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2010-02

受難節に入りました - 2010.02.22 Mon

先週の水曜日から受難節に入りました。
受難節とはイエスさまの復活・イースターの46日前(日曜日を除いて40日を数えるので46日前からとなる)の水曜日から始まる期間です。
この期間は、イエスさまの受難を覚えて歩む時です。
今日はイエスさまの受難が私たちにどう関わるのか、について考えたいと思います。

私たちは自分たちの生活を振り返ってみますと、いつも何らかの課題を抱えています。
学生の時分は進学のこと、思春期のイライラや葛藤、などがありました。
学校を出た後は、仕事、結婚、人間関係、将来のこと。
ある程度、働き盛りの年齢になると健康のこと、家族(子どもや高齢になりつつある親)のこと。
年配者になれば、健康や死について悩みます。
東京大学教授の姜尚中(カンサンジュン)さんは著書『悩む力』の中で、悩むことは人生において大切なことだと語っています。
中途半端に逃げるよりも、とことん悩んで悩みぬいて悩みを突きぬけること、悩みぬいた末に横着なほどに開き直ることを書いています。
この本を読みながら、一面で彼が言うように、逃げずに悩むことは必要だと思います。
しかし、悩む途中で心病む者もいることに触れるのですが、そのような人々がどうするのかという点が書かれていないように思いました。
私は一人の牧師として、その点について触れたいのです。

私たちが信じるイエスさまという方は、非常に不思議な方です。
どうして「神の子、救い主」と呼ばれた者が、十字架で苦しみ、人々に罵られ、弟子たちに見捨てられ、何の罪もないのに苦痛の中で死んだのか。
十字架で苦しみ続けたが、危機一髪で奇跡を行い、最後はハッピーエンドというハリウッド映画のような結末であれば、ヒーローかもしれません。
しかし、イエスさまは十字架で死にました。
ここに救い主としてのイエスさまがいるのです。

私たちはいつも悩み続けています。
八方ふさがりで解決のつかない状況もあります。
悩んだ挙句、病になることもあります。
けれど、そんな自分でもいいのです。
イエスさまも十字架上で苦しみ、死なれました。
私たち同様に苦しみ、悩み、痛んだのです。

けれど、そんな無力なイエスさまは無力さの中でさえ、できることを教えてくださっています。
それは「信じること」です。
イエスさまは十字架上で何度か祈っています。
祈るとは、語りかける相手を確信するからのものです。
イエスさまの十字架上の7つの言葉に「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」という言葉さえあります。
一見すると、神への痛烈な文句です。
けれど、その文句の中でさえ、イエスさまは語りかける相手がいること、神さまを信じて叫んでいるのです。
そして3日目の朝、神さまはイエスさまの問いに応えられたのです。
復活が起こりました(聖書に残る最初の復活のギリシア語の記述を訳すと「(神によって)引き起こされた」とあります。イエスさまが自分で復活したのではなく、神さまによって復活させられたと聖書は証言しています)。
イエスさまを通して、死の先があることが示されたのです。

イエスさまが神の子だったから、特別な存在だったから復活したのだ、とおっしゃる方もいます。
しかし、あの十字架で死なれるイエスさまの姿はとても特別な存在、神の子ではありません。
ただ無力に苦しみ、悩み、痛み、しかし信じ続けたのです。
その姿に私たちは自分たちの倣う姿を見出します。
私たちも悩みながらも、信じ続ければいいのです。
きっとその先に、神さまが応えてくださるでしょう。

最後に日本キリスト教団の讃美歌242番の歌詞をご紹介して、今回の記事を終えることにします。
「悩む者よ、我に来よ」と。めぐみの主は招きたもう。重荷負いて喘ぐ友よ、主の御許に来たり憩え」。
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福岡県久留米市にある久留米キリスト教会のブログです。
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