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2011-10

主の晩餐にユダはいたのか? - 2011.10.05 Wed

先日の礼拝では「主の晩餐にユダはいたのか?」という問いから、主の晩餐について考えてみました。
ユダはイエスさまを銀貨30枚でユダヤ教当局に売り渡した最悪の裏切り者と認識されてきました。
では、そのユダは最後の晩餐(同時に、後のキリスト教会にとっては最初の主の晩餐となり、2000年近く経った今も各教会がもっとも大事な式として保持している)に同席していたのか?
レオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」ではユダは同席しています。
けれど、福音書では「いた」とも「いなかった」とも言える記述があります。
「いた」と考えるのはルカ福音書です。
ルカ福音書では最後の晩餐での主の晩餐の制定後に「この中に私を裏切る者がいる」という預言がされていきます。
一方で、「いなかった」と主張するのはヨハネ福音書です。
ヨハネ福音書では主の晩餐の前にユダは退席しています。
そしてマルコ福音書と、先週のお話の聖書の箇所だったマタイ福音書ではユダが「いた」とも「いなかった」とも記されていません。
沈黙が守られているだけです。
さて、皆さんはどう考えられますか?

私たちは「ユダもいた」と考えました。
それは歴史的な事実としていたという確証によるものではなく、主の晩餐に意味から考えるからです。
マタイ26.28でイエスさまは主の晩餐に意義を語っています。
「これは、罪が赦されるように…」

日本人は聖書の語る「罪」を、法律などを破るといった、違反概念と捉えます。
けれど聖書の語る「罪」は関係概念の放棄です。
神との関係を破り、神から離れることを聖書は「罪」と語っています。
その「罪」が赦されるための、主の晩餐とイエスは語るのです。
言いかえるならば、「神との正しい関係を放棄した者たちが神に立ち返ることができるように」。
これが主の晩餐の根本的な意味なのです。

この意味から考えた時、私たちは「ユダも主の晩餐に同席した」と考えます。
イエスさまはきっとユダがそこにいることを赦された、いや望まれただろう。
自分を祭司長たちに引き渡し、十字架への決定的な役割をになってしまったユダ、けれど、そのユダもまたイエスさまは神に立ち返ることを望んでくださったのです。

先週の礼拝、私たちは今月の主の晩餐を行いました。
イエスさまの深い願いを新たに思い起こしながら、日々を歩んでいます。
そんな礼拝や主の晩餐、共に参加したいと願われる方はどうぞ礼拝にお越しください。
ご一緒にイエスさまの赦しと慰めをかみしめながら、新しい一歩を踏み出しましょう。
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Author:久留米キリスト教会
福岡県久留米市にある久留米キリスト教会のブログです。
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