fc2ブログ
topimage

2022-08

8月14日~20日のみことば - 2022.08.13 Sat

8月も半ばを迎えようとしています。
世間的には”お盆休み”ですね。
実家に帰省したり、お墓参りをしたりして過ごす方も多いかと思います。
感染拡大中で時期をずらしたり、帰省を見合わせている方もいるかもしれませんが、それぞれに良いお休みの時となりますように。

そういえば教会には”お盆”という考え方?風習?はありません。
それは、亡くなった人は生きている私たちと分断された「あの世」にいるのではなく、私たちが生きている間も私たちを守ってくださっている同じ神さまのもとにいるのだと信じているからだと思います。
そういう意味では、教会の感覚では生前の世界と死後の世界は神さまという存在において「地続き」なのです。
ですから、特別にこの期間だけ帰ってくるという感覚はあまりなくて、いつでも神さまを介して行き来できるような?そんな感覚なような気がします。
比較して考えてみると面白いなぁ。皆さんは、どんな風に感じるでしょうか。

8月は亡くなった方を思い起こす時であり、また平和を願い、命の大切さを思う時でもあります。
教会でも毎週の礼拝で平和について聖書のメッセージを聞いていきます。
どうぞ、会堂で、またYouTubeや音声配信を通して共にメッセージを聞いてみてくださいね。

今週も皆さんの歩みが一歩一歩守られますように。
今週のみ言葉をどうぞ。

***

※聖書の箇所は日本聖書協会の聖書本文検索から読むことができます。⇒こちら
 ページの下のほうにある「書名・章・節から探す」に以下の事項を選択・入力してください。
・訳名選択     : 新共同訳
・旧新約・続編選択 : 旧約聖書
・書名選択     : イザヤ書
・章選択      : 該当章数を入力(章まで入力するとその章すべてが表示されます。)

14日(日) イザヤ書14章1-2節
一言メッセージ:13章から23章までは、イザヤによる諸国民への預言集です。昨日13章ではバビロンへの審判が語られましたが、今朝の箇所では、「バビロンが弱体化していくことが、支配されていたイスラエルの民の回復になる」という箇所です。ここで歌われているのは、社会の逆転です。かつて、支配していた者が支配される側に、踏みにじられてきた者が社会の強者となっていく。その原動力は1節「主の憐み(愛)」のゆえです。こう書きますと、神さまの愛はイスラエルにだけ注がれ、それ以外はご自分の民ではないかのような印象を与えますが、そうではありません。明日からの箇所ではイスラエルの周辺の強国、民族への裁きの言葉が続きますが、それは「彼らを切り捨てるための言葉」というよりも、「彼らもまた、神の支配の下にある民」という言葉です。事実、先の話ですが、19.25などでは支配していた者と支配されていた者とが共に共存する姿が描かれていきます。そういう結論を分かって読み進めていく時、私たちは神さまの御心が、国々の衰退にあるのでなく共存の平和にあることを見出します。共に生きるようになるために、他者を踏みにじってでも強者であろうとする者が、その性根を叩き折られていくのです。明日は8.15、77年目の敗戦記念日です。77年前を意識しながら、みことばを味わいましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝の箇所は、イスラエルの回復の箇所でした。イスラエルが回復されていくのは、国の衰退という表面的な理由でなく、あなたの憐み、愛、共存の意志のゆえです。神さま、今わたしたちは77年目の敗戦の夏を迎え、戦争の惨禍を思い起こしながら、二度と戦争をさせないためにみことばを読みます。どうぞ私たちに平和の示唆と具体的な取り組みをお示しください。先ずは、平和憲法を維持することができますように。平和の君イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

15日(月) イザヤ書14章3-23節
一言メッセージ:今朝は77年目の敗戦記念日です。今朝の箇所はバビロンの滅亡預言ですが、私たちはこの箇所を、77年前の日本に与えられた言葉のように読んでみたい。というのも、77年前、私たちの国は敗北しましたが、それは日本の支配を受けていたアジア諸国にとっては3節で語られるように、解放の知らせだったのですから。私たちは今朝、バビロン滅亡の預言に、日本のかつての歴史を重ねて読みます。その時私たちは、日本の過ちの数々に気づかされます。例えば、6節でバビロンが力によって諸国を踏みにじり、人々の権利も命も蹂躙してきたことが指摘されます。戦中の日本軍がアジアにて行った虐殺、労働力確保のための人々の拉致、従軍慰安婦はもちろん、同化政策ではそれぞれの国の言語を使わせず、日本語を強要し、母国語を話す者をスパイ容疑で拷問しました(挙句、歴史修正主義の人々は「日本がそんな残虐なことをするわけがない」と主張し、小さな事例による反論を試みますが、そんな数例で全体の残虐行為を否定できるわけがありません。愛国心と妄信的な願望をごちゃまぜにしてはいけません)。また、13節で「お前は心に思った。『わたしは天に上り、王座を神の星よりも高く据え…いと高き者(神)のようになろう』」と書かれていますが、これも、天皇を神とし、「神国」と自称し、「国の危機には神風が吹く」と騒ぎ、最後には「神風特攻隊」と称して、若者たちに自爆テロを強いていく愚行に走った日本の姿と重なります。また20節の「お前は、自分の国を滅ぼし、自分の民を殺した」との言葉も、日本の捨て石にされた沖縄や、少しでも良い和解条件を作ろうとした結果、原爆が投下された広島、長崎のこと(中島文昭協力牧師が生前、5歳で経験した被爆体験を話して下さりながら、何度も悔しそうにこう主張しておられたことを思い起こします)、また「欲しがりません、勝つまでは」とのスローガンのゆえに栄養失調で死んでいった子どもたち、家族の大黒柱を奪われ、路頭に迷った家族、戦後の大量の戦災孤児などなど。国の驕りのために、国内外に多大な犠牲を強いて滅んだバビロンと、77年前の日本の姿は密接に重なります。戦争は勝とうが負けようが、民衆にぬぐいがたい傷を負わせるのです。77年目の敗戦記念日を迎え、私たちは「何があろうと二度と戦争しちゃいかん」と再確認しましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。バビロン滅亡の記述を見ながら、私たちは、勝とうが負けようが、戦争がどれほど大きな傷を国内外の民に強いるのかを観ました。それは77年前の日本の姿でした。神さま、もう二度と戦争させないと誓って制定された憲法の決意を今わたしたちも自分たちの決意とします。どうぞ、世界があなたの平和実現に向けて歩みだせますように。平和の君イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

16日(火) イザヤ書14章24-27節
一言メッセージ:今朝はアッシリアへの預言です。アッシリアは北イスラエル、アラム、ペリシテという反アッシリア同盟を滅ぼし、南ユダ王国に従属を強いた強国でしたが、後にバビロンによって滅ぼされた国です。一時代はエジプトにまで強い影響を与えた強国でした。しかし、彼らもまた、滅びを宣言されます。イザヤは告げます、27節「万軍の主が定められれば、誰がそれをとどめえよう。その御手が伸ばされれば、誰が引き戻しえよう。」人は軍事力などの力によって栄華を誇ろうとします。しかし、人の力など、神さまの前に無力なものです。人は力を破壊できる能力と捉え、軍を誇りますが、神さまの力は創造のために用いられていきます。本当の力とは、相手を滅ぼすためのものではなく、生かすためのものなのです。今、私たちは力を正しく認識し、「平和(シャローム:神の平和を表す言葉。全ての人が、神が与えてくださった命や尊厳を喜び、『今日も生きててよかった』と心から享受し、共存し合う状態)」実現のために用いていきたいものです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。あなたは強国アッシリアの威を退け、破壊でなく、平和実現のために力を奮われる方です。神さま、どうぞ今、世界に平和を実現してください。長引くウクライナの惨状を、ミャンマーやウイグルでの人権侵害を、一部の利益・多数の都合のために原発や米軍基地などの犠牲を強いられる地域を、政治によって無力にされる多くの民を憐れんでください。どうか一日も早く平和シャロームを実現してください。私たちにもその一助を担わせてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

17日(水) イザヤ書14章28-32節
一言メッセージ:今日から三日間、取り上げられるペリシテ、モアブ、ダマスコ(アラム)とエフライムは反アッシリア同盟を組みましたがアッシリアに滅ぼされた3国です。28節では「アハズ王の死んだ年」と記載されています。アハズは反アッシリア同盟加盟を拒否した時の南ユダ王です。彼は同盟を拒否したため、反アッシリア同盟に攻め込まれ、それを撃退するためにアッシリアに貢物を贈り、反アッシリアを背後から攻め滅ぼしてもらいました。聖書研究によれば、28節の「アハズ王の死んだ年」という記載は正確ではなく、正確には「ペリシテを滅ぼしたアッシリアのサルゴンⅡ世の死んだ年と言われます。その年にイザヤは、ペリシテに「アッシリアが滅んだからといって、自分たちは解放されると思ってはならない」と告げています。「蛇の根からマムシが出る(29節)」とあるように、より強大な外敵であるバビロンが攻めてくることが示唆されているのです。そんな厳しい預言の中で私たちの目に留まるのは32節です。イザヤは「シオン(イスラエル)」という弱小国家に注目するように示します。強国の前に吹けば飛ぶような弱小国に過ぎないのに、「その基を据えるのは主」であり、「困窮する民の救いはそこにある」と示します。その意図は「人間は目に見える強さによって物事をはかる。しかし、本当の強さとは主にこそあり、主は弱くされた民と共におられ、民を受け入れられる方だ」と告げるのです。戦争の世紀と言われた20世紀を終え、21世紀に入った途端に世界は2001年のニューヨークの同時多発テロを目撃し、それ以後も暴力による圧政は世界各地で続いています。また、一見すると落ち着いているようですが、世界は長引く不況と政治によって、民衆がじわじわと苦しめられ続けています。今わたしたちは「本当の力とは神にあり。神は民をご自身に招いてくださる」ことを改めて思い起こしていきましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝、ペリシテへの警告を読みながら、力とはあなたにこそあること、そしてあなたは民をご自分に引き寄せ、慰めと平和をくださる方であることを分かち合いました。戦争の世紀と言われた20世紀を終えたのに、私たちは新たな世紀に入って22年、未だに争いや力による理不尽に直面しています。神さま、あなたの平和を願い求めます。どうぞ世界に、あなたにこそ力と平和があることを悟らせてください。平和の君イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

18日(木) イザヤ書15-16章(今日は2章分です)
一言メッセージ:昨日のペリシテへの警告に続き、今朝はモアブの滅亡預言です。全体を通して、モアブがアッシリアによって滅ぼされていくことの描写が長大に書かれていますが、気になる箇所が2箇所あります。15.5「わが心は、モアブのために叫ぶ」と、16.11「わがはらわたはモアブのために、わが胸はキル・ヘレスのために、竪琴のように嘆く」です(キル・ヘレスは7節の「キル・ハレセト」と同じで、どちらも15.2の「キル」を指しています)。今朝の箇所ではモアブの滅亡が淡々と語られてきたような印象ですが、この2箇所を見ると、神さまが自分の身を切られるような思いでモアブの滅亡を語ってきたことが分かるのです。「罪ある者が滅亡していく様を、神は自らの痛みと受け止めながら嘆く」というのはエレミヤ31.20でも記されますが、ここに私たちは神さまの真意を見出します。神さまは「罪人は滅びて当然」と切り捨てる神ではありません。民の罪はうやむやにできないけれど、その罪のためにご自分も共に痛みを味わう方です。罪人を赦し、生かすために、御自分も共に痛みを引き受けてくださる方なのです。これが「憐れみ」です。考えてみますと、私たちも皆、神さまの憐みによって救われました。だからこそ、今ある命を感謝し、神さまに応答して生きる者でありたいですね。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝はあなたが、モアブのために自ら痛みを負って嘆いてくださる姿を読みました。あなたは罪人を切り捨てるのでなく、その者に伴いながら、立ち返り、生き直すことを促してくださる方です。私たちもそうやって、救われました。神さま、どうぞあなたの救いを喜び、感謝して今を生きる者であらせてください。平和の君なる救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

19日(金) イザヤ書17章1-11節
一言メッセージ:今朝は「ダマスコとエフライム」への預言です。ダマスコはアラム王国の首都であり、エフライムは北イスラエル王国のことです。この箇所は反アッシリア同盟が滅ぼされていく様を描いた箇所です。注目したいのは7-8節です。神さまはアラムも北イスラエル王国も滅亡することを語っていますが、しかし7節「その日には」と、神さまの救いによる回復の時が来ることを語っています。そして、「その日」に民が気づくのは、自分たちがご利益を求めて信じていた神々(バアル、アシェラなど)はしょせん「自分の手が作り、自分の指が作った祭壇」でしかなかったことです。ここが人間の弱さですが、人間は時に、自分たちの願望を正当化するために「神」を作り出します。自分たちの都合で信仰を操作し、自分に有利なように他者を縛ろうとします。例えば、恐怖で人を縛り、信じられない額の献金を強要したり、犯罪行為に手を染めさせる旧・統一協会などのカルト宗教はその例です。でも、私たちはそこで冷静に、本物の神さまを見極めねばならないのです。戦時中、天皇を神とすることによって多くの国民やアジア諸国の人々の生活と尊厳と命を奪った愚行を二度と繰り返さないように、私たちは神さまを正しく神さまとしてまいりましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝わたしたちは、アラムと北イスラエル王国滅亡の預言を読みながら、自分たちの願望を正当化するために神を作ることの愚かさを考えました。私たちの国もかつて、天皇を神とし、その結果、戦争の大惨禍を行ってしまいました。神さま、私たちは二度と道を誤りたくありません。どうぞいつも、あなたに誠実に向き合う私たちであれますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

20日(土) イザヤ書17章12-14節
一言メッセージ:今朝の箇所の表題は「諸国民のどよめき」です。何による「どよめき」かと言いますと、ペリシテ、モアブ、アラム、北イスラエルを滅ぼし、南ユダを従属させ、エジプトと対立し、強大な力を誇り、紀元前7世紀前半には世界の覇権を握ったアッシリアが、その数十年後には急激に衰退し、バビロンによって滅ぼされようとしているため、です。諸国は強大な力を誇ったアッシリアが、かくも脆く滅びる様子を目の当たりにし、「いかにすれば生き残れるか」と時代を先読みしようと騒ぎ経っているのです。しかし預言者は言います。13節「国々は、多くの水が騒ぐように騒ぎ立つ。だが、主が叱咤されると彼らは遠くへ逃げる。」本当に頼るべきは誰か、信じるべきは誰か。彼らは神さまの力の前に、己が驕りを恥じ、退くのです。さて、今朝の箇所は「諸国民が退いて終わり」なのでしょうか。いいえ、イザヤは2章の終末預言で、諸国の民が主の前に集い、争いを止め、武器を捨て、殺し合うのでなく共に生きる世界を目指して歩みだすことを預言します。その過程として、諸国は今、退くのです。世界が本当の平和に気づき、その実現に一歩踏み出すには、彼ら自身が戦争の愚かさと平和の尊さ、その実現の手段のために自分たちが何を行うのか、気づく必要があるのですね。私たちは既に神さまの平和を気づかせていただいた者として、争いを止め、互いを否定すること(武器)を手放していきたいものです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝読んだ箇所は、諸国民が本当にあなたの平和に気づくために、大混乱を経験することでした。それまでの、自分たちの力に頼る生き方が無駄であったことを悟り、本当の平和に気づき、実現のために一歩踏み出すには、時間がかかります。それは今の世界も同じです。神さま、どうぞ世界があなたの平和のヴィジョンに気づきますように。力による支配でなく、互いを認め合う共存を目指していくことができますように。戦後77年目の今、平和の君イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

***







スポンサーサイト



7月31日~8月13日のみことば - 2022.07.30 Sat

7月も終わりを迎えようとしています。
暑さも本番を迎え、熱中症の注意報が出る日もちらほら。
どうぞみなさん、体調第一に過ごしてくださいね。

教会では、感染対策をしながら礼拝を続けていますが、不安な方にはオンラインでの礼拝参加も呼び掛けたりしながら、体と心の健康を保ちながら過ごすようにおすすめしています。
そして、これはコロナ感染症が流行し始めてからずっと私たちが言い続けていることですが、「コロナにかからないのが一番いいけれど、もしもかかってしまってもどうぞ連絡してください。つらい時だからこそ孤独にならないで、祈ってつながりましょう。」と呼びかけています。
現代は、「ご近所付き合い」や「親戚付き合い」そのほか、様々な人間関係でも、あまり深く付き合うことをしなくなってきました。わずらわしさから解放された面もあるかもしれませんが、誰かに頼ったり、頼られたりしながら支え合う機会も減ってしまったのかもしれないなとも思います。
「だれかに迷惑をかけてはいけない」という思いは、人を孤立させていってしまうことも多々あります。だから、教会では「お互いに迷惑をかけない」ではなく「お互いに困ったときはまず祈り合おう、支え合おう」と考えています。
そして、だからこそ、そんな教会の交わりは弱さをさらけ出してもいいほっとできるものなんだなとコロナ下になって改めて感じています。
こんな素敵な交わりに、一人でも多くの方が集ってくださることを願っています。

今週も皆さんの歩みが神さまに守られますように。

***

※聖書の箇所は日本聖書協会の聖書本文検索から読むことができます。⇒こちら
 ページの下のほうにある「書名・章・節から探す」に以下の事項を選択・入力してください。
・訳名選択     : 新共同訳
・旧新約・続編選択 : 旧約聖書
・書名選択     : イザヤ書
・章選択      : 該当章数を入力(章まで入力するとその章すべてが表示されます。)


31日(日) イザヤ書11章1-11節
一言メッセージ:今朝は番外編で、イザヤ書11章の「神の国」預言と現行憲法の話をしたいと思います。イザヤ書11章が示す「平和実現」は「子どもたちが争い合わず、兄弟のように育てる未来を作るために、親たちが過去の対立を乗り越えようと努力し始めることであり、その民に寄り添い、彼らの痛みや苦しさを受け止め、共に生きる救い主が与えられ、神の平和のヴィジョンが多くの人に共有されていく」です。私はこのヴィジョンを現時点で最も的確に訴えているのが現在の日本国憲法前文と思っています。憲法前文を、下線部に注目しながら読んでみてください。
日本国民は正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民と協和による成果と、わが国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基づくものである。われらはこれに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義を信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う。われらは全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和の内に生存する権利を有することを確認する。
われらは、いずれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従うことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立とうとする各国の責務であると信ずる。
日本国民は、国家の名誉にかけて、全力をあげて崇高な理想と目的を達成することを誓う。
  前文を読みますと、憲法の目的は「政府の行為によってふたたび戦争の惨禍が起こることのないように」、世界に平和を実現することにあると分かります。そのために憲法は3つの原則を作りました。先ずは「平和主義」です。9条でも記されますが、日本国憲法は武力行使を拒絶し、「平和を愛する諸国民の構成と信義を信頼して」平和であろうと考えました。そして、「平和主義」を守るために、「国民に主権」を与えて、「政府の行為に」よる戦争を回避させようとしたのです。私たちの主権は「戦争をさせないため」に、先の戦争の惨禍を繰り返さないために託されたのです。しかし、私たちは時に権力の前に自分たちを無力と感じてしまいます。そこで憲法は「基本的人権を尊重(「平和を愛する諸国民」や「全世界の国民が欠乏から免れ、平和の内に生存する権利を有する)」することを憲法で定めました。さらに何がすごいって、この憲法は「周辺国は知らんけど、日本人はこうやって生きていきます」という視野狭窄ではなく、「平和を愛する諸国民」「全世界の国民が」と語り、「世界の人々が戦争の無い平和を願っているし、誰もがちゃんと命を喜んで生きることができる権利がある」と定めています。つまり、世界の人々と共に生きることを憲法は願ったのです。私は憲法前文を読みながら、イザヤ書が語る「皆が過去の対立を乗り越えて互いに尊重し合って生きられるように、子どもたちの未来を守るために、今、自分たちが努力を始めよう」という平和実現の方向性と重なって読めるのです。だから、結論としてこう言います。私たちの国の憲法は現時点においても世界で最も先進的な平和実現を目指しており、戦争と暴力の拒絶という、まだ世界が到達し得ていない高い理想を謳っています。それは、イザヤ書が示す平和実現と重なっています。だからこそ私は憲法を守らねばと思うのです。明日から8月、平和を覚える時です。戦後77年目、平和実現を机上の空論にせず、子どもたちの未来のために歩みだしましょう。私たち自身がまず「平和を実現する者(マタイ5.9)」となっていくのです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝はイザヤ書11章と現行憲法を重ねて読みました。現行憲法はイザヤ書の示す平和実現のために与えられた具体的な力です。改憲を訴える人々もいますが、どうぞ、この憲法の精神を分かち合いながら、この憲法に基づいて平和実現を訴えていくことができますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

8月1日(月) イザヤ書11章11-16節
一言メッセージ:神さまの平和預言(11.1-10)直後の箇所ですが、11節で「その日が来れば(10節冒頭と同じ)」とあるように、これは1-10節の神の平和が具体的に実現した時に預言でもあります。11節で描かれているのは「御自分の民の残りの者を買い戻される」です。政治的混乱や戦乱、強国による滅亡などによって捕囚となっていた歴史など、これまでイスラエルが経験していた様々な状況によって散り散りにされていたイスラエルの民が帰還してくるというのです。11節の「アッシリア」は北王国を滅ぼしたアッシリアであり、「エジプト、上エジプト、クシュ」はアフリカ大陸の雄エジプト、「エラム、シンアル」はバビロンを、「ハマト」はシリア地方、「海沿いの国々」は地中海沿岸地に逃げ、あるいは捕囚として暮らしていた人々を指し、彼らが皆帰ってくると記します。さらに13節では「エフライムとユダ」が言及されますが、エフライムはかつての北イスラエル王国の中心部族で、ユダは南ユダ王国です。北王国滅亡の決定打となったシリア・エフライム戦争で双方が敵対して戦争しましたが、その対立の歴史も乗り越えられていくのです。14節は「イスラエルが逆に近隣国を侵略している」みたいに見えますが、9.11との関係で見ると、奪われていた土地を取り戻すというニュアンスです。15節はエジプトに、16節はアッシリアに囚われていた人々の帰還の預言です。私たちには土地名や民族的対立と敵対関係はよく分かりませんが、要素だけ抽出するなら、この箇所では「力の支配によって虐げられていた民の権利が回復され、あらゆる敵意が乗り越えられ、皆が本来生きていた場所にて生きられるようになる」との預言です。今日から8月に入ります。神さまのみことばから「平和(シャローム)」を意識し、過去の戦争を思い起こし、現在の世界を見渡し、未来のこどもたちに同じ過ちや悲しみを負わせないために、平和を祈り、行動する時です。その始まりの日、私たちは散らされていた民の帰還と和解、共存が、神さまの平和の姿と分かち合いました。さぁ、これを現実化するため、今わたしたちは、そして世界は何から取り掛かるでしょうか。この8月、共に平和を祈ってまいりましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝はあなたの平和の実現がイスラエルの民にとってどんなものであるか、そのみことばを分かち合いました。そこに書かれていたのは、あらゆる民の帰還であり和解であり、共存でした。神さま、世界はまだまだあなたの平和(シャローム)と程遠いです。でも戦後77年の今年、私たちはまたみことばから平和を分かち合い、どう実現できるか、模索してまいります。どうかあなたの平和を実現してください。そのために私たちも参与することができますように。平和の君イエスさまの御名で祈ります。アーメン。
※明日から11日まで牧師の夏季休暇のため、みことばメールはお休みです。時々、イザヤ書11章1-10節のメールを振り返りながら、平和(シャローム)実現をお祈りください。


12日(金) イザヤ書12章1-6節
一言メッセージ:ご無沙汰していました。夏季休暇を終え、久留米に戻ってきました。今日からみことばメール再開です。さて、再開一発目は神さまの救いへの人々の応答です。イザヤは1節で「あなたは言うであろう」と、神さまの救いを体験した個々人の応答を語り、4節では「あなたたちは」と、今度はイスラエルの民衆の応答を語っています。1-3節では一人ひとりが神さまに「慰められた、救われた」と語ります。ここで注目したいのは、ここでは一人ひとりが神さまの救いを「この社会のこと、国のこと」以前に、「私の事柄」と実感していることです。彼らは自分たちの生活で神さまの救いを変化として感じているのです。その具体例が3節です。この「泉に水が湧き、皆が水を飲める」ということは、乾燥地帯であるイスラエルの民にとって極めて現実的な恵みでした。ちなみに、この光景は小学校の時にフォークダンスで踊った「マイムマイム」のオリジナル描写です。あの曲の歌詞は「マイム、マイム、マイム、マイム、マイム・ベッサッソン」でしたが、ヘブライ語「マイム」は「水」です。私たちはよく分からないままに踊ってましたが、あの曲は「水や、水!水が出た~♪」という喜びの歌です。さて4-6節は民が集団として神さまの救いに応答する箇所です。注目したいことは、彼らは神さまが自分たちに成してくださった事柄を諸国民への証としていることです。それも「私たちはこんなに祝福された。いいだろ?」との自慢でなく、「このちっぽけな自分たちを顧みて、信じられないほどに救ってくださったのは、ただ祝福に満ちた神さまのゆえ」と、神さまを強調しているだけなのです。8月は平和について考える時です。戦後77年、私たちが語り足りていなかったことは「平和の尊さ」だったかもしれません。戦争の悲惨さは様々聞いてきまし。けれど、伝え聞いた言葉はどうしても薄れてしまいます。では、戦後世代にとって語れる言葉は何か。それは、伝え聞いてきた戦争の悲惨さと共に、「今、私たちはそんな悲惨な歴史の上に、平和の一端をいただいている。武器を捨てると憲法に記したからこそ、戦後77年、戦争に巻き込まれずにこれた。でも、この平和はまだ、未完成であること。もっと実感をもって、もっと広げて、それこそ世界に平和を実現していこう」と感謝と夢を語っていくことなのかもしれません。神さまの平和シャローム実現はまだ私たちに託された使命ですね。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝の箇所では、あなたの救いを経験した民が、個々人の生活においてもあなたの救いを実感していたこと、民衆としてはその救いを証しとして全世界に告げようとしていたことを分かち合いました。神さま、戦後77年、私たちもそこに示唆を見出します。戦争の悲惨さと共に、憲法が戦争を拒否したからこそ私たちが享受できた平和の喜びと証を今度は私たちが身近なところから世界へと告げる番なのかと思います。神さま、どうぞ世界にあなたの平和シャロームを実現してください。私たちにその一端を担わせてください。77年目の8月に平和の君イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

13日(土) イザヤ書13章1-22節
一言メッセージ:今朝の箇所はペルシア王キュロスによってバビロンが滅ぼされていく預言です。記述では、バビロンが徹底的に破壊されていく様を描いていますが、史実はまるで違います。バビロンはキュロス王に対して無血降伏したのです。バビロンの最後の王ナボニドスはその悪政により、既に将軍たち、民衆、バビロンの神マルドゥクの祭司たちからも見放されていたようです。一方、キュロス王は支配した地域に対して穏健な統治を行っています。その土地の信仰を認め、政治的自治もある程度を認め、捕囚民は解放して自分たちの故郷に戻ることを認めています。徴税や賦役は軽くはなかったものの、非人道的な無茶な支配は行わなかったため、バビロン側の民衆や祭司たちが無血開城して、バビロンは滅びたのでした。それが2節の「手を振り、貴族の門から入る」との記述です。では、今朝の箇所後半で「神の怒り」として街が破壊され、バビロンの民が殺害される記述は何か。それは、それまでのバビロンの、自らを神かのごとく振る舞う支配に対して、彼らが所詮人間でしかなく、神を自称するおこがましさを示すために、非常に対照的に記した記述のようです。先月の祈祷会ではハバクク書を読みました。ハバクク書1章では、バビロンによる南ユダ王国滅亡時の攻撃の激しさに「ここまでするのか」と嘆く預言者ハバククの呻きが書かれていましたが、2.2-4で神さまは「(私の業は)必ず来る」と語り、王が強い力を誇っても、所詮、人間に過ぎないと記していました。事実その言葉どおりバビロンは、かつての隆盛を知っている者から言えば信じられないような無血降伏で滅びていくのです。今朝のイザヤ13.22で神さまは言います、「今や、都に終わりの時が迫る。その日(神の救いの日)が遅れることは決してない。」今朝は8/13。77年目の配線記念日を前に、私たちは神さまの平和実現を改めて祈らされます。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝、私たちはバビロン帝国の滅亡の記事を読みました。そこには、甚だ無残な記述が並びます。けれど史実は、バビロンの無血降伏でした。預言者はその滅亡に、神さまの御業を見たことでしょう。神さま、今、私たちの国は77年目の敗戦記念日を控えています。そして、私たちは戦争の惨禍を繰り返さぬべく作られた憲法の改憲危機を迎えています。どうか私たちにあなたの平和を示し、その尊さと、「護ろう」との言葉と勇気と機会をお与えください。平和の君イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

***






7月24日~30日のみことば - 2022.07.23 Sat

いよいよ小学校などは夏休みに入りましたね。
子どもたちには楽しい夏を過ごしてほしいと思いますが、感染拡大で出かけるにもいろいろと考えてしまう状態です。
落ち着いたと思ったらまた感染拡大。いつまで続くのかと見えないトンネルを通っているような気持にもなります。

聖書の「詩編」にはそんな先の見えない状態の中で「神さまなぜですか?」「神さまいつまでですか?」と問いかける詩がたくさん記されています。自分に敵対する者に対しての思いをつづる文章では、時々「え!聖書にこんなこと書いてあるの?」と思うほど過激なことが書いてあることもあります。
でも、そんな苦難の中で神様に訴える詩編は、ほとんどの場合最後は「神さまは素晴らしい。ハレルヤ」というような言葉で終わります。
わたしたちも日々様々な困難の中で「なぜ?」「いつまで?」と問いたい思いを抱えています。でも、聖書はそれもいつかは神さまへの賛美に変わっていくことを伝えています。
それがいつになるか私たちには、わかりません。
でも、私たちを愛しておられる神様は必ず解決の時を与えてくれるのだと信じて、この大変な時を乗り越えていきたいなと思わされています。

今週もみ言葉に励まされながら歩んでいきましょう♪


***

※聖書の箇所は日本聖書協会の聖書本文検索から読むことができます。⇒こちら
 ページの下のほうにある「書名・章・節から探す」に以下の事項を選択・入力してください。
・訳名選択     : 新共同訳
・旧新約・続編選択 : 旧約聖書
・書名選択     : イザヤ書
・章選択      : 該当章数を入力(章まで入力するとその章すべてが表示されます。)

24日(日) イザヤ書8章23節後半-9章6節
一言メッセージ:昨日の続きです。昨日は「神さまの情熱で平和が実現していく、とイザヤが預言した」ことを読みました。今朝は預言の内容5-6節に注目します。イザヤは「ひとりの男の子が『私たちのために生まれた』」と語りますが、この子について「その名は『驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君』と唱えられる」と説明しています。その言葉を1つずつ短く考えていきたい。①「驚くべき指導者」を英訳聖書で見ますと「ワンダフル カウンセラー」と書かれています。カウンセラーには「相談者」という意味がありますが、聖書が語る「驚くべき指導者」とは「民の声を聞き、理解する者」という意味合いがあります。②「力ある神」の「力」とは誰かと誰かを比べて「こっちが強い」と比較できるような力ではありません。強調すると「限界の無い絶対的な力」です。③「永遠の父」の「永遠」とは、限りの無いことから派生して「不変」を意味します。いつ、いかなる時にも、私たちがどういった状況に陥っていても、決して変わることのない保護者としていてくれるのが「永遠の父」です。④「平和の君」の「平和」はヘブライ語のシャロームです。シャロームは単に「戦争が無い」ではなく、「生きとし生けるものが本来、神さまが与えてくださった命を喜び、共に生きている状態」です。イザヤの語った4つの言葉のイメージをまとめましょう。「この子は、民の現実を自ら味わい、彼らの声を知り尽くし、圧倒的な神の力と不変の存在として私たちと共に生きてくださり、誰もが『生きててよかった』と神に感謝するような命を与えてくれる方」です。イザヤは続けて6節で、このみどりごによって「平和は絶えることがない。王国は正義(神の恵み)と恵みの業(誰もが当たり前に生きられる社会)によって、今もそしてとこしえに、立てられ続ける」と語ります。救い主が実現するものは「永遠の平和」です。まもなく、8月に入ります。戦後77年、戦争を直接知っている世代が減る中で、その「二度と戦争を繰り返しちゃいかん」との言葉をどう引き継ぎ、皆で共有し、子どもたちに伝えていけるか、課題です。そんな私たちにイザヤ書は「民の生身の声を知る」から始まる平和実現のヒントをくれています。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝は、未来ある赤ん坊の誕生に神さまの平和の実現を見たイザヤの言葉を読みました。そのことばは今の私たちから見ても理想的ですが、実現の遠い言葉でもあります。でも神さま、あなたは私たちに平和を実現させようと願ってくださいます。どうぞ私たちが平和を諦めず、一歩ずつでも、誰もが互いに尊びあって生きる平和実現に向けて歩みだせますように。平和の君イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

25日(月) イザヤ書9章7節-10章4節
一言メッセージ:今朝の箇所は非常に分かりにくいですが、昨日まで読んでいた「南王国への裁き」ではなく、「北王国への裁き」です。聖書の記述が込み合っていますが、まぁ、結論部分で言えば、北も南も大差ありませんので、普通通りに読んでいきましょう。今朝の箇所では4回にわたって「しかしなお、主の怒りはやまず、御手は伸ばされたままだ」が繰り返されます(それぞれ、11節、16節、20節、10章4節の末尾)。先ず、この箇所の構成を理解したいのですが、7節の「主は御言葉をヤコブに対して送り」とありますが、「御言葉(ダーバール)」というヘブライ語は「出来事」とも訳せる言葉です。つまり、神さまは4回にわたって北王国に悔い改めのチャンスとなる出来事を与えたが、彼らは神さまに応えず、そのチャンスを無下にした。だから、「主の怒りはやまず…」だと言うのです。1回目のチャンスは7-11節にある「北王国が反アッシリア同盟を組むとき」、2回目のチャンスは12-16節で「指導者も宗教者も神の御心を考えず、目先の同盟に頼ろうとしたとき」、3回目のチャンスは17-20節で「同じ北イスラエルのマナセ族とエフライム族で敵対したとき」、4回目のチャンスは10.1-4で「貧しい者を見捨て、権力者の私利私欲で国が突き進んでいたとき」です。それぞれに共通するのは「その時々に、神さまの御心を求め、自分たちの在り方を見返せばよかったのに」です。ユダヤ人のことわざの「人は後ろ向きに進む」という言葉があるそうですが、これは「過去を振り返りながら、見えぬ未来に向かって生きるのが人間」という意味だそうです。未来は見えなくとも、過去を振り返りながら歩めばいい。しかし、北王国の民は自分たちの利益と都合だけで過去も神さまも見ずに突き進むのです。私たちはイザヤ書を読みながら、過去の過ちを繰り返さず、神さまの御心を求めて歩む者でありたいですね。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝は北王国への裁きの言葉でした。神さま、あなたは何度も民にご自分に気づくためのチャンスをくださったのに、民は己が都合、己が利益、己が知恵に固執した結果、あなたを見失い、滅びました。神さま、私たちは過去の歴史とあなたの御心に注視しながら生き方を模索します。どうぞ、あなたの平和に向けて一歩ずつでも歩み出す私たちであれますように。平和の君イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

26日(火) イザヤ書10章5-19節
一言メッセージ:今朝の箇所はこれまでには珍しく、アッシリアに対する裁きの言葉です。5節でイザヤは人間の社会では絶対的な軍事力を誇るアッシリアを「神の鞭、神の杖」と説明し、南王国を正すためにアッシリアを用いたと語ります。つまりイザヤは「アッシリアは南王国を懲らしめるための道具」と言うのです。しかし、8-11節でアッシリア王は自分の力を誇り、驕ります。カルノ、カルケミシュ、ハマト、アルパド、ダマスコはそれぞれアッシリア王が滅ぼした街であり、「サマリアもエルサレムも必ず同じようになる」と驕ります。これに対してイザヤは15節以下で「道具が神のように振る舞うとは何事か」と叱責するのが今朝の箇所です。イザヤの「所詮、王も人間に過ぎない。神の前に驕ってはならない」という理解は極めて的確です。人は神ではないのです。だから、どれほど力を持とうと驕ってはならない。以前、ある牧師の息子から父親(とっても情熱的な牧師で説教中によく泣く)の説教の話を聞きました。「皆さん、私たちは神さまを『主』と呼びます。一方、人間で力を持ち、てっぺんまで上り詰めた者を『王』と評しますが、『王』と『主』の漢字の違いに注目してほしい。『主』は『王』から切り離されて、なお上に『てん』が乗っている。つまり、『主』とは人間が決して到達し得ない、卓越した存在なのです。」彼はこう語りながら、泣いていたそうです(笑)。「何も泣かんでも」と思いますが、とても印象的で大事な示唆です。人間は神にはなれない。ゆえに、神に対して驕ってはいけません。さすがに私たちは「王」にはなりませんが、それでも「王」のように振る舞う者を前にしても「あなたは主なる神ではない」とちゃんと理解し、振り回されず、御心を求める者でありたいですね。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。イザヤはアッシリア王の驕りを指摘し、「人間が神にはなれない」と明確に語りました。私たちはその確固たる指摘に、人間の傲慢さと神さまの尊さを思い起こします。神さま、私たちはいつもあなたの御心を求め、その示唆に生きる者に、力に惑わされぬ者としてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

27日(水) イザヤ書10章20-27節
一言メッセージ:昨日の箇所でイザヤは「アッシリアがたとえどれほど強大であっても、所詮は人間に過ぎず、本当に頼るべきは神さま」と語りました。そして、今朝はアッシリアの滅亡も語り始めます。20-23節ではアッシリア滅亡の預言です。そこでは何度も何度も「イスラエルの残りの者が帰って来る」と語られます。とても考えさせられるのは「アッシリア滅亡時に帰って来る者は『残りの者(わずかな者)』」ということです。アッシリアが滅亡に至るまでの間に、多くの民がその強大さに「結局、アッシリアには誰も歯向かえない」と心折れてしまっている。人間は終わりの見えぬ苦しみにとても弱いのです。「いつまでこの苦しみ、痛みが続くのか」と思う時、私たちはまるで永遠に苦しみ続けると勘違いして、早々に心折れてしまいます。でも、神さまは24-27節で語ります。「かつて、あなたたちの先祖を奴隷として苦しめたエジプトさえ、私の前に屈したではないか。その私が今、お前たちに救いを語っている。」今朝の箇所は「辛い状況下でも、なお神に希望を持ち続けなさい」との促しです。アウシュヴィッツ強制収容所を生き残った精神科医ヴィクトール・フランクルは収容所を生き残った人と生き残れなかった人の違いを「希望を持ち続けられたかどうか」と説明しています。希望がいつ実現するか分からなくても、希望があると信じ続ける者は生き残っていく。イザヤも今朝「強大な人間ではなく、神にこそ目を向け、希望を保ちなさい」と促してくれます。私たちも、神さまの平和シャロームに実現を期待して祈り続けましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝の箇所にてイザヤは「強大な力に屈するのでなく、神に希望を保ち続けなさい」と促します。私たち人間は目の前の現状で右往左往します。けれど「驕れる人も久しからず」のように、権力を振るう者も一時の存在に過ぎません。神さま、どうぞ私たちは一時の出来事に惑わされず、あなたの御心を追い求め、あなたに希望を持ち続ける者であれますように。平和の君イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

28日(木) イザヤ書10章27節後半-34節
一言メッセージ:話が行ったり来たりしていますが、今朝の箇所は反アッシリア同盟が南王国に攻め込んできた時の描写です。なぜ、それが分かるかと言えば、27節後半から32節に至る町の名前が南王国の町々だと言われるからです。詳しいことは分かりませんが、このルートはエルサレムに至る主要道路ではないそうです。主要道路にはラマ(29節)という防衛の要衝があるそうですが、反アッシリア同盟はそのルートを避け、防衛体制が希薄なルートを通ってエルサレムに近づきます。だから29節の「ラマは震え」は、防衛拠点が取り残されて周辺が次々と陥落していく様子に、「えっ!思ってたんと違う!」と動揺し、かといって出陣しても平野での合戦では撃破されかねない、という想定外の事態に慄いている描写なのです。人間、「想定外」に弱いです。想定内の出来事には落ち着いて「こうやって、こうやって、こう対処する」と整理して動けるのに、想定外の事柄には頭も体も反応が遅れます。いや、想定外が大きすぎると思考停止にもなり、現実逃避が始まり、「あいつが悪い、こいつが悪い」と無駄な責任転嫁を始めてしまいます。この時の南ユダは正にそうだったでしょう。反アッシリア同盟の想定外の侵略ルートに動揺しまくっている。でも、そこでイザヤは言います。「『万軍の主なる神(33節)』が今、自分たちに何を示しているのかを模索しなさい」と。それは、「本当に頼るべき方(神)を思い起こしなさい」でしが、アハズ王は愚かにもアッシリアという強国に頼ることしか考えませんでした。私たちも想定外には弱いですが、でもその時にも「神さま、今、あなたは私たちに何を示し、どう促しておられますか」と祈り、冷静な目と先の先を見通す知恵を持つべく、日頃から神さまの御心を模索する習慣をつけておきましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。私たちは「想定外」には弱く、その度合いによって思考停止に陥りがちです。でも神さま、私たちはそんな状況に陥っても、あなたを思い起こし、祈る冷静さをお与えください。あなたに祈り、心と思考を落ち着かせ、あなたの御心と導きを模索する信仰をお与えください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

29日(金) イザヤ書11章1-5節
一言メッセージ:イザヤ書11.1-11は「神の国」預言です。私が「平和」について考える時、必ず思い浮かべる箇所の1つです。というのも、この箇所は現代の世界がいかに平和を実現するのか、そのヒントが満載だからです。2日に分けて読んでいきます。今朝は1-5節を選びました。ここでは、神の御心を行う指導者の登場が書かれるのですが、先ず1節が非常に面白い。「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで」とある。「エッサイ」はダビデの父親ですからダビデ一族を意味するのでしょうが、「株」は「切り株」です。つまり「ダビデ家がかつての栄華を失い、滅び去ったその時」に、「若枝」が芽生えると11章は語り始めます。2節「その上に主の霊が留まる」の「留まる」は「宿る」とか「特別な力を与える」というニュアンスに聞こえますが、別訳をすれば「どっこいしょと座り込む」です。「はぁ?これが救い主の姿?」と疑問が湧いてくる記述です。多くの人にとって「救い主とは誰にも屈しない強い力と優れた知恵を持ち、世界を席巻する」ヒーロー像を思い浮かべてもおかしくないのに、聖書の記す救い主像は「民衆と変わらず地べたを這うような中に生まれた普通の若者に、神の聖霊が『どっこいしょ』と腰掛ける」ことから始まるのです。なぜ、それが救い主なのか。3節で「(彼は)目に見えるところによって裁きを行わず、耳にするところによって弁護することは無い。弱い人のために正当な裁きを行い、この地の貧しい人を公平に弁護する」と記されます。それは、社会的弱者に寄り添い、彼らの言葉にならぬ思いに耳傾け続ける者です。つまり、神の示す救い主とは強大な力を持つカリスマでなく、民衆と共に生き、民に寄り添う方なのです。イザヤ11章は「神の国」の実現のために、民に寄り添う者の存在を先ず示したのです。さぁ、本題は明日です。明日は6節から読みましょう。
祈り:天のお父さま、今朝のみことばをありがとうございます。今朝から私たちはイザヤ11章の「神の国」預言を読み始めました。この言葉は現代に生きるすべての人々が耳を傾け、平和実現のヒントとする金言です。そのはじめに、あなたは「民に寄り添う」ことを教えてくださいました。神さま、私たちはそんな方を知っています。イエスさまです。明日も続きのみことばを読みますが、どうぞ戦後77年目の今、私たちはイザヤ書に平和実現にヒントと、イエスさまに伴われながら一歩を踏み出す勇気をいただけますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

30日(土) イザヤ書11章6-11節
一言メッセージ:「神の国」の平和実現を告げる箇所です。6節から既に不思議な言葉です。「狼は小羊と共に宿り、豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち、小さい子どもがそれらを導く。」イザヤが告げた言葉は弱肉強食の世界で、食ったものと食われたものが共存している光景です。これは理想的だけれど夢想でしょうか。いいえ、西南神学部の旧約学の教師である日原広志師はかつて7節の厳密なニュアンスを含め、こう訳しました。「母牛と母熊が自分自身を奮い立たせて、『おともだちになろう』と語り、共に干し草を食らう。その時、その子どもたちは兄弟同然に育つ。獅子は草を食べる、あのうちに従って。」厳密な訳が意味することは以下です。①母牛と母熊はかつての弱肉強食の歴史を覚えていて、共存することにぎくしゃくとしている。②しかし、母親たちが自分を奮い立たせて必死に共存を目指す時、子どもたちは過去の経緯を超えて、兄弟のように互いを理解して生きていける未来がきている、③後半で「あの牛」と定冠詞がついているのは、おそらくこの牛と獅子はかつて、弱肉強食の時代に何らかの形で出会っており、どちらもその記憶を覚えている。しかし、牛はそれでも獅子に共存のための草食を伝え、獅子も過去を乗り越えるために草食を覚えようと努力している、です。ここから何が分かるかと言うと、「傷つけあった歴史はそう簡単に乗り越えられないと聖書は知っている。でも、親世代が子どもたちの未来のために、自分たちで過去の対立の歴史を引き受けて生きようと一歩踏み出す時、未来は変わっていく」です。実際、親世代が自分たちを必死に律する2つの理由があります。1つは、6節の終わり「小さい子どもがそれらを導く」です。大人たちは子どもたちの未来のために、自分たちを奮い立たせるのです。2つ目は9-10節が語るように、皆が神の平和のイメージを共有し、目指しているし、昨日読んだ1-5節に書かれた「民衆に寄り添う救い主が自分たちに伴ってくれることに励まされて、過去を乗り越えようと努力を始める」からです。「神の国」預言の実現は難解です。でも、私たちが本気で平和を実現しようとした時、世界は変わり始める。聖書はそう私たちを励ましているのです。
祈り;天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。イザヤ書は「神の平和実現」のために、今の大人たちが必死になって過去を乗り越えようと努力し始めることを示唆しました。神さま、私たちの世界には多くの対立があり、互いがそれぞれの正義を主張し合っています。でもあなたは民に寄り添う救い主を通して、子どもたちに平和な未来を遺したいと願う民の努力から平和は実現すると告げられました。神さま、私たちは子どもたちに平和を遺したいです。どうぞ一歩ずつでも、私たちに努力を始めさせてください。平和の君イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

***






7月17日~23日のみことば - 2022.07.16 Sat

各地で雨の被害が報じられています。
空梅雨から一転、戻り梅雨?それとも、すでに夏の豪雨なのでしょうか。
ともかく、被災された地域の方々が一日も早く安心した生活に戻れるようにお祈りしています。
まだまだこれから夏本番。
感染者も増えていますし、皆さんの安全と健康が守られますようにとお祈りしています。
教会も、気を付けつつ礼拝を継続します。
会堂に来るのが心配な方は、ホームページでメッセージ音声を、YouTubeでメッセージ動画を配信していますから、どうぞご活用くださいね。

それでは、今週のみ言葉をどうぞ!!

***

※聖書の箇所は日本聖書協会の聖書本文検索から読むことができます。⇒こちら
 ページの下のほうにある「書名・章・節から探す」に以下の事項を選択・入力してください。
・訳名選択     : 新共同訳
・旧新約・続編選択 : 旧約聖書
・書名選択     : イザヤ書
・章選択      : 該当章数を入力(章まで入力するとその章すべてが表示されます。)


17日(日) イザヤ書7章1-9節
一言メッセージ:1-17節は大事な箇所なので、二日に分けて読んでいきます。この箇所における南王国は非常に切迫した状況です。北王国、アラム、ペリシテの連合軍が攻めてきたのです。新共同訳聖書の後ろに記される地図1「聖書の古代世界」を参照ください(時代は違いますが、位置関係を知るためです)。当時の世界は、チグリス川中流域を中心に勢力を誇っていたアッシリアが強国でした。アッシリアは北イスラエル王国、アラム、ペリシテに莫大な貢物を要求し、従属させようとしました(地図5「南北王国時代」を参照)。それに反発した三者は互いに結託して反アッシリア同盟を結び、南王国にも同盟に加わるように迫ります。しかし、ここがアッシリアの上手なところで、アッシリアは南ユダ王国には貢物を要求しませんでした。後にエジプトと戦うことになる際に、政治的・軍事的な緩衝地帯とするつもりだったし、同時に、仮に北王国などが反旗を翻したとしても、多大な圧迫を受けていない南ユダはすぐに同盟に加わって強大なアッシリアに反旗を翻さないだろう、という外交戦略でした。この戦略が見事に当たります。北王国、アラム、ペリシテが反アッシリア同盟を組み、南王国に加盟を求めますが、南ユダは拒否。反アッシリア同盟は自分たちの背後の南ユダ王国がアッシリアと戦う際の脅威になると考え、だから今朝の箇所にて南ユダ王国に攻めてきたのでした。2節を見ますと、南王国の王家(ダビデ家)も民衆も震え上がっています。その時、イザヤはアハズ王と面会し、神さまの言葉を告げます。3節「落ち着いて、静かにしていなさい。恐れることはない。彼らはすぐに滅ぶ。彼らがどれほど脅威に思えようと、私があなたを守る」と。今朝注目するのは9節の終わりです。イザヤは「(信じなさい。)信じなければ、あなたがたは確かにされない」と告げます。「信じる」のヘブライ語の「アーマン」です。この言葉を厳密に訳しますと、受身形で「固く信じさせられなさい」です。分かりにくい表現ですが、「信じさせていただく理由を得る」ことは「神によって固く支えられなさい。神さまが守ってくださる」と、神さまの行動があるからこその約束になるのです。今朝わたしたちはここに神さまと私たちの相互関係を見出します。神さまは私たちの信仰にしっかりと応えてくださる方です。今朝は礼拝の日ですが、今朝も共に神さまを固く信じ、神さまによって強く支えられましょう。
祈り:天のお父さま、今朝のみことばをありがとうございます。神さま、人は危機的状況に陥る時、あなたを忘れ、自分の力、周囲の力への注視と算段ばかりに終始してしまいます。でも、あなたはそんな動揺する南王国に「私を信じなさい。わたしはあなた方を守る」と呼び掛けてくださいます。神さま、その促しは今も変わらず与えられています。どうぞ私たちを守り、御心のままにお導きください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

18日(月) イザヤ書7章10-17節
一言メッセージ:昨日の続きです。反アッシリア同盟が南王国を攻めてきた時、神さまはイザヤを通してアハズ王に「自分を信じなさい。私が守る」と呼び掛けました。イザヤは続けて「主なるあなたの神に、しるしを求めよ」と告げます。アハズはその言葉にどう反応したか。12節で彼は「わたしは求めない。主を試すようなことはしない」と告げます。一見すると「主を試さない」は敬虔な言葉にも見えますが、アハズは「神という不安定な存在に頼らない」と拒否したのです。実際この後、アハズはアッシリアに貢物を贈り、反アッシリア同盟を攻めてもらうことで、自国への侵略を阻止します。しかし、後にこれが愚策であったことが明らかになります。反アッシリア同盟を撃退したはいいものの、その後、南王国がアッシリアによって重い従属を強いられるようになるのですから。神さまはそんな歴史の流れを知るからこそ、それを回避させるべく、イザヤを通してアハズ王にさらに信じられるように「しるしをあたえる」と約束されたのです。それが14節後半です。この言葉に私たちは何か思い出しませんか?これはマタイ1.23、イエスさまの誕生の時に引用されるインマヌエル預言のことばです。あのイエスさま誕生に繋がる「わたしはあなたがたと共にいる」預言はこの状況、つまり祖国存亡の危機の中で、動揺し怖じ惑う人々に対して語られたのです。神学者カール・バルトはこのインマヌエル預言について「神はイエス・キリストにおいて永遠に罪人と共にあることを覚悟された」と語っています。私たちはアハズを反面教師とし、神さまが本気で私たちと共に生きてくださっていることを喜びながら、新たな週を歩みだしましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝のみことばに私たちは驚きました。あなたが救い主誕生を語られた預言は、祖国存亡の危機に動揺する人々に「私があなたと共にいて救う」と語られた言葉でした。アハズや南王国の民はその言葉を受け止めませんでした。でも神さま、今わたしたちはあなたの預言がイエスさまにおいて成就し、今の私たちはあなたに寄り添われて生きていることを思います。どうぞ、今週もあなたが共にいて、私たちを生かしてくださっている感謝を思って過ごすことができますように。イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

19日(火) イザヤ書7章18-25節
一言メッセージ:今朝の箇所は昨日の箇所14-17節で神さまが「わたしは南ユダ王国を救う」と語った預言の内容部分です。神さまは、神さまを捨て、力と策に頼り、アッシリアからの独立を画策する北王国、アラム、ペリシテへの滅亡を語ります。注意したいのは21-22節で、国は滅びても人々は「子牛一等、羊二匹の命を救い」、その家畜が出す乳や野の蜂の蜜で生き残ると語られていることです。25節でも荒廃した土地に人々が足を踏み入れるには多大な労苦をせねばならないのに、家畜には自然のままの放牧地となっていきます。神さまのことばは完全な滅びでなく、国が亡びながらも民はその時になって「生かされると知る」と告げるのです。それまでの「富や栄華に固執する生き方」は崩壊しますが、不思議とその時にこそ「日々、神さまの守りによって生かされていた」ことを体験していく。そこに、日々生かしてくださる神さまへの感謝と、他者と共に支え合って生きていく実感が生まれるのです。聖書が示すこの「感謝と共生の生き方」は現代の世界にも必要なこと。今朝は改めて神さまへの感謝と、他者と共に生きていくことを喜びスタートしましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝の箇所は北王国の滅びの預言でしたが、その言葉には、それまでの「富や栄華に固執して」きた北イスラエルが、あなたに生かされていることを体験してあなたへの感謝に生きること、だからこそ他者と共に生きる者とされていくことの示唆がありました。神さま、私たちはみことばから「感謝と共生」の大切さに気付きます。どうぞ今日の一日、あなたへの感謝と他者との共生を意識して過ごせますように。ウクライナに一日も早い平和を実現ください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

20日(水) イザヤ書8章1-4節
一言メッセージ:昨日まで読んでいた箇所は、反アッシリア同盟に怯え切った南王国に「安心して神に信頼し、守られなさい」との流れのことばでした。それは、南ユダ王国に対しては現実的に「アッシリアに取り入って安全を模索してはいけない。それは結局、自分たちの首を絞めることになる。あなたたちにとって最善の選択はただ神さまに頼ること」というメッセージでした。そんなメッセージを体現するように、今朝の箇所でイザヤに息子が誕生します。名前は「マヘル・シャラル・ハシュ・バズ(「分捕りは早く、略奪は速やかにくる」という意味)」です。我が子につける名前としてはひどい意味ですが、これは南王国への公的な警告なのです。「アッシリアに頼ると、結果、南王国自身も早急に衰退していく」と告げたのです。聖書研究によれば、イザヤはこの子が7.14で神さまが救いの約束として与えてくださった「男の子」だと考えていたようです。だからこそ彼は8.18で「わたしと、主がわたしにゆだねられた子らは、…主が与えられたイスラエルのしるしと奇跡である」と語っているのです。イザヤは神さまが示した未来の希望を人々が喜んで受け止め、国は立ち返ると思ったことでしょう。けれど、民はあまりにも目先のことに執着し、苦難の先にある祝福を信じない。目先ばかりで未来を観ない民に、イザヤの切実な訴えは続いていきます。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。イザヤが告げた預言は、未来の祝福でした。けれど、王も民も目先の利に留まり、国は正されません。神さま、わたしたちはイザヤの預言を見ながら、「私たちは目先に捉われず、神さまが約束くださる未来の祝福を信じ、ワクワクしつつ歩もう」と思います。どうぞ、私たちの毎日を目の前の出来事に誠実に向き合いつつ、未来のお約束を覚え続ける日々としてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

21日(木) イザヤ書8章5-15節
一言メッセージ:5-8節は神さまの託宣の形式が語られる言葉。「シロアの水」はエルサレムのギホンの泉からの湧き水でエルサレムの籠城時の生命線となる水です。今朝の箇所で「民はシロアの水を拒み」とは神さまの「守る」という約束を拒み、反アッシリア同盟に屈してしまう状況を指す言葉です。イザヤは13節などで「万軍の主をのみ、聖なる方とせよ。あなたたちが畏るべき方は主。御前におののくべき方は主」と訴えながら、14-15節で「神さまを畏れないなら、神さまが民の“つまずきの石、妨げの岩”となってしまう」と警告するのです。「神さまが民の躓きの意志となる」とはどういう意味でしょう。それは「神さまは目で見えず、手で触れられないから、民が不安に陥り、分かりやすい確証を欲してしまう」です。心情的には分かりますが、でも、そこで私たちは冷静に考えましょう。身近で触れられるものは本当に頼りになるのか。「溺れる者は藁をも掴む」のが人間ですよ。歌手のさだまさしさんのステージトークで好きな話があります。コンサートの合間の移動日のこと、台風が接近しているが、どうしてもその日のうちに移動せねばならず、飛行機に乗ったそうです。突然の強風に煽られ、飛行機は上昇したり、エアースポットで下がったりと、不安定な飛行だった。隣ではマネージャーがガタガタ怯え、飛行機が上下する度に「ひぃっ!」と声を上げて座席の手すりを握りしめる。それを見ながらさださんが言ったそうです。「バカだねぇ。堕ちる時には手すりも一緒に堕ちるのに。」ものすごい的確な指摘でしょ?そうです、堕ちる時には手すりも一緒に堕ちるのに、その手すりにしがみついて身の安全を確保してしまうのが人間です。イザヤの指摘は同じです。「本当に助かりたいなら、人間に頼ってどうすんだ。神さまに頼らんと意味がない」って。私たちは神さまを信じたのは、このお方が私たちの神であり、イエスさまが救い主だと信じたからです。「だったら大事な時にこそ信じんでどうする?」なのです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。私たちはイザヤの言葉から「本当に信じ、頼るべき相手は誰か」と問われました。私たちはあなたを信じながら、危機の時にあなたを忘れてジタバタ足掻いていたかもしれません。神さま、あなたを信じます。どうぞいつも、私たちに信頼と期待を強く湧き起らせてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

22日(金) イザヤ書8章16-23節前半
一言メッセージ:今朝の箇所は16-18節と19-23節で分けて読む箇所です。16-18節は13節で「万軍の主をのみ、聖なる方とせよ」と語った言葉のとおり、イザヤと弟子たちが神さまに誠実に生きる記述です。注目したいのは17節です。当時の社会は経済格差が広がり、弱い立場の民は奴隷に身を落として人身売買され、富む者、権力を持つ者の横暴ははびこっていました。でもイザヤは17節で「神さまの御心と程遠い現実が今、起こっているが、それでもなおわたしは、主に望みをかける」ことを語りました。ここに私たちは「信じるとは」を教えられます。信じるとは「私の願いどおりだから」行えるものでなく、自分の願いと違う現実においてなお貫くことです。一方、19-23節は民の反応です。彼らは神の分かりやすい反応(超常現象、目を見張るような奇跡)が起こらないため、自分たちで超常現象を求め始めます。「口寄せ(いたこ)」や「霊媒」です。20節にあるように、彼らは「聖書のみことばにはまじないの力は無い」と軽視し、分かりやすい超常現象に縋ろうとしました。この姿は時代を超えて、人間の弱さを示します。人は誰でも自分を超える絶対者を求めますが、残念なことに多くの人はその絶対者を目先のご利益やまじないや超常現象という分かりやすさで測ろうとする。その結果、本当に信じられて、頼るべき方を見過ごしてしまう。イザヤは23節で言います。「彼らに苦悩を逃れる術はない。」私たちは「本当に信じ、頼るは神さま」を再確認しながら、今日をスタートしましょうね。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。民は分かりやすい超常現象(口寄せやまじない)に走り、イザヤはまっすぐにあなたを信じ抜きました。頼るべき相手を知らぬ者と知る者の違いでした。神さま、私たちもイザヤたちと同じく、あなたを信じます。どうぞ今日もあなたに誠実に向き合い、一日過ごせますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

23日(土) イザヤ書8章23節後半―9章6節
一言メッセージ:今朝の箇所はイエスさま誕生を待つ期間(アドベント)で読まれることが多い箇所です。それは5節の「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた」がイエスさま誕生と重なって読まれるからですが、イザヤ書の状況で言えば、この記述はヒゼキヤという若い王の即位時の言葉と考えられます。非常に大事な箇所なので2日に分けて読んでいきます。
今朝は状況的なアプローチで読みます。8.23後半に「海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは栄光を受ける」、2-4節では戦争終結の描写が描かれます。これは前王アハズ時代に北王国、アラム、ペリシテが反アッシリア同盟を組んでアッシリアと戦争した(シリア・アッシリア戦争)後に関連する描写です。戦争によってアッシリアは反アッシリア同盟を滅ぼし、その土地を支配します。23節はその、それぞれの土地を指しています。「海沿いの道」はペリシテ、「ヨルダン川のかなた」はアラム、「異邦人のガリラヤ」は北王国です。23節にて神さまは、そんな支配された地域の解放の兆しを語るのです。1節以下もそうです。南王国もアッシリアを使って反アッシリア同盟を撃退し、外交上は成功したかに見えましたが、アッシリアは今度、南王国に従属を求め、多額の貢物を要求してきました。その結果、南王国の民は絶望し、それが1節の「闇の中を歩む民」であり、「死の陰の地に住む者」という表現に繋がっていました。しかしイザヤは「その時代が終わる」と語る。それがヒゼキヤ王の即位です。イザヤはこの王を通して神は南王国を救ってくださると見ています。それも4節の描写では、民は戦争の道具を焼き捨て、「もうこれで二度と戦争はしない」と解放まで期待したのです。では、イザヤのこの期待の根拠は何でしょう。それは6節です、「万軍の主の熱意がこれを成し遂げる(神さまの情熱が民に平和を実現させる)。」私たちも神さまの平和の実現を切望します。神さまが実現くださる平和、そのために私たちは今、何ができるのか。まもなく8月、平和を覚える月です。今わたしたちは、一刻も早いウクライナの停戦や、私たちの国が二度と戦争できる国に戻らないこともよりいっそう、しっかりと祈り始めましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝の箇所は南ユダ王国の政策の大失敗によってアッシリアの支配を受けていた状況が、神さまの情熱によって終えられていく預言でした。神さま、私たちはイザヤの言葉を読みながら、現代の社会においても続く戦争や、権力者の間違った政策によって民が苦しめられている状況を思い起こします。神さま、どうぞ私たちにもあなたの平和を実現し、お与えください。平和の君イエスさまの御名で祈ります。アーメン。


***








7月10日~16日のみことば - 2022.07.10 Sun

7月10日は選挙の投票日ですね。
皆さんは、投票に行かれますか?(もしくは、期日前投票に行かれましたか?)

投票日直前にとてもショックな事件があり、心が揺さぶられています。
しかし、このような事件に触れて一層、暴力によって問題を解決することはできないし、
決してしてはいけないことであると痛感させられます。
神さまはわたしたちに言葉を与えてくださいました。私たちは対話をすることができる者なのです。
議論を投げ出したくなる時や、言葉に詰まるとき、言葉にすることが難しい時も、決してこの対話から逃げてはいけない。忍耐強く向き合っていかなければならないと感じています。

主よ、どうかあなたのもとに召された魂を慰めてください。
この地に人間の限界によって描かれる「正義」、力による「正義」ではなく、神さまあなたの真の正義と平和が実現しますように。
この選挙にあなたの御心がなりますように。

今週もみ言葉にききつつ、歩んでいきましょう。
※写真は3日の公団のお花。教会員の方のお庭や畑でとれたお花を活けてくださいました。きれい。

20220703flower.jpg

***

※聖書の箇所は日本聖書協会の聖書本文検索から読むことができます。⇒こちら
 ページの下のほうにある「書名・章・節から探す」に以下の事項を選択・入力してください。
・訳名選択     : 新共同訳
・旧新約・続編選択 : 旧約聖書
・書名選択     : イザヤ書
・章選択      : 該当章数を入力(章まで入力するとその章すべてが表示されます。)

10日(日) イザヤ書5章1-7節
一言メッセージ:今朝は参院選の投票日ということもあり、今日明日の箇所を入れ替えて読んでいきます。というのも、この箇所は今日読んでおきたい大事な警告だからです。今朝の箇所は1つの例え話となっています。注意して読みたいのは1-2節と3節以下の「わたし」が違う人物であることです。1-2節の「わたし」は預言者であり、「わたしの愛する者」とは神さまを指しています。そこでは、預言者が「神さまは素敵なブドウ畑を持っていた。十分に管理して育てていたのに、実ったのは酸っぱい(腐った)ぶどうだった」と嘆いています。では3節以下の「わたし」は農夫である神さま自身です。神さまは「わたしは精いっぱい手入れをしてきたが、どうしてぶどう園であるイスラエルは正しい実りを実らせなかったか。正しい実りを生まないならば、その畑を放置する」と語るのです。7節でイザヤは6節までの例え話を解き明かし、ヘブライ語の韻を踏んで「主が待っていたのは『(ただしい)裁き(ミシュファート)だったのに現実は『流血(ミスパハ)』、『正義(ツェダカー)』を願ったのに『叫喚(ツェアカ)』が生じた」と嘆くのです。なぜ、イスラエルはそんな惨事に陥ったのか。それは8節以下にあるように「富める者(権力者)」の横暴の故です。権力を持つ者がいかなる者か、正しく政治を行うか、私たちもしっかり判断して一票を投じましょうね。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝、私たちの国では参議院選挙が行われます。この選挙の後3年間、国政選挙はありません。だからこそ、3年間の政治を決定づける大事な選挙です。どうぞ、あなたの裁き(ミシュファート)と正義(ツェダカー)をより明確に実現できる動きを起こしてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン

11日(月) イザヤ書4章2-6節
一言メッセージ:今朝の昨日は順番を入れ替えて聖書を読んでいます。今朝の箇所はとてもイザヤらしい預言の言葉と思います。全体として希望のメッセージですが、その希望は2節で「その日には、イスラエルの生き残った者にとって…」とあるように、イスラエルが滅亡した後に希望を見いだすことが言われているのです。滅亡前の人々にとって希望とは祖国が生き残ることであったでしょうし、滅亡することは絶望と感じていたはずです。そういう意味では、祖国が滅ぼされた時点で民は落胆し、生きる気力も失いかけたはずです。けれどイザヤは「そこにこそ神の希望がある、主の若枝は育つ」と告げる。かつて恩師の関田寛雄牧師は「キリスト教信仰はいつも『にもかかわらず』の希望」と語りました。私たちの願い、望みが潰えても、その先になお神の希望は与えられている。正に今こそ「にこかかわらず」の希望を追い求めていきましょうね。
祈り:天のお父さま、今朝のみことばをありがとうございます。今朝はあなたの希望の不思議さを分かち合いました。あなたは私たちの望みの尽きる時になお望みを湧きおこらせてくださる方です。私たちはそこに「望みは神さまにこそある」と知らされます。神さま、どうぞあなたの御心を私たちの社会に、世界に実現してください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

12日(火) イザヤ書5章8-24節
一言メッセージ:今朝の箇所では6つの「災いだ」との言葉が続けられます。それは、裕福な都市貴族たちの横暴への裁きの言葉です。では6つの「災い」は何を意味しているでしょうか。1つ目は8-10節で、貴族が土地を独占する様子です。この背後では貧しい人々が借金のカタに土地を奪われ、生活の術を奪われていく状況があります。神さまは経済格差が生じ、貧しい人々が生きていけず、自己責任のように切り捨てられていく社会を「災い」と告げました。2つ目の「災い」は11-17節で、朝っぱらから酒をかっくらう貴族です。彼らは神さまの御心を思わず、民を顧みないため、15節にあるように「人間(弱い民)が卑しめられ」ていくのです(2.9にも出てくる言葉)。3つの「災い」は18-19節で、「むなしいもの(偶像)」を神としてご利益を求めていく行為です。4つ目の「災い」は20節、自分の都合によって正義が捻じ曲げられていく社会です。5つ目の「災い」は、富む者、利益だけに固執する馬鹿が「私は賢い」とふんぞり返っている状況です。6つ目の「災い」は、自分の都合だけで驕り高ぶる者です。この6つの「災い」は古代イスラエルに語られたはずなのに、そのままの今の日本にも当てはまっています。なぜか。それは、人間の欲はいつの時代も変わりなく、独占的、独善的だからです。「わたしや身内を優先して」という心理は誰の心にも生じるものです。だからこそ、神さまはそんな自分本位なまま権力を振り回す人間を「災い」と語りながら、「神と共に、他者と共に生きる」世界を訴えるのです。今後も紀元前8世紀の富むイスラエルに語られた神さまのみことばを、今のわたしたちの社会と重ねながら読んでいきましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝の箇所にてあなたは、富と権力を集中する貴族に6つの「災い」を語りました。その言葉はそのまま、今の日本にも当てはまることを思います。神さま、私たちは歴史に、またみことばに学びます。どうぞあなたが警告された過ちに戻ることないように、私たちに私たちが生きる社会を整えさせてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

13日(水) イザヤ書5章25-30節
一言メッセージ:研究者によれば、今朝の箇所は9.20の後に繋がる箇所だったと言われます。9.7-20は、神さまが北イスラエル王国への裁きを語った言葉ですから、当然、今朝の箇所も北王国に向けての裁きとなります。時期は、北イスラエル王国やアラムが反アッシリア同盟を結び、南王国を引き込もうとして失敗し、南王国が引き寄せたアッシリア軍と戦うことになったシリア・エフライム戦争の直前です。ですから、26-30節の「遠くから襲来してくる敵」はアッシリアを指しています。この預言は当時の人々には「そんなわけない」とあざ笑われる内容だったと思われます。だって「神が敵国を使って、自分を信じる国を滅ぼす」なんて、理解できない内容だったからです。しかし私たちはちゃんと区別しながら考えておきたい。神さまは国や王政を滅ぼしますが、民を滅ぼし尽くすとは言っていないのです。国とは所詮、人が都合によってつくった制度としての群れで、この制度は福利厚生などの充実は人々が助け合って生きるための大切な制度ですが、一方、その弱さは仲間意識が強くなりすぎて群れ同士の対立や敵対関係を生み出しやすくなります。例えば、日本は1902年にはロシアの侵攻に対抗するためにイギリスと同盟を結んだ(日英同盟)のに、1941年の太平洋戦争時には「鬼畜米英」と宣伝に、イギリスも鬼畜生扱いし、その宣伝に乗っかった日本人たちは本気でイギリスを敵意の対象にしていたことなどです。この群れ意識は時に神さまの御心をも見失わせます。それこそ「神は敵国アッシリアを用いて、御自分の国を滅ぼすわけがない」という思い上がりです。今朝の箇所はそんな私たちにピシッと「神とはいかなる方か」を示します。神さまは正義の方であり、私たちが勝手に敵対する国々をも治める方なのです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝の箇所はアッシリアによる北イスラエル王国滅亡預言でした。イザヤの言葉を聞いた人々は「神が敵国を用いてご自分の国を滅ぼすなんてありえない」とあざ笑ったでしょう。でも、そこには大きな誤解があります。あなたは正義の神であるのに、その正義を勝手に群れ意識に落とし込んで、「自分たちは裁かれない」との傲慢さを生んでいました。神さま、私たちはいつもあなたに対して甘えと同時に節度を、親しみと共に敬意を忘れずに信じ従う者であらせてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

14日(木) イザヤ書6章1-13節
一言メッセージ:今朝の箇所はイザヤが預言者として召命を受けた物語です。大事な箇所なので3日に分けて考えていきたいと思います。ある時、イザヤは幻を見ます。その幻は天上にて行われている神の神殿の光景です。神殿の上方にはセラフィムが飛んでいます。セラフィムは蛇の胴体で人の顔を持ち、手足と6枚の羽根を持つとされる想像上の生き物です(むちゃくちゃ気持ち悪い)。6枚も羽があるのに、2枚で顔を覆い、2枚で足を覆っているので非効率的な飛び方ですが、これは「神の姿を直接見たら死んでしまう」という理解と、「足は汚れる箇所なので、神に対して足裏を見せることはできない」との理解によるのでしょう(飛び方を想像するとますます気持ち悪い)。セラフィムに関しては「天的な存在ですら、神の前に畏れおおいと示していた」くらいに理解したらいいです。そんな神の荘厳な神殿にイザヤは突然、来てしまったという幻です。話を理解するため、6章ではイザヤが見たものを5つに分けて物語を読みます。イザヤが見た1つ目のものは「神の姿」です(1節)。3節でセラフィムは神に対して「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、血をすべて覆う」と語っています。「聖なる」はヘブライ語のカドーシュで、それは「汚れていたものがきれいになる」という意味の「清い」ではありません。「そもそも汚れなどと無縁の、あらゆる存在と隔絶された聖なるもの」という「聖さ」です。さらに「栄光」はヘブライ語のカーボードで、それは「重さ」とも訳されます。つまり、「主の聖なる威光は世界の隅々まで威厳をもって覆い尽くす」と言うのです。イザヤはそんな絶対的に聖く、威厳に満ちた神さまを見たのです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝から私たちはイザヤ書6章から、イザヤの召命体験を読み始めました。大事な箇所だから3回に分けて読んでいきます。神さま、どうぞこの箇所を通して、私たちにも今、与えられている祝福と示唆を分かち合うことができますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

15日(金) イザヤ書6章1-13節
一言メッセージ:昨日からイザヤの召命体験を読んでいます。この箇所を理解するために、私たちはイザヤが見たものを5つに分けて読んでいます。昨日見た1つ目は「神さま」でした。全き聖なる方をイザヤは見たのです。今朝はその続き、イザヤの見た2つめ、3つめを分かち合います。イザヤが見た2つめは「自分自身の罪深さ」です。5節でイザヤはこう言います。「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは穢れた唇の者。穢れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は王なる万軍の主を仰ぎ見た。」昨日分かち合ったように、ユダヤ人は「神さまは極めて尊い方であり、そのお姿を直接見たら死んでしまう」と考えていました。だからイザヤは「あぁ、わたしは神さまを見てしまった。死んでしまう」と叫んだのです。非常に興味深いのは、イザヤが「わたしは汚れた唇の者、汚れた唇の民の中に住む者」と語っていることです。振り返りますと、イザヤは元々祭司と考えられています。神さまの御用のために神殿で働いていた人物ですから、彼は「自分は人々の中で、まだ神に敬意を持つ者」くらいに思っていたかもしれません。でも彼は神さまを見て、その偉大な威光を知った時、「あぁ、私も罪深い民の一人に過ぎなかった」と己の姿を悟ったのです。イザヤが見た2つめのものは「自分自身の罪深さ」でした。嘆くイザヤに6節、セラフィムは祭壇の炭火を火ばさみで取ってくると、イザヤの口に触れさせて言います。「見よ、これがあなたの唇に触れたので、あなたの咎は取り去られ、罪は赦された。」どうして炭火に触れたら赦されるのか分かりませんが(皆さんは炭火に触れるなんて危険なことは絶対にしないでね)、大事なことは、イザヤは赦されたということです。神の前に罪深い人間であった自分すら赦し、救ってくださる神がいる。イザヤが見た3つめのものは「赦し」です。続きはまた明日読みましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝はイザヤが見た2つ目、3つ目を読みました。イザヤが見たものは「自分自身の罪深さ」であり、そんな自分さえも「赦し」、救ってくださる神さまでした。明日も続きを読みますが、どうぞ私たちに深い示唆と今を生きる希望とをお与えください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

16日(土) イザヤ書6章1-13節
一言メッセージ:イザヤの召命物語から、彼が見た5つのものを見ています。1つめは「偉大なる神」でした。偉大なる神さまを見たイザヤは「私は滅ぼされる」と叫びます。彼は2つ目、「自分自身の罪深さ」を見たのです。しかし3つ目、イザヤはそんな罪深い自分さえも「赦し」て救ってくださる神さまを経験しました。彼が見た3つ目のものは「赦し」でした。今朝は4つ目、5つ目を分かち合います。イザヤが見た4つ目は「同胞の姿」です。8節、イザヤは神さまが問う声を聞きます。「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くべきだろうか」と言います。それは神さまのみ言葉を取り次ぐ預言者を求める言葉でした。イザヤは「わたしがここにおります。わたしをお遣わしください」と申し出ます。神さまは9節で「行け」と語り、イザヤを預言者に指名します。しかし不思議なことに続けてこう言われるのです。「行け、この民に言うがよい。よく聞け、しかし理解するな。よく見よ、しかし悟るな、と。この民の心をかたくなにし、耳を鈍く、目を暗くせよ。目で見ることなく、耳で聞くことなく、その心で理解することなく、悔い改めていやされることのないために。」神さまのみことばを伝えるならば理解してほしいし、救われてほしい。しかし神さまは「彼らは理解しない」と語ります。イザヤが見た4つ目のものは「頑なな同胞の姿」です。彼らは神さまのみことばを聞こうとしないのです。しかしイザヤは食い下がります。11節「主よ、いつまででしょうか。」それは希望に満ちた問いです。そこには彼自身の体験があるでしょう。昨日の箇所のように、自分は祭司であり、神さまの御用のために働いており、神さまの御心に適う者だと自負していたイザヤは「私も罪人の一人に過ぎなかった」と理解した。しかし、その自分さえ救われたのです。だからイザヤは問います。「神さま、わたしが救われたのですから、きっとこの民も救われる時は来るでしょう。その時はいつですか」と。神さまが語った言葉は11-13節です。そこで神さまは「南王国が滅亡した後」の救いを語ります。南王国の滅亡後はバビロン捕囚があり、国の主だった人たちがバビロンに連行されます。残されるのは荒廃した土地、街、見捨てられた民たちです。しかし、13節、神さまはその残されたイスラエルに「切り株が残る」と言われます。ダビデ王家の残骸です。しかし、その残骸が「聖なる種子」と語られます。つまり、神さまはこの滅亡し、崩壊したと言われるイスラエルのただ中に、なお希望が芽生えてくると語ったのです。イザヤが見た5つ目、それは「救いの希望」でした。この「切り株」の預言はイザヤが語る神の国の預言11章に繋がっていきます。そこに見られるのは、今の私たちが本当に必要としている神の平和の預言なのです。また11章に手続きを語っていきましょう。
祈り:天のお父さま、今朝のみことばをありがとうございます。今朝までかけてイザヤが見た5つのものを見てきました。イザヤは頑なな同胞の姿と共に、しかし、神さまの救いは必ず実現していくとの希望を見いだしました。神さま、私たちもまた、あなたの希望を欲します。どうぞ、この国に、この世界に、私たちの人生に、あなたの平和を実現ください。御業に期待し、イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

***





NEW ENTRY «  | BLOG TOP |  » OLD ENTRY

プロフィール

久留米キリスト教会

Author:久留米キリスト教会
福岡県久留米市にある久留米キリスト教会のブログです。
わたしたちの教会は、日本バプテスト連盟に加盟する、プロテスタント派のキリスト教会です。
(※ブログに掲載した文章の無断転載はご遠慮ください)

カテゴリ

お知らせ (23)
教会写真館 (28)
踊牧師の一人ごつ (146)
未分類 (171)

カウンター

リンク

このブログをリンクに追加する

検索フォーム