに、その価値観すら間違っていたことに失望したのだろう。郷里に帰って来て、牧師に何度も何度も議論をふっかけていたが、それは本当に信じられるものを求めていたことの表れだった」と話していました。そんな中で祖父は改めてイエスさまを信じ、「このイエスさまに生涯をささげたい」と突き動かされていったのでした。
祖父が亡くなる際に言っていました。「神さまがもう一度、人生を与えてくださるなら、自分はもう一度牧師になりたい。」今私自身が牧師になり、祖父の語った思いの一端を実感として感じています。イエスさまを信じることは、私たちに失望しない人生を与えてくれるのです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝、詩人は「偽りの道を遠ざけてください。あなたを信じます」と祈りました。私たちは今、彼の祈りの言葉を見ながら、私たちも自分たちを振り返ります。私たちの中には「こんなはずじゃなかった」という代償の経験がある方もおられます。でも、そういった方々があなたを信じたのは、その落胆を乗り越えるほどの希望があなたにはあることを感じたためでした。今わたしたちは、かつての私たちのように、本当の希望を求めてさまよう人々のことを思います。神さま、どうかその人々と出会うチャンスを与えてください。人生の尽きぬ希望があなたになることを示してください。私たちがその出会いの一助を担えるならば、どうぞ私たちを用いてください。ただただ、あなたを信じる方々が起こされることを祈り、救い主イエスさまのお名前で祈ります。アーメン。
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