イースターおめでとうございます♪ - 2010.04.05 Mon
イースター、おめでとうございます。
昨日の礼拝はイエスさまの復活を覚えるイースターでした。
イエスさまの復活を覚える時ですから、私たちの教会では毎年、既に神さまの御許に召された方々の写真を飾り、その方々を覚える礼拝でもあります。
今年のイースターで、私は死者の復活以上に人生の再出発について、メッセージを語りました。
前回の記事でも書きましたペトロ、イエスさまの一番弟子であったにも関わらず、イエスさまが捕えられた場面では逃げ出し、その後勇気を振り絞って大祭司の館の庭に入り込んだものの、周囲の人々から「お前もあのイエスの仲間だろう」と言われると全力で否定した男です。
私たちはそのペトロから無力さやみじめさ、自己本位な、けれどあれほど愛してくださったイエスさまを裏切ってしまった罪悪感に苦しむ姿を見出だします。
そして、その姿に自分勝手な言い訳をして自己正当化しながら、半分ではそんな自分のつまらなさに悲しむ私たち自身の姿を重ねるのです。
ヨハネ福音書21章の物語です。
イエスさまの死後、ガリラヤに逃げ帰っていた弟子たちは、ガリラヤ湖で漁をします。
そこにイエスさまが出会いにきてくださる。
イエスさまの存在に気付いたペトロは湖に飛び込み、岸辺のイエスさまの許に急ぐ。
岸辺ではイエスさまが朝食の準備をして待っていてくださった。
他の弟子たちと一緒に、最後の晩餐以降、最初の食事が始まる。
イエスさまは言われる。
「ペトロよ、お前はわたしを愛するか」
ペトロは答える。「はい、主よ。わたしがあなたを愛していることをあなたはご存じです。」
この問答が三度繰り返される。
これまで多くの説教者がこの箇所を語る時、「イエスさまは大祭司の館で三度自分を知らないといったペトロの罪を、自分を三度愛すると答えさせることで許してくださった」と語ってきました。
その理解は半分ではあたっているかもしれません。
しかし、この箇所はさらに深いメッセージを秘めています。
実は「愛しているか」というイエスさまの問いは、「アガペーの愛か?」と問います。
アガペーは無条件の愛、どれほど傷つけられようと、どれほど裏切られようと、愛し抜く愛を指します。
けれど、ペトロの答えは「フィレオーの愛で愛します」でした。
フィレオーは兄弟愛と言われる愛で、限定的な愛です。
ペトロは「わたしが自分の命惜しさにあなたを裏切ってしまったこと、それほどの愛でしかあなたを愛せない者であることをあなたはご存じでしょう」と答えたのです。
2度目の対話も上記と同じ展開です。
けれど、3度目、イエスさまはペトロに「あなたはわたしをフィレオーの愛で愛するか」と尋ねました。
「限界があることを知っている。しかし、その愛で愛することができるか」と問われた。
ペトロは正直に答えます。「はい、主よ。私は限界だらけの男です。けれど、私はあなたを愛します」と。
そして、イエスさまは言われました、「私の羊を飼いなさい」。
どうしてイエスさまはペトロに再度、自分に従うように招き、働きを与えられるのか。
私は思うのです。
痛みやみじめさ、悲しみや涙、罪悪感や絶望を知る者だからこそ、それらを抱える兄弟たちを支え、立ち直らせることができる。
すべてを経験したペトロだからこそ、他の兄弟たちを愛することができる。
その愛は限定つきのフィレオーからでもいい。
そこから始めればいい。
まさにルカ22.31‐32節のイエスさまの言葉がそのままに今、実現したのです。
イースター、それは人生の再出発の時です。
少し厳しい言い方ですが、他人のせいにして自分をかばっている者にはこの喜びの奥深さは分からないかもしれません。
けれど、自分の愚かさや罪深さを心から悔いる時、イエスさまはその悔い改めの心をしっかりと受け止めてくださり、そこから立ち上がること、やり直すことを許してくださること、その喜びが沸き起こってくる。
イースター、本当におめでとうございます。
この文章を読んでくださった方々お一人おひとりに神さまの豊かな祝福をお祈りしております。
昨日の礼拝はイエスさまの復活を覚えるイースターでした。
イエスさまの復活を覚える時ですから、私たちの教会では毎年、既に神さまの御許に召された方々の写真を飾り、その方々を覚える礼拝でもあります。
今年のイースターで、私は死者の復活以上に人生の再出発について、メッセージを語りました。
前回の記事でも書きましたペトロ、イエスさまの一番弟子であったにも関わらず、イエスさまが捕えられた場面では逃げ出し、その後勇気を振り絞って大祭司の館の庭に入り込んだものの、周囲の人々から「お前もあのイエスの仲間だろう」と言われると全力で否定した男です。
私たちはそのペトロから無力さやみじめさ、自己本位な、けれどあれほど愛してくださったイエスさまを裏切ってしまった罪悪感に苦しむ姿を見出だします。
そして、その姿に自分勝手な言い訳をして自己正当化しながら、半分ではそんな自分のつまらなさに悲しむ私たち自身の姿を重ねるのです。
ヨハネ福音書21章の物語です。
イエスさまの死後、ガリラヤに逃げ帰っていた弟子たちは、ガリラヤ湖で漁をします。
そこにイエスさまが出会いにきてくださる。
イエスさまの存在に気付いたペトロは湖に飛び込み、岸辺のイエスさまの許に急ぐ。
岸辺ではイエスさまが朝食の準備をして待っていてくださった。
他の弟子たちと一緒に、最後の晩餐以降、最初の食事が始まる。
イエスさまは言われる。
「ペトロよ、お前はわたしを愛するか」
ペトロは答える。「はい、主よ。わたしがあなたを愛していることをあなたはご存じです。」
この問答が三度繰り返される。
これまで多くの説教者がこの箇所を語る時、「イエスさまは大祭司の館で三度自分を知らないといったペトロの罪を、自分を三度愛すると答えさせることで許してくださった」と語ってきました。
その理解は半分ではあたっているかもしれません。
しかし、この箇所はさらに深いメッセージを秘めています。
実は「愛しているか」というイエスさまの問いは、「アガペーの愛か?」と問います。
アガペーは無条件の愛、どれほど傷つけられようと、どれほど裏切られようと、愛し抜く愛を指します。
けれど、ペトロの答えは「フィレオーの愛で愛します」でした。
フィレオーは兄弟愛と言われる愛で、限定的な愛です。
ペトロは「わたしが自分の命惜しさにあなたを裏切ってしまったこと、それほどの愛でしかあなたを愛せない者であることをあなたはご存じでしょう」と答えたのです。
2度目の対話も上記と同じ展開です。
けれど、3度目、イエスさまはペトロに「あなたはわたしをフィレオーの愛で愛するか」と尋ねました。
「限界があることを知っている。しかし、その愛で愛することができるか」と問われた。
ペトロは正直に答えます。「はい、主よ。私は限界だらけの男です。けれど、私はあなたを愛します」と。
そして、イエスさまは言われました、「私の羊を飼いなさい」。
どうしてイエスさまはペトロに再度、自分に従うように招き、働きを与えられるのか。
私は思うのです。
痛みやみじめさ、悲しみや涙、罪悪感や絶望を知る者だからこそ、それらを抱える兄弟たちを支え、立ち直らせることができる。
すべてを経験したペトロだからこそ、他の兄弟たちを愛することができる。
その愛は限定つきのフィレオーからでもいい。
そこから始めればいい。
まさにルカ22.31‐32節のイエスさまの言葉がそのままに今、実現したのです。
イースター、それは人生の再出発の時です。
少し厳しい言い方ですが、他人のせいにして自分をかばっている者にはこの喜びの奥深さは分からないかもしれません。
けれど、自分の愚かさや罪深さを心から悔いる時、イエスさまはその悔い改めの心をしっかりと受け止めてくださり、そこから立ち上がること、やり直すことを許してくださること、その喜びが沸き起こってくる。
イースター、本当におめでとうございます。
この文章を読んでくださった方々お一人おひとりに神さまの豊かな祝福をお祈りしております。
スポンサーサイト