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2020-06

5月31日~6月6日のみことば - 2020.06.01 Mon

昨日の礼拝から、久留米教会でも礼拝に皆で集うことを再開しました。
対策をしつつ、プログラムはまだ簡略化したものですが、久しぶりに多くの方と集って礼拝できる喜びを体験したました。
現代では様々な技術が発達し、ZoomやLINE、Skypeなどでテレビ電話をしたり、私たちの教会でもYoutubeを使って礼拝のライブ配信をしたりと試行錯誤しました(今後も当面は続けていく予定です)。これらは本当に便利ですし、感染拡大を防止するためにとても有用です。でも、やっぱり直接同じところに集ったり、直接顔と顔とを合わせて会うことは何物にも代えがたいものだと実感します。
何の心配もなく、以前と同じように礼拝をするには今しばらく時間がかかると思いますが、改めて新型コロナウイルス感染の終息を強く祈りたいと思います。


***

※聖書の箇所は日本聖書協会の聖書本文検索から読むことができます。⇒こちら
・訳名選択     : 新共同訳
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・書名選択     : 詩編
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5月31日(日) 詩編43編1-12節
一言メッセージ:今朝の詩編43編は昨日の42編とセットの詩です。実際、5節は42編6節や42編12節と同じ呼びかけの言葉が繰り返されています。詩人は42編から続けて、神さまの救いを待ち望んでいます。
  さて、今朝注目したいのは1節の「あなたの裁きを待ち望みます」です。私たちは「裁き」と聞きますと、何か自分の罪や過ちが罰せられる、恐ろしい判決というイメージが最初に出てきます。でも、神さまの裁きは私たちを罰するための裁きではありません。宗教改革者のマルティン・ルターは「御言葉は私たちを救うために裁き、生かすために殺す」と語りました(この「殺す、生かす」は、洗礼を受ける際に古い自分が死に、イエスさまによって新しい自分とされると理解ください)。正に私たちを救うためにこそ神さまの裁きはあるのです。詩人はそのことを知っていました。だから1節で「あなたの裁きを望みます」と願い、2節で自分に罪があるかもしれないことを理解しながら、4節でなお「神の祭壇にわたしは近づく」と歌う。詩人が見据えているのは神さまの救いなのです。
  今朝はペンテコステです。イエスさまの直弟子たちは、ゲッセマネでイエスさまが逮捕された時、蜘蛛の子散らしたように逃げました。イエスさまが十字架で亡くなっていく時、彼らは姿すら見せませんでした。怯えて隠れていたからです。彼らは自分たちの弱さ、イエスさまを見捨てた罪悪感、でも心底震え上がるような恐怖に苦しんだことでしょう。イエスさまはそんな弟子たちに再度出会い、使命を託し、聖霊を与え、御自分の働きのために用いてくださったのです。だから安心しましょう。神さまは私たちを見捨てるために裁くのでなく、救うために裁いてくださるお方です。義しい目で私たちを理解くださいます。私たちも神さまの祭壇に大胆に近づきましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝、私たちは詩編43編を通して、あなたが私たちを救うために裁かれる方であると分かち合いました。神さま、私たちはきっとあなたの目に罪だらけですし、自覚する以上にあなたの目には「あちゃぁ…」と言われる存在と思います。けれど、そんな私たちをあなたは赦し、救ってくださいました。あなたの独り子イエスさますら惜しまれませんでした。私たちはその理由を「愛」という言葉以外に表現できません。あなたの深い愛に心から感謝します。神さま、私たちもあなたの裁きを望みます。そして大胆にあなたに近づきます。どうぞ、私たちにあなたの愛と導きを増し加えて実現してください。ペンテコステがあなたによって私が新たにされる時となりますように。救い主イエスさまのお名前でお祈りします。アーメン。

6月1日(月) 詩編44編1-27節
一言メッセージ:詩編44編は一読しますと気が重くなります。というのも、「あれ?神さまは詩人を救ってくださっていないじゃない」と感じるからです(週の初め、月の始めなのに、この詩を選んですいませんm(_ _)m)。詩人は未だ救われておらず、神さまに「なんで?どうして?」と叫んでいるのです。
  私たちも自分たちを振り返りますと、「何で?どうして?」と訴えたい出来事があるし、自分の過ちを自覚した上で「もう許してくれたっていいじゃない」と訴えたくなるような出来事があるものです。でも今朝の詩は私たちに「それでも神さまを信じ、願い続けなさい」と教えています。神さまの救いは私たちの願望どおりのタイミングでなく、神さまのご判断に基づいて実現するのです。
  以前、友人の牧師から彼の牧会する教会の教会組織(伝道所から教会へと成長すること)の話を聞きました。その教会は長い年月、人数も増えず、「もう教会組織はダメなんじゃないか」と大半の人が諦めていたそうです。加えて、教会の古いメンバーには1つの後悔があったそうです。それは、数代前の牧師の時のことです。牧師が熱心に教会組織を目指し、皆に「一緒に学びましょう」と励ましていたそうですが、教会のメンバーは「できたらいいかもね」と半分冷めていたそうです。そんなある日曜日、その地域はとても冷え込みました。教会の方々は「行くのが大変だし、今日は礼拝を休もう」と考えました。後で分かったことに、その日の礼拝には牧師家族以外、誰も来なかったそうです。牧師は落胆し、その年に辞任して教会を去ったそうです。教会の方々はとても後悔し、神さまに祈り続けます。けれど、それから数十年、教会組織の機運とチャンスは与えられませんでした。皆が老齢となり「もう無理だ」と諦めていた時期、友人が牧師として着任しました。そして地道な学びが始まります。決して焦らず、皆で神さまについて、教会について、自分たちの街について語り合い、その中で自分たちの後悔を口にすることや、その後悔を含めて神さまが導いてくださることを再確認していったそうです。その教会は数年の学びの後に教会組織が実現したそうです。教会の方々は言ったそうです。「この教会組織は自分たちの努力でなく、ただ神さまの御業をいただいたのだ」と。
  神さまの御業は神さまのタイミングで実現します。私たちは「どうして?なぜ?」と思うこともあります。でも祈り続けながら、その時を待つのです。詩編44編の詩人と同じように何度も何度でも祈り続けましょう。
祈り:天のお父さま、週の始まりに、私たちは詩編44編を読みました。もう少し希望に満ちた御言葉がいただければと願いましたが、今朝も大事な示唆をいただきました。神さま、私たちはあなたの導きをいただきたいです。だって、私たちは心ブレやすい存在だから。神さま、どうか今週も私たちを掴んで離さないようにお導きください。それぞれの課題もどうぞ覚えてくださり、必要な時に必要な救いをお与えください。あなたに期待します。本当に本当に期待しますからね(笑)。救い主イエスさまのお名前でお祈りします。アーメン。

2日(火) 詩編45編1-18節
一言メッセージ:詩編45編は、理想的な王の姿を歌った詩編です。イスラエルの理解では、王は神さまに指名され、神さまの御業を行うべき存在です。だから、神が祝福した民を慈しみ、公正に国を治め、守る存在でした。あくまで、理想では、です。実際にイスラエルの歴史を見ますと、残念ながらそんな王はほとんど存在しませんでした。そもそも神さまは人の弱さをよくご存じですから、王制が始まる際に、王が民を支配するようになると指摘しています(サムエル記上8章を参照)。
  さて、私たちは今、この詩を読みながら何を思うのでしょう。私は日本の今の状況に本当に悲しい思いがします。5節の「輝きを帯びて進め、真実と謙虚と正義を駆って」の言葉を旧約聖書学者の月本昭雄氏は「真実の言葉を御せよ、虐げられた者を義(ただしい)となせ」と訳しています。理想的な王は真実を語る存在であり、社会の中で虐げられ弱る人々に正義を実現するように、と呼びかけられているのです。でも今の私たちの政治は真逆です。「自由と民主主義」を看板にしているのに、「利権と保身」に突っ走っているようにしか見えないのです。
じゃあ、私たちはここで諦めるのか。いいえ、今朝私たちは、私たちが目指す社会の姿を示されます。現代の社会が、詩編45編に近づくことを願い、祈るのです。「神さま、どうか為政者があなたの御心に基づいて社会を守る者へと作り変えてください。どうか、今、社会の中で追い詰められている方々に真の政治を実現してください」と。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝、私たちは詩編45編から、理想の社会の姿を示されます。神さま、どうか今、この社会にあなたの御業を実現してください。今の政治はあまりにも弱い人々を切り捨てています。皆、あなたの祝福の中で生まれてきたはずなのに、社会が人の命の価値を勝手に規定しています。あなたはそんな社会を決して義とされないでしょう。特に新型コロナのために生活が困窮し、心身共に余裕を失う方々が増えています。どうぞ今、社会も為政者もあなたの御心を実現し、整えてください。そのために私たちにも御業の一端でも担えるならば、どうぞ用いてください。どうか私たちがこの新型コロナの経験を通して、社会を見直す時となりますように。イエスさまのお名前で祈ります。アーメン。

3日(水) 詩編46編1-12節
一言メッセージ:詩編46編はエルサレムが敵国に包囲された時の様子を歌った詩と考えられています。最近、その日の詩編を他の訳を比べて読むと面白いことに気づかされます。
今朝もそうで、1節で新共同訳では「アラモト調」と書かれている言葉が岩波訳では「少女調」と書かれています。古代社会では女の子は12-14歳で結婚していたので「少女」をもう少し小さい10歳くらいの女の子のイメージで読んでみましょう。
  詩人は2節で「神は私たちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる」と語ります。これも岩波訳では「神はわれらのための逃れ場かつ守り、苦難のときのいと身近なたすけ」です。(ひげ面が文章を作っていることを忘れて(笑))少女調で読んでみましょう。「神さまはね、うちらを守ってくれるし、苦しい時にもとっても近くにいて助けてくれると。」そこまでの信頼を神さまにするからこそ、8節と12節で詩人は「万軍の主はわたしたちと共にいます」と繰り返します。自分たちが敵に包囲されて絶体絶命のはずなのに、「大丈夫。神さまは身近にいる、共にいてくださる」と歌っているのです。
  最後に11節の「力を捨てよ、知れ、わたしは神」も文語訳聖書で読んでみましょう。「汝ら鎮まりて、われの神たるを知れ」。どしんと胸の響きますね。そう、私たちの神さまはこの神さま以外に無い。社会や周囲がどれほど力を振るっているように見えても、私たちは神さまの前に平安をいただいて歩むのです。さぁ、週の半ば、私たちは今日も神さまが身近にいてくださることを覚えながら歩み始めましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。46編は繰り返し読むと、いろいろなイメージが湧いてきます。あなたこそが私たちの神さまです。全知全能のお方でありながら、同時に、いつもとても身近にいてくださる方であることを感謝します。神さま、どうぞ今日も私たちをあなたの眼差しの中で守り導いてください。新型コロナも感染者が増えています。これ以上、感染が拡大しませんように。病の方、生活が追い詰められている方々にも、あなたの癒しと助けが与えられますように。救い主イエスさまのお名前で祈ります。アーメン。

4日(木) 詩編47編1-10節
一言メッセージ:詩編47編は詩人が「すべての民」に向かって、神さまへの賛美をよびかける詩です。神さまの救いが神さまを知らぬ民にも実現すること(10節「諸国の民から自由な人々が集められ、アブラハムの神の民になる」)が語られているのです。人類の歴史を見ますと、不景気や病、自然災害で苦しい時期になると、「愛国心」を強調しながら所属の違う人々を攻撃する偏屈なナショナリズムが強くなります。ここ数年の不景気の中でヘイトの風潮が強まっていたり、新型コロナへの自粛要請などで一方的な正義を振りかざす「自粛警察」の存在もそうです。一方、47編はそういった他者を排除して自分たちの救いを喜ぶのでなく、「すべての民」が共に救われていくことを願い、賛美しているのです。
多くの方が坂本九さんの「幸せなら手をたたこう」を御存じだろうと思います。今朝の詩編はこの曲の歌詞の原型になった詩です。1954年に早稲田大学院生・木村利人さん(当時25歳。東京の霊南坂教会員)は、ボランティアとしてフィリピンの農村に行っていました。一生懸命に作業するのですが、現地の住民からは歓迎されません。戦争の時に日本軍がその地域で残虐な行為を行ったからであり、犠牲者の親族が大勢いたからです。木村さんは日本の戦争責任を痛感し、苦しみますが、同時に現地の村民の中でも葛藤を抱えながらも自分を受け入れようとしてくれる人々がいることに気づきます。木村さんはこの詩編47編を思い起こし、人間の罪と共に、でも全ての民が神さまの前で和解することもできると確信します。この経験が「幸せなら手をたたこう」の詞となったのだそうです。木村さんは「この歌には、現在の平和の喜び、楽しみを、お互いが態度で示していこう、二度と悲惨な戦争を起こさないという誓いが込められている」と語っています。
  私も今朝、この47編を読みながら、神さまの平和の実現を祈らされます。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。詩編47編を通して、あなたの御前にて加害者も被害者も共に賛美できる、和解できるという幻をいただきました。私たち人間は一時の感情や風潮に流され、戦争のような、とんでもない罪を犯してしまいます。気づかない間に人の心身に深い傷を負わせることもあります。神さま、もしあなたがおられなければ、私たちは知らん顔してやり過ごすとか、完全に仲たがいして関わりを絶つようなだけで、その過ちからやり直すことは考えられなかったでしょう。でも47編は、あなたの御前に両者が共に集えること、その幻を示してくれます。神さま、どうぞあなたの平和を来たらせてください。過去の過ち、国の罪、今も残る傷から一歩でも二歩でも歩み出させてください。あなたの救いの幸いを態度で示させてください。平和の君なるイエスさまの御名でお祈りします。アーメン。

5日(金) 詩編48編1-15節
一言メッセージ:詩編48編の詩人は神さまを「限りなく賛美される主」と語ります。神さまには「どれだけ賛美しても賛美し足りない」と歌うのです。5-8節では「地上の王たちがどれだけ威を誇ろうと、その王たちが裸足で逃げ出すほどに神さまは偉大」と、それほど偉大な神さまであるのに10節では「私たちは礼拝で神さまの慈しみを実感させていただく」と語るのです。
神さまを礼拝することは、私たちの喜びです。何故なら、神さまを知らずに生きるならば、私たちはきっと自分たちの力の限界の度に落胆し、あらゆる事柄に「もうダメだ」と諦め癖をつけて生きるようになるからです。長いものに巻かれ、強い存在に歯向かわないように生きた方が得だ、と考えるようになるからです。でも詩人は私たちに、「そんなの寂しい生き方でなく、神さまに目を向けなさい。無限の可能性と、無限の愛の方によって生かされるあなたでありなさい」と呼びかけてくれます。そう、神さまは無限の方なのです。15節にあるように「神は代々限りなく、死を超えてすらわたしたちを導いてくださる」お方です。
さぁ、今朝も祈って一日を始めましょう。神さまの導きの中で生きるものとされましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。あなたは私たちの限界を超え、無限の可能性と無限の愛に満ちたお方です。私たちはあなたの慈しみの中で生かされている存在です。神さまを知らぬ人々から見れば、それは自分の努力を放棄する弱い人間の生き方に見えるかもしれません。でも神さま、私たちは知っています。あなたを信じて生きることは、自分たちが精一杯努力した上で直面する限界があっても、その先を期待できる生き方です。どんな時、どんな状況においても、あなたの御業を待てる生き方です。神さま、そんな祝福をありがとうございます。同時に私たちは今、私たちの家族や友人たちにもこの祝福を味わってほしいと願っています。信じてもらえたらと祈っています。神さま、それこそあなたの慈しみにすがります。どうぞ、あなたを信じる信仰の友を新たに引き起こしてください。〇〇さん(あなたが祈る方の名前を入れて)をどうぞ救ってください。救い主イエスさまのお名前で祈ります。アーメン。

6日(土) 詩編49編1-21編
一言メッセージ:今週も土曜日まで歩んで来ました。何だかがむしゃらに駆け抜けたようですが、ここでちょっと心落ち着けながら、49編5節の「謎」を考えてみましょう。その「謎」とは、私たち人間は限界だらけの弱い存在なのに(1-12節)、そんな私たちを主なる神さまが救ってくださる(14-20節)のは何故か、です。私には「神さまの愛ゆえ」という言葉以外に表現できません。今朝私たちは詩編49編から、神さまの深い愛を分かち合いたいのです。
  始まりの言葉を見ますと、49編は最初、「諸国の民、この世に住む者皆」という広い呼びかけで始まっています。それは不特定多数に向けられた言葉です。その後、人間に共通する「死」をテーマに人間の限界が語られていき、16節で「しかし神は…」と神さまについて言及されていきます。ここで面白いことは17節です。17節で詩人は突然「あなたは」と語ります。語り始めは「諸国の民」と不特定多数に向けられた呼びかけだったのに、突然「あなた」と、読者である私に向かって、「神さまはあなたに御手を伸ばしてくださる」と歌っているのです。神さまの御業が我が事になっているのです。
しかもこの御手の描写がすさまじく力強い。16節で「神はわたしの魂を贖い、陰府の手から取り上げてくださる」とあります。古代社会において「陰府」は神さまの御業の及ばない所と考えられていましたが、神さまはそんな「陰府」にまで手を突っ込んで、私たちを贖ってくださるのです。これも原意をみますと「掴んで離さない」です。神さまは一旦私たちの手を離して諦めるのでなく、私たちの手を掴んで離さず、ぐいと引っ張り、私たちを救ってくださるのです。
  私たちはこの一週間も守られ、導かれて歩んでこられました。神さまが私たちをしっかりと握っていてくださったのでしょう。だから安心しましょう。大丈夫、私たちはちゃんと導かれる。もし、今、「わたしは神さまから離れている」と思う方があるなら、安心して帰ってきてください。神さまの手にひかれて帰ってくるあなたを教会は待ってますよ。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。詩編49編を読みながら、私たちは様々な示唆を受けます。詩人は「諸国の民よ」と大勢の人に語り始めました。私は「その他大勢の一人」かのように詩を読み始めました。でも突如、詩人は「あなたは」と、偉大な神さまが今わたしと向き合い、わたしに御手を差し伸べてくださっていることを教えてくれました。わたしは神さまの目に「その他大勢の一人」でなく、「大事なわたし」であることを覚え、感動します。神さま、あなたの御手で私を掴み、救ってください。明日の礼拝でまたあなたへの礼拝を喜び合えますように。救い主イエスさまのお名前でお祈りします。アーメン。


***

北九州市などでは、再び感染者が増えています。どうか、感染が食い止められますように。
感染した方が無事に回復しますように…。


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Author:久留米キリスト教会
福岡県久留米市にある久留米キリスト教会のブログです。
わたしたちの教会は、日本バプテスト連盟に加盟する、プロテスタント派のキリスト教会です。
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