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2020-07

被災地視察の報告会を計画しています。 - 2012.02.27 Mon

長いこと、記事をアップしておりませんで、大変申し訳ありません。
実は2月の中旬に東北の震災被災地の視察とボランティアに行ってきました。
自分の目で見た被災地は今も瓦礫や取り壊さねばならない建物が残り、人々の心が痛んでいる場所でした。
現在、報告書を作成している最中です。
また、久留米教会の3月11日の礼拝を「東日本大震災を覚える礼拝」とし、礼拝後の時間に私が見てきた被災地の報告をする予定です。
是非お時間のある方はお越しください。

以下の文章は昨日の週報の巻頭言です。
ちょっとした感想になっていますので、合わせて御覧頂ければ幸いです。

先週水曜日に「灰の水曜日」を迎え、今年も受難節(イースターを含めた46日前から始まる、イエスさまの受難を覚える期間)に入りました。初代教会にとって、この期間は洗礼を受けて教会に入るための訓練の期間であったとも言われます。彼らはイエスさまの受難を振り返り、そのイエスさまの苦しみが何のための痛みであったか、誰のための苦しみであったか、その行為に何の意味があったのか、を繰り返し覚えたそうです。
2008年以降読み続けているマタイ福音書も受難物語に入っています。私はイエスさまの受難の物語を宣教させていただきながら、今年の受難節を特別な思いで過ごしています。先日までの休暇で東北の被災地を見て回りました。3月11日の分級時に報告を持たせていただきますが、被災地は今も復興にはほど遠く、被災された方々もボランティアの方々も、心の痛みを抱えて毎日を過ごしておられます。その人々を前に、私たちは改めて「救いとは何か」「希望とは何か」を問われ続けています。家族も生活も、家も仕事も、友人も町も、一瞬にして奪われた方々に語れる希望とは何でしょうか。それは「力強い栄光のキリスト」ではなく「苦しむキリスト」なのだと、私は思うのです。
今、被災地が本当に必要とするのは「何故、地震や津波が起こったか。何故、全ては奪われたのか」の答えではないでしょう。理由を知っても家族は帰ってきません、生活は戻りません。納得はするでしょうが、慰めにはならないでしょう。今、被災された方々が必要としているのは「悲しみにくれるあなたの傍らに、神の子は共にいてくださる」という真実です。神の子であり、救い主である方が私たちを愛してくださり、救うために、私たちに代わって私たちの全てを背負って苦しみを経験してくださった。苦しむキリストとの出会いこそが人々を慰めるのであり、その福音を伝えることこそ私たちに与えられた使命なのだと思うのです。
今朝、私たちは苦しむキリストと出会ったキレネ人シモンの記事を読みます。彼は後に信仰者となったと言われます。彼は何を見たのでしょうか。今朝も御言葉に聞いていきましょう。
音声配信ページ

「あなたはどこに立っているのか?」 - 2012.02.01 Wed

気付けば2月に入りました。
昨日気付いたのですが、夕方6時を過ぎても外が真っ暗でない!
日が沈みかけて薄ぼんやりとしている様子を見ながら、少しずつ冬から春へと季節が変わろうとしていることを実感。
今週からまたグンと寒くなるそうですが、この寒さの先には春が待っていると思ったのでした。

さて、先週の日曜礼拝での説教は「あなたはどこに立っているのか?」と題しました。
聖書を読む時、皆さんはいったいどんな読み方をしていますか?
ただ漫然と文字面を追っているだけでは、聖書はなかなか難しいです。
というのも、時代背景が現代とは違いすぎますし、イスラエルと日本という風土の違いもあるます。
だから、2000年前の人には当然でも、私たちには分からないことが多々あって当然です。
そんな違いを少しでも克服するための読み方として、クリスチャンの方々がよく用いるのが、登場人物の誰かに自分の姿を投影して読む読み方です。
登場人物が経験したこと、言われた言葉を、私であればどう受け止めるだろう、と考えることから聖書を深めて読むのです。

先週の箇所はマタイ福音書27章11-26節、イエスさまを十字架につけろと叫ぶ群衆とピラトのやり取りでした。
この箇所は登場人物が多い。
・沈黙を貫くイエスさま
・イエスさまの無罪を知りながらも群衆に押し切られてイエスさまが十字架にかかることを認めてピラト
・イエスさまを助けるように進言したピラトの妻
・イエスさまを「十字架につけろ」と叫ぶ群衆
・イエスさまを殺すように画策する祭司長たちと長老たち
さて、私たちはいったい誰の中に自分の姿を投影するでしょう。

私は宣教の準備をしながら25節の「民」という言葉に自分の姿を見出しました。
マタイ著者は24節までの「群衆」と25節の「民」について、明らかな使い分けをしています。
そこに込められた意味は何か、私たちは何を読み取るのか。
お時間のある方は是非聞いてみてください。
音声配信ページ

「ユダは救われるのか?」 - 2012.01.25 Wed

22日の説教はマタイ27章のユダの自死の物語です。
キリスト教の長い歴史の中で、ユダは最悪の罪人という固定概念があります。
そしてユダは救われないと考えられてきました。
しかし、果たしてそうなのか。

ユダは救われないと主張される3つの考えに反論しながら、改めてイエスさまの赦しと神さまの救いについて考えています。
お時間のある方は聞いてみてください。

音声配信ページ

「2つの裏切り」 - 2012.01.25 Wed

15日のメッセージは大祭司の館でペトロがイエスさまを「知らない」と三度言った箇所からメッセージしました。
タイトルは「2つの裏切り」と題しましたが、この箇所には2つの裏切りが描かれていると解釈しています。
1つはペトロがイエスさまを「知らない」と語ったこと。
もう1つは・・・。

お時間のある方は是非、教会ホームページからお聞きください。
音声配信ページ

「神を祝福する?」 - 2012.01.11 Wed

先日の日曜日は詩編135編から「神を祝福する?」と題して、メッセージしました。
この詩編は礼拝などの場で集まった人々が歌った神さまへの賛歌です。
教会で時々「ハレルヤ」という言葉を耳にしますが、「ハレル」はヘブライ語で「讃美せよ」で、「ヤ―」は神さまの呼称です。
つまり「ハレルヤ」という言葉は「神を讃美せよ」との呼びかけです。
詩編135編でも最初と最後に「ハレルヤ」と言われ、神への賛歌が呼びかけられています。
そんな「神さまがわれわれにしてくださった大いなる御業を思い出し、主を讃美せよ」と呼びかけられる賛歌ですが、不思議なことに19-21節で「主をたたえよ」と呼びかけられる。
「たたえる」という言葉、言語のヘブライ語を調べてみますと「祝福せよ」という言葉です。
詩編の作者は会衆に向かって、「神を祝福せよ」と呼びかけている。
人が神を祝福するとは何を意味するのか。
そこから、聖書が語る神さまとは如何なる方であるのか、考えてみました。

お時間のある方は是非一度聞いてみてください。
メッセージ配信ページはこちらからどうぞ。

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Author:久留米キリスト教会
福岡県久留米市にある久留米キリスト教会のブログです。
わたしたちの教会は、日本バプテスト連盟に加盟する、プロテスタント派のキリスト教会です。
(※ブログに掲載した文章の無断転載はご遠慮ください)

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