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2020-06

6月28日~7月4日のみことば - 2020.06.30 Tue

先日は久留米に1時間の降雨量が観測史上最高となり、ケイタイには非難情報を知らせるアラームが鳴って、ヒヤヒヤしましたが、幸い短時間だったため、大きな被害には至りませんでした。
とはいえ、梅雨はまだ続きますし、夏場のゲリラ豪雨等今年も大雨が降ると不安です。
今年は新型コロナウイルスの心配もありますから、いつもに増して、災害が起きないようにと祈っています。

何かと心がざわつくことのある毎日。
聖書の言葉、みことばを通して心に慰めをいただきたいですね。
今週も日々のみことばをお届けします。

※先日の日曜日のYouTubeによるライブ配信はトラブルのため、うまく配信できませんでした。
見てくれた方、すみません(>_<)


***

※聖書の箇所は日本聖書協会の聖書本文検索から読むことができます。⇒こちら
・訳名選択     : 新共同訳
・旧新約・続編選択 : 詩編→旧約聖書
・書名選択     : 詩編
・章選択      : 該当章数を入力(章まで入力するとその章すべてが表示されます。)


28日(日) 詩編71編1-24節
一言メッセージ: 詩編71編は老人の詩です(9節、18節などで「老い」が繰り返されています)。若い時から神さまを信じ、従ってきた詩人が老年期に思いがけない苦難を経験し、嘆きます。9-11節では敵対者から「神さまから見放された」と言われ、詩人本人もそう感じたようです。でも、彼は神さまへの信頼を取り戻していきます。それどころか、18節では神さまに新たな願いを語ります。それは「御腕の業を、力強い御業を、来るべき世代に語り伝え」ることです。詩人は苦難の中でも、年を重ねてあれこれできなくなっても、神さまへの証の業に希望を見出しているのです。
  私が育った教会にIさんというおばあちゃんがおられました。私の父が教会に着任した時、私は3歳でしたが、それ以来、孫のようにかわいがってくださった方です。いつもニコニコ穏やかで、他人の悪口を言わず、冗談を好む配慮の人でした。毎年、おばあちゃんは梅雨時期にその年最初の初スイカをプレゼントしてくれたので、私は今も毎年、最初にスイカを食べる時、おばあちゃんのことを思い出します。食べ物の記憶はすごいです(笑)
後に知ったのですが、彼女は、太平洋戦争で夫が戦死、一人で三人の娘を育てた方でした(本当は四人でしたが、お一人は若くして亡くなりました)。彼女は生前、「戦争でね、おばあちゃんみたいな、旦那さんを亡くした若い女性たちがいっぱいになって、心細くって男性に走った人たちもいたけど、おばあちゃんはイエスさまに走ったの」とコミカルに話してくれましたが、戦後の混乱期を思うと、女手一つで娘たちを育てたことには本当に多くの苦労があったことでしょう。でも、彼女はそんな苦しい時にもイエスさまを信じ続け、そして年を重ねてもニコニコと笑顔で、教会に来ることを何よりも楽しみにしておられました。彼女は毎週、礼拝の30分前に教会に来られるのです。そしてやってくる人々に「おはよう、おはよう」とにこやかに声をかけておられました。その笑顔と挨拶に、教会の人たちは皆、励まされました。彼女の声かけは「イエスさまを信じ従うことは、どれほどの困難があろうと必ず平安に導かれる」との明確な証でした。私は詩編71編を読みながら、おばあちゃんの笑顔を思い出すのです。
今日は礼拝の日です。私たちもおばあちゃんのような笑顔で礼拝に集い、神さまからの平安と希望をいただきましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝私たちは詩編71編から、年を重ねた方の証を分かち合いました。思わぬ苦難に直面し、心くじける時、それでもあなたは私たちを慰め、希望を与えてくださいます。神さま、どうぞ私たちにもあなたの御許に召されるその時まで、あなたを証させてください。私たちが敬愛する信仰の先達のように、私たちもその生きる姿を通して、次の世代にあなたを証することができますように。苦難を超え、世代を超えて、御業を為されるイエスさまの御名で祈ります。アーメン。

29日(月) 詩編72編1-20節
一言メッセージ:72編は理想的な王をうたった詩です。理想的な王には3つの側面が見られます。1つ目は「公正と正義をもって民を裁く(治める)」こと(2、4、12-15節)。2つ目は「王の正しい政治によって大地が豊かな実りを実らせ(戦争を起こさないことでもあるか)、人々が平和と繁栄を享受する」こと(3、6-7、16節)。3つ目は「王の統治が一民族を超えて諸民族に及ぶ」こと(8-11、17節)、です。そして、そんな王の立ち方は、1節にあるように、王が神さまの御心を示されながら国を治めるところにあるのです。
  理想的な王を詠った72編ですが、イスラエルの歴史を見ると、このような王はほとんど存在しませんでした。そもそも、サムエル記上8章にあるように、民は「王とは民の生存と生活を補償し(だから安心して働ける)、争いを調停し、外敵から民を守る存在」と期待しましたが、神が示唆した王とは「民を奴隷とし、自らの都合で民を使役する」者でした。残念ながら、この王・指導者の姿は現代まで続いてしまっています。
  では、理想的な王を生み出すことはできないのか。いいえ、可能です。そして私たちは今、聖書の指針と共に具体的な手段・力を得ています。現行日本国憲法です。その前文を見ますと、憲法は太平洋戦争を思い返しながら「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのない」ように平和主義を明記しました。戦争は政府が自分たちの都合で起こしたと考えているのです。だから、そんな政府の暴走を止める力として「主権が国民に存する」と明記しました。加えて、国民が自分たちをちっぽけな存在だと誤解して思い込み、政治や権力の前に委縮してしまわないように、「基本的人権の尊重」を明記しました。これが憲法の三大原則です。
私は今日、詩編72編と憲法前文から、理想的な指導者を生み出すためにどうすれば良いのか、を考えます。私たちは神さまの御心に立つ政治が行われるように祈るとともに、私たち自身もしっかりと指導者が暴走しないように抑止し、正していくのです。そうやって子どもたち、孫たちの未来のために、今の大人にできることを行っていくのです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。詩編72編は理想的な王の姿を示します。神さま、私たちはこんな指導者を心から願います。何故なら、今、民が虐げられているからです。神さま、どうかあなたの御心によって立つ正しい社会を築かせてください。そのために、私たちにも何ができるのか、祈り、考え、行動させてください。平和の君イエスさまのお名前で祈ります。アーメン。

30日(火) 詩編73編1-28節
一言メッセージ:73編の詩人は当初、神さまに逆らう者たちがあまりにも裕福で、安泰な様子なのを見て羨みます。彼らが「神が何を知っていようか(11節)」と傲慢に振舞う姿を見て、自分の誠実な生き方がバカみたいに思えています。けれど、彼は17節で、そんな自分の見方が間違っていたことを悟ります。それまで羨んでいた富む人々が19節「一瞬のうちに」滅びていく様を見るからです。
  この詩はどこか、今の私たちへの忠告に思えてきます。私たちは目先の出来事で、一喜一憂しがちです。でも、今の状態が永遠に続くなど誰が約束できましょう。富む人が本当に幸せなどと、誰が言えましょう。イエスさまもルカ12.13-21で「愚かな金持ち」の譬えで語っていますが、財産を蓄えてもそれをもって天国に行くことなどできやしないのです。
そのことに気づいた詩人は2節で「えすかぁ!やらかすとこやった」と告白し、21-22節で「欲だけでモノを考えとったんが、がば恥ずかしか」と反省します。未来を導くのは神さまなのだから、神さまの傍にいることで良いのです。だから詩人は生きるのに必要以上のものは執着せず、ただ神さまの近くで生きていきたいと願っています。
人間はおかしなものですね。ため込むと、使いきれない量あっても、「もっともっと」と欲しくなる。本当の幸せとは、必要な糧をいただいて感謝して生きることなのかもしれないですね。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。詩人はあれこれと裕福な人々を羨み、嫉妬して苦しんでいました。でも、どれだけ力や財産を得ようともあなたの御心の前にそれらは無力と知った時、詩人は反省し、平穏を取り戻しました。神さま、私たちもこの詩人のように平穏をいただきたいです。理不尽な社会が正され、私たちも周囲と自分を比較して一喜一憂せず、あなたの正義と公正を感謝して生きる者としてください。あなたの慈しみ深い御心に期待し、イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

7月1日(水) 詩編74編1-23節
一言メッセージ:74編はバビロン捕囚期の詩です。エルサレム神殿が陥落し、敵対者は神殿の最も奥にあった至聖所(4節。神がおられる場所とされ、祭司の長だけが年に一度だけ入って儀式を行えた特別な部屋)の中に入り、大声で神さまを嘲っています。詩人はその光景を見ながら、神さまに嘆いています。詩人はやたらと「永遠」とか「とこしえ」とか「永久」ということばを繰り返します。過剰な言い方に見えますが、それくらいに詩人は絶望的な気持ちで事態を見ているのです。
でもここで注目したい表現が出てきます。日本語では分からないのですが、13-17節で繰り返される「あなた」は、ものすごく神さまのことが強調されています(ヘブライ語は動詞の変化だけで主語を特定できますが、この箇所は動詞だけでなく、主語まで付けて、「あなた」を二重に表現しています)。つまり、「神さま、あなたが、あなたこそが・・・されました」という強調して、神さまの御業の偉大さを表現しているのです。それまで詩人は侵略者の暴挙に怯え、「あぁ、彼らによる惨事は永遠だ。もうこの状況はひっくり返らない」と嘆いていましたが、神さまの偉大さに目が留まっていく中で、「本当の永遠は神さまにある」と気づいていったのです。だから74編の後半、詩人はまっすぐに神さまに救いを願うように変わります。その願いは「どうなるか分からない不安」でなく、「神さまがどうにかされる」という確信となったのです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝わたしたちは詩編74編で「永遠とはあなたにこそある」と示されました。私たちは何か大きな課題に直面すると、すぐに「もうダメだ、もうずっと苦しいままだ」と思い込んでしまいます。あなたがちゃんと事態を把握しておられ、整え、導いてくださるのに、私たちは一時的な困難ですぐに結論付けてしまいます。神さま、私たちの愚かさをどうぞお許しください。どうかいつも、あなたを覚え、あなたの永遠の御業に期待して生きる者であれますように。永遠の主であるあなたに心から祈ります。アーメン。

2日(木) 詩編75編1-11節
一言メッセージ:75編は珍しい詩編です。3-6節や11節の「  」は神さまご自身の発言が詩に組み込まれているのです。そんな神さまの発言を含んだ75編は、南ユダ王国が滅亡し、詩人たちは敵国の首都バビロンに連行され、捕囚生活を強いられている状況での詩です。捕囚の苦しさの中で詩人はかつて神殿で行えた礼拝を思い起こしています(2節の「感謝をささげます」はヘブライ語を厳密に読めば「かつて感謝をささげていました」という過去を示す言葉)。バビロンの民が自分たちの力を誇り、驕り高ぶる様を見ながら、詩人は3-6節の神さまの言葉、「なに調子に乗ってるんだろう。バビロンは誰に向かって驕っているのか」という反論を聞き、7節以降、「そうだ。バビロンの民がどれほど偉ぶろうとも、裁きは神さまにある」と確信しているのです。
  75編は私たちに、物事をはかる時の大事にヒントを与えてくれます。力を誇る相手がいたとしても、その人の言動が神さまの御心に適っているかどうかを見ればいいのです。神さまの御心に沿わないならば、力を誇るのは一時的。状況は必ずひっくり返っていく。私たちは勝手に「もうダメだ」と結論付けるのでなく、神さまに期待してその時を待つのです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝、私たちは物事の見方を学びました。たとえどれほど人が己の力や名声を誇ろうとも、神さま、あなたの御心に沿っているかどうかを見ればいいのですね。あなたの御心に沿わぬならば、あなたは必ず状況を変えていかれます。神さま、私たちはその時を待ちますから、私たちを、いつもあなたに目を向け続ける者としてください。救い主イエスさまのお名前で祈ります。アーメン。

3日(金) 詩編76編1-13節
一言メッセージ:詩編76編はとてもスケールのでっかい平和の詩です。それまでの平和を願う詩は「神さま、敵対者を叩きのめして(滅ぼして)平和をください」的な、自分たちの平和を願う詩が多々ありました。でも76編はそうではない。全民族の救いが歌われているのです。
4節で神さまは武器を叩き壊されます。5節で神さまが立ち上がると、6-7節では敵対者が心折れて戦う気を無くしています。9節では神さまの裁きによって全民族が鎮まります。そして10節で貧しい人々の救済が歌われるのですが、さぁ本題は11節です。「怒り猛る者」とはまだ戦おうとする人々ですが、その人々も「あなた(神さま)を認め」ざるを得なくなる。そして神さまが「激しい怒りの名残を帯とされる」とあります。意味が分かりにくいですが、これは「神さまが敵対者をご自分のものとし、身に着ける(身近におく)」という意味であり、平たく言えば「味方にする」です。すごくないですか?神さまは、神さまに敵対していた者たちをも味方にしてしまうのです。この詩ではイスラエル民族の自民族の都合が払しょくされ、全人類の平和が歌われるのです。
私はこのみことばに希望を見出します。神さまがご自分を示される時、敵対者すら味方になる。神さまの前で皆が友となれるのです。1963年のアメリカ、キング牧師がワシントン大行進の際にI have a Dreamと訴え、「かつての奴隷の子とかつての雇い主の子が、ジョージアの赤土の丘にて兄弟愛というテーブルに着く時がくる」と夢を示したように、神さまの前で皆が兄弟姉妹となれる。今日わたしたちはそんな夢をいただいたのです。感謝!
祈り:天のお父さま、今朝は壮大な詩編をありがとうございます。あなたの御前では、相争う人々が味方にされていきます。共に生きることを皆が願うようになるのです。神さま、そんな平和を私たちは願います。どうか、全ての民が共に兄弟愛のテーブルにつき、あなたの祝福を喜び合える時が実現しますように。平和が来ますように。救い主イエスさまのお名前で祈ります。アーメン。

4日(土) 詩編77編1-21節
一言メッセージ:詩編77編を読む時に注目したいのは「思い起こす、思い続ける」などの言葉です。それぞれに何を思い起こしているかに注目いただきたいのです。
77編は前半2-11節と後半12-21節の2つに分かれる詩です。前半2-11節で詩人は神さまに嘆いています。2-4節では「かつて神さまに助けを求めた時、神さまは助けてくださった」と思い起こしながら、5節以下で「じゃあ、なんで今は助けてくれないのだろう」と眠れなくなっています(5節)。挙句、9-11節では「神さまが私に対して沈黙し、見捨てられてしまったのか」と落ち込み始めるのです。この詩人の内向き志向が変わるのが後半12節からです。ここから詩人が「思い起こす」のは私の事ではなく、「主の御業」であり、神さまのなさった「奇跡」です。特に17-21節は出エジプトの解放の奇跡です。その救出物語を思い起こしながら、詩人は14節「あなたのようにすぐれた神はあるでしょうか」と、改めて神さまへの信頼を強くしているのです。
  江戸時代末期から明治、大正、昭和という激動の時代を生きたクリスチャン内村鑑三のエピソードです。若い時期、彼は「罪」について悩み、「わたしの罪はどうすれば赦されるのか」と苦しんでいたそうです。そんな時期に彼は恩師でアマースト大学総長のシーリーからこう言われたそうです。「君は君の内側だけ見るからいけない。君は君の外から見なけばならない。なぜ自分を省みることを止めて、十字架の上で君の罪を贖ってくださったイエスをこそ仰ぎ見ないのか」。内村はガツンと殴られたような気分だったそうです。彼は「私は、私は」と自分を振り返る時、何の救いも見出せませんでした。でも、そんな罪人たる私を何も求めず、丸ごと引き受けて救ってくださったイエスさまから自分を再発見した時、私たちは罪人でありながら神の祝福に生きる者だと確信できたのだそうです。内村はこの体験を「第二の回心」と言っています。
  さぁ、今週も土曜日まで歩んで来ました。今週の私たちはどうだったでしょう。「私は、私は」と自分のことで一喜一憂してばかりになっていなかったでしょうか。イエスさまは私たちの良い所も悪い所も全部ひっくるめて愛し、赦し、救い、伴い、導いてくださいます。私たちはそんなイエスさまによって生かされているからこそ、いつも希望を見出すのです。「今週も感謝!」と喜び祈って、一週間を締めくくりましょう。
祈り:天のお父さま、今朝も、そしてこの一週間もみことばをありがとうございました。私たちは時に、自分のことに必死になり過ぎて、あなたでなく「私は、私は」と騒がしく日々を送ってしまいます。自分たちの算段で物事を考え、あなたの御心より自分たちの安心に走ってしまいました。でも、週の終わりに大事なことを思い起こしました。神さま、あなたはこんな弱く、罪深く、あれやこれや失敗をやらかす私たちを、それでも愛し、赦し、救ってくださいました。今も私たちと共に生きて下さり、私たちを御心へと導いてくださいます。あのイエスさまの救いこそが私のスタートでした。神さま、あなたが私たちの神さまであってくださること、イエスさまが私たちの救い主であってくださることを心から感謝します。どうかこの一週間を感謝し、明日の礼拝に期待を持って集うことができますように。救い主イエスさまのお名前で祈ります。アーメン。


***

また、日曜日の朝教会の礼拝堂で、画面の向こう側で、お会いしましょう!!


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福岡県久留米市にある久留米キリスト教会のブログです。
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