ペンテコステ - 2011.06.15 Wed
日曜日はペンテコステ(聖霊降臨日)の礼拝でした。
イエスさま復活と昇天の数日後、弟子たちの上に聖霊がくだった出来事を記念する時です。
私はこれまでのペンテコステのメッセージでは、ペトロという一人の弟子の変化に注目してメッセージを語ってきました。
けれど、今回の準備の中で、今までの見方は視野が狭かったのだと感じました。
少しメッセージを要約させていただきます。
先ず、この出来事はペトロ個人の出来事ではありません。
使徒言行録2章1節以下を読むと、聖霊が降ったのは「弟子たち一同」です。
これが重要なのです。
聖霊降臨が個人の体験にとどまらず、弟子集団への出来事でした。
ここに、信仰の確信を同じくする群れが生まれました。
そして、最初のキリスト教会誕生の瞬間なのでした。
第二に考えたこと、それは聖霊降臨によって生まれた教会の使命です。
使徒言行録1章8節には、天に昇る際のイエスさまの言葉が記されています。
ここを読みますと、「あなたがたの上に聖霊が降ると…地の果てに至るまで、わたしの証人となる」とあります。
証人は法律用語です。
ユダヤでは十戒の「偽証してはならない」の戒めがあるため、言葉が重たいものでした。
いい加減なこと、偽りが強く禁じられています。
だから、2人以上の証人がいた場合、その証言は真実とされました。
聖霊降臨によって生まれた最初の教会は12人いました。
彼らの証言能力は十分すぎるほどです。
彼らは世間に隠れてコソコソ生きるのではなく、声高らかに、胸を張って、「イエスこそ救い主なり!」と宣言する教会でした。
事実、彼らは2章以下で信じない人々を前に胸を張って、自分たちの確信を語り、人々にも悔い改めを求めるのです。
第三に読んだこと、それは弟子たちの変化の背後に何があったのか、です。
聖霊降臨の記事を読みますと、弟子たちが生まれ変わったかのような変化を遂げた理由は「聖霊が降ったから」「イエスさまの復活後に一緒にいて、復活を体験したから」と感じます。
けれど、私はそれ以外にもあったのだと思うのです。
使徒言行録2章34-35節の言葉に注目しました。
詩編110編1節の引用です。
しかし、それ以上の意味を持ちます。
久留米教会の5月15日の礼拝で読んだマタイ福音書22章44節にも同じ言葉が引用されています。
マタイで語っているのはイエスです。
逮捕、十字架の死以前のイエスです。
私たちはこのマタイのメッセージを「あなたの思い込みではなく、勝手な理解ではなく、神が与えようとしておられる救い主とは誰か、どのような者なのか、改めて考えなさい」と読みました。
そのイエスさまの奨めの際に引用した言葉を、今ペトロは繰り返す。
それは、ペトロの中でイエスさまの言葉が生きていたことの表れではないでしょうか。
ペトロがイエスさまの語った言葉を改めて口にするまでの間にはとんでもない状況があります。
イエスさまの逮捕、死。
この間、ペトロをはじめ、弟子たちはイエスさまを見捨て逃げました。
ペトロは大祭司の館に忍び込みましたが、3度にわたって、呪いの言葉さえ口にしながら「わたしはあの者(イエス)を知らない」と否定しました。
その後の彼らの自責の念、恐怖はどれほどだったでしょう。
自分たちのプライドも、イエスさまと一緒に過ごしてきた時間も、全てが崩れ去り、生きる力を失っていた彼らの中に、なお弟子たちを支えるものがあった。
それが、イエスさまの語った御言葉だった。
御言葉が弟子たちを聖霊降臨の時まで守り、問いかけ、支え、生かした。
ペンテコステから学んだことです。
聖霊降臨によって教会が生まれた。
教会は神の偉大な業を証する証人の群れだった。
その働きを支えるのは御言葉だった。
私たちのその精神を継承した、久留米の地でキリストを証するキリスト教会です。
そのことに気付いた時、私たちは改めて心が熱くされました。
合わせて感謝なことに、この礼拝では2名の方の転入会がありました。
新しい教会の家族を迎え、希望に満たされ、歩んでいきましょう。
読者の方々も是非教会に足をお運びください。
お待ちしています。
イエスさま復活と昇天の数日後、弟子たちの上に聖霊がくだった出来事を記念する時です。
私はこれまでのペンテコステのメッセージでは、ペトロという一人の弟子の変化に注目してメッセージを語ってきました。
けれど、今回の準備の中で、今までの見方は視野が狭かったのだと感じました。
少しメッセージを要約させていただきます。
先ず、この出来事はペトロ個人の出来事ではありません。
使徒言行録2章1節以下を読むと、聖霊が降ったのは「弟子たち一同」です。
これが重要なのです。
聖霊降臨が個人の体験にとどまらず、弟子集団への出来事でした。
ここに、信仰の確信を同じくする群れが生まれました。
そして、最初のキリスト教会誕生の瞬間なのでした。
第二に考えたこと、それは聖霊降臨によって生まれた教会の使命です。
使徒言行録1章8節には、天に昇る際のイエスさまの言葉が記されています。
ここを読みますと、「あなたがたの上に聖霊が降ると…地の果てに至るまで、わたしの証人となる」とあります。
証人は法律用語です。
ユダヤでは十戒の「偽証してはならない」の戒めがあるため、言葉が重たいものでした。
いい加減なこと、偽りが強く禁じられています。
だから、2人以上の証人がいた場合、その証言は真実とされました。
聖霊降臨によって生まれた最初の教会は12人いました。
彼らの証言能力は十分すぎるほどです。
彼らは世間に隠れてコソコソ生きるのではなく、声高らかに、胸を張って、「イエスこそ救い主なり!」と宣言する教会でした。
事実、彼らは2章以下で信じない人々を前に胸を張って、自分たちの確信を語り、人々にも悔い改めを求めるのです。
第三に読んだこと、それは弟子たちの変化の背後に何があったのか、です。
聖霊降臨の記事を読みますと、弟子たちが生まれ変わったかのような変化を遂げた理由は「聖霊が降ったから」「イエスさまの復活後に一緒にいて、復活を体験したから」と感じます。
けれど、私はそれ以外にもあったのだと思うのです。
使徒言行録2章34-35節の言葉に注目しました。
詩編110編1節の引用です。
しかし、それ以上の意味を持ちます。
久留米教会の5月15日の礼拝で読んだマタイ福音書22章44節にも同じ言葉が引用されています。
マタイで語っているのはイエスです。
逮捕、十字架の死以前のイエスです。
私たちはこのマタイのメッセージを「あなたの思い込みではなく、勝手な理解ではなく、神が与えようとしておられる救い主とは誰か、どのような者なのか、改めて考えなさい」と読みました。
そのイエスさまの奨めの際に引用した言葉を、今ペトロは繰り返す。
それは、ペトロの中でイエスさまの言葉が生きていたことの表れではないでしょうか。
ペトロがイエスさまの語った言葉を改めて口にするまでの間にはとんでもない状況があります。
イエスさまの逮捕、死。
この間、ペトロをはじめ、弟子たちはイエスさまを見捨て逃げました。
ペトロは大祭司の館に忍び込みましたが、3度にわたって、呪いの言葉さえ口にしながら「わたしはあの者(イエス)を知らない」と否定しました。
その後の彼らの自責の念、恐怖はどれほどだったでしょう。
自分たちのプライドも、イエスさまと一緒に過ごしてきた時間も、全てが崩れ去り、生きる力を失っていた彼らの中に、なお弟子たちを支えるものがあった。
それが、イエスさまの語った御言葉だった。
御言葉が弟子たちを聖霊降臨の時まで守り、問いかけ、支え、生かした。
ペンテコステから学んだことです。
聖霊降臨によって教会が生まれた。
教会は神の偉大な業を証する証人の群れだった。
その働きを支えるのは御言葉だった。
私たちのその精神を継承した、久留米の地でキリストを証するキリスト教会です。
そのことに気付いた時、私たちは改めて心が熱くされました。
合わせて感謝なことに、この礼拝では2名の方の転入会がありました。
新しい教会の家族を迎え、希望に満たされ、歩んでいきましょう。
読者の方々も是非教会に足をお運びください。
お待ちしています。
スポンサーサイト