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2010-07

マタイ福音書15章1-20節を通して思うこと - 2010.07.11 Sun

強い風が吹き荒れる今日ですが、参院選が行われています。
国民の決断がどうなるのか、有権者の一人として気になるところです。
選挙の難しさは、どの候補者が本当に国民のこと、国の行く末を純粋に考えているのか、ということです。
候補者の見極めが難しいのです。

見極めの難しさで言えば、今日の礼拝でお話したマタイ福音書15章1-20節も難しいところでした。
「穢れと清め」について、イエスさまが激しく発言される箇所でした。
聖書をお持ちの方はぜひお読みいただきたいのですが、この箇所でイエスさまの語られる焦点は、おそらく「神さまが今、あなたに何を求めておられるのかを見極めなさい」ということだと思うのです。
何が人を穢すのは、論争の相手であるファリサイ派や律法学者は穢れた人を介して、穢れがうつると考えていました。
だからこそ、律法の解釈として出てきた、清めの儀式として食事の手洗いを問題としていました。
しかし、イエスさまは否と語ります。
「すべて口に入るもの(食べ物)は、腹を通って外(原意:便所)に出されることが分からないのか。しかし、口から出て来るもの(心から出てくる言動)が人を穢す」

イエスさまの発言は難しいようですが、実は強調点は極めてシンプルなのだと思います。
それは、「自分の思いや周囲の評価、自分のプライドから行動するのでなく、ただ神があなたに何を求められるのか考えなさい」ということだと考え至りました。
そのイエスさまの問いかけは非常に私たちに厳しく突き付けられます。

しかし、私たちはイエスさまの厳しい発言にただ落ち込むだけではいけません。
福音書の中でイエスさまの発言は時に非常に厳しいのですが、その背後にはイエスさまがその宣教活動の最初で語られた言葉が常に根底にあると思うのです。
マルコ福音書1章15節です。
「時は満ち、神の国は近付いた。悔い改めて福音を信じなさい」
イエスさまは「悔い改めなさい」と言われました。
それは、神さまが私たちの悔い改めを求めておられるし、未だ救いのチャンスはあるからこそ、厳しく問われるのです。

今朝の宣教ではまとめとして、私たちが日々の生活の中で決断を下す時、「神さま、あなたは今私に何を求めておられるのでしょうか」と祈りつつ、行動しようと語りました。
非常に難しい生き方ですが、誠実に神さまを思い起こし、自分の考えや周囲の評価、不必要なプライド以上に、神さまを尊重する。
そんな生き方が今、私たちに求められるいるのだし、きっとできるとイエスさまは確信されておられるのです。
今週の歩み、日々、「神さま、あなたは今私に何を求められておられるのでしょうか」と祈りながら、歩んでいきたいと思います。
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Author:久留米キリスト教会
福岡県久留米市にある久留米キリスト教会のブログです。
わたしたちの教会は、日本バプテスト連盟に加盟する、プロテスタント派のキリスト教会です。
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