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2010-07

マタイ15章21-28節から - 2010.07.19 Mon

昨日の礼拝ではマタイによる福音書15章21-28節を読みました。
お気づきの方もいるかもしれませんが、私たちの教会ではマタイ福音書を連続して読み続けています。
2年かけて、ようやく15章まで来ました。
このペースで行くと、マタイの終わりまではあと2年くらいでしょうか。
じっくり読むと、それまで見えていなかったものが見えてきて、大変充実した学びになっています。
教会の方々、どうぞお付き合いください(笑)。

さて、昨日の箇所を読んでみると非常に気になることがある。
それは、イエスさまの態度です。
一人の女性がイエスさまのところに来て、願った。
「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」
しかし、イエスさまは彼女を無視された。
女性は続けて願うのですが、イエスさまは拒否された。
この冷たさの意味を一緒に考えたのです。

全てを書くと大変な分量ですから宣教の大部分を割愛しますが、イエスさまは決して冷たかったのではありません。
イエスさまは彼女の信仰を確かめ、その姿を弟子たちに見せ、ひいては私たちに見せようとしている。
実は、この女性の信仰は私たちには信じがたいほど、素敵な信仰です。

彼女はイエスさまに繰り返して助けを求めました。
イエスさまは当時のことわざを用いて、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」と言われました。
すると、彼女が言います。
「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです」
私たちはこの文章を読むと、彼女は「でも、イエスさま!」と食ってかからんばかりの勢いで反論したように考えます。
しかし、原文のニュアンスは全く違うのです。
ニュアンスにそって、少々意訳しながら訳しますと、次のようになります。
「主よ、ごもっともです。おっしゃる通り、小犬は主人の食卓から落ちるパン屑をいただくことができます」
この違いが伝わるでしょうか。
彼女はイエスさまの言葉に反論したのでなく、肯定したのです。
彼女はイエスさまに拒否されようとも、自分の願いがかなえられないなどとは露とも思っていない。
それどころか、飼い犬が主人からもらうおこぼれのパン屑のような祝福であっても、自分の娘は助かると信じています。
彼女の信仰は、「神さまは私を見捨てられない」という一途さと、その確信からくる忍耐、そしてユーモアをもって答えるほどの心のゆとりを持っていたのです。

イエスさまは彼女の答えにとても喜びます。
日本語の聖書ではこれまた訳出されていませんが、「婦人よ、あなたの信仰は立派だ」と答えたイエスさまの言葉には、最初に「あぁ、おぉ」という感嘆詞が省略されています。
イエスさまは驚きをもって、彼女の信仰を喜ばれたのです。

昨日は、この女性の信仰を、今私たちは示されました。
そして、私たちは彼女の信仰に自分たちの模範を見出します。
何があろうとイエスさまを信じ抜く一途さ、そして課題の中でも耐える忍耐、そして必ず神さまは私を救ってくださると信じることから生じる心のゆとり、です。
私たちも彼女に倣う者となりたいと願っています。
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Author:久留米キリスト教会
福岡県久留米市にある久留米キリスト教会のブログです。
わたしたちの教会は、日本バプテスト連盟に加盟する、プロテスタント派のキリスト教会です。
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