花見 - 2011.04.11 Mon
昨日の日曜日、礼拝後からみんなでお弁当持って、教会近くの公園にお花見に行きました。
車で来ている人達もいたからお酒は無しでしたが、みんなでわいわいやって盛り上がりました。
「東北がこんな時に…」と思う方もおられるかもしれませんが、私はこの花見が「お楽しみ」だけでなく、神の国の先取りだと思っています。
昨日の日曜日のメッセージはマタイ22章23-33節から「復活とは何か」を考えました。
サドカイ派と呼ばれる人々がイエスさまに議論をふっかけてきます。
彼らは「復活などない」と考えているユダヤ教の指導者集団です。
復活はないと考えているからこそ、「復活があるとするなら、こんな場合どうするのだ」と言って来たのです。
彼らがふっかけてきた議論はレビラート婚についての律法です。
レビラート婚とは、当時のイスラエルで社会的地位の低かった女性を守る律法の1つです。
夫に先立たれたが息子がいない女性が、夫との死別後、夫の家から放り出されることをふせぐため、夫の親族の男性と再婚し、子どもを産むことを命じた律法でした。
重婚が赦されていた社会ならではの律法です。
現代で考えれば、女性の人権に関して納得のいかない事柄も多いでしょうが、当時の社会では極めて人道的な律法でした。
サドカイ派はこのレビラート婚をもってきて、こんな譬えを語ります。
「ある夫婦がいた。夫が死別したので、妻は夫の弟と再婚した。しかし、子どもができる前に弟も死別した。同じケースが7回繰り返されて、最後に女性も死ぬ。さて、復活の時、この女性は7人の元夫の誰の妻としてよみがえるのか」という例でした。
イエスさまの答えはすごいものです。
「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている。」
相手はサドカイ派、ユダヤ教の指導者集団です。
その彼らに「聖書をじっくり、しっかり、繰り返し読み、その意味を考えていない。神の力のすごさも知らず、勝手な自分たちの限界設定の中で神を過小に見ている」と告げた。
イエスさまは続けて語ります。「復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。死者の復活については、神があなたたちに言われた言葉を読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。」
イエスさまが語る『・・・』の部分は旧約聖書出エジプト記3章6節の引用です。
神さまが出エジプトの指導者モーセに初めて現れて、自分を紹介する場面です。
ここで神さまは「わたしは・・・である」と語りました。
時制は現在計です。
細かく、そして私たちが理解する時の流れで考えるならば、「わたしは、かつて、アブラハムの神であったし、イサクの神であったし、ヤコブの神であった」と過去で語るのが当然のように思う。
だって、モーセの時点でアブラハムたちが死んでから何百年(何千年?)も経っている。
過去で語って当然です。
しかし、神は現在形で語ります。
極端に訳すならば、「わたしは今もアブラハムの神であり続けているし、イサクの神であり続けているし、ヤコブの神であり続けている」です。
つまり、イエスさまは「あなたたちが思い違いをしているのは、父祖アブラハムたちが死んでしまったと考えていることだ。あなたたちの前から見えなくなったことは事実だが、彼らは死んでいない。神の許で今も生き続けている」と語ったのです。
では、彼らはどうなったのか。
マタイ8章11節です、「いつか、東や西から大勢の人が来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席に着く」
イエスさまの語る神の国のイメージは「宴会」です。
このモチーフは多いです。
例えば、最近読んだ箇所で言えば、マタイ22章1-14節の「天の国の譬え」も「婚宴」にたとえられています。
イエスさまの語る神の国のイメージは、大勢の人々が集い、先に死んだ者も最後に来た者も一緒になって神の大宴会に集うことです。
そこでは労苦も痛みも課題も全てが神の支配の中で解決され、人は喜び、笑い、希望の中で生きているのです。
イエスさまの語る、この世の人生の先はそんな世界なのです。
昨日はそんなお話をしました。
そんなわけというわけで…というわけではないのですが、昨日は午後からみんなで花見に行きました。
神の国の先取りです。
「人生に痛みおおし、しかれども我、ただ主のゆえに望みは尽きず」です。
私たちはそう信じています。
そして、私たちの希望は裏切られることがないと強く確信するのです。
お花見の風景をちょこっと紹介です♪



車で来ている人達もいたからお酒は無しでしたが、みんなでわいわいやって盛り上がりました。
「東北がこんな時に…」と思う方もおられるかもしれませんが、私はこの花見が「お楽しみ」だけでなく、神の国の先取りだと思っています。
昨日の日曜日のメッセージはマタイ22章23-33節から「復活とは何か」を考えました。
サドカイ派と呼ばれる人々がイエスさまに議論をふっかけてきます。
彼らは「復活などない」と考えているユダヤ教の指導者集団です。
復活はないと考えているからこそ、「復活があるとするなら、こんな場合どうするのだ」と言って来たのです。
彼らがふっかけてきた議論はレビラート婚についての律法です。
レビラート婚とは、当時のイスラエルで社会的地位の低かった女性を守る律法の1つです。
夫に先立たれたが息子がいない女性が、夫との死別後、夫の家から放り出されることをふせぐため、夫の親族の男性と再婚し、子どもを産むことを命じた律法でした。
重婚が赦されていた社会ならではの律法です。
現代で考えれば、女性の人権に関して納得のいかない事柄も多いでしょうが、当時の社会では極めて人道的な律法でした。
サドカイ派はこのレビラート婚をもってきて、こんな譬えを語ります。
「ある夫婦がいた。夫が死別したので、妻は夫の弟と再婚した。しかし、子どもができる前に弟も死別した。同じケースが7回繰り返されて、最後に女性も死ぬ。さて、復活の時、この女性は7人の元夫の誰の妻としてよみがえるのか」という例でした。
イエスさまの答えはすごいものです。
「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている。」
相手はサドカイ派、ユダヤ教の指導者集団です。
その彼らに「聖書をじっくり、しっかり、繰り返し読み、その意味を考えていない。神の力のすごさも知らず、勝手な自分たちの限界設定の中で神を過小に見ている」と告げた。
イエスさまは続けて語ります。「復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。死者の復活については、神があなたたちに言われた言葉を読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。」
イエスさまが語る『・・・』の部分は旧約聖書出エジプト記3章6節の引用です。
神さまが出エジプトの指導者モーセに初めて現れて、自分を紹介する場面です。
ここで神さまは「わたしは・・・である」と語りました。
時制は現在計です。
細かく、そして私たちが理解する時の流れで考えるならば、「わたしは、かつて、アブラハムの神であったし、イサクの神であったし、ヤコブの神であった」と過去で語るのが当然のように思う。
だって、モーセの時点でアブラハムたちが死んでから何百年(何千年?)も経っている。
過去で語って当然です。
しかし、神は現在形で語ります。
極端に訳すならば、「わたしは今もアブラハムの神であり続けているし、イサクの神であり続けているし、ヤコブの神であり続けている」です。
つまり、イエスさまは「あなたたちが思い違いをしているのは、父祖アブラハムたちが死んでしまったと考えていることだ。あなたたちの前から見えなくなったことは事実だが、彼らは死んでいない。神の許で今も生き続けている」と語ったのです。
では、彼らはどうなったのか。
マタイ8章11節です、「いつか、東や西から大勢の人が来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席に着く」
イエスさまの語る神の国のイメージは「宴会」です。
このモチーフは多いです。
例えば、最近読んだ箇所で言えば、マタイ22章1-14節の「天の国の譬え」も「婚宴」にたとえられています。
イエスさまの語る神の国のイメージは、大勢の人々が集い、先に死んだ者も最後に来た者も一緒になって神の大宴会に集うことです。
そこでは労苦も痛みも課題も全てが神の支配の中で解決され、人は喜び、笑い、希望の中で生きているのです。
イエスさまの語る、この世の人生の先はそんな世界なのです。
昨日はそんなお話をしました。
そんなわけというわけで…というわけではないのですが、昨日は午後からみんなで花見に行きました。
神の国の先取りです。
「人生に痛みおおし、しかれども我、ただ主のゆえに望みは尽きず」です。
私たちはそう信じています。
そして、私たちの希望は裏切られることがないと強く確信するのです。
お花見の風景をちょこっと紹介です♪



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