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2021-01

1月24日~30日のみことば - 2021.01.23 Sat

ホームページのお知らせに掲載していますが、先日発表された緊急事態宣言を受けて、久留米教会では水曜・木曜の「聖書の学びと祈り会」、また日曜日の教会学校小学科・幼稚科をしばらくお休みいたします。
また、礼拝は可能な方はYouTubeのライブ配信を通してネット参加してもらうことにしています。
ライブ配信視聴が難しい方は、引き続き感染予防をしながら礼拝堂にて礼拝します。
久留米市でも、感染者が増え、クラスターも起こっていてなかなか第三波の出口が見えずに不安になりますが、聖書の言葉を通して心に平安が与えられますように。
祈りつつこの時を過ごしていきたいと思います。
皆さんのこころにも、神様からくる平安がありますように。。。

**今週のみことば***

※聖書の箇所は日本聖書協会の聖書本文検索から読むことができます。⇒こちら
・訳名選択     : 新共同訳
・旧新約・続編選択 : 新約聖書
・書名選択     : マタイによる福音書
・章選択      : 該当章数を入力(章まで入力するとその章すべてが表示されます。)

24日(日) マタイによる福音書4章12-17節
一言メッセージ:今朝の箇所はイエスさまの宣教の始まりの箇所です。ただ、悲しいことに、イエスアさまの師であるバプテスマのヨハネがユダヤ王ヘロデ・アンティパスによって捕えられます(14章参照。ヨハネが逮捕された理由は、ヘロデ・アンティパスが兄弟の妻へロディアを奪って結婚したことを批判したためです。王はヨハネの影響力を恐れて彼を逮捕しました)。本来であれば、イエスさまも悲しかったでしょう。また私たちであれば、権力の横暴に憤りながらもその力に怯え、口を閉ざすかもしれません。けれど、イエスさまはその時にこそ「悔い改めよ(回心せよ)、天の国は近づいた」と宣教を開始されたのです。私たちは「国」と聞くと「領土」をイメージしますが、イエスさまの意図は「神さまの支配」です。「今、神さまのお執成しが私たちに与えられようとしているだから、神さまに立ち返ろう」とイエスさまは告げたのです。Ⅱテモテ4.2に「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい」とありますが、正にイエスさまは民衆に、「悲しみや恐怖や怒りでなく、今こそ、神さまのお執成しに心を向け、自分たちを正せ」と語ったのです。
  今朝の礼拝から、私たちは緊急事態宣言を受けての対応として、基礎疾患のある方や不安な方はネット配信による家庭礼拝のお願いをしています。「折が悪い」事態です。でも、この時にもみことばに耳を傾け、神さまの御声を聞いていきましょう。神さまが今も私たちに目を留めていてくださり、必ずこの状況をひっくり返し、整えてくださることを覚えましょう。今朝も10:30、会堂やネットで皆さんと共に礼拝できることが嬉しいです。お待ちしています。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。イエスさまの宣教は決して喜びのただ中で始められたのではありませんでした。師であるヨハネの理不尽な逮捕に悲しみ、憤りながら、でもイエスさまは「神さまのお執成しに目を向けよ」と言われました。神さま、今私たちもコロナ禍の渦中でみことばに目を向けます。今朝の礼拝から緊急対応を行っての礼拝となります。皆で集うことはできませんが、折が良くても悪くても、あなたのみことばに生かされ、つながっていることをしっかり感じられますように。イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

25日(月) マタイによる福音書4章18-22節
一言メッセージ:イエスさまが弟子を招いた記事です。私たちは「イエスさまが弟子を招いた」と普通に受け取っていますが、これは当時の常識で言えばとても不思議な事柄です。というのも、当時は師の側が弟子に声をかけるのでなく、弟子入りを希望する者が頼みこんで弟子入りさせてもらい、四六時中、師の周りにいて、その一挙手一投足から学ぶのが当然だったからです。でもイエスさまは自らペトロたちに声をかけ、招かれたのです。神学者のディートリッヒ・ボンヘッファーはこの箇所で「ペトロは自分で回心することはできないが、イエスさまの招きに従って自らの網を捨てることはできた。それが彼の従順の始まりだった」と語っています。イエスさまに従うとは、最初から大きな従順を実現できなくても、今の自分から、一歩を始めるのです。また、神学者ヘンリー・ナウエンはこの箇所でペトロがアンデレと、ヤコブやヨハネと一緒に招かれたことに注目して、「弟子は同労者と共に招かれている。私たちは決して一人でイエスさまに選ばれているのでなく、共に生きる人々と共に招かれている」と語っています。
 私はそれらの言葉を読みながら、教会の皆さんのことを思います。今、私たちはコロナ禍で様々な制限や苦労を強いられています。先の収束への見通しも未だ見えません。でも、そんな時にも私たちはイエスさまに伴われつつ、今日も兄弟姉妹と共に「先ず一歩から、今日の一歩から」と招かれているのです。今日も誠実に一歩ずつ、兄弟姉妹たちを想起して歩み出しましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝のみことばから「私たちは今日もイエスさまに招かれている。教会の兄弟姉妹と共に、一歩ずつイエスさまに従って行こう」との思いを新たにされました。どうぞ今日もイエスさまの促しを誠実に受け止め、小さくとも心を込めてあなたの示唆に応答していくことができますように。イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

26日(火) マタイによる福音書4章23-25節
一言メッセージ:今朝の箇所は明日から読み始める「山上の説教」の導入部です。イエスさまの言葉や行動を聞いた人々がイエスさまのところに集まってきたとの記事なのですが、注目したいのは24節です。「人々がイエスのところへ、いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊に取りつかれた者、てんかんの者、中風の者など、あらゆる病人を連れてきたので…」。人々は自分たちだけでイエスさまのところにやってきたのではありません。自分の周囲でもイエスさまの助けを必要としている人たちを連れてきたのです。人々の間できっとこんなやりとりがあったでしょう。「今から、評判になっとるイエスっちゅう人んところに行くんやけど、お前も一緒に来るや?来るとやったら、背負っていっちゃろうか。」マタイ9.2では、同じように中風の男を連れてきた人々の物語がありますが、イエスさまは「その人々の信仰を見て」、喜び、癒しています。きっと、イエスさまも彼らが病人を連れてきたことを喜ばれたことでしょう。私たちもこの病人をイエスさまのところに連れてきた人々のように、今のこの時代、希望を見失い、孤独を抱える人たちにイエスさまを伝える者でありたいです。教会で作っている小さなトラクトも活用ください。「これ、私が行ってる教会のチラシ。日曜日の礼拝をyoutubeで流しよるけん、見てみらん?」って渡してください。福音伝道は小さな声かけから、です。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝は病人をイエスさまの傍に連れてきた人々の記事を読みました。自分では動くことができない病人たちは、こうやって声をかけてくれる人々がいて、イエスさまのところに赴くことができました。神さま、私たちもかつては、「教会に行ってみらん?」と声をかけてくれた人や、手を引いてくれた人、ポストに入っていた小さなチラシ、道端で見かけたポスターによって、教会を訪ねました。思い返せば、きっかけは小さいけれど、その小さなきっかけを作るために労苦してくれた人がいました。神さま、今、私たちも同じように小さなきっかけを作る者でありたいと思います。私たちに小さな勇気を与え、御用に用いてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

27日(水) マタイによる福音書5章1-3節
一言メッセージ:マタイ5-7章はイエスさまが山上で人々に教えられた「山上の説教」という箇所です。大事な箇所なので、丁寧に読んでいきましょう。今朝の中心箇所は3節です。「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」並行箇所であるルカ6.20では「貧しい人々」です。マタイのように「心の」がありません。分かりやすいのはルカ版なので「貧しい人々」で読んでみます。さて、「貧しい人々」とはどんな人々でしょう。それは、自分の頼みとなるもの、例えば財力や人脈、実績などなどが無く、「今日はどうやって生きればいいだろう」と頭を抱える人々です。イエスさまはそういう人たちを「幸いだ」と語りました。何故ならば「天の国はその人たちのものだから」です。「天の国」とは神さまの守りであり、整えであり、導きです。つまり、「頼るべきあれこれが無い人たちは神さまに頼らざるを得ない。けれど、天地の創造主たる神さまに頼ることこそが最大の頼りである。この人々は『今日をどう食べられるだろう、これからどうなるだろう』と不安に思っているだろうが、その人々こそ、神さまの祝福を最も強く経験する。だから幸いだ」です。今朝の箇所でイエスさまは私たちに伝えます。「幸いな人生の最大の根拠は、他ならぬ神さま」と。私たち、今朝も神さまを信じ、委ねながら歩み始めて参りましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝から山上の教えを読み始めました。今朝はイエスさまのみことばから「あなたに頼る者が幸い」と分かち合いました。コロナ禍の中で多くの人が他人に目がいかず、自分の力や自分の仲間で固まり、「とにかく自分たちが」という風潮が目につきます。そして、誰にも頼ることのできない人々が「自助」「自己責任」の言葉で切り捨てられています。でもイエスさまはそんな世知辛い社会に対して、「神さまに頼る者が幸い」と言ってくださいました。神さま、どうぞ私たち自身が先ずそのことをしっかりと確信し、またイエスさまの救いを周囲にお伝えするものであれますように。どうぞあなたの「幸い」をこの時代に実現してください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

28日(木) マタイによる福音書5章4節
一言メッセージ:今朝のみことばは「悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる」です。これもイエスさまの語った言葉です。にしても不思議です。どうして「悲しむ人々が幸い」なのでしょうか。悲しむからには何かの事情があるのに、どうしてその人々が幸いなのか。イエスさまはその理由を「その人たちは慰められる」と語りました。「慰め」という言葉をギリシア語で確認しますと、パラクレートスという言葉が使われています。パラは「~の方へ」という方向を表す言葉、クレートスは「引き寄せる」との言葉です。つまり「○○の方へ引き寄せられる」のです。では「どの方へ」引き寄せられるのか。ギリシア語文法では「動作の主体が記されない受動態は、隠れた主語が神さま」という、神的受動態というルールがあります。つまり、「悲しむ人々が幸い」な理由とは、「神さまが、その人々を御自分にぐいと引き寄せてくださり、慰めてくださるから」です。ここでもイエスさまが語られたのは、神さまが涙を流す人々を見捨てず、その人々を慰め、整え、救ってくださるから、これから悲しむ人々に神さまの御業が実現するから、幸いなのです。私たちも神さまの実現される未来に期待したいものです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝、イエスさまは「神さまによる慰め」を私たちに示してくださいました。あなたはいつも私たちに目を留めていてくださり、御業をもって私たちを整えてくださいます。神さま、どうか、私たちが自分の思惑や願望ではなく、あなたの御手による整えを待ち望み、幸いを得る者であれますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

29日(金) マタイによる福音書5章5節
一言メッセージ:今朝もイエスさまのことばです。「柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。」「柔和な」と言われますと「優しい」をイメージしますが、神学者エドゥアルト・シュヴァイツアーによりますと、ここは「権力の横暴の前に控え目になり、小さくされた者」というイメージを持つ言葉です。つまり、時の権力者の圧政によって生きる権利や基盤を奪われた人々です。イエスさまはそんな権力者の横暴を前に口をつぐむ人々に対して、昨日同様の神的受動態を用いて、「どれだけ権力者が我が物顔で偉そうしてても、神さまが彼らの横暴を見過ごすわけがない。きちんと神さまの裁きが起こる。そして、あなたたちは自分たちの生活基盤である大地を受け継ぐだろう」というニュアンスが見えてくるのです。さらに深くニュアンスを探ると、イエスさまのイメージする権力者は、イスラエルを植民地支配しているローマ皇帝を感じます。イエスさまは、「神さまの前にローマ皇帝も関係ない。神さまの御心は必ず実現するからね」と語ったのです。私たちは自分たちの目の前の事柄、社会の状況にいっぱいいっぱいになり過ぎて神さまを見過ごしてしまうことがある。でも、人生の導き手であり、頼るべきお方は神さま。その根拠をしっかりと意識して、今日も歩み出しましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝、イエスさまは私たちに、社会の権力云々ではなく、全知全能の主である神さまによって私たちが生かされていることを改めて示されました。実際、権力者は一時的に力を得るでしょうが、彼らの力はあなたの御前にあって、ほんの一瞬に過ぎません。私たちはその一瞬に翻弄されているに過ぎません。神さま、どうぞ私たちが、一瞬に目が奪われるのでなく、永遠の導き手なるあなたに目を向けて、誠実に生きる者であれますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

30日(土) マタイによる福音書5章6節
一言メッセージ:今朝もイエスさまのみことばです。「義に飢え渇く人々は、幸いである。その人たちは満たされる。」「義」は正義とか公正という意味合いを持ちますが、6節のギリシア語原文を見ますと「義」に定冠詞が付き、「あの義」とされています。それは「神さまの義、神さまの正義」です。社会の中で「なんで、こんなことになるの?神さま、どうしてですか?」と訴える人々をイエスさまは「幸い」と語ります。何故ならば、ここ数日ずっと語っていますが神的受動態により、「その人たちは神さまによって、神さまの正義に満たされるから」です。今は社会全体がコロナ禍で不安を抱えています。でも、しっかり覚えて歩みましょう。私たちはひとりぼっちで信仰を持っているのではありません。共に信じ、共に祈り、共に期待し、共に歩む、そんな信仰の仲間たちがいる。そして今日も共に祈り合っています。「神さま、あなたの御心を私たちにも、この社会にも、今、困窮して助けを求める人々に実現しますように」って。さぁ今朝も共に祈りを合わせましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝、イエスさまのみことばは私たちに、神さまの正義がちゃんと実現されていくことを示しました。私たちの訴え、叫び、祈りは虚しく響くのでなく、神さま、あなたに受け止められています。どうか全ての人々が、あなたの正義をいただき、共に今生かされていることを賛美出来ますように。私たちの救い主にして永遠の同伴者なるイエスさまの御名で祈ります。アーメン。

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1月17日~23日のみことば - 2021.01.16 Sat

先週はブルブル震えていたのに、昨日今日は3月の陽気。
天気の目まぐるしいこの頃です。
また、福岡県にも13日に再び緊急事態宣言が出て不安な毎日が続いています。
久留米教会も17日の礼拝ののちは、再びライブ配信を中心とした礼拝にする予定にしています。
また詳細は正式に教会ホームページ(トップページ)にお知らせを掲載する予定です。

新型コロナウイルスによって、集まり、直接顔と顔とを合わせる機会を自粛することが日常化してきていますが、そんな中だからこそ人と人とが「繋がる」ことの大切さ、必要性をひしひしと感じます。
教会も、今しばらく物理的に集まることには慎重になりますが、形は制限されているなかでも、礼拝によって、祈りによって、聖書の言葉によって、そして私たちの信じるイエス・キリストによって「繋がる」ことを大事にしながら過ごしていきたいと思っています。
この「繋がり」に制限はありません。どなたにも開かれている、いえどなたでも神様によって招かれている「繋がり」です。
どうか、この確かな、切れない「繋がり」に、これを読んでいる皆さんも加わってくださることを願っています。

新しい週も皆さんの歩みの上に平安と祝福がありますように。


**今週のみことば***

※聖書の箇所は日本聖書協会の聖書本文検索から読むことができます。⇒こちら
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17日(日) マタイによる福音書1章18-25節
一言メッセージ:昨年のイブ礼拝で取り上げた箇所です。全く予期せぬマリアの妊娠という事実にヨセフは動揺します。身に覚えのない妊娠に「いったい誰の子か?」と苦しんだことでしょう。その苦しみの中でヨセフが行った決断は19節「マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切る」ことでした。事情を知らぬ周囲は突然の離縁に驚き、ヨセフに尋ねるだろう。ヨセフは何も言わない。でも月日が経ち、マリアのお腹が大きくなる中で周囲は、「ヨセフは結婚前にマリアと性行為を行ったが、その後にマリアを棄てたのだ。最低だ」と憶測で批判するでしょう。ヨセフはそんな批判が自分に来ることでマリアの命だけは守りたいと思った。そんな悲痛な決断に対して天使は「マリアのお腹の子は聖霊によって身ごもった救い主だ。彼は民の罪を赦し、救う救い主だ」と告げたのです。23節でマタイ福音書はさらに説明を加えます。生まれ来る子は「インマヌエル」と呼ばれ、その意味は「神は我々と共におられる」だと告げるのです。私たちが注目したのは「共におられる」の「共に」というギリシア語がメタという言葉だったことです。そのニュアンスは「ぬくもりが伝わるほどぴったりと傍に、ギュッと抱きしめる」ほどの「共に」です。ヨセフは予期せぬ出来事に、全て自分で受け止め、無理やり解決させようとしました。けれど、そこに救いはありません。天使は告げます。「ヨセフ、救いは神さまにこそあるんだよ。そして神さまは今、大混乱し苦しむお前をギュッと抱きしめて、共に生きようとしてくださっている。お前を愛し、お前を顧み、お前を整え、お前を導き、お前を救ってくださるのは神さまなんだよ。」ヨセフは天使のお告げを聞き、マリアを迎え入れ、そしてイエスさまが生まれるのです。神さまが私たちと共にいてくださる。ギュッと抱きしめてくださるほど傍らにいてくださる。それは今のコロナ禍にも変わらぬ真理です。私たちは神さまの伴いを思い起こし、元気と勇気と希望とを持って歩み出しましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。みことばは、神さまが私たちをギュッと抱きしめるほど傍にいてくださること、共に生きて下さることを示します。コロナ禍で人と人との関係が希薄になったような今、でも神さまは私たちの傍らにいてくださり、共に生きて下さる。私たちはそんな神さまを思い起こし、また神さまによって繋ぎ合わせられた兄弟姉妹たちと共に生きていく。それは慰めであり、元気の源であり、希望です。どうぞ今日からの一週間も、あなたの伴いを実感して歩めますように。御子イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

18日(月) マタイによる福音書2章1-12節
一言メッセージ:イエスさま誕生物語の1つ、占星術の学者たちの物語です。彼らは今のバグダッドあたりから来たと考えられます。遠い距離だけでなく、多大な時間、その道中の安全を守る自警団、全員分の食料や水分の確保、持参した贈り物などを考えると、彼らがそこまでしてやってこようとした動機が気になります。1世紀ごろの中東の資料によりますと、当時の中東では「平和の君が西方に誕生する」という理解があったそうです。この理解と合わせて考えると、占星術の学者たちは「力によって民を支配する王ではなく、民に平和をもたらし、誰もが当たり前に生きられる世界を守る王、平和の君の到来」を願い、そんな王の誕生としてイエスさま誕生を祝いにやって来たのです。彼らは最初、エルサレム王宮に赴き、ヘロデと対面します。けれどヘロデは、古代の歴史書によれば、自分の王位を守るためには我が子すら殺害した、我欲の塊のような王でした。学者たちは失望し、改めて星に導かれてイエスさまに出会うのです。彼らはイエスさまの姿を見てひれ伏し、拝み、歓喜します。なぜなら、民を救うべく民のただ中に生まれ、民に寄り添い生きる神の子の姿を見出したからです。この物語は今も私たちに大事な真理を告げています。それは、「神さまは私たちを救うべく、私たちのただ中に伴っていてくださる」です。共に生きる神、インマヌエルは今の私たちにも約束され、実現している出来事なのです。私たちも学者たちのように、救い主イエスさまと出会うべく、今日も歩み出しましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。占星術の学者たちはベツレヘムにて救い主イエスさまと出会いました。彼らが見出したイエスさまは貧しい大工の家に生まれた普通の男の子でした。でも、彼らはその姿の中に、主なる神さまが民を救うために、民のただ中に生まれてくださったことを、誰もが当たり前に生きられる平和は民の傍らから実現していくことを悟りました。神さま、どうぞ今の時代に生きる人に、寄り添って生きてくださる救い主イエスさまの福音を伝えさせてくださいますように。イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

19日(火) マタイによる福音書2章13-18節
一言メッセージ:今朝は、イエスさま誕生に自分の王位が奪われるのではないかと恐れたヘロデによる暴挙の記事です。ヘロデはベツレヘム周辺の2歳以下の男の子を殺害しました。私たちはこの物語を読みながら、「子どもたちの死はイエスさまが助かるための犠牲だったのか」と疑問を持ちます。聖書はその考えを否定します。17節を見ますと、「こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した」とありますが、「こうして」と訳されたギリシア語の原意は「その時」です。その意味は、「神さまの御心によって2歳以下の子の殺害が起こった」のではなく、「預言者を通して警告されていたにも関わらず、人の悪意によって暴挙が実現してしまった」となるのです。
  私たちがこの物語から知らされることは2つです。1つは、「人間の暴挙によって悲しい悲劇が生み出されてしまう」という事実です。もう1つは、「神さまはその悲しみを受け止めるべく、救い主イエスさまを私たちの傍らに誕生させられた」ということです。母親たちの悲痛な叫びは虚しく響くだけではありません。神さまがその現実を引き受けてくださるのです。そして、彼女たちの悲しみは時を経て、救い主イエスさまの十字架で確かに受け止められていくのです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝の物語は、私たちにはすっきりと読めません。ヘロデの暴挙によって悲しみが生じました。どうして、あなたはこの悲劇を止めてくださらないのか、と思うのです。でもその一方で、私たちの現実の社会にも説明がつかない悲劇が多々起こるものであることも知っています。今、私たちの生きる時代も新型コロナもそうですし、自己責任の風潮によって必要な助けすら声にできず、頼る者を失って追い詰められる人々が多々あります。今の日本では食べる者が無くて飢える人がいるほどに、社会は弱い人々を追い詰めています。でも神さま、あなたはそんな民の現実を見過ごしにされるのでなく、その人々に寄り添うべく、救い主イエスさまを与えてくださいました。神さま、どうか一刻も早く、慰めを実現してください。助けをお与えください。私たち自身も受けるばかりでなく、共に平和を分かち合い、味わう者であれますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

20日(水) マタイによる福音書2章19-23節
一言メッセージ:今朝の箇所は、エジプトに避難していたヨセフたちがヘロデの死を知り、イスラエルに帰ってくるという記事です。今、意図的に「帰ってくる」と書きました。昨日の2.13以下でエジプトに行ったのだから、「帰ってくる」で良いはずです。でも今朝の箇所の20節で天使はヨセフに、意図的に「(イスラエルの地に)行きなさい」と命じます。マタイ福音書は、旧約の出エジプトのように、民を救うべく、イエスさまがエジプトからイスラエルへと旅立たれたと伝えるのです。
  ここで私たちは2つのことを考えましょう。1つは「イエスさまの終着点はどこか?」です。エジプトを旅立つイエスさまの終着点はエルサレムのゴルゴダです。イエスさまの救いはあのゴルゴダの十字架にて完結するのです。だからこそ、2.11で占星術の学者たちが持参した贈り物は「黄金、乳香」だけでなく、「没薬」がありました。死者の体に塗る油です。マタイ福音書はその始まりから、イエスさまがゴルゴダにて救いを完成されると示唆しているのです。もう1つの問いは「イエスさまに救われる民は誰か」です。それは、理不尽な現実に直面し嘆きながらもイエスさまに寄り添われる民です。言うなれば、私たちなのです。マタイ福音書は今、私たちに告げます。「この物語は救い主イエスさまがあなたを救うために何を語り、何を為されたかを示している」と。私たちはマタイ福音書を読み進める時、「これは私たちのための物語」と覚えながら読んでいきましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝の物語は非常に難解で、普段は読み飛ばしています。でもこの物語が、イエスさまが私たちを救ってくださることを予啓していたことを分かち合いました。これからも、みことばメールにてマタイ福音書を読み進めていきますが、どうぞ記される物語が今の私たちのための物語であることをしっかりと味わって読むことができますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

21日(木) マタイによる福音書3章1-12節
一言メッセージ:今朝の箇所はイエスさまの先達、バプテスマのヨハネが登場します。彼はヨルダン川で人々に悔い改めのバプテスマを促します。彼のもとにはユダヤ教の指導者たちも大勢やってきます。けれど、ヨハネは彼らを批判します。批判の主旨は8節の「本気で悔い改めるならば、悔い改めにふさわしく生きろ」です。10節を見ると、彼は「斧は既に木の根元に置かれている」と告げています。ギリシア語の原文を見ますと、「木」は複数形であるのに対して、「根」は単数形です。何を意味しているかと言うと、人の罪の根本は1つ「神さまの御心を蔑ろにすること」であり、それによってあれこれと起こってしまう出来事が複数の木(枝)だということです。ヨハネは「口先や小手先でなく、神さまと真正面から向き合い、本気で救われることを願いなさい」と告げたのです。私たちはヨハネの勧めをもらいながら、自分自身を振り返りましょう。様々な罪を思い起こしながら、そんな私たちを愛し、赦し、救ってくださっているイエスさまに改めて感謝しましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。バプテスマのヨハネは私たちへの問いかけでした。私たちはちゃんとあなたに向き合えていましたでしょうか。口先だけの祈り、小手先の信仰に陥っていませんでしたでしょうか。もしそうならば、どうぞ私たちの悔い改めを受けとめてください。大きな出来事はできなくとも、小さな働きにも心を込めて、あなたのために行う者となれますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

22日(金) マタイによる福音書3章13-17節
一言メッセージ:今朝の箇所はイエスさまがバプテスマのヨハネからバプテスマ(洗礼)を受けた記事です。イエスさまがバプテスマを希望した時、ヨハネは「わたしの方があなた(イエスさま)から洗礼を受けるべきではないですか。それなのに、なぜ私から洗礼を受けようとなさるのですか」と、思いとどまらせようとします。その時、イエスさまは答えます、「正しいことを行うのは、我々にふさわしいことです」と。私はこのことばにとても励まされます。私たちは本当に不完全な者です。神さまの救いをお伝えすることや、神さまの御業の一端を担わせてもらうなど、本当に畏れ多いし、きっと、職人の作るケーキの飾りつけを赤ん坊がするくらいに、神さまの御業を不格好なものにしてしまうでしょう。でもイエスさまは「不完全であっても、その働きが神さまの喜ばれることならば自粛してはいけない。大胆に担いなさい」と促してくださる。私たちはその言葉に励まされながら、今日も神さまの御業の一端を担わせていただきましょう。出会う人たちへの笑顔、小さな手助け、聖書のみことばをお伝えするメール、誰かを想っての誠実な祈りなどなど。小さな働きを喜んで大きく用いてくださる神さまに期待し、今日もスタートいたしましょう。
祈り:天のお父さま、今朝のみことばをありがとうございます。今朝、私たちは励まされました。あなたに救われ、あなたの御業に参与させていただきながら、私たちは思っていました。「神さまの御業に参与するなんて畏れ多く、神さまの完全な御業をダメにしちゃってないか」と。でもイエスさまはそんな私たちの未熟な働きでも、まるで親が我が子の精いっぱいの誠意を心から喜ぶように、心から喜んで受け止めてくださると教えられました。神さま、どうか私たちの小さな行為を祝福して大きく用いてください。足らぬ力もことばもあなたが補い、御業の一端に用いてくださいますように。一日の始まりにいただいた勇気と元気に感謝し、イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

23日(土) マタイによる福音書4章1-11節
一言メッセージ:今朝の箇所はイエスさまが宣教を開始する前に、悪魔の試みを受けられた、という箇所です。3つの試練を読む前に、小説家の遠藤周作が1972年(49年前!)の朝日新聞の夕刊に掲載したコラム「善魔について」を分かち合いたいと思います。遠藤周作は「フランスの詩人ボードレール(遠藤は学生時代、ボードレールの研究をしていた)によれば、悪魔は自分が悪であることを分からなくするらしい。しかし現代の悪魔は『善魔』と表記するほど、さらに狡猾で、自分が悪どころか正しい者であると思わせようとする」と記しています。この示唆を手掛かりに、今朝の箇所を読んでみたいのです。
  最初の試練で、悪魔は空腹のイエスさまに「死んだらいかん。奇跡の力で、石をパンに変えて食べなさい」と告げました。一見、間違ったことを言っていないですが、イエスさまは「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と聖書のことばで退けました。それは「人はただ食べてりゃいい」のではなくて、「人は神さまと向き合いながら生きる存在だ」という本質を示したのでした。
  次の悪魔は、イエスさまを神殿の屋根に連れていき、「飛んでごらん。神の子なら、神さまが天使に命じてあなたを助けると聖書にも書かれているし」と言うのです。善魔たる理由が見えますが、彼は聖書のみことばを根拠にイエスさまを揺さぶろうとします。でも、イエスさまは「神を試してはならない」と、別のみことばで退けます。悪魔が、自分の都合でみことばさえも利用することを指摘したのです。
  最後に悪魔が行った試練は高い山の頂上にイエスさまを連れていき、「もしわたしにひれ伏して拝むならば、この世界を全て与える」と言いました。イエスさまが世界を治めてくださるならば、それが最善にも思えます。けれど注意すべきは、悪魔は「わたしにひれ伏して拝め」と、つまり「神ならぬ者を神として拝み、礼拝せよ」と迫ったのです。イエスさまは「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」と告げ、悪魔を退けたのです。
  日常生活をおくりながら、私たちも度々、試練に襲われています。神さまの御心ではないのに、まるで正しいことかのように私たちを揺さぶる試練です。でもイエスさまは最善の対処法を示してくださいました。それは、神さまの御言葉であり、神さまの御心を模索して生きることです。今週、私たちは試練に打ち勝ってこれたでしょうか。一人で不安なことも多いでしょうが、大丈夫。明日は礼拝の日、教会の仲間たちと共に神さまの御前に集い、新しい週へと備えをしましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝はイエスさまが受けられた試練の物語を読みました。悪魔は私たちに何が正しいことであるかを惑わし、あなたの御心から私たちを引き離そうとします。振り返れば、確かに私たちの日常は多々、あなたの御心にそぐわないこと、「これくらいならば…」と自分を甘やかすことも多かったように思います。神さま、どうぞ今、改めてみことばを示されましたから、私たちを御心に基づいて整えてください。いつもあなたに誠実に生きる者、イエスさまと共に一歩ずつ確かに歩む者としてください。今週の歩みに感謝し、来週に期待し、イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

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1月10日~16日のみことば - 2021.01.08 Fri

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木曜日から雪が降り始め、降ったりやんだりしながら久留米にも雪が積もりました。
10センチ積もったかどうか…というところでしょうか。
附設幼児園の子どもたちはあちこちから一生懸命に雪を集めて雪だるまや、かまくらをつくっていました♪
まだしばらく雪が降ったりやんだりの天気予報が続いています。雪遊びは楽しいけれど、路面の凍結や水道管の凍結など、また寒さで風邪をひかないように、皆さんも気を付けてあったかくしてお過ごしくださいね。
それでは日曜日からの毎日のみことばメールをどうぞ♪

***今週のみことば***

※聖書の箇所は日本聖書協会の聖書本文検索から読むことができます。⇒こちら
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・旧新約・続編選択 : 旧約聖書
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10日(日) 箴言30章1-6節
一言メッセージ:今朝からは賢者アグルの言葉と記されます。ただし、アグルがどういう人物であるかは不明です。アグルは1節で「わたしは疲れた、疲れ果てた」と語ります。彼は、極めて秀でた人間だと人々に思われるように生きることに疲れ果てたのです。何故ならば、どれほど知恵を知り、人々から賢者と呼ばれるようになっても、神さまの知恵は果てが無く、物事を知り尽くせないと痛感したからです。そこでアグルが到達したのが5-6節です。「神の言われることはすべて清い。身を寄せればそれは盾となる。御言葉に付け加えようとするな。責められて偽る者と断罪されることのないように。」アグルは「神さまの御心は完璧であり、その御言葉は私たちが生きる上で全き指針」と語ります。「律法はこう書かれていても、こういう場合はこう考えてもよくて…」みたいに自分の都合で神さまの御心を捻じ曲げる愚を犯すことなく、ただただ神さまを信じ、実直に生きることが最善だと語るのです。
  私は生まれた時から教会で育ちました。でも反抗期の頃は教会で聞く言葉が何だか綺麗ごとに感じられ、「聖書はこう書いているけど、僕らの現実の生活にはそぐわない」と思っていました。でも不思議です。今、私はあの頃、否定した言葉を自分自身が語っている。それも、極めて実感を持って語っています。あれこれ書けませんが、42年間で、人間がいかにいい加減で、身勝手で、弱く、我が身可愛さで卑怯なこともするかを見てきましたし、自分自身にも感じてきました。でも、そんな私たちだと知れば知るほど、御言葉が変わりなく、尊く、真実を語りつづけているかを痛感するのです。アグルが語るように、「神の言われることはすべて清い」とつくづく思わされます。
  さて今日は日曜日。今朝も共に礼拝に集い、神さまの御言葉を分かち合いましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。賢者アグルはあなたの知恵、あなたの御心がいかに深く、強く、真実であるかを告げます。神さま、あなたの御言葉は綺麗事ではなく、いかに人間が弱くとも、その人間を正し、整え、導くための真実のことばでした。神さま、どうぞ私たちもアグルのように、あなたにまっすぐに生きる者であることを願い、一歩ずつ努力できますように。あなたの導きに期待し、救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

11日(月・休) 箴言30章7-9節
一言メッセージ:賢者アグルは2つのことを神さまに願います。1つは「むなしいもの、偽りの言葉を自分から遠ざけてほしい」ということ、もう1つは「自分を貧しくもせず、かといって金持ちにもせず、神さまの必要と判断されるもので生きていきたい」ということです。何故ならば、9節にあるように、彼は自分が飽きるほどに豊かであれば神さまを侮ってしまうだろうし、貧しすぎると神さまから目を背けて悪事を働くであろう、と考えたからでした。アグルは人間の弱さを知っているのです。事実、今の社会を考えてみたらよく分かります。豊かさの格差が広がった今の日本では、力を持つ者たちはどれだけでも自らの力や財を蓄えようとする一方、貧しい人たちは他者を助ける余裕を失い、殺伐とした雰囲気が社会全体に漂っています。アグルの言葉は時代に関係なく、人間の欲を見事に見抜き、だからこそ「神さまに整えられながら、貧しくもなく、富過ぎずに生きていきたい」と願ったのでした。アグルの願いは主の祈りの「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」にも引き継がれる祈りなのです。今朝は主の祈りを祈って、歩み始めましょう。
祈り:天にまします我らの父よ、願わくは御名を崇めさせたまえ。御国を来たらせたまえ。御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ。我らを試みに遭わせず悪より救い出したまえ。国と力と栄えとは限りなく汝のものなればなり。アーメン。

12日(火) 箴言30章10-17節
一言メッセージ:今朝の箇所は人の欲望についての記述です。人間の中には、他者よりも秀でるものでありたいという自己肯定願望が強くあります。だから、時に冷静に見るとすぐにばれる嘘をついたり、「バカだなぁ」としか思えないのに虚勢を張ってしまいます。
11-17節で賢者は、若い世代の自己肯定願望や優越感の危うさを語ります(10節の「僕」を「未熟な者」と理解した場合、「若い世代」を指すと理解できる)。でも同時に、10節では大人たちにも「彼らを馬鹿にしないように」と諭すのです。ここでは世代間の対立をうまないためですが、私は誰しも自己肯定願望を持っていて、特に若い時にはあれが表出しやすいと思うのです。
今年はコロナ禍のため、各地で成人式が中止されたようですが、例年であれば各地の成人式ではど派手なメイクや衣装の子、虚勢を張って喧嘩する子、飲んだくれて暴れちゃう子の事件が報じられます。そこまでひどくはなくとも、成人式会場に入らず、同窓会の感覚で仲間たちと大騒ぎする新成人が多々いました。あまりに未熟な行動に見えますが、でも私もかつて、成人式ではしゃぎ、会場に入らず、騒いだ者のひとりです。先日、正月で帰省した時に福岡国際会議場の前を通りました。私の時の成人式会場です。22年前を思い出して「うわっ」と赤面してしまいました。人は失敗を積み重ねて成長するもの。今日は若い世代に理解をもって接してくださいませ。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝は人の欲望についての格言でした。私たちは誰しも自己肯定願望や優越感を得たいとの欲求があります。それが時に恥ずかしい過ちを引き起こしてしまいます。神さま、どうぞ私たちは互いにそんな弱さがあることを認め合いながら、優しく諭せる者、素直に受け入れる者であれますように。世代を壁にせず、互いを理解し合えますように。全ての人に伴ってくださる救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

13日(水) 箴言30章18-33節
一言メッセージ:今朝の箇所において、賢者は「〇〇なことが三つ、△△なことが四つ」というパターンで様々な格言を語りますが、ひときわ目を惹くのが32-33節です。ここでは「絞ると出てくる」が3つ記載されています。「乳脂を絞るとバターが出てくる」は良いとして、「鼻を絞ると血が出てくる」は鼻をねじ上げている光景です。痛いけど、何だか笑ってしまいます。でも、その流れで賢者は3つ目にドキッとすることを語ります。「怒りを絞ると争いが出てくる。」小さな怒りが解決されぬままに刺激を受けてしまうと、取り返しのつかない争いを生じさせてしまうのです。賢者の語った3つの表現、その並びは面白いですが、内容は極めて現実的です。私たち、怒りを解決する術を互いに身につけましょうね。失敗したと気付いたら早急に謝罪し、あとくされを無くすこと。長引かせて大ごとにするよりも、早い段階で解決する方が賢いのです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝のアグルの格言は「〇〇が3つ、△△が4つ」シリーズが語られました。そんな中、私たちは「怒りを絞ると争いが出てくる」との言葉に、自分たちの生活を重ねました。言われる通り、小さな怒りのつもりが絞るように次の刺激を受けると、争いに発展することが多々あります。どうぞ、早期に怒りを解決する術と、相手に働きかける勇気とをお与えください。和解の主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

14日(木) 箴言31章1-9節
一言メッセージ:今朝の箇所は「マサの王レムエルが母から受けた諭しの言葉」とされています。マサは北部アラビアの部族と考えられますが、その王レムエルがどういう人物かは分かりません。ただ、面白いことに、この格言は母親が王である息子に語ったという形式になっています。王が先代王である父から諭されるという形式なら分かるのですが、母親から諭されたというのはとても珍しいし、だからこそでしょうか、その諭しは非常に情が深く、配慮に富んでいます。
  3-5節では異性や酒におぼれることを禁じます。異性にのめり込むと自分の行わねばならない務めを見失うし、酒を飲み過ぎれば聡明でなくなる。ここからが情深い諭しになるのですが、6-7節では「強い酒は没落した者、苦い思いを抱く者に与えよ」と語ります。彼らこそが一時的にでも忘れたい現実があるからです。また8-9節では「ものを言えない人、犠牲になっている人の訴えを聞く王であれ」と告げます。居丈高に振舞うのでなく、弱い者に寄り添うことが指導者として正しい姿であると示すのです。今朝の箇所のレムエルがどういう王であったか、一切、分かりません。でも、母の諭しを受けたレムエルは正しい指導者であったろうと思います。新型コロナウイルスの感染が拡大する今、責任転嫁と安易な打算で正しい指導力を発揮せず、補償もせず厳しい現実を現場に丸投げするだけの指導者とは大違いだと痛感させられます。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝は王レムエルが母から受けた諭しを見てきました。その諭しは情が深く、配慮に富んでいます。神さま、私たちは今こそ、レムエルが受けた諭しが社会で実現してほしいと願います。日に日に新型コロナウイルスの感染者数が拡大する中で、「自助、自己責任」で弱者を追い詰める指導者でなく、民に寄り添う指導者を願います。神さま、どうぞ配慮に富み、民に寄り添う指導者を私たちにもお与えください。正しい裁きを行われる主なる神さまに祈ります。アーメン。

15日(金) 箴言31章10-31節
一言メッセージ:今朝は箴言最後の御言葉です。賢者は箴言の最後に「有能な妻」について記しました。ここで言われる「妻」のイメージは性別的な意味合いというよりも、家庭の中で役割を担ってくれる存在のことです。一読すれば気づきますが、ここで言われる「妻」は世間的に大きな成果を上げたとか、敵を退けたとか、そういう結果を出した存在ではありません。ほとんどは家族のために日々の働きを実直に担ってくれている存在です。賢者はそんな働きを1つ1つ列挙しながら、家庭を保つように実直に日々働いてくれる「妻」への深い感謝と賞賛を告げています。
  私の親しい方で、以前、宣教師として東南アジアで働いた方がおられ、彼の話に大笑いしました。彼が派遣されていた国では、女性は男性を立てることが常識だそうですが、女性たちはユーモアに富み、夫にこう言うそうです。「あなたは家の頭。私は首。私がいなければ、あなたは身体から転げ落ちるだけだからね。」皆さんの御家庭はどうですか?どうぞ今日は、それぞれ家族に感謝して過ごしましょう。日曜日に皆さんから、「今日は俺が(私が)飯を作るよ」と言った(言われた)報告を楽しみにしています(笑)。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝は箴言の終わりの言葉でした。賢者はその終わりの言葉として、最も身近な人への感謝を語りました。普段、私たちは「当たり前」と思い込み、改めての感謝を伝えていなかったかもしれません。でも、身近な人が配慮し、サポートしてくれていることに改めて気づかされます。神さま、どうぞ今日は互いに身近な人に感謝し合える一日として過ごさせてください。「当たり前」でなく「有難う」と伝えあえる日とさせてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

16日(土) マタイによる福音書1章1-17節
一言メッセージ:昨日をもって箴言が終わりました。今日からはマタイ福音書を読み始めます。できれば、4月4日のイースターくらいを目途に読み終えられたらと思っています。
  さて、今朝はマタイの初め、イエスさまの系図です。新約聖書を読み始めた人が、意味が分からなくて早速挫折しそうになる箇所ですが、じっくり読むと実に面白い。この系図には5人の女性が登場します。3節の「タマル」、5節の「ラハブ」と「ルツ」、6節の「ウリアの妻(バト・シェバ)」、そして16節「マリア」です。彼女たちはそれぞれ事情のある女性たちです。
  タマルは創世記38章に登場する女性です。元々、ユダの息子の嫁でした。けれど子どもが生まれる前に夫が亡くなり、律法の規定により、その弟と結婚して子どもを産むことが求められましたが、その夫も死別。義父のユダは息子が続けて亡くなったことから、「末の息子が結婚できる年になったら呼び戻す」と語ってタマルを実家に帰し、そのまま済し崩しに縁を切ろうとしました。しかし、タマルは自分が縁を切られることを良しとせず、遊女に化けてユダと関係を結び、息子ペレツが生まれたのでした。
  ラハブはヨシュア記2章に出てくるエリコの街の娼婦でした。
  ルツはモアブ人です。モアブは元来、創世記のアブラハムの甥ロトの家系ですが、当時のイスラエルでは異邦人(同胞ではない民族)と扱われ、神さまの救いには加えられない、と考えられていました。でも、そのルツがイスラエルの英雄王ダビデの曾祖母になるのです。
  ウリアの妻バト・シェバはサムエル記下11-12章で、ダビデ王に見初められ、夫ウリヤ不在時に関係を迫られて妊娠。不貞の発覚を恐れたダビデはウリヤに策を弄して戦死させ、バト・シェバを自分の後宮に迎え入れました。ダビデは神さまの怒りを買い、その時、妊娠していた子は生後すぐに亡くなりますが、その後に生まれたのが次の王ソロモンでした。
  こうやって見ていくと、系図に登場する女性たちにはそれぞれ事情、男性中心社会に翻弄されてきた女性たちです。でも、この系図を見ながら最も強く感じるのは、「イエスさまは人間の労苦の現実のただ中に生まれてきてくださった救い主だ」ということです。そしてマタイ福音書はこの系図を示しながら、次の箇所において「そんなイエスさまはインマヌエル(我らと共に生きて下さる)救い主だ」と語っていくのです。私たちと共に生きる救い主イエスさまは今も、私たちの現実の困難をしっかりと受け止め、私たちと共に生きて下さっている。その喜びを日々思いながら、今日からご一緒にマタイ福音書を読み進めていきましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。私たちは今朝からマタイ福音書を読み始めました。毎日のメールを通してイエスさまの御言葉や行動を学んでまいります。どうぞ4月のイースターに向けて、イエスさまがどんな救い主であり、今も私たちに寄り添ってくださるのだと身近に感じ、喜び、いっそう信じるに至れますように。感謝し、期待し、イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

***







1月3日~1月9日のみことば - 2021.01.03 Sun

新年あけましておめでとうございます。
今年のお正月は例年と違い、帰省せずお家で過ごされている方も多いのではないでしょうか。毎日ニュースを見るたびに増えていく感染者数を見ながら、感染された方の回復や、逼迫していく医療現場の方々を覚えて祈りを新たにする思いです。

新年になり、街やお家の飾りもクリスマスからお正月へと変わりましたね。
特にお店の様変わりの早さには毎年驚かされます。
ですが、実は教会のこよみ(教会暦)では、イエス・キリストの顕現を記念する「公現日」である1月6日までがクリスマスをお祝いする期間とされています。
ですから、うっかりクリスマスの飾りがそのままだった!という方もご安心を。むしろ教会暦的にはそちらが正解です!・・・と言いつつ私たちの教派はそこまで教会暦に細かくこだわりがないので、年末に片づけてしまいましたが(笑)
クリスマスが終わっても、お正月になっても、教会・クリスチャンにとっては毎日が神さまと共に歩む日。この一年も神さまを見上げ、み言葉に聞き、祈る1年でありたいと願っています。
これを読んでくださっているあなたも、この神さまと共に歩む仲間として加わってくださることを心からお祈りしています!
今年もどうぞよろしくお願い致します!!

***今週のみことば***

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3日(日) 箴言28章11-20節
一言メッセージ:今朝は新年最初の礼拝です。今年はコロナ禍だったため、元旦礼拝を中止してしまいました。なので、帰省中の方々も今朝の礼拝にお越しくださり、共に礼拝を守れますことを祈っています。
  さて、そんな一日の始まりですが、今朝注目したいのは13-14節です。「罪を隠している者は栄えない。告白して罪を捨てる者は憐れみを受ける。」ここでいわれる「罪」は、悪意ある行為だけでなく、過失も含むのだそうです。つまり、「知ってて犯した罪も、知らずに犯した罪も」です。そりゃ私たちは「知らずに犯した罪まで言われると…」と息苦しくなるのですが、大事なことは後半です。「告白して罪を捨てる者は憐れみを受ける」です。賢者は「その罪を悔い改め、神さまにお委ねせよ。そうすれば、神さまがあなたを憐れんでくださる」と告げるのです。年の初めに私たちが覚えたいのは、「神さまは憐れみの方だ」ということです。昨年末、ご一緒に見てきたように、神さまは私たちに伴い、共にいてくださる方です。神さまの御心を悟らず、罪を重ね、弱く、身勝手な私たちにかかわらず、神さまは私たちを愛し、救い主イエスさまをお与えになりました。だからこそ賢者は「罪を神さまに委ね、憐れみをいただいて、新たな歩みを始めなさい」と勧めます。その際、14節で「いかに幸いなことか、常に恐れを抱いている人」とありますが、この「恐れ」とは神さまへの畏敬ではなく、13節の「罪」への恐れです。自分が罪を犯しかねない者だと自覚し、神さまに憐れみ再出発をいただいたことを覚えて生きることが「幸い」だと賢者は語るのです。
  今日は日曜日。共に神さまの憐れみをいただき、新しい一年をスタートいたしましょう。10:30からお待ちしています。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝、私たちは2021年最初の日曜日を迎えました。あなたと向き合い、新しい一年をスタートするに際して、箴言は「神さまは憐れみのお方」と示してくれました。神さま、みことばに感謝します。私たちは知った上で御心に背き、罪を犯してしまうこともありますし、知らずに罪を犯すこともあります。でもあなたはそんな私たちであっても、悔い改めて、あなたを信じて歩み出す者を憐れんでくださり、新たなスタートくださいます。神さま、2021年もあなたの憐れみの中で歩み出させてください。私たちへの憐れみの証である救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

4日(月) 箴言28章21-28節
一言メッセージ:今朝から仕事はじめの方も多いでしょう。そんな仕事はじめに、先ずはみことばを分かち合いましょう。今朝、注目したいのは26節です。「自分の心に依り頼む者は愚か者だ。」賢者の言葉は切れ味抜群です。ここでいう「自分の心」とは願望や思惑といった判断基準のことで、それが生き方の基準になる者は「愚か」と言われます。何故ならば21節、「誰でも一片のパンのために罪を犯しうる」ほどに、状況に応じて神さまに背きかねない存在だからです。だから、己が「心(願望、思惑)」に生きることは危ういと賢者は訴えます。そこで26節後半「(神さまの)知恵によって歩む人は救われる。」日々、「神さま、あなたは今、私に何を示しておられますか?どう導こうとされていますか?」と尋ね求める者は、ちゃんと神さまの整えをいただいて歩めるのです。今年も神さまの知恵を尋ね求めながら、働きを始めてまいりましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝から仕事はじめの人も多かろうと思います。そのはじめに、あなたは私たちに「自分の思惑に突っ走るのでなく、御心を求めて歩み出せ」と示してくださいました。どうぞ、新しい年もあなたを信じ、あなたに従って歩むことができますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

5日(火) 箴言29章1-6節
一言メッセージ:1節のことば、新共同訳と岩波訳では印象が違います。岩波訳では「繰り返して訓戒されても、なお頑迷な人は、瞬く間に粉砕されて、いやされることがない」です。新共同訳では、「元々素直な子だったのに繰り返し懲らしめられて拗ねてしまい、ある時を境に自暴自棄になったら手の打ちようがない」という意味合いに読めるのに対して、岩波訳は「どれだけ注意しても変わらない人は、あっという間にダメになるだろう」という意味合いになります。これ、どちらもニュアンスとしては合っているようです。どちらで読むかは、それぞれに任されています。であれば、自分にとって、より厳しい読み方をしましょう。何故なら昨日見たように、自分に甘いよりも、神さまの御心を優先して自分を律する者が神さまに喜ばれるからです。今日も私たちは、神さまは今、私に何を示し、どう導こうとされているのか、模索しながら歩み出しましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝は頑固さについて考えました。正しい諭しを聞き入れぬ頑固さは私たちの目を曇らせ、未来を危うくします。かといって、厳しい叱責ばかりでは私たちの心は折れてしまいます。だから神さま、私たちにはあなたの豊かな愛情によって養われつつ、自分の過ちを受け入れ、素直に自らを正せる素直さをお与えください。2021年もあなたに導かれ、正しく歩みことができますように。イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

6日(水) 箴言29章7-12節
一言メッセージ:今朝の箇所を見ますと、「指導者とは神さまに実直従う人であるべし」との真理が見えてきます。昨年末、前総理の「桜を見る会」にまつわる虚偽答弁の問題が明るみに出て来ました。誰がどう考えても総理大臣在任中の強気一辺倒の答弁は大問題であり、裁かれねばならないはずなのに、彼は12/25には「自分は認識していなかった。秘書が…、責任者が…」と言って逃げ回った挙句、「説明責任を果たした。議員としてさらに精進する。次の選挙にも出る」と開いた口が塞がらないコメントを出していました。あの姿を思い起こしながら今朝の箇所を見ると、しみじみと賢者のことばが理解できます。7節「神に従う人は弱者の訴えを認める。神に逆らう者はそれを認めず、理解できない。」、8節a「不遜な者(イザヤ28.14では悪徳政治家の意味)らが社会に騒動を起こす」、11節「愚か者は感情的」、12節「支配者が偽りの言葉に耳を傾けるならば、仕える者は皆、自分の利益にはしり、神の正義に逆らうようになる。」
  箴言の時代と今の時代の大きな違いは、箴言の時代は支配者を引きずる降ろすことは、国が亡びるかクーデターが起こらない限り、難しい事柄でした。しかし現代はそうではありません。私たちは国の主権者ですから、権力を引きずり下ろすことが可能です。そこで箴言は、今度は私たちに問います。「あなたは神に実直に従い、正しい選択を行えているか?」と。今年は衆院の総選挙もあります。子どもたち孫たちの未来のために、正しい目で社会を見極めていきたいものです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝のみことばはまるで今の私たちの社会を指摘するようなみことばでした。聖書は時代を超え、場所を超え、でも鋭く真理を指摘してくれます。神さま、どうぞこの社会があなたの御心に沿う社会へと変えていくことができますように。2021年、あなたの御業が地上に1つずつでも実現してまいりますように。私たちに祈って、決断する知恵を与えてください。主イエスさまの御名によって祈ります。アーメン。

7日(木) 箴言29章13-17節
一言メッセージ:今朝の箇所のキーワードは15節「懲らしめ」です。「懲らしめ」と聞くと、非常にきつい印象がありますが、より正確に考えると「叱責をも含む、適切なしつけ」です。賢者は15節で「人を正しく育てるためには時に懲らしめも必要。甘やかし、放任するだけで育てられた子は、将来、周囲が『何でこんな風になったのだろう』と後悔することになる」と語ります。さて、そこで目に留まるのは13節。「貧しい人」とは経済的な貧しさだけでなく、「神さまを無碍にして、祝福をいただき損ねている者」という意味を持ちます。「虐げる者」は力を持って周囲を黙らせる者です。13節はそんな「貧しい人と虐げる者が出会うとひどい事態になるが、それでも神さまはどちらにも何が本当に正しいことなのかと知るために悔い改めての機会を与えてくださる」と書かれるのです。甘やかすことが愛情なのではありません。必要による諭し、叱責もあってこそ、相手を正しく育てる(導く)愛となるのです。2021年、自分自身も、また周囲にも愛と公正を持って支え、導く者でありたいものですね。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝は「懲らしめ」について考えてきました。私たちは時に自分を甘やかしがちで、正しい指摘には感情的に反発し、自分の耳に心地よい言葉だけを聴こうとしてしまいます。でも神さま、それでは私たちがあなたを見失ってしまいます。どうぞ2021年、私たちにあなたに正しく従い得るための「懲らしめ」もお与えください。また私たちも周囲の人々に臆せず、愛情あっての「懲らしめ」を告げ、寄り添い、励まし続けることができますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

8日(金) 箴言29章18-23節
一言メッセージ:18節のみことばはとても鋭いです。「幻がなければ民は堕落する。教えを守る者は幸いである。」「幻」という言葉は、預言者の「啓示」という際にも用いられる言葉です。今朝は「神さまの御心に即して自分を律すること」とでも考えましょう。そう思って18節のニュアンスを改めて読みましょう。「人は神さまの御心が示されていなければ、自分を甘やかしてしまい、堕落してしまう。だから、神さまの教えを守って誠実に生き、幸いな者とあれ」です。そう理解した上で19節以下を読みたいと思います。19節「言葉だけでは僕(若い者、指導する相手)を諭せない。ことばの意味を理解しても、どう行えばいいか分からないのだ」、20節「ペラペラペラペラ話す者より、何を言っていいか分からずに口数の少なくなる愚か者の方が良い」、21節「子どもを甘やかすと、将来、つけあがる」、22節「感情的になると大失敗する」、23節「居丈高になると軽率な者に見られ、謙遜であれば人々が『立派な人だ』と認めてくれる」。肝に命じながら一日を始めたいものです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝のみことばは、私たちに「あなたの御心に従って生きる者であれ」と示します。あなたの示唆が無ければ、私たちは自分をますます甘やかし、ダメになってしまうでしょう。でも神さま、正直に言いまして、私たちは「あなたに従いたい」と願いながらも、何度も何度も、自分を甘やかしてきました。その弱さも含め、どうぞ1つずつ、1歩ずつ、あなたの御許に帰る日まで、御心に従って生きる者へと成長させてください。私たちに伴ってくださる救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

9日(土) 箴言29章24-27節
一言メッセージ:今朝は25-26節に注目したいと思います。先月のアドベントの宣教の中で触れましたが、「恐怖」とは先が見えないこと、未来が見通せないことから生じます。逆を言えば、たとえ自分ではどうにもできない難題であっても、「ちゃんと神さまが私たちを守られる」と信じられれば、安心して対応できる。今朝の箇所はそのことを告げています。
  25節前半「人は恐怖の罠にかかる。」だから26節前半「支配者のご機嫌をうかがう者」が多くなります。でも26節後半「人を整え、救うのは主なる神さま」。そう知る者は25節前半「主を信頼する者は高い所に置かれる(先の見えぬ不安に陥るのでなく、神さまによる平安に生きることができる)」のです。
  以前もお話したことがありますが、私の恩師・関田寛雄牧師がよく言われることは「キリスト教信仰は『にもかかわらずの信仰』」です。私たちは時に大きな課題に直面し、途方に暮れ、不安に怯える。しかし、にもかかわらず、『神さまがおられる』というたったひとつの真理によって、私たちはその課題に立ち向かっていける。神さまがおられるんだもの、悪い結末で終わるわけがないじゃないか。」今朝のみことばは、わたしたちに「にもかかわらずの信仰」を教えてくれているのです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝のみことばは私たちに「にもかかわらずの信仰」を示します。主なる神さまがおられるから、私たちは先が見えないと不安に怯える時にも、「神さまがちゃんと導いてくださる」と信頼できます。神さま、どうぞあなたの御心によって私たちをお導きください。私たちは弱く、時に心ブレますから、一歩ずつでも確かな導きをお与えください。救い主であり、私たちと共に生きてくださる救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

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12月27日~1月2日のみことば - 2020.12.26 Sat

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クリスマス礼拝、クリスマスイヴ礼拝が無事に終わりました。
今年は様々な制限のある中でしたが、なんとか礼拝を守ることができ感謝でした。
お話の中で「今年は何をするにも制限があり、また人との距離を取らなければならない中でどこか人と人との心の距離まで離れてしまうような年でしたが、そんなことは関係なくクリスマスの喜びは私たちのもとに来る。」ということが語られました。本当にそうだなあと思います。
私たちの人生には色んなことが起こる。良い時もあれば悪いときも。でも、クリスマスの喜びは、そこにあらわされた神さまの愛は、私たちの状態とは関係なく、いつも最高のものとして与えられているのです。
むしろ、私たちが苦しいときにこそいよいよ輝きを増して私たちに迫ってくるように思います。
クリスマスシーズンは終わりですが、クリスマスに与えられた「神さまはその独り子をこの世に与えてくださったほどに私たちを愛された」という素晴らしい知らせは、いつも私たちに与えられています。そして、教会は毎週そのことを思い起こし礼拝を守っています。
クリスマスには参加できなかったという方も、ぜひ毎週の日曜日にこの礼拝に加わってくださるようにと思います。
また、クリスマスの礼拝のライブ配信のアーカイブもYouTubeにアップされていますから、そちらもぜひ見てみてくださいね。(YouTubeチャンネルは ⇒こちら )

さていよいよ2020年も大詰め。みなさん、良い年をお迎えください~♪

***今週のみことば***

※聖書の箇所は日本聖書協会の聖書本文検索から読むことができます。⇒こちら
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27日(日) 箴言26章13-16節
一言メッセージ:今朝の箇所は「怠け者」についてのことばです。昨日に続き、賢者は口が悪いです(笑)。13節では怠け者が訳の分からない言い訳をしている様子を揶揄し、でも14節では「寝床でゴロゴロしているだけで何もしない」と指摘します。賢者から見れば、怠け者たちは15節、「食事をt食べたいと思うのに、食べることさえ億劫がって何もしない者」、つまり、一歩踏み出せばちゃんと神さまの祝福があり、成長できるのに、変な言い訳ばかりで何もしない様に見えるのです。さらにたちが悪いことに、16節ではそんな怠け者は「聡明な人々を前に、自分のことを『俺って賢いわぁ』と思い込んでいる」と指摘します。ね、賢者、口悪いでしょ?
  でも、このみことばは一年を振り返る時、とても私たちの生活と重なり合います。今年の新型コロナウイルスは私たちの生活も環境も一変させました。その中で私たちはどう過ごしてきたでしょう。私たちは「怠け者」のように、状況を見定めようと努力せず、チャレンジせずに過ごしてきたでしょうか。いいえ、私たちは日々、神さまのみことばと向き合い、今神さまが何を示し、どう導こうとされているかを模索してきました。教会だけ見ても、コロナ禍でどう礼拝をまもれるか試行錯誤し、ネット礼拝を開始し、行事ではなく礼拝によって教会が教会たらしめられていることを再発見し、人と人とが分断される中でも礼拝によって繋ぎ合わされて生きるとの示唆を見出し、だからこそ礼拝に集えない人々のために、特に医療関係の仲間たちがどれだけ献身的に今働いてくれているかを想像し、祈って支えたいと願い、また病の仲間たち祈ってきました。新しい伝道のツールとして、小さなトラクトを始めました。先日のクリスマスでも、コロナ禍であっても何ひとつ変わることなく救い主誕生のクリスマスを祝い合える幸いを再確認してきました。私たちはこの一年、怠ける暇も無いほど、神さまと向き合い、チャレンジしてきたのです。
  今朝は一年の終わりの礼拝です。この一年の神さまの示唆に感謝し、礼拝に集いましょうね。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。昨日から、賢者が口悪いなぁと思。います。でも、そのことばはとても適格です。神さま、今年はコロナ禍で本当に苦労しました。でも、その分、あなたと向き合い、チャレンジすることの大切さを示されてきました。一年の導きを感謝します。今日は一年の最後の礼拝です。どうか今日も私たちを礼拝に集わせてください。礼拝に来れない仲間たちにも、どうぞ私たち同様、慰めと恵みと伴いと希望とを満ち溢れさせてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

28日(月) 箴言26章17―28節
一言メッセージ:今朝の箇所でも賢者は口が悪いです。もう笑ってしまうほどです。でも、その指摘は適格です。17節は「自分に関係ない争いに首を突っ込むのは、犬の耳を引っ張って噛みつかれるようなものだ」と書かれます。18―19節では「モノが見えない者の言動は非常に危険。そのくせ、指摘されると『冗談だよ、冗談』と言う」と指摘します。これ、ドキッとしますね。自分が冗談のつもりでも、相手にとっては心抉られるような言葉、ものすごい疎外感を感じる行動があると賢者は指摘します。その上で、20―21節では「そういう者とは距離をとりなさい。今は真正面から向き合わないで良い」と諭します。23―26節も秀逸です。23節では「言葉は情熱的でも、本心では悪意を抱く者は、一見、土器の上薬に銀を使用したように見えても、実は酸化した鉛を塗ったまがい物にすぎない」と語ります。上っ面じゃなくて、腹の底で相手を見ないと分からないと指摘するのです。じゃあ、逆を見ればどうでしょう。上っ面は辛らつな言動に見えても、その言葉に嘘は無く、その行動は実直で誠実な者は、耳を傾け、向き合うべき人なのだろうと思うのです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝、賢者は、上っ面の言動に騙されるのでなく、また私たち自身も嘘なく、実直に生きる者であることを勧めます。今、一年を振り返りつつ、自分の至らなさを思い返します。今年も何度、物事を見誤り、いさかいを生じさせ、傷つき傷つけてきたでしょうか。そんな自分たちを思い返す時、私たちはそんな私たちの傍らに生まれ、共に生き、赦してくださるイエスさまの救いに心から再度感謝し、「ここから改めて改めて歩み出さねば」との決意を強くします。神さま、どうぞ私たちがきちんと自分の一年を振り返り、今年の過ちを今年のうちに認め、解消することができますように。年の瀬、自分たち自身の中身も大掃除させてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

29日(火) 箴言27章1-11節
一言メッセージ:今朝の箇所は謙虚に生きることを勧める格言です。1節では「先の見えぬ私たちだから、驕るな」と語り、2節では「己を誇るのでなく、他人が認めてくれるほどに自分を高めよ」と諭します。何故なら、3節「愚か者(1節、2節で警告されるような者)は周囲の重荷となる」からです。賢者は、私たちがそのような「愚か者」にならないように、5節「的確な批判は『いつか分かるだろう』という愛よりも勝る」と語り、自分を高めることを勧めるのでした。
  大変自らに厳しい格言ですが、だからこそ、神と人に正しく生きることの幸いを語ります。9節では「友情は香木よりも素晴らしい」と語り、11節では神さまに正しく生きる者に神さまが与えてくださる祝福と未来を示しているのです。
  今年はコロナ禍のため、他人との繋がりが希薄になりがちな一年でした。でも、そんな一年を締めくくろうとする今、私は神さまと皆さんの繋がりと支えをいただいて歩めたことを振り返ります。どうぞ引き続き、的確な批判は寄せてください。まだまだコロナは続くでしょうが、共に繋がって2020年から2021年へと移行していきましょうね。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝のみことばは、私たちが一人で生きているのでなく、神さまと周囲の人々との繋がりの中で生かされていることを思い起こさせてくれます。この一年、私たちは自分に甘すぎましたか?もしそうであれば、どうぞ自分を律し、神と人を愛し、愛されて生きる私たちへと高めてください。私たち自身が、よりいっそう、あなたの喜びとなれますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

30日(水) 箴言27章12-16節
一言メッセージ:今朝の箇所は落語のようです。2020年の終わりで大掃除や家族の帰省などで忙しい人もあるかもしれませんが、笑って一日を始めたいと思います。取り上げる箇所は2箇所です。
  ①14節「友人への祝福も、早朝に大声でするなら呪いと見なされる。」神学部時代、単身寮に住んでいました。変わった人たちが多かったですが、その中で一人、早朝の新聞配達をするため生活時間帯が僕らと違う神学生がいました。夜は8時には休み、早朝3時過ぎくらいから動き出すのです。夜、友人と廊下で立ち話をしていると、彼の部屋のドアがギ―っと開き、「あのぉ、もう休んでいますので、お静かにお願いします」と言われるのです。「失礼しました」と言って談話室で話すのですが、翌朝、3時過ぎから、洗濯室で盛大に洗濯機が回っている。寝ぼけ眼で見に行くと、彼の洗濯籠が置かれていたものです。早朝の騒音は単なる呪いでした。ちなみに、彼の名誉のため、誰であったかは伏せておきます。
  ②15節は謎かけのようです。皆さんも考えてみてください。「降りしきる雨の日に滴り続ける雨漏りとかけまして、いさかい好きな妻と説く」。「その心は?」(お考えください)「どちらも逃げ場がないでしょう。」挙句、賢者は16節で悪ふざけ(?)を重ねます。「いさかい好きな妻、風、油まみれの手」を並べ、「捉えようがない」と語りました。どれほど尊敬を集めた賢者も、自分の最も身近な人にはしっかりととっちめられていたようです。何だか安心しますね。
  さて、今日は叱られないように、しっかりと大掃除いたしましょう。皆さんの一日がハッピーであれますように。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝は何だか朝からリラックスさせられました。もう何も言いません。どうぞ今日一日、みことばを思い出してはクスリと笑わせてください。ユーモア大好きなイエスさまの御名で祈ります。アーメン。

31日(木) 箴言27章17-22節
一言メッセージ:今日は大みそか、皆さん、一年本当にありがとうございました。一年の締めくくりのみことばを読んでいきましょう。今朝の箇所も、いかに生きるのか、を語る箇所です。
  17節では「人は人の中で鍛えられる」と語り、机上の空論で生きるのでなく、清濁併せ吞むようにしながらも、人との関わりで時に葛藤し、時に貫きと、試行錯誤しながら生きることが、私たちの信仰生活をも成長させると語られます。18節の「いちじく」を育てる人の譬えが語られます。家庭の庭に生えているいちじくは勝手に放置していてもそれなりに実がなりますが、農園で育てる農夫たちは大変な手間がかかります。賢者は根気よくいちじくを育てる農夫の姿と、神さまへの生き方を守る者の誠実な一歩一歩を重ねました。19節では「その人の心は相手に対する時の姿に現れる」と語りました。20節では、人の欲望には限りが無いことを示し、21-22節では「だからこそ、他人からの賞賛によって調子に乗るのでなく、自分を律すること」を警告してくれるのです。
  どれひとつとっても、決して簡単ではありません。でも、そんな時に、私は恩師から言われたことを思い出します。彼は説教作りについて話してくれたのですが、それは正に生き方を示すものでした。「聖書と向き合って説教を作る時、説教者は『自分がこの聖書の御言葉のように正しく自分を律して生きていない』と打ちのめされるだろう。そんな時、説教者は完全にみことば通りに生きられなくても、たった一つでいい。たった一つ、自分で葛藤し、でも決断して取り組んだ経験を持ちなさい。その経験一つを持って語る時、説教に君の生き様が乗るのだ。そうやって一つに取り組むと、私たちは次の一つへと歩みが進められていく。最初から全てでなくても、一つずつ歩めばいい。」今朝の箴言のみことば、2020年の自分を振り返らされると同時に、新しい年に向けて、一つから、一歩から歩み出そうと思わされます。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。2020年はコロナ禍という今まで経験したこと無い災害があり、多くの人が不安と困惑に陥る中、私たちはみことばに生かされながら歩んでこれました。一つずつ、一歩ずつではありますが、あなたに支えられ、歩んでこれたことを心より感謝します。どうぞ新しい年もあなたの導きと整えをいただき、御心に従って歩むことができますように。今年を感謝し、新年に期待し、イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

2021年1月1日(金) 箴言27章23-27節
一言メッセージ:皆さん、明けましておめでとうございます。新しい年もどうぞよろしくお願いします。新しい年も早速、みことばで歩み出しましょう。21年は丑年なのだそうですが、みことばに従い、羊の話をさせていただきます(笑)。
  賢者は羊と財産(金銀などの金銭)を別物と考えています。財産は価値あるものだけれど、永遠に続くものではない。一方で、羊は手間がかかるし、問題を起こす。でも、羊は共に生き、共に成長し、助け合える存在だと語る。26-27節では例として、毛は着物に、雄山羊は畑を買い取るために売ることもでき、雌山羊の乳は家族の食事になる、と語ります。だから、賢者は23節「羊の様子(直訳は「羊の顔」)をよく知っておけ、群れに心を向けよ」と諭すのです。
  私はこの箇所を読みながら、ヨハネ10.14からのイエスさまの言葉を思い出しました。「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。」羊は群れで生きるし、羊を愛してくれる羊飼いに養われるのです。私たちは、私たちの顔をよく見定め、時に応じて必要な手を差し伸べてくださるイエスさまに養われて生きていくのです。
  さらにイエスさまは言われました。ヨハネ10.16「わたしには、囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。」2021年、私たちの教会に新たな羊が加えられていくこと、共に礼拝し、共に生きる兄弟姉妹が与えられることも願いながら歩み始めたいと思います。
祈り:天のお父さま、今朝は新年のはじまりの日、今日もみことばをありがとうございます。神さま、今年は丑年ですが、私たちは羊であり、イエスさまこそが良き羊飼いです。新しい年もイエスさまに伴われ、導かれて歩めますように。どうぞ私たちだけでなく新たに、共に礼拝し、共に生きる仲間もお与えください。年の始まりに、あなたの御業に期待し、祈ります。アーメン。

2日(土) 箴言28章1-10節
一言メッセージ:今朝の箇所は誠実に生きることの勧めです。その中で特に目に留まるのは5節です。「悪を行う者らは裁きを理解しない。主を尋ね求める人々はすべてを理解する。」注目したのは「主を尋ね求める」という行動です。私たちの人生には時に「何でこんなことが?」と言いたくなるようなトラブルや課題が生じるものです。そんなトラブルの際、「悪を行う者(対比で言えば、主を尋ね求めない人)」は自分の理解できる理屈でトラブルを意味づけようとします。例えば、「誰それが悪かった」とか「運がなかった」と言って、出来事を終わったことにしようとします。でも「主を尋ね求める人」は文字通り、神さまに「これは一体どういうことなのでしょう?あなたは私に何を示しておられるのですか?」と尋ね続けます。それが、自分への警告なのか、それとも何らかのトラブルでしかないのに神さまがここから私を顧み、整え、祝福へと導こうとしてくださっているのか、を考えるのです。賢者はその結果の違いを語ります。神さまに尋ね求める人々は後に、「あぁ、あの出来事はこの時のためだったんだ」とか「神さまは私を顧みて、こんな風に導いてくださったんだ」という気付きを得るのです。今は分からなくとも、後に分かる祝福があるのです。
  今から5年ほど前のことです。年が明け、実家に帰省するため運転していた私は、疲れてたんでしょうか、渋滞の最中にブレーキが緩み、のろのろと車が進み、前の車にコツンとぶつけてしまいました。すぐに車を寄せて謝り、警察を呼んで、あとは保険屋さんを介して、処理を行いましたが、「新年早々、何やってんだ」とへこみました。それから数年後、市民運動に力を入れていた時期、一人の女性から「覚えていますか?」と声をかけられました。まるで覚えていなかったのですが、実はあの事故の相手でした。それがきっかけでグンと親しくなり、一緒に活動することとなりました。まさか、ここに繋がるのかとビックリして、神さまの業の不思議さに大笑いしたものです。
  賢者は語ります。「主に尋ね求める人々は、後日、すべてを理解する」と。2021年、神さまの導きに期待しながら歩み出しましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝は、あなたに尋ね求めて生きることを示されました。あなたの導きは私たちには不可解で、一時的には単なるトラブルにしか見えない事柄もあります。でも、あなたに尋ね求める時、後々になれば、あなたの導きの意図に気づかされることもあると知らされます。神さま、2021年も私たちの思惑でなく、あなたのユニークな導きの中で歩ませてください。期待し、救い主イエスさまの皆で祈ります。アーメン。

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福岡県久留米市にある久留米キリスト教会のブログです。
わたしたちの教会は、日本バプテスト連盟に加盟する、プロテスタント派のキリスト教会です。
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