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2020-06

6月7日~6月13日のみことば - 2020.06.07 Sun

久留米では30度を超える暑い日が続いています。
間もなく梅雨入りでしょうか。
6月から学校も再開され、少しずつ日常を取り戻しつつあるように感じますが、北九州をはじめなお感染が広がっている地域もあり、まだまだ緊張感のある毎日でもあります。
感染された方やそのご家族、そして感染の不安の中治療や日常生活維持のために働いてくださっている方々を覚えて、改めて祈っていきたいと思います。

また、アメリカで起こった人種差別事件のニュースにも心ざわつく近頃です。。
一人ひとりのいのちはすべて神さまから祝福された尊い命。
それにくだらない謝った優劣をつけている私たち人間を、神さまはどんなに悲しいまなざしで見つめていらっしゃるだろうか…。
未だ根深くある差別に対する憤りを感じ、神さまのみ心に反する人種差別にはっきりと「NO」と声をあげます。それと共に、自分の中にある様々な差別意識・間違った優越感や正義感について振り返り、神さまに悔い改めることの重要さも感じています。

「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ」。
イエスさまが教えてくださった祈り(主の祈り)の一節です。
神さまのみ心(神さまの良しとされること)が天で成るように、この地上にも成りますように。
この祈りを、まさに今この時に祈りたいと思います。


***

※聖書の箇所は日本聖書協会の聖書本文検索から読むことができます。⇒こちら
・訳名選択     : 新共同訳
・旧新約・続編選択 : 詩編→旧約聖書
・書名選択     : 詩編
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7日(日) 詩編50編1-23編
一言メッセージ:詩編50編は神さまの裁きについて歌っています。先日も書きましたが、神さまの裁きは罰するためでなく、私たちを生かすための公正な判断です。実際、詩人もそのことをちゃんと理解しています。1節では、神さまが世界の端から端まで全て見通しておられること、3節では、神さまは黙ったままでいる方ではないと語ります。7節で「わたしはお前を告発する」と書かれますから、神さまは全てを正しく明らかにすると理解しているのです。
神さまは7節からの「わたしの民」と、16節からの「神に背く者」に向けて、それぞれに語り掛けます。
  「わたしの民」への語り掛け(7-15節)で神さまは、御自分の民に何を求めているかを語ります。それは、「まぁこれくらいしとけば良いだろう」という打算的な「献げ物(8節)」ではなく「告白(14節)」、つまり真心、本心です。神さまは民が真心から神さまと向き合っていると思われる時、15節、「わたしを呼ぶがよい。苦難の日、わたしはお前を救おう」と言われます。
  一方、「背く者」への語り掛け(15-22節)で神さまは、「お前は口先では私の思いが何であるか、分かったようにかたっているが、どういうつもりか?お前は私の思いを理解せず、軽んじているではないか(16-17節)」と迫ります。それこそ、世界の端から端まで見通しておられる神さまが、「背く者」の言動も心も見抜きながら語り掛けるのです。ただ、ここで注目したいのは22節で神さまは「神を忘れる者よ、わきまえよ」と語り掛けていますが、この言葉を原文のニュアンスを忠実に訳出しようとした岩波訳で読みますと、「どうかこのことを悟ってくれ、神を忘れた者たちよ」と訳されています。神さまの願いは「背く民」がそのまま滅びてしまうことでなく、彼らが神さまに立ち帰り、救われることにあるのです。エゼキエル33章11節と同じですね。
  今朝は日曜日、礼拝の時です。私たちは真心をもって、神さまと向き合いましょう。礼拝に集える人々は兄弟姉妹と共に神さまの前にへりくだり、諸事情で集えない方はそれぞれの場で安心して神さまに呼びかけてください。今日私たちは、神さまと向き合い、「わたしの民よ」との呼びかけを聴きましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。詩編50編は私たちに生き方を諭します。神さまが願われるのは、私たちが神さまに背き、自分勝手な生き方の果てに人生の一時的な喜びだけで虚しさを覚えて終える生き方でなく、神さまに立ち帰り、私が私として生まれ育ち生きていることの喜びを、神さまを通して得る生き方にあります。神さま、今朝は日曜日です。どうか、私たちがあなたに誠実に向き合うことができますように。礼拝に集える者はあなたの前に喜びをもって進み出て、事情のために集えない方はその場にあってあなたの御心に思いを馳せることができますように。どうか私たちを「わたしの民よ」と呼びかけ、週の初めにふさわしい安息日を過ごさせてください。救い主イエスさまのお名前で祈ります。アーメン。

8日(月) 詩編51編1-21節
一言メッセージ:詩編51編は詩人が罪の悔い改めを願う詩ですが、読んでいて分かるように、悲壮感よりも神さまへの信頼と期待感が前面に押し出されてくる詩です。読んでいて、何だか元気が出てきます。
  3節で詩人は神さまに「憐れみ」を求めます。彼自身は3節にあるように、自分が神さまの御心に背いて生きてきた罪人だったことを自覚しています。5-7節では「生まれた時から、私は神さまの御心から反れてきた」と告白します。けれどそこで彼は悲壮感いっぱいに「もうだめだ」と嘆くのでなく、「こんなに罪人な私だけれど、その私を救うことができるのは神さま、あなたしかいません」という期待感を歌うのです。4節の「わたしの咎をことごとく洗い」とありますが、この「洗う」は叩いて汚れを浮かせるような洗い方がイメージされています。以前、Tさんから「戦中、近くに朝鮮の方々の集落があったが、そこの人たちの洗濯物はいつも真っ白だった。あの人たちは洗濯物を川にもっていき、汚れた部分を石で叩いて落としていた」と話してくれました。そんなイメージが4節の「洗う」です。神さまは私たちの罪を無かったことにするのでなく、必要なだけ叩き、正しながら、赦し、救ってくださると詩人は歌うのです。日本語では記されていませんが、原典であるヘブライ語では9-10節の「~してください」という言葉は全て「(他ならぬ)あなたが」と、この救いは正に神さまによる救いなのだ、と理解しているのです。
  今朝の箇所の中心テーマは19節です。神さまが求められるのは高飛車で自分の都合ばかりの者でなく、神さまの前にへりくだり、神さまによって整えられていく者です。嬉しいじゃないですか。神さまは罪だらけの私たちを100も承知の上で、でもたった1つ、神さまにまっすぐに向き合おうとする者を祝福し、整え、もう一度、私たちを立ち上がらせてくださるのです。
  今日から新しい一週の仕事が始まります。神さまに整えられ、新鮮な気持ちでスタートしましょうね。今週の皆さんの歩みのために祈らせていただきます。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝私たちは詩編51編から、あなたによって整えられることを分かち合いました。私たちはあなたの目にあって罪人です。きっと自分で気づいていないことでも、あなたに背くことをいっぱいしてきたことでしょう。でもあなたは、そんな私たちをも愛し、私たちがあなたに誠実に向き合い、悔い改める時、憐れみ深い御手をもって私たちを整えてくださいます。神さま、どうか私たちをあなたの御心の中で清め、整えてください。今直面する課題も過去の後悔も先の見えぬ不安も、人間関係の痛みも、自分の汚さや弱さも、疲れた体も弱った心も、すべてをあなたに差し出し、委ねます。新しい週の働きもあなたに1つ1つ導かれていきますように。週の初め、あなたの祝福と憐れみに期待して祈ります。アーメン。

9日(火) 詩編52編1-11節
一言メッセージ:詩編52編は非常に分かりやすい詩です。義人が、神に逆らい、己が威光を誇る者を笑う詩です。世間一般から言えば、弱者が強者を笑っているような詩でしょう。でも詩人は自分の力を誇る者の今の姿でなく彼の先行きを見越して、「あ~ぁ、彼は神さまに歯向かい、己が都合で嘘をつき、我が世の春かのように振舞っているけど、神さまに逆らう者を神さまはちゃんと見ているのに」と歌うのです。
  今の大河ドラマは明智光秀を主人公にした「麒麟がくる」です。先月までは、美濃の国(今の岐阜)の話でした。光秀の主君である斎藤道三が嫡男・高政に憎まれ、親子で戦になります。光秀は戦っても勝ち目のない道三に矛を収めるように提言するのですが、その時の才藤道三のセリフが今朝のみことばと重なります。道三役の本木雅弘さんが泰然とこう語ります。「わしはケチだが、決して偽りは申さん。しかし高政は偽りを申しておる。人のうえに立つ者は正直でなくてはならぬ。偽りを申すものは必ず人を欺く。そして国を欺く。決して国は穏やかにならぬ。」
  ドラマ放送後、ネットでは「どこぞの総理に聞かせたい」といった意見が飛び交いましたが、正に詩編52編でもそうなのです。神さまに誠実である者を神さまはちゃんと目を留めておられる。現状に対して必ず揺り返しが起こります。その時を待ちつつ、私たちは神さまに誠実に、泰然と今日も過ごしていきましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝のみことばを読みながら、私たちは今の自分たちの社会と重なって読めてしまいます。今の社会も嘘偽りを重ねる為政者により、社会は荒れ、人々は労苦を背負わされています。神さま、あなたはこの社会を見て、「良し」と言われますでしょうか。あなたが祝福してくださった命が、人の価値観の下で踏みにじられることをあなたは認められますでしょうか。神さま、私たちは身近なところから社会の危うさに声をあげ、あなたの御心に基づく平和を願います。どうぞ、全ての命が尊ばれ合い、互いの違いを認めて共に生きる社会へと、一歩ずつでも歩ませてください。御旨が行われますように。いつも小さな民に寄り添ってくださる救い主イエスさまの御名によって祈ります。

10日(水) 詩編53編1-7節
一言メッセージ:詩編53編も昨日同様、神さまに逆らう者への苦言がうたわれます。1節で「神を知らぬ者」とありますが、原文のニュアンスを忠実に訳出しようとした岩波書店出版の聖書や、月本昭夫訳では端的に「愚か者」と訳されています。神さまがいないと考えることを聖書は「愚か」と語っているのです。大胆な訳ですが、でも、これはとても大事な視点なのです。
  以前、突然いただいた電話で「牧師さん、神がいるかどうかどう証明できるか」と問われました。彼の主旨は「神は目に見えないし、手で触れられない。どう証明するのか」でした。私は「愛を考えてみてください。愛は、例えば、誰かへの思いやりや子どもたちを思ってあれこれするとか、そういった行動に現れますし、時にプレゼントといった形で表されることもあります。でも、愛そのものはこれという形で表すことはできません。でも、私たちは愛を確かに知っている。神さまも同じで、形で表すことができなくても確かにあるものです。私たちクリスチャンは例えば、一日が守られたとか、苦しい時にもくじけない希望を得るとか、時には自然の美しさを見ながら、神さまがいると感じています」とお応えしました。相手の方は一休さん的なとんちのように受け取ったかもしれませんが、後にわたしは、もう一つ踏み込めば良かったと思いました。「そもそもですね、神さまを私たちの理解の範疇で捉えることそのものが無茶なんですよ」と。私たちは神さまを把握して信じているのでなく、私たちの理解を超えた神さまを信じ、従っているのです。人生の導き主は神さまであって、私たちじゃないのです。箴言1章7節で賢者も語っています、「主を畏れることは知恵のはじめ」って。神さまを信じて生きること、それが最高の知恵なのです。
  さぁ、今朝も私たちは「賢く」歩み始めましょう。神さまが私たちと共にいてくださるなら、さて今日はどんな一日になるでしょう。
祈り:天のお父さま、今朝も示唆に富む御言葉をありがとうございます。岩波訳が「神を知らぬ者」を端的に「愚か者」と訳したことには笑いました。あなたは全知全能のお方でありながら、同時に、私たちのような小さな存在にも目を留め、私たちと共に生きてくださるお方です。私たちはそんな神さまを把握や証明などできるわけありません。だから私たちはただ、あなたを信じます。どうぞ今日も私たちをお導きください。救い主イエスさまのお名前でお祈りします。アーメン。

11日(木) 詩編54編1-9節
一言メッセージ:詩編54編はどういう状況の詩でしょう。1-2節を見ますと、ダビデがサウル王に命を狙われている時の状況のようです。詩人はそのダビデの状況を思い浮かべながら、5節で「暴虐な者がわたしの命をねらっています」と語ります。かなりピンチな状況なのでしょう。
  注目したいのは5節の終わりの一文です。詩人は神さまに向かって「彼ら(自分の命を狙う人々)は自分の前に神を置こうとしない」と訴えました。「神さまを目の前におく」というのは、「神さまの存在を意識しながら自分の現実を見る」ということです。詩人は「神さまに逆らう者は、神さまの存在をまるで意識せず、好き勝手にやっている」と訴えました。逆を言うならば、彼自身は「神さまの存在を意識しながら生きていた」のです。
  その時、詩人はピンチの中で未来の希望を見出します。6節「神はわたしを助けてくださる」のです。詩人は9節、わたしは敵が神さまによって退けられる様を見ると歌ったのです。神さまを信じる時、私たちは未来を信じられるのですね。さぁ、今日の導きを信じ、元気に歩み出しましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝、詩編54編を通して私たちは、「自分の前に神を置く」生き方、神さまを意識しながら生きることを知らされました。私たちは忘れっぽく、また限界だらけですから、トラブルや課題に直面すると、すぐに目の前でいっぱいいっぱいになり、あなたを見失います。その結果、何度、失敗を繰り返してきたことでしょう。でも今朝、詩人は私たちに、「神さまが私たちと共にいてくださると信じることから、もう一度自分の現実をみてごらん」と促してくれます。その時、私たちは目の前の出来事だけでなく、あなたの導きにも目が向けられていきます。あなたの守り、整え、導きに期待します。神さま、どうか今日も私たちを導いてください。一日の終わりに「あなたが共にいてくださり、平安な一日だった」と祈らせてください。今日の一日に期待し、イエスさまのお名前でお祈りします。アーメン。

12日(金) 詩編55編1-24節
一言メッセージ:詩編55編の詩人はピンチに直面しています。彼には敵がいて、その敵が彼の命を奪おうとすらしています。さらに悲しいことに、その敵は彼の友であり、かつては「楽しく、親しく交わり、神殿で共に礼拝した仲間」なのです。私たちの人生には時々、深く信頼していた仲間から裏切られるような出来事が起こります。裏切られたと分かった時、私たちは心に深い傷を負います。激しい怒りが湧いたり、淋しすぎて「もう逃げたい」と想ったり、うろたえるものです。詩人もそうでした。彼は率直に「不安だ、うろたえています(3節)」と語ります。そんな中、詩人は一貫して「わたしに耳を傾けてください(聞き入ってください)、(3節)」と訴え、呼びかけ(17節)、そして1つの確信を得ました。それは18節にあるように「神はわたしの声を聞いてくださる」という確信です。私の叫びは無意味なのでなく、ちゃんと神さまに受け止められているのです。
  今朝の箇所の中心は23節です。「あなたの重荷を主に委ねよ。主はあなたを支えてくださる。主は従う者を支え、とこしえに動揺しないように計らってくださる。」神さまに重荷を委ねる時、神さまが私たちを支え、必ず導いてくださる。
マタイ11章28-29節を思い起こしましょう。「疲れた者、重荷を負う者は誰でもわたしのもとにきなさい。休ませてあげよう」と言われたイエスさまは「わたしのくびきを負い、わたしに学びなさい」と言われます。「くびき」とは家畜の肩にかけて農地を耕すための道具でした。イエスさま当時は左右に二頭がかける「くびき」が多かったようです。イエスさまは「わたしのくびきを負いなさい」と言われます。そのくびきを負うのは「私」と「イエスさま」なのです。イエスさまは「私があなたと共に生きるから。あなたは一人で全てを背負って生きるのでなく、私があなたと共に生きるから、安心しなさい」と言ってくださったのです。
今朝の詩編55編も同じです。わたしたちの抱える重たい課題、無理をして自分で担おうとせず、神さまに率直に祈り、「イエスさま、どうか私と共にこの課題に向き合ってください」と祈りましょう。大丈夫、あなたは決して一人ではないのです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝、詩編55編を読みながら、マタイ11章のイエスさまの言葉も連想しました。あなたは旧約でも福音書でも、いつも変わることなく、「わたしがあなたと共に生きる。だから安心しなさい」と言い続けてくださっています。神さま、どうか、あなたに伴われて生きているとの平安を満たしてください。あれやこれやありますが、ただただ、あなたの伴いと平安を祈ります。救い主イエスさまの御名で、アーメン。

13日(土) 詩編56編1-14節
一言メッセージ:今日は土曜日です。今週のみことばメールで取り上げた詩編はずっと、苦しい状況の詩人の訴えの言葉でした。でもどの詩でも詩人が言い続けたのは、「神さまがおられる」という信頼でした。今朝の56編もそうです。詩人は神さまに苦しい状況を訴えます。その中でも目を惹くのは5節と11-12節です。どちらも「神のみことばを賛美する」「神により頼めば恐れはない」、「肉に過ぎないものが神さまに守られるわたしに何ができようか」と繰り返します。今朝の詩の中で「良いなぁ」と思うのは、詩人が「敵を滅ぼしてしまってください」とまで訴えていないことです。そりゃ、時に私たちも強い怒りに捉われます。でもこの詩人同様に、「民の屈服(8節)」や「敵が退くこと(10節)」は求めるに留め、滅びることまでは求めないようにしましょう。何故なら、神さまはその相手をも救いたいと願っておられるからです。
  昨年まで、幼児園にKくんというユニークな子がいました。お調子者で、時々、力と思いが先走るとお友だちに意地悪もしてしまう。ある時、意地悪された子の声が園庭に響きました。「先生に言うけんね!」するとKくんは大慌てで「ごめん、ごめんって」と追いかけるのです。そして彼はまた仲良く遊ぼうと努力し始めます。その姿がとても微笑ましく、また示唆的でした。
  詩人の訴えはこの「先生に言うけんね」と同じです。「あのね、神さま、そのね、〇〇くんがね、わたしにね、いじわるしてね…」と訴えたらいい。きっと神さまは私たちの訴えを「ウンウン」と頷きながら、にこやかに耳を傾けてくださるに違いありません。そこから先は神さまの働きです。お委ねしましょう。
祈り:天のお父さま、今朝は56編の詩編をありがとうございます。今朝、私たちは苦境を訴える詩人の言葉を見てきました。詩人は敵に追い詰められながら、でも敵への復讐までは願わず、ただ「神さま、あのね」と訴えました。神さま、私たちも時に「あんちくしょう!」という強い怒りを持ちます。でも、報復はあなたに委ねます。ただ今朝私たちが願うのは、私たちの訴えに耳を傾けてくださいという願いです。どうか、嘆き求める私たちの声に耳を傾け、ひとつひとつ、受け止めてください。そしてどうか、私たちの心を癒してください。この一週の疲れも労苦も、あなたが受け止め癒してくださいますように。救い主イエスさまのお名前で祈ります。アーメン。


***

今週も皆さんの上に神さまの祝福がありますように。



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Author:久留米キリスト教会
福岡県久留米市にある久留米キリスト教会のブログです。
わたしたちの教会は、日本バプテスト連盟に加盟する、プロテスタント派のキリスト教会です。
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