気付けば、春も間近♪ - 2011.02.24 Thu
2月も24日ですね。
早いなぁ~。
教会のご近所の庭先ではもう梅が咲いていました。
春も間近ですね。
先日、私たちの教会では執事改選総会が行われました。
私たちバプテスト教会では、教会の働きのための役員会を執事会と言っています。
バプテスト教会は考え方が特徴的です。
一般の会社でいえば、執行部があって、実際の経営は社長をはじめ、専務、部長、課長など、基本的にはピラミッド型をしています。
カトリック教会でも、基本的にはローマ法王を頂点とするピラミッド型をしています。
でも、バプテスト教会は信徒や1つ1つの教会が主体的な信仰を持つことを大事にしています。
よって、一人ひとり、1つ1つの教会が自分に向けて今、神さまが言われるメッセージに耳を傾けようと心がけます。
ですから、バプテスト教会の執事は率直に言って、皆の上に立つ存在ではなく皆に仕える存在です。
1つの主体的な信仰共同体である教会の働きを支えるために、執事は牧師と共に仕える存在なのです。
この執事の起こりが面白いのですが、「執事」の起こりは、使徒言行録6章に記録されています。
イエスさまの復活後にエルサレムで起こった最初の教会で、ある問題が起こりました。
ギリシア語を話すユダヤ人たちから、ヘブライ語を話すユダヤ人たちに対して、仲間のやもめへの食糧分配が正しく行われていないという訴えが起こったのです。
この問題は実は背景があります。
当時の世界はローマ帝国の支配下にありました。
イスラエルもローマ帝国の支配下にあります。
ヘブライ語を話すユダヤ人、つまりイスラエルで生まれ育ったユダヤ人たちは、いつも押さえつけられて生きていました。
一方、ギリシア語を話すユダヤ人とは地中海世界で育ったユダヤ人です。
彼らは何らかの理由でイスラエルに帰ってきて教会に属することとなったのでしょうが、生粋のユダヤ人を自称するヘブライ語を話すユダヤ人は、それまで押さえつけられていた分だけ、「よそもの」には厳しかったのです。
イエスさまの救いに与った者は皆平等であるのに、ヘブライ語を話すユダヤ人の心には屈折した思いがあったのでしょう。
ペトロたち(使徒たち)は訴えを聞き、皆の中から、この問題の解決にふさわしい世話役を7人選ぶように提案します。
条件は「“霊”と知恵に満ちた評判のよい人」でした。
この提案に従って、ステファノたち7人が選ばれています。
これが執事の起こりです。
執事とは具体的な教会の課題に取り組むための存在だったのです。
さらに「すごいなぁ」と思うのは、この7人が7人ともギリシア語を話すユダヤ人の名前であることです。
これは何を意味するのでしょうか。
それは、初代の教会は人々の心の確執があったが、使徒たちの提案を真摯に受け止め、課題に正しく対処できる人々を選んだということです。
選んだ人々の中には、ヘブライ語を話すユダヤ人もいたでしょう。
しかし、彼ら自身もまた、屈折した思いを捨てて、真摯な姿勢で臨んだのです。
「いつでも聖書に帰り、御言葉に整えられて、事柄に臨む」、それがキリスト者に与えられた素敵な生き方なのです。
私たちの教会では2年の任期のために、新たに3名の執事が選ばれました。
皆、日々の仕事や家庭の務め、地域のお世話をする忙しい方々です。
でも、神さまはこの方々に必ずこの方々にその都度、必要な言葉と力と知恵を与えてくださるでしょう。
選んだ私たちも執事の方々を支え、一緒に久留米の地にイエスさまの福音を語り伝えるために喜んで働きたいと願っています。
全てが主なる神さまの栄光のためになりますように、です。
早いなぁ~。
教会のご近所の庭先ではもう梅が咲いていました。
春も間近ですね。
先日、私たちの教会では執事改選総会が行われました。
私たちバプテスト教会では、教会の働きのための役員会を執事会と言っています。
バプテスト教会は考え方が特徴的です。
一般の会社でいえば、執行部があって、実際の経営は社長をはじめ、専務、部長、課長など、基本的にはピラミッド型をしています。
カトリック教会でも、基本的にはローマ法王を頂点とするピラミッド型をしています。
でも、バプテスト教会は信徒や1つ1つの教会が主体的な信仰を持つことを大事にしています。
よって、一人ひとり、1つ1つの教会が自分に向けて今、神さまが言われるメッセージに耳を傾けようと心がけます。
ですから、バプテスト教会の執事は率直に言って、皆の上に立つ存在ではなく皆に仕える存在です。
1つの主体的な信仰共同体である教会の働きを支えるために、執事は牧師と共に仕える存在なのです。
この執事の起こりが面白いのですが、「執事」の起こりは、使徒言行録6章に記録されています。
イエスさまの復活後にエルサレムで起こった最初の教会で、ある問題が起こりました。
ギリシア語を話すユダヤ人たちから、ヘブライ語を話すユダヤ人たちに対して、仲間のやもめへの食糧分配が正しく行われていないという訴えが起こったのです。
この問題は実は背景があります。
当時の世界はローマ帝国の支配下にありました。
イスラエルもローマ帝国の支配下にあります。
ヘブライ語を話すユダヤ人、つまりイスラエルで生まれ育ったユダヤ人たちは、いつも押さえつけられて生きていました。
一方、ギリシア語を話すユダヤ人とは地中海世界で育ったユダヤ人です。
彼らは何らかの理由でイスラエルに帰ってきて教会に属することとなったのでしょうが、生粋のユダヤ人を自称するヘブライ語を話すユダヤ人は、それまで押さえつけられていた分だけ、「よそもの」には厳しかったのです。
イエスさまの救いに与った者は皆平等であるのに、ヘブライ語を話すユダヤ人の心には屈折した思いがあったのでしょう。
ペトロたち(使徒たち)は訴えを聞き、皆の中から、この問題の解決にふさわしい世話役を7人選ぶように提案します。
条件は「“霊”と知恵に満ちた評判のよい人」でした。
この提案に従って、ステファノたち7人が選ばれています。
これが執事の起こりです。
執事とは具体的な教会の課題に取り組むための存在だったのです。
さらに「すごいなぁ」と思うのは、この7人が7人ともギリシア語を話すユダヤ人の名前であることです。
これは何を意味するのでしょうか。
それは、初代の教会は人々の心の確執があったが、使徒たちの提案を真摯に受け止め、課題に正しく対処できる人々を選んだということです。
選んだ人々の中には、ヘブライ語を話すユダヤ人もいたでしょう。
しかし、彼ら自身もまた、屈折した思いを捨てて、真摯な姿勢で臨んだのです。
「いつでも聖書に帰り、御言葉に整えられて、事柄に臨む」、それがキリスト者に与えられた素敵な生き方なのです。
私たちの教会では2年の任期のために、新たに3名の執事が選ばれました。
皆、日々の仕事や家庭の務め、地域のお世話をする忙しい方々です。
でも、神さまはこの方々に必ずこの方々にその都度、必要な言葉と力と知恵を与えてくださるでしょう。
選んだ私たちも執事の方々を支え、一緒に久留米の地にイエスさまの福音を語り伝えるために喜んで働きたいと願っています。
全てが主なる神さまの栄光のためになりますように、です。