6月21日~27日のみことば - 2020.06.24 Wed
6月も後半に入りました。
梅雨入りしましたが、ここ数日は晴れ間が広がっています。
梅雨入りしましたが、ここ数日は晴れ間が広がっています。
遅くなってしまいましたが、今週もみことばメール1週間分を掲載します。
今週も皆さんの上に神さまの祝福が豊かにあります様に。
み言葉を通して、自分を見つめ、癒され、はげまされますように。
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21日(日) 詩編64編1-11節
一言メッセージ:「口は禍の元」という諺があるように、古くから人々は言葉に注意を払ってきました。それは古代イスラエルも同じで、箴言などでは軽口への警告が多々記されています(「口数が多ければ罪は避け得ない。唇を制すれば成功する」(10章19節)、「柔らかな応答は憤りを鎮め、傷つける言葉は怒りをあおる」(15章1節)、「聡明な心は知識を求め、愚か者の口は無知を友とする」(15章14節)など)。
今朝の詩編64編で詩人は敵対する者たちから悪意いっぱいの言葉を浴びせられ、苦しめられています。詩人はその理由が全く分かりません(2節の「悩み」という言葉シーアハは「理由なき苦難」を指す言葉)。彼は敵対者たちの言葉が剣や矢のように自分に刺さっています。詩人は自分の正当性を訴えるのですが、彼らは「悪事に長け」ており、巧妙に自分たちの策謀を隠すのです。しかし突然、状況が一変します。あれほど一枚岩を誇った敵対者たちが突如、自分の語った言葉がブーメランのように返ってきて、彼ら自身が倒れていく。詩人はそこに神さまの働きを見るのです。
同じことを私たちは身近に多々見ます。個人的な正義感を振りかざして声高に叫んでいた人がちょっとした状況の変化に口を閉ざし、居丈高になってしゃべっていたお偉いさんがかつて自分の語った一言を引き合いに出されて黙り込む、なんてことは往々にして起こります。そして恐ろしいことに、それは私たちの身にも起こり得ることなのです。
だから、詩人は詩の終わりに語ります。11節「主に従う人は主を避けどころとし、喜び祝い、心のまっすぐな人は皆、主によって誇ります。」詩人は自分でなく神さまを誇りとする。いつも「この場面で神さまはどう考えられるか、何を望まれるか」と神さまを思い起こしながら生きるのです。その時私たちは、喜びは率直に感謝でき、嫌な思いには「神さま、どうぞ整えてください」と祈れ、言葉を選ばねばならない時には「神さまが見ているから」と瞬時に熟慮できるのです。
祈り:天のお父さま、今朝、わたしたちは詩編64編から「言葉」について考えさせられました。言葉は人を傷つけもすれば、癒しもします。神さま、先週の私たちの言葉はいったい、どちらの言葉が多かったでしょう。自分では軽口と思っても、相手には剣のように刺さる言葉もあったかもしれません。神さま、どうか私の言葉が罪を犯したならば、どうぞ赦してください。そして相手の方を癒してください。私たちが次にお会いする時に率直に謝る言葉を伝えさせてください。そのためにも神さま、どうか日々、豊かにあなたのみことばを与えてください。今日は礼拝の時です。どうか私たちの口を整え、耳を開いてください。イエスさまのお名前で祈ります。アーメン。
22日(月) 詩編65編1-14節
一言メッセージ:詩編65編は3つのブロックに分かれる詩です。1つ目のブロックは2-5節の「祈りに応えてくださる神さま」です。注目したいのは神さまとの向き合い方です。詩人は一貫して神さまを「あなた」と呼びかけ、自分たちのことを「わたしたち」と言います。ただ一箇所、4節で自分の犯した罪の際だけ「わたし」となっています。この変化が大事なのです。詩人は皆と共に神さまと向き合っています。でも自分自身の罪を思い起こす時は集団でなく、神さまと一対一で向き合っている。詩人は、皆と共に礼拝で神さまと向き合う時間と、一人で神さまと向き合う時間と、それぞれに大事にしていることが分かります。
2つ目のブロックは6-9節の「混沌を鎮め、私たちに応えてくださる神さま」です。詩人は8節の「大海のどよめき、波のどよめき、諸国の民の騒ぎ」など、自分の力じゃどうにも鎮めきれない大混乱の状況、人間の限界に直面しています。でも、詩人はその混沌すら鎮める神さまが応えてくださることをちゃんと知っており、信頼しているのです。
3つ目のブロック10-14節の「神さまの御業が日々実現する」は描写の仕方に注目しましょう。ここでは現時点で目の前にわんさか作物が積まれているというよりも、豊かな大地とか水をたたえる水路など「祝福の兆し」のような書き方が主です。ちょっと変な表現ですが、神さまの祝福は直接的な現物支給というより、私たちを継続して活かす未来への約束なのです。詩人はそんな神さまの未来への約束から受け取っているのです。
今週、私たちはこの3つをイメージしましょう。礼拝という集団においても個々人という一対一においてもそれぞれに神さまと向き合う時間を大事にすること、混乱の時に全知全能の神さまを信頼すること、神さまの導かれる未来に期待すること、です。さぁ、一週間をワクワクしながら歩み始めましょう。
祈り:天のお父さま、週の仕事の始まりに期待感いっぱいのみことばをありがとうございます。あなたは私たちに、一週間の道しるべをくださいました。神さま、どうぞ、そのみことばの通りに私たちも一週間を過ごさせてください。救い主イエスさまのお名前でお祈りします。アーメン。
23日(火) 詩編66編1-20節
一言メッセージ:1-12節で詩人は自分のことを「われら」と複数形で表現していますが、13節以降は「わたし」と単数形になっています。この使い分けに注目しましょう。1-12節は、出エジプトの解放という過去と、バビロン捕囚からの解放という詩人たち世代が経験した出来事を振り返りながら、「神さまは、時代は違えどもいつも私たちを救ってくださった」という意味で「我ら」と語っています。一方、13節以下の「わたし」は詩人が自分自身の経験を振り返りながら、「苦難の時に御業を実現してくださった神さまに、わたしは向き合う」と単数形で歌っています。つまり詩人は、民族の過去の歴史が今の私に繋がっていること、神さまの祝福はかつての祖先のように私にも与えられていることを意識しているのです。
今日23日は沖縄では「命(ぬち)どぅ宝」の日です。75年前の沖縄戦で本土の捨石にされた沖縄では20万人の死者が出ましたが、そのうち12万人は沖縄県民の犠牲でした。これは当時の県民の1/4にあたります。これほどの犠牲が出た理由は日本軍が敗戦確実となる中で、できる限り良い条件での停戦協定を取り付けるための時間稼ぎと言われています(同じ意味合いの犠牲者が広島、長崎の原爆であり、このことは生前、中島文昭協力牧師も悔しさを口にしていましたね)。そして今朝6月23日は沖縄戦が終わった日(諸説あり)とされ、以後、沖縄では「慰霊の日」であり、「いのちこそ宝」と思い起こす日となりました。
1985年5月8日、当時の西ドイツ大統領リヒャルト・フォン、ヴァイツゼッカーは第二次大戦の敗戦40年を振り返って歴史的な演説を行いました(『荒野の40年』)。彼はドイツの戦後40年を出エジプトの40年と重ねて、イスラエルの民が40年の荒野の旅を通して、神さまに従って生きることを学んだように、ドイツも戦後40年で様々なことを教えられてきたと訴えました。その演説はナチスの行った残虐な過去をちゃんと受け止めながら、正しく未来を切り拓いていく宣言でした。ヴァイツゼッカーは「過去に目を閉ざす者は未来に対して盲目になる」と語ったのです。過去の歴史に学び、その上に生きる。今の日本にも必要な示唆です。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝の詩編66編、詩人は民族の歴史が今の自分に繋がっていること、だからこそ自分も神さまと向き合い、誠実に生きることを歌いました。神さま、私たちも同じようにありたいと願います。私たちも歴史をちゃんと振り返ります。過去の過ちは繰り返さず、あなたの御心に沿って生きる者でありたい、生きる国でありたいと願います。神さま、どうぞ私たちが一歩ずつでもあなたの平和に近づく者であれますように。沖縄の人々に慰めを、そして今も犠牲を強いている本土への悔い改めを与えてください。救い主イエスさまのお名前で祈ります。アーメン。
24日(水) 詩編67編1-8節
一言メッセージ:67編はとても牧歌的な詩で、私たちはホッとします。今朝の詩の中で私は2つのことを分かち合いたいと思います。
1つは、この詩には敵への報復を祈るような思想が皆無ということです。今まで皆さんと共に詩編を読み続けてきましたが、他の詩には敵への報復を祈るような思想がたびたび見られました。でもこの詩は、3節で「すべての民」の救いが祈られ、5節でさらに具体的に「諸国の民(ユダヤ人以外の民)」も救われることが祈られているのです。全世界の民が皆、しっかりと食べることができ(7節)、神さまの祝福をいただいて平和であれることを祈っているのです。
もう1つ気づくことは、67編は神さまの祝福を祈ると同時に、「すべての民があなた(神さま)に感謝をささげる」ことが願われています。これは大事な示唆です。私たちの幸いな生き方とは、一方的に神さまから豊かな恵みをいただくだけでは得られないのです。私たちもまた、神さまと向き合うことが幸いなのです。例えば、誰かからプレゼントをいただくことは嬉しいですが、誰かにプレゼントをして喜んでもらえた時も本当に嬉しいじゃないですか。同じように、私たちの幸いは、神さまから一方的に祝福されるだけでなく、私たちも神さまを喜び祝うことは必要なのです。
祈り:神さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝わたしたちは、本当の幸いは一方的に祝福をいただくだけでなく、私たちもまたあなたを喜び祝い礼拝することにあると知りました。神さま、今、私たちはあなたを喜び祝います。あなたが私たちの神さまであってくださること、イエスさまが救い主であられること、聖霊が日々私たちに神さまやイエスさまを身近に覚えさせてくれることを心から感謝します。同時に神さま、私たちはこの喜びにさらに多くの方が加わって欲しいと願います。どうか争う国々が、民族が、宗教が、人々が、皆あなたの御許に集い、共にあなたを喜び祝える、そんな平和が実現しますように。救いが成りますように。救い主イエスさまのお名前で祈ります。アーメン。
25日(木) 詩編68編1-36節
一言メッセージ:68編は神さまが圧倒的な力をもって世界を統一し、平和を実現してくださるように、との詩です。詩の細部では神さまの力がどれほど圧倒的であるかが書かれています。例えば、21節では神さまを「死から解き放つ神」と言いますし、23節で「海の深い底から(海の深い底は神さまの力が及ばない場と考えられていた)」すら救いを実現される神さまが描かれます。また、イスラエルにとって長年の具体的な強敵だったエジプト(32節、ちなみに31節の「葦の茂みに住む獣」も同じ)すら散らす神さまが歌われます。これほど圧倒的な力を持つ神さまでありながら、同時に詩人はその神さまが弱い人々にちゃんと目を留めていてくださることを歌います。6-7節で「みなしごの父となり、やもめの訴えを取り上げ、孤独な人が身を寄せる家を与え、捕われ人を救って神殿に住まわせ」、12節では当時の社会では弱者とされた「大勢の女たちが良い知らせを告げる」のです。「良い知らせ」とは13節では戦勝の知らせです。決定的な救いを、当時は取るに足らぬとされた人々が喜びの歌と共に告げ広めていく。神さまの救いが世界のあらゆる制約や限界を超え、皆が同じ人間として喜びを分かち合われていく、そんな描写で歌われていくのです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝私たちはあなたの示される平和の姿の一端を分かち合いました。神さま、あなたが世界を正しく導かれる時、横暴な権力者が廃され、誰もが同じ人としてその命を喜び、あなたの祝福に感謝します。神さま、今私たちはそんな世界を願います。理想に程遠い現実ですが、一歩ずつでもあなたの御業を実現してください。私たちも平和実現の一助を担うことができますように。平和の君イエスさまの名で祈ります。アーメン。
26日(金) 詩編69編1-37節
一言メッセージ:69編は1節の表題で「ダビデの詩」とありますが、この詩はダビデよりもエレミヤと理解して読む方が分かりやすいです(ちなみに詩編の多くは「ダビデの詩」とありますが、聖書研究によれば、有名なダビデの名前を借りて作った詩がむっちゃくちゃ多いです)。
エレミヤは南ユダ王国滅亡期の預言者で、「悲しみの預言者、悲劇の預言者」と呼ばれます。というのも、彼の預言は「祖国はバビロニアによって滅亡し、主だった民は敵国の首都バビロンに連行されて捕囚の生活を強いられる。神さまはその果てに民を捕囚の生活から解放してくださる」というものでした。当時、預言者を自称する人々は「大丈夫、私たちの国は神の国だから、敵国が攻めていても必ず助けられる」と語っていたのです。合わせて、人々は耳障りの良い言葉を語る偽預言者たちを信じ、祖国滅亡を語るエレミヤを敵視するのです。今朝の箇所はそんなエレミヤの経験に照らすならば、彼が井戸に放り込まれている状況です。そんな苦境の中で、エレミヤはなお、「神の御名を賛美してわたしは歌い、御名を告白し、神をあがめます(31節)」と歌います。苦しいのです。でも、人が神さまに対抗できないように、神さまのみことばはどれほどの苦境を経験していようが、必ず実現する。エレミヤはそんな神さまへの信仰に突き動かされるのです。
祈り:天のお父さま、今朝わたしたちは詩編69編のエレミヤの預言者活動に思いを馳せました。人間は耳障りの良い言葉を求め、その結果、あなたのみことばを蔑ろにすることが何と多いことでしょう。けれど、あなたのみことばは私たちの思惑や願望でなく、御心に基づいて語られ、いかなる障害があろうと必ず実現します。神さま、どうぞ、私たちがあなたのみことばをこそ喜び、信じ、従うことができますように。イエスさまのお名前を通して、正直に祈ります。アーメン。
27日(土) 詩編70編1-6節
一言メッセージ:詩編70編で詩人は神さまに自分の苦しみを訴えていますが、じゃあ具体的にどういう状況で苦しんでいるのかは分かりません。ヒントは6節の「貧しい」「身をかがめている」です。「貧しい」エブヨーンは社会的・経済的に弱い立場にされた者、「身をかがめる者、苦しむ者」アニーは生きる力を失いつつある者です。そんな苦しみの中で詩人はひたすらに神さまの救いを求めて祈ります。その願いは率直です。2節の「速やかに」はものすごい強調で、「とにかく即効で助けて」です。この詩で大事なことは、詩人が自分の力、周囲の協力で物事を解決しようとせず、ただ神さまに助けを求めたことです。それは小手先の一時的な助けでなく、根本の救いを求めるからです。私たちには考え及ばない、でも、全てが最善に整えられる神さまの御業を求めているのです。この気づきこそ、この一週間のみことばメールのまとめですね。
祈り:天のお父さま、この一週間も日々、みことばをありがとうございました。今週は苦難の中であなたに助けを求める詩が続きました。今、一週間を振り返りながら、私たちは1つのことを確信します。神さま、あなたは全知全能のお方です。私たちがあなたに祈るのは、今私たちが直面する課題を一時的にどうにかするためでなく、あなたによって根本から解決いただきたいからです。あなたは私たちの思惑を超えて、全てを最善に導かれます。だから神さま、繰り返しお願いします。あなたの御業を、あなたの整えを、あなたの救いを与えてください。御心が成りますように、救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。
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毎週日曜日10:30からの礼拝にもぜひお越しください。
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また、YouTubeでの礼拝ライブ配信ものぞいてみてくださいね(^^)
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