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2011-09

分けてあげられないけど大切なもの - 2011.09.06 Tue

9月に入りまして、日曜日の礼拝のお話もマタイ福音書の連続説教に戻りました。
2008年7月からはじめて、もう3年になりますが、ようやくマタイ25章に入ったところです。
このペースでいけば、おそらくあと1年以内にはマタイが終わるんじゃないか、と思っています。
すごい遅いですが、むちゃくちゃ面白がっています。

日曜日は「賢さのススメ」と題してマタイ福音書25章1-13節を読みました。
「十人のおとめのたとえ」と言われる箇所です。
10人の花嫁がいた。彼女たちは婚礼のために花婿を待っていた。
しかし、花婿の到着が遅い。夜中、ようやく花婿が到着した。
彼女たちは出迎える。
その時になって5人が気づいた。
ともし火に注ぎ足す油が足りない。
油の足りない娘たちは予備の油を用意していた他の5人に「分けて」と頼む。
しかし、「自分たちの油もぎりぎりなので分けることができない」と断られ、予備の油を持たぬ娘たちは急きょ買いに走る。
その間に花婿は到着し、家の戸は閉められ、婚宴は始まる。
ようやく戻った娘たちは家に入れてもらおうとするが、家の主人は答える。「はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない」。
そして彼女たちは締め出されたという話です。

実はこのたとえ話について、渡辺和子さんとおっしゃるカトリックのシスターはエッセイの中でこう言われています。
「この譬えを読んで、ふと首をかしげたくなるのはなぜだろう。それは、ふだん愛について説き、困っている人を助けるようにとすすめ、友のために生命さえも惜しまないことを称揚したキリストが、『天の国』に入る、入らないという一大事に際して、助け合いの精神どころか、吝(けち)とも考えられる冷たい応答をした女性たちを、“賢い”と評価したところにある。」
面白い視点だと思います。
確かにそうなのです。
分けてあげることを勧めることの方が、イエスさまらしく感じる。
けれど、たとえ話でのイエスさまの反応は逆なのです。
シスターは続けて記します。

「もしかすると、私たちが持っているものの中には、他人に求められれば分けてよいものもあるけれども、分けられないものもあるのではないか。しかも、実はそれが『天の国』に入るための必要は一条件なのかもしれないのだ」。
これが日曜日の宣教のポイントです。
私たちが他人から求められても分けてあげられない、しかし、私たちの生き方に無くてはならぬもの、イエスさまから「賢い」を言われるための条件とは何なのでしょう。
シスターは「人格としての考察、選択、決断、そして責任を回避しない生き方」と語っています。
物事に無関心に生きる生き方ではなく、他人の指示がないと動けない生き方ではなく、人任せの生き方でなく、問題が起こった時に「自分は悪くない、あいつが悪い」と責任を取らない生き方でもない。
自分が今、何を行い、何を語るのか深く吟味し、決断したなら何が起ころうと責任もって向き合う生き方です。

これが、私たちがイエスさまからいただいた「賢さ」でした。
そんな素敵な生き方、あなたもはじめてみませんか。
いきなり完璧に生きることは難しいでしょう。
けれど、あなたが自分の生き方を「考察し、選択し、決断し、責任を引き受ける」ならば、一歩からでも歩み出せると思うのです。
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Author:久留米キリスト教会
福岡県久留米市にある久留米キリスト教会のブログです。
わたしたちの教会は、日本バプテスト連盟に加盟する、プロテスタント派のキリスト教会です。
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