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2020-07

7月5日~7月11日のみことば  - 2020.07.09 Thu

更新が遅れてすみません(>_<)

月曜日から降り続いた雨。各地に大きな被害をもたらしています。
久留米でも記録的な雨が降り、様々なとことから「久留米教会は大丈夫?」とご連絡いただきました。
幸い教会・幼児園ともに被害はありませんでした。
ですが、久留米市も広いので城島や三潴などの地域では大きな被害が出ているようです。
また、朝倉やお隣大分県の日田などでは甚大な被害が出ています。
昨日は久しぶりの晴れ間が広がっていましたが、今日からまた雨予報。
長く続く雨で土砂災害の危険も増しています。

これ以上の被害がでませんように。また、被害に遭った方々のためにいのりつつ、教会としてどんな支援ができるか、考えていきたいと思っています。


***今週のみことば***

※聖書の箇所は日本聖書協会の聖書本文検索から読むことができます。⇒こちら
・訳名選択     : 新共同訳
・旧新約・続編選択 : 詩編→旧約聖書
・書名選択     : 詩編
・章選択      : 該当章数を入力(章まで入力するとその章すべてが表示されます。)


5日(土) 詩編78編1-21節
一言メッセージ: 詩編78編は詩人が後の世代のためにイスラエルの歴史を語り伝えようとする詩です。12節からは出エジプトの歴史を振り返りますが、詩人は4節で「子孫に隠さず」と言ったように、自分たちの先祖が奴隷であったエジプトから神さまによって救い出されたの旅の中ですら何度も何度も神さまに歯向かい、裏切ってきた事実を語り伝えます。人は都合の悪い事柄は隠したがりますが、詩人は罪もちゃんと告白するのです。何故なら、自分たちの罪を理解するからこそ、罪深い人間をそれでも愛し、救ってくださった神さまの御業を知るからです。だから詩人は78編を通して、自分たちの思惑を超えて神さまに従い続けることを呼びかけたのです。
  九大名誉教授で憲法学者の横田耕一さんという方がおられます。以前、筑後キリスト者平和の会の2.11集会に来られたこともある方です。クリスチャンではない方ですが、彼の著書『自民党改憲草案を読む』はキリスト教系出版社の新教出版社から出ています。それくらい、今の自民党改憲草案は危うい。話を戻しますが、横田さんはこの本の中でドキッとする指摘をしています。要約します。「民意重視は大変民主的なようだが、一方で、安易な民意を振り回すことは危うい。何故なら、民意はその時々の風潮でしかなく、そんな風潮が恒久の権利を侵害することは許されないからだ。」確かに、私たちの思考は時に易きに流れやすいのです。自分たちに都合の悪い事柄に目を背けがちです。その結果、歴史を見ると、民意という名のその時の風潮に流されて、戦争のような取り返しのつかない事態が陥った事実は数知れずです。詩人は後の世代が過ちを繰り返さないために、民族の罪を隠さずに伝え、何よりも神さまへの信仰を第一に守り続けるようにと語り伝えたのです。
  今朝は日曜日、私たちも神さまとしっかり向き合いましょう。
祈り:天のお父さま、今朝の主の日もわたしたちにみことばを与えてくださり、ありがとうございます。今朝わたしたちは78編を分かち合いました。人は弱く、自分たちの弱さや罪を隠しがちですが、詩人は後の世代が過ちを繰り返さないために先祖の罪と、そしてそんな罪深い民をも顧み、導き続けてくださった神さまへの信仰を示しました。神さま、今、私たちも同じ気持ちであなたの御前に集います。どうぞ、この社会も世界も私たち一人ひとりも易きに流されず、あなたの御心を模索し、堅実に従うことができますようにお導き下さい。今日も礼拝に集います。集えない方もネットで礼拝に参加してくださいますように。皆があなたの御前に集うことができますように。救い主イエスさまのお名前で祈ります。アーメン。

6日(月) 詩編79編1-13節
一言メッセージ:79編はバビロニアによるエルサレム陥落と南王国滅亡を取り上げますが、興味深いことに、同じ出来事について2つの見方が描かれています。1-7節は、「イスラエルの惨状は、神さまを信じない異邦人が神さまを侮り、嘲っているようだ」という見方です。そこに見られるのは自分たちを被害者とする見方です。けれど8-11節は祖国滅亡を「神さまを蔑ろにした自分たちへの神さまの懲らしめ」とする理解です。同じ出来事を2つの見方で見る。矛盾かのようですが、私は「それが人間だ」と思うのです。例えば、相手と喧嘩したことを思い浮かべてください。周囲に「私が正しい」と訴えながら、一方で言わないけれど、ひそかに自分の過ちや罪を覚えていて胸にチクチク痛む、みたいな、相反する思いを抱えるじゃないですか。79編の詩人も同じなのです。自分を被害者と見ながら、でも自分の罪も認めている。人間は複雑だから悩むのですよね。
でも、悩み疲れた時、私はひとつの選び方をお薦めします。「えーい、十分悩んだ。あとは神さまが喜ばれる方を決断する。神さま、あとはよろしく!」と決断するのです。神さまに放り投げちゃうのです。大丈夫ですよ。私の経験上もそうですが、悩んで悩んで悩んだ後の「神さま、よろしく」との決断を神さまはちゃんと受け止め、整えてくださいますから。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝の詩編79編はとても不思議な詩でした。ひとつの出来事を前に、詩人が全然違うモノの見方をしています。それは矛盾するようですが、でも、それが私たち人間です。神さま、私たちは悩むのです。でもどうか悩んだ末に御心に従わせてください。人生の導き手なる神さまに期待して祈ります。アーメン。

7日(火) 詩編80編1-20節
一言メッセージ:79編が南王国滅亡の詩でしたが、今朝の80編は北王国滅亡の詩です。詩人は「神さま、どうして北王国を見捨てられたのですか?」と訴え続け、4節、8節、20節と三度にわたり、同じ懇願の言葉を重ねています。
  さて今朝は普段と違う観点、ヘブライ語の表記から80編の面白さを分かち合います。古代ユダヤ人は「聖書はむっちゃ大事!」と考え、書き写す時も絶対に間違わないように、たくさんのチェックの仕方を持っていました。例えば詩編は、使われるアルファベット数を数え上げ、その真ん中の文字は何編何節が正しいとチェックしたのです(決して暇とか言わないように)。実はそんな詩編の真ん中の文字が今朝80編14節の「森の」という言葉ヤアルの2つめの文字アインになります。だから、ヘブライ語聖書では「ここが真ん中ですよ」と示すために、このアインだけ半分浮き上がるように印刷されます。「中づりのアイン」と呼びますが、ここからさらに一工夫あるのです。
15節に注目しましょう。そこには「天から目を注いでご覧ください」との嘆願の言葉が出ています。ヘブライ語の「目」という言葉は、アルファベットと同じ「アイン」という呼び方です。そこでユダヤ人は、15節の願いと先ほどの「中づりのアイン」を重ねて、こう理解しました。「詩人は神さまに『天から目を注いで』と嘆願したが、その嘆願の前に既に、神さまは『宙づりのアイン』で詩人たちの状況に目(アイン)を注いでいた」と意味づけたのです。こじつけっぽいですが、何事も神さまと結び付けて考えたユダヤ人の柔軟でユーモラスで根強い信仰に感心します。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝わたしたちは80編の「宙づりのアイン」と15節の詩人の嘆願を重ね、神さまの目はいつもわたしたち人間の上に注がれていることを分かち合いました。私たちはユダヤの人々の柔軟でユーモラスで根強い信仰を教えられます。神さま、どうぞ私たちにも、苦難の中でもへこたれない柔軟さと、いつも余裕を見出せるユーモアと、何があってもあなたの私たちを結びつける根強い信仰をお与えください。一日の始まりにあなたの眼差しに期待し、イエスさまのお名前でお祈りします。アーメン。

8日(水) 詩編81編1-17節
一言メッセージ:詩編81編も神さまの言葉が直接語られる珍しい詩の1つです。6-15節と17節に神さまの言葉が記されています。さて、そんな言葉の中で注目したいのは、8節で神さまがイスラエルの民を「試した」とあることです。具体的には出エジプトの旅の中で、9節にあるような「わたしに聞き従うか」です。残念ながらイスラエルの民は神さまを蔑ろにしたため、神さまは14-15節「わたしの民がわたしに聞き従い、わたしの道に歩む者であったなら、わたしはたちどころに彼らの敵を屈服させたであろうに…」と嘆いたのです。
  神さまは時々、私たちを試します。それは鍛えるため、神さまに気づかせるためです(ヘブライ人への手紙12章5-6節参照)。例えば、アブラハムのイサク奉献の始まりは神さまがアブラハムを試みでした(創世記22章1節)。新約聖書でイエスさまは荒野で40日悪霊と対峙したのは「試みを受けるため」(マタイ4.1)でした。Ⅰコリント10章13節でパウロは「(神は)試練と共に逃れる道をも備えていてくださる」と記しましたが、この「逃れる道」はギリシア語でエクバシスと言い、正確な訳は「出口」です。「試練から逃げる逃げ道ではなく、試練の中で解決のために神さまが与えてくださっている出口がある」がパウロの意図でした。だけど私たちは願望が先走り、「神さまは私たちから苦しいことや悩みを遠ざけ、何でも安全、安心な“温室状態”を与えてくれる」とご利益宗教のように信仰を思い込むことがある。繰り返しますが、神さまは時に私たちを試すのです。
  でも同時に注目したいことは、「神さまは私たちを試みますが、鍛えるためであって切り捨てるためではない」ということです。今朝の箇所でも14-15節で「わたしに聞き従っていれば…」と言いながら、イスラエルの民に目を留め続けておられますもんね。今日は一日の始まりに、神さまの目と試みを意識して歩み出しましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝の81編はあなたによる試みの話でした。神さま、あなたは私たちに期待してくださるから鍛えよう、試みようとされるのでしょう。若干、時にしんどいですが、あなたの試みならば必ず解決もあるはずです。どうか私たちはあなたを信頼し、あなたの試みに応えることができますように。どうぞパウロが語った「出口(エクバシス)」を私たちにも体験させてください。救い主イエスさまのお名前で祈ります。アーメン。

9日(木) 詩編82編1-8節
一言メッセージ:詩編82編は神さまの最後の審判のイメージを歌った詩です。2-4節は神さまの発言だろうと思われますが、6節は神さまなのか。陪席する人々の言葉なのか、分かりません。
  この詩を理解するために知って欲しいことは、当時、各国にはそれぞれの守護者たる神々がいると考えられていたことです。だから、国と国の戦争は神と神との争いと見られました。1節の「神々の間で裁きを行う」とは、神さまが他の神の存在を認めているという意味ではなく、イスラエルの周辺の強国に対して語り掛けた表現です。そこで神さまが強調しておられるのは、「弱い民を蔑ろにすることを認めない」ということです。それは神さまの御心の大前提です。神さまは人々の命や尊厳が踏みにじられることを認めないのです。そして周辺の国々が力を誇ることに対して、「しかし、あなたたちも人間でしかない(周辺国の神に対しては「所詮、人間のつくった偶像に過ぎない」の意)。皆、一斉に没落する」と断言されるのです。今朝の箇所はわたしたちに「神とはどなたか?」と尋ねてきます。
  追い詰められ、余裕を無くす時、私たちは目先のことに右往左往してしまいます。神さまがおられるのに、神さまより目の前の不安や焦りでいっぱいいっぱいになる。その結果、神さまそっちのけで自分たちの経験や常識の中だけで「もうだめだ」と結論付けてしまっていないでしょうか。82編は「それじゃだめ」と教えます。神さまがおられる。神さまが目を留めていてくださっている。だから、私たちはもっと神さまを信頼し、安心し、期待すればいいのです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。詩編82編であなたは、民の命や尊厳を踏みにじる国々や社会を叱責されました。あなたの御心は誰もが違いを認め合い、共に生きる社会と教えられます。神さま、今、私たちはその御心に基づく社会を望みます。あなたの御心に基づく社会を来たらせてください。いつも民の傍らにいてくださった救い主イエスさまのお名前で祈ります。アーメン。

10日(金) 詩編83編1-19節
一言メッセージ:83編の詩人は、周囲の国々が結託して自分たちを攻めようとしていると怯えています。そんな歴史は実際にはありませんが、心情としてはとてもよく分かります。心身ともに疲れた時、私たちにネガティブな勘違いをしてしまうものですから。詩人もそういう状態です。でも、詩人はそんなピンチの中で神さまに期待するのです。詩の表現はユニークです。14節に出てくる「車の輪」とは、西部劇の映画に出てくる荒野をカラカラと回っている植物です。ある程度まで育つと植物の上部がぽっきり折れて風に吹かれてカラカラと吹き飛んでいく。詩人はそんな植物と近隣の敵国を重ね、「一時的に勢いがあっても、神さまの叱責にポッキリと折れて頭が落ちる(国が亡びる)」と見ています。その根拠は「だって神さまがおられるんだもの」です。
  「神さまがおられるんだもの」、それは私たちの信仰の最も基本の部分です。神さまがおられるから、私たちは結構ヘビーな課題を負い、試練を受けていても期待を失わない。神さまがおられるのだから、「今の状況は変わっていくさ」と希望が湧いて来る。さぁ、今日も新しい一日が始まります。「神さまがおられるんだもの」と祈って、初めてまいりましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もわたしたちにみことばをありがとうございます。今朝詩編83編を読みながら、「神さまがおられるんだもの」との希望をいただきました。あなたがおられる、その信仰に立つからこそ私たちはいつも前を向いて生きられます。たとえ自分たちでは太刀打ちできない事態にも、笑えない悲しみにも、嘆きばかりの苦しみにも、でもあなたがおられるとの信仰は私たちを立ち上がらせ、一歩を踏み出させます。神さま、どうぞ今日もあなたがおられるからの希望に生きる者としてください。救い主イエスさまのお名前で祈ります。アーメン。

11日(土) 詩編84編1-13節
一言メッセージ:84編は神殿に巡礼する(礼拝するために集う)ことを願う詩です。何だか久しぶりに嘆きでない詩に嬉しくなります(笑)
  さて、84編の詩人は様々な表現で神殿に集うこと、礼拝に集うことの幸いを歌います。幾つか注目したい箇所に目を留めてみましょう。
6節で詩人は「幸い」な人として「あなたによって勇気を出し、心に広い道を見ている人」と歌います。日本語で「道」は「生き方、信念」を意味しますが、ヘブライ語も同じです。詩人は「神さまを信じて勇気を得て、自分の生き方をしっかりと見出している人は本当に幸せ」と歌う。
8節で「彼ら(巡礼者)はいよいよ力を増して進み」と書かれますが、ヘブライ語では「彼らは力から力へと歩み」と書かれています。面白いことに「力から力」の「力」というヘブライ語は使い分けられています。最初の力(ハイル)が「(勢いのある動的な)力」に対して、次の力(オーズ)は「(静的な)力」で「砦」とも訳される言葉です。詩人は、神さまによって揺るぎない生き方(6節)と祝福(7節)を得た巡礼者は、若い時の勢いある強さから老練の確固不動、ブレない強さへと変化し、そんな変化を通して神さまと本気で出会っていくと歌ったのです。
その時に出会う神さまは9節「万軍の神」と表現されていますが、これも厳密には訳が違います。通常「万軍の神」と訳されるヘブライ語はエロヘー・ツェバオートですが、ここはエロヒーム・ツェバオート「万軍なる神」です。「何万もの軍の上に君臨する神さま」でなく、「神さま自らが何万もの軍に匹敵する力、絶対的な存在」です。巡礼者はそんな神さまと向き合って平安と希望を見出すし、そんな神さまがわたしの祈りを(直接)聞いてくださることを幸いと歌うのです。だから11節にあるように、神さまと出会う一日は、わたしたちの「千日にまさる恵み」なのです。
84編は、こんなにも神さまを礼拝することを楽しみにする巡礼者の歌です。明日は日曜日、私たちも礼拝に集います。私たちも切望して礼拝に集いたいですね。牧師も必死に御言葉の準備に取り組んでいますし、奉仕の方々も祈って明日に備えておられます。どうぞ皆さんも礼拝奉仕のお一人おひとりのために祈ってください。また明日、礼拝でお会いしましょうね。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝の詩編84編はあなたを礼拝することがどれほど楽しみで、恵みであるかを語った詩でした。神さま、わたしたちもあなたを礼拝することを心待ちにします。明日の宣教は詩編122編から「礼拝さ、行こう」です。どうぞ明日の礼拝も祝福に満たしてください。また明日の礼拝のために一生懸命にご準備くださっている奉仕者お一人おひとりを祝福してください。明日の礼拝に期待し、今日の一日を過ごせますように。イエスさまのお名前で祈ります。アーメン。


***

今度の日曜日も、礼拝にてあなたのお越しをお待ちしています(^^)


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6月28日~7月4日のみことば - 2020.06.30 Tue

先日は久留米に1時間の降雨量が観測史上最高となり、ケイタイには非難情報を知らせるアラームが鳴って、ヒヤヒヤしましたが、幸い短時間だったため、大きな被害には至りませんでした。
とはいえ、梅雨はまだ続きますし、夏場のゲリラ豪雨等今年も大雨が降ると不安です。
今年は新型コロナウイルスの心配もありますから、いつもに増して、災害が起きないようにと祈っています。

何かと心がざわつくことのある毎日。
聖書の言葉、みことばを通して心に慰めをいただきたいですね。
今週も日々のみことばをお届けします。

※先日の日曜日のYouTubeによるライブ配信はトラブルのため、うまく配信できませんでした。
見てくれた方、すみません(>_<)


***

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28日(日) 詩編71編1-24節
一言メッセージ: 詩編71編は老人の詩です(9節、18節などで「老い」が繰り返されています)。若い時から神さまを信じ、従ってきた詩人が老年期に思いがけない苦難を経験し、嘆きます。9-11節では敵対者から「神さまから見放された」と言われ、詩人本人もそう感じたようです。でも、彼は神さまへの信頼を取り戻していきます。それどころか、18節では神さまに新たな願いを語ります。それは「御腕の業を、力強い御業を、来るべき世代に語り伝え」ることです。詩人は苦難の中でも、年を重ねてあれこれできなくなっても、神さまへの証の業に希望を見出しているのです。
  私が育った教会にIさんというおばあちゃんがおられました。私の父が教会に着任した時、私は3歳でしたが、それ以来、孫のようにかわいがってくださった方です。いつもニコニコ穏やかで、他人の悪口を言わず、冗談を好む配慮の人でした。毎年、おばあちゃんは梅雨時期にその年最初の初スイカをプレゼントしてくれたので、私は今も毎年、最初にスイカを食べる時、おばあちゃんのことを思い出します。食べ物の記憶はすごいです(笑)
後に知ったのですが、彼女は、太平洋戦争で夫が戦死、一人で三人の娘を育てた方でした(本当は四人でしたが、お一人は若くして亡くなりました)。彼女は生前、「戦争でね、おばあちゃんみたいな、旦那さんを亡くした若い女性たちがいっぱいになって、心細くって男性に走った人たちもいたけど、おばあちゃんはイエスさまに走ったの」とコミカルに話してくれましたが、戦後の混乱期を思うと、女手一つで娘たちを育てたことには本当に多くの苦労があったことでしょう。でも、彼女はそんな苦しい時にもイエスさまを信じ続け、そして年を重ねてもニコニコと笑顔で、教会に来ることを何よりも楽しみにしておられました。彼女は毎週、礼拝の30分前に教会に来られるのです。そしてやってくる人々に「おはよう、おはよう」とにこやかに声をかけておられました。その笑顔と挨拶に、教会の人たちは皆、励まされました。彼女の声かけは「イエスさまを信じ従うことは、どれほどの困難があろうと必ず平安に導かれる」との明確な証でした。私は詩編71編を読みながら、おばあちゃんの笑顔を思い出すのです。
今日は礼拝の日です。私たちもおばあちゃんのような笑顔で礼拝に集い、神さまからの平安と希望をいただきましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝私たちは詩編71編から、年を重ねた方の証を分かち合いました。思わぬ苦難に直面し、心くじける時、それでもあなたは私たちを慰め、希望を与えてくださいます。神さま、どうぞ私たちにもあなたの御許に召されるその時まで、あなたを証させてください。私たちが敬愛する信仰の先達のように、私たちもその生きる姿を通して、次の世代にあなたを証することができますように。苦難を超え、世代を超えて、御業を為されるイエスさまの御名で祈ります。アーメン。

29日(月) 詩編72編1-20節
一言メッセージ:72編は理想的な王をうたった詩です。理想的な王には3つの側面が見られます。1つ目は「公正と正義をもって民を裁く(治める)」こと(2、4、12-15節)。2つ目は「王の正しい政治によって大地が豊かな実りを実らせ(戦争を起こさないことでもあるか)、人々が平和と繁栄を享受する」こと(3、6-7、16節)。3つ目は「王の統治が一民族を超えて諸民族に及ぶ」こと(8-11、17節)、です。そして、そんな王の立ち方は、1節にあるように、王が神さまの御心を示されながら国を治めるところにあるのです。
  理想的な王を詠った72編ですが、イスラエルの歴史を見ると、このような王はほとんど存在しませんでした。そもそも、サムエル記上8章にあるように、民は「王とは民の生存と生活を補償し(だから安心して働ける)、争いを調停し、外敵から民を守る存在」と期待しましたが、神が示唆した王とは「民を奴隷とし、自らの都合で民を使役する」者でした。残念ながら、この王・指導者の姿は現代まで続いてしまっています。
  では、理想的な王を生み出すことはできないのか。いいえ、可能です。そして私たちは今、聖書の指針と共に具体的な手段・力を得ています。現行日本国憲法です。その前文を見ますと、憲法は太平洋戦争を思い返しながら「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのない」ように平和主義を明記しました。戦争は政府が自分たちの都合で起こしたと考えているのです。だから、そんな政府の暴走を止める力として「主権が国民に存する」と明記しました。加えて、国民が自分たちをちっぽけな存在だと誤解して思い込み、政治や権力の前に委縮してしまわないように、「基本的人権の尊重」を明記しました。これが憲法の三大原則です。
私は今日、詩編72編と憲法前文から、理想的な指導者を生み出すためにどうすれば良いのか、を考えます。私たちは神さまの御心に立つ政治が行われるように祈るとともに、私たち自身もしっかりと指導者が暴走しないように抑止し、正していくのです。そうやって子どもたち、孫たちの未来のために、今の大人にできることを行っていくのです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。詩編72編は理想的な王の姿を示します。神さま、私たちはこんな指導者を心から願います。何故なら、今、民が虐げられているからです。神さま、どうかあなたの御心によって立つ正しい社会を築かせてください。そのために、私たちにも何ができるのか、祈り、考え、行動させてください。平和の君イエスさまのお名前で祈ります。アーメン。

30日(火) 詩編73編1-28節
一言メッセージ:73編の詩人は当初、神さまに逆らう者たちがあまりにも裕福で、安泰な様子なのを見て羨みます。彼らが「神が何を知っていようか(11節)」と傲慢に振舞う姿を見て、自分の誠実な生き方がバカみたいに思えています。けれど、彼は17節で、そんな自分の見方が間違っていたことを悟ります。それまで羨んでいた富む人々が19節「一瞬のうちに」滅びていく様を見るからです。
  この詩はどこか、今の私たちへの忠告に思えてきます。私たちは目先の出来事で、一喜一憂しがちです。でも、今の状態が永遠に続くなど誰が約束できましょう。富む人が本当に幸せなどと、誰が言えましょう。イエスさまもルカ12.13-21で「愚かな金持ち」の譬えで語っていますが、財産を蓄えてもそれをもって天国に行くことなどできやしないのです。
そのことに気づいた詩人は2節で「えすかぁ!やらかすとこやった」と告白し、21-22節で「欲だけでモノを考えとったんが、がば恥ずかしか」と反省します。未来を導くのは神さまなのだから、神さまの傍にいることで良いのです。だから詩人は生きるのに必要以上のものは執着せず、ただ神さまの近くで生きていきたいと願っています。
人間はおかしなものですね。ため込むと、使いきれない量あっても、「もっともっと」と欲しくなる。本当の幸せとは、必要な糧をいただいて感謝して生きることなのかもしれないですね。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。詩人はあれこれと裕福な人々を羨み、嫉妬して苦しんでいました。でも、どれだけ力や財産を得ようともあなたの御心の前にそれらは無力と知った時、詩人は反省し、平穏を取り戻しました。神さま、私たちもこの詩人のように平穏をいただきたいです。理不尽な社会が正され、私たちも周囲と自分を比較して一喜一憂せず、あなたの正義と公正を感謝して生きる者としてください。あなたの慈しみ深い御心に期待し、イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

7月1日(水) 詩編74編1-23節
一言メッセージ:74編はバビロン捕囚期の詩です。エルサレム神殿が陥落し、敵対者は神殿の最も奥にあった至聖所(4節。神がおられる場所とされ、祭司の長だけが年に一度だけ入って儀式を行えた特別な部屋)の中に入り、大声で神さまを嘲っています。詩人はその光景を見ながら、神さまに嘆いています。詩人はやたらと「永遠」とか「とこしえ」とか「永久」ということばを繰り返します。過剰な言い方に見えますが、それくらいに詩人は絶望的な気持ちで事態を見ているのです。
でもここで注目したい表現が出てきます。日本語では分からないのですが、13-17節で繰り返される「あなた」は、ものすごく神さまのことが強調されています(ヘブライ語は動詞の変化だけで主語を特定できますが、この箇所は動詞だけでなく、主語まで付けて、「あなた」を二重に表現しています)。つまり、「神さま、あなたが、あなたこそが・・・されました」という強調して、神さまの御業の偉大さを表現しているのです。それまで詩人は侵略者の暴挙に怯え、「あぁ、彼らによる惨事は永遠だ。もうこの状況はひっくり返らない」と嘆いていましたが、神さまの偉大さに目が留まっていく中で、「本当の永遠は神さまにある」と気づいていったのです。だから74編の後半、詩人はまっすぐに神さまに救いを願うように変わります。その願いは「どうなるか分からない不安」でなく、「神さまがどうにかされる」という確信となったのです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝わたしたちは詩編74編で「永遠とはあなたにこそある」と示されました。私たちは何か大きな課題に直面すると、すぐに「もうダメだ、もうずっと苦しいままだ」と思い込んでしまいます。あなたがちゃんと事態を把握しておられ、整え、導いてくださるのに、私たちは一時的な困難ですぐに結論付けてしまいます。神さま、私たちの愚かさをどうぞお許しください。どうかいつも、あなたを覚え、あなたの永遠の御業に期待して生きる者であれますように。永遠の主であるあなたに心から祈ります。アーメン。

2日(木) 詩編75編1-11節
一言メッセージ:75編は珍しい詩編です。3-6節や11節の「  」は神さまご自身の発言が詩に組み込まれているのです。そんな神さまの発言を含んだ75編は、南ユダ王国が滅亡し、詩人たちは敵国の首都バビロンに連行され、捕囚生活を強いられている状況での詩です。捕囚の苦しさの中で詩人はかつて神殿で行えた礼拝を思い起こしています(2節の「感謝をささげます」はヘブライ語を厳密に読めば「かつて感謝をささげていました」という過去を示す言葉)。バビロンの民が自分たちの力を誇り、驕り高ぶる様を見ながら、詩人は3-6節の神さまの言葉、「なに調子に乗ってるんだろう。バビロンは誰に向かって驕っているのか」という反論を聞き、7節以降、「そうだ。バビロンの民がどれほど偉ぶろうとも、裁きは神さまにある」と確信しているのです。
  75編は私たちに、物事をはかる時の大事にヒントを与えてくれます。力を誇る相手がいたとしても、その人の言動が神さまの御心に適っているかどうかを見ればいいのです。神さまの御心に沿わないならば、力を誇るのは一時的。状況は必ずひっくり返っていく。私たちは勝手に「もうダメだ」と結論付けるのでなく、神さまに期待してその時を待つのです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝、私たちは物事の見方を学びました。たとえどれほど人が己の力や名声を誇ろうとも、神さま、あなたの御心に沿っているかどうかを見ればいいのですね。あなたの御心に沿わぬならば、あなたは必ず状況を変えていかれます。神さま、私たちはその時を待ちますから、私たちを、いつもあなたに目を向け続ける者としてください。救い主イエスさまのお名前で祈ります。アーメン。

3日(金) 詩編76編1-13節
一言メッセージ:詩編76編はとてもスケールのでっかい平和の詩です。それまでの平和を願う詩は「神さま、敵対者を叩きのめして(滅ぼして)平和をください」的な、自分たちの平和を願う詩が多々ありました。でも76編はそうではない。全民族の救いが歌われているのです。
4節で神さまは武器を叩き壊されます。5節で神さまが立ち上がると、6-7節では敵対者が心折れて戦う気を無くしています。9節では神さまの裁きによって全民族が鎮まります。そして10節で貧しい人々の救済が歌われるのですが、さぁ本題は11節です。「怒り猛る者」とはまだ戦おうとする人々ですが、その人々も「あなた(神さま)を認め」ざるを得なくなる。そして神さまが「激しい怒りの名残を帯とされる」とあります。意味が分かりにくいですが、これは「神さまが敵対者をご自分のものとし、身に着ける(身近におく)」という意味であり、平たく言えば「味方にする」です。すごくないですか?神さまは、神さまに敵対していた者たちをも味方にしてしまうのです。この詩ではイスラエル民族の自民族の都合が払しょくされ、全人類の平和が歌われるのです。
私はこのみことばに希望を見出します。神さまがご自分を示される時、敵対者すら味方になる。神さまの前で皆が友となれるのです。1963年のアメリカ、キング牧師がワシントン大行進の際にI have a Dreamと訴え、「かつての奴隷の子とかつての雇い主の子が、ジョージアの赤土の丘にて兄弟愛というテーブルに着く時がくる」と夢を示したように、神さまの前で皆が兄弟姉妹となれる。今日わたしたちはそんな夢をいただいたのです。感謝!
祈り:天のお父さま、今朝は壮大な詩編をありがとうございます。あなたの御前では、相争う人々が味方にされていきます。共に生きることを皆が願うようになるのです。神さま、そんな平和を私たちは願います。どうか、全ての民が共に兄弟愛のテーブルにつき、あなたの祝福を喜び合える時が実現しますように。平和が来ますように。救い主イエスさまのお名前で祈ります。アーメン。

4日(土) 詩編77編1-21節
一言メッセージ:詩編77編を読む時に注目したいのは「思い起こす、思い続ける」などの言葉です。それぞれに何を思い起こしているかに注目いただきたいのです。
77編は前半2-11節と後半12-21節の2つに分かれる詩です。前半2-11節で詩人は神さまに嘆いています。2-4節では「かつて神さまに助けを求めた時、神さまは助けてくださった」と思い起こしながら、5節以下で「じゃあ、なんで今は助けてくれないのだろう」と眠れなくなっています(5節)。挙句、9-11節では「神さまが私に対して沈黙し、見捨てられてしまったのか」と落ち込み始めるのです。この詩人の内向き志向が変わるのが後半12節からです。ここから詩人が「思い起こす」のは私の事ではなく、「主の御業」であり、神さまのなさった「奇跡」です。特に17-21節は出エジプトの解放の奇跡です。その救出物語を思い起こしながら、詩人は14節「あなたのようにすぐれた神はあるでしょうか」と、改めて神さまへの信頼を強くしているのです。
  江戸時代末期から明治、大正、昭和という激動の時代を生きたクリスチャン内村鑑三のエピソードです。若い時期、彼は「罪」について悩み、「わたしの罪はどうすれば赦されるのか」と苦しんでいたそうです。そんな時期に彼は恩師でアマースト大学総長のシーリーからこう言われたそうです。「君は君の内側だけ見るからいけない。君は君の外から見なけばならない。なぜ自分を省みることを止めて、十字架の上で君の罪を贖ってくださったイエスをこそ仰ぎ見ないのか」。内村はガツンと殴られたような気分だったそうです。彼は「私は、私は」と自分を振り返る時、何の救いも見出せませんでした。でも、そんな罪人たる私を何も求めず、丸ごと引き受けて救ってくださったイエスさまから自分を再発見した時、私たちは罪人でありながら神の祝福に生きる者だと確信できたのだそうです。内村はこの体験を「第二の回心」と言っています。
  さぁ、今週も土曜日まで歩んで来ました。今週の私たちはどうだったでしょう。「私は、私は」と自分のことで一喜一憂してばかりになっていなかったでしょうか。イエスさまは私たちの良い所も悪い所も全部ひっくるめて愛し、赦し、救い、伴い、導いてくださいます。私たちはそんなイエスさまによって生かされているからこそ、いつも希望を見出すのです。「今週も感謝!」と喜び祈って、一週間を締めくくりましょう。
祈り:天のお父さま、今朝も、そしてこの一週間もみことばをありがとうございました。私たちは時に、自分のことに必死になり過ぎて、あなたでなく「私は、私は」と騒がしく日々を送ってしまいます。自分たちの算段で物事を考え、あなたの御心より自分たちの安心に走ってしまいました。でも、週の終わりに大事なことを思い起こしました。神さま、あなたはこんな弱く、罪深く、あれやこれや失敗をやらかす私たちを、それでも愛し、赦し、救ってくださいました。今も私たちと共に生きて下さり、私たちを御心へと導いてくださいます。あのイエスさまの救いこそが私のスタートでした。神さま、あなたが私たちの神さまであってくださること、イエスさまが私たちの救い主であってくださることを心から感謝します。どうかこの一週間を感謝し、明日の礼拝に期待を持って集うことができますように。救い主イエスさまのお名前で祈ります。アーメン。


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また、日曜日の朝教会の礼拝堂で、画面の向こう側で、お会いしましょう!!


6月21日~27日のみことば - 2020.06.24 Wed

6月も後半に入りました。
梅雨入りしましたが、ここ数日は晴れ間が広がっています。

遅くなってしまいましたが、今週もみことばメール1週間分を掲載します。
今週も皆さんの上に神さまの祝福が豊かにあります様に。
み言葉を通して、自分を見つめ、癒され、はげまされますように。


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21日(日) 詩編64編1-11節
一言メッセージ:「口は禍の元」という諺があるように、古くから人々は言葉に注意を払ってきました。それは古代イスラエルも同じで、箴言などでは軽口への警告が多々記されています(「口数が多ければ罪は避け得ない。唇を制すれば成功する」(10章19節)、「柔らかな応答は憤りを鎮め、傷つける言葉は怒りをあおる」(15章1節)、「聡明な心は知識を求め、愚か者の口は無知を友とする」(15章14節)など)。
  今朝の詩編64編で詩人は敵対する者たちから悪意いっぱいの言葉を浴びせられ、苦しめられています。詩人はその理由が全く分かりません(2節の「悩み」という言葉シーアハは「理由なき苦難」を指す言葉)。彼は敵対者たちの言葉が剣や矢のように自分に刺さっています。詩人は自分の正当性を訴えるのですが、彼らは「悪事に長け」ており、巧妙に自分たちの策謀を隠すのです。しかし突然、状況が一変します。あれほど一枚岩を誇った敵対者たちが突如、自分の語った言葉がブーメランのように返ってきて、彼ら自身が倒れていく。詩人はそこに神さまの働きを見るのです。
  同じことを私たちは身近に多々見ます。個人的な正義感を振りかざして声高に叫んでいた人がちょっとした状況の変化に口を閉ざし、居丈高になってしゃべっていたお偉いさんがかつて自分の語った一言を引き合いに出されて黙り込む、なんてことは往々にして起こります。そして恐ろしいことに、それは私たちの身にも起こり得ることなのです。
だから、詩人は詩の終わりに語ります。11節「主に従う人は主を避けどころとし、喜び祝い、心のまっすぐな人は皆、主によって誇ります。」詩人は自分でなく神さまを誇りとする。いつも「この場面で神さまはどう考えられるか、何を望まれるか」と神さまを思い起こしながら生きるのです。その時私たちは、喜びは率直に感謝でき、嫌な思いには「神さま、どうぞ整えてください」と祈れ、言葉を選ばねばならない時には「神さまが見ているから」と瞬時に熟慮できるのです。
祈り:天のお父さま、今朝、わたしたちは詩編64編から「言葉」について考えさせられました。言葉は人を傷つけもすれば、癒しもします。神さま、先週の私たちの言葉はいったい、どちらの言葉が多かったでしょう。自分では軽口と思っても、相手には剣のように刺さる言葉もあったかもしれません。神さま、どうか私の言葉が罪を犯したならば、どうぞ赦してください。そして相手の方を癒してください。私たちが次にお会いする時に率直に謝る言葉を伝えさせてください。そのためにも神さま、どうか日々、豊かにあなたのみことばを与えてください。今日は礼拝の時です。どうか私たちの口を整え、耳を開いてください。イエスさまのお名前で祈ります。アーメン。

22日(月) 詩編65編1-14節
一言メッセージ:詩編65編は3つのブロックに分かれる詩です。1つ目のブロックは2-5節の「祈りに応えてくださる神さま」です。注目したいのは神さまとの向き合い方です。詩人は一貫して神さまを「あなた」と呼びかけ、自分たちのことを「わたしたち」と言います。ただ一箇所、4節で自分の犯した罪の際だけ「わたし」となっています。この変化が大事なのです。詩人は皆と共に神さまと向き合っています。でも自分自身の罪を思い起こす時は集団でなく、神さまと一対一で向き合っている。詩人は、皆と共に礼拝で神さまと向き合う時間と、一人で神さまと向き合う時間と、それぞれに大事にしていることが分かります。
  2つ目のブロックは6-9節の「混沌を鎮め、私たちに応えてくださる神さま」です。詩人は8節の「大海のどよめき、波のどよめき、諸国の民の騒ぎ」など、自分の力じゃどうにも鎮めきれない大混乱の状況、人間の限界に直面しています。でも、詩人はその混沌すら鎮める神さまが応えてくださることをちゃんと知っており、信頼しているのです。
  3つ目のブロック10-14節の「神さまの御業が日々実現する」は描写の仕方に注目しましょう。ここでは現時点で目の前にわんさか作物が積まれているというよりも、豊かな大地とか水をたたえる水路など「祝福の兆し」のような書き方が主です。ちょっと変な表現ですが、神さまの祝福は直接的な現物支給というより、私たちを継続して活かす未来への約束なのです。詩人はそんな神さまの未来への約束から受け取っているのです。
  今週、私たちはこの3つをイメージしましょう。礼拝という集団においても個々人という一対一においてもそれぞれに神さまと向き合う時間を大事にすること、混乱の時に全知全能の神さまを信頼すること、神さまの導かれる未来に期待すること、です。さぁ、一週間をワクワクしながら歩み始めましょう。
祈り:天のお父さま、週の仕事の始まりに期待感いっぱいのみことばをありがとうございます。あなたは私たちに、一週間の道しるべをくださいました。神さま、どうぞ、そのみことばの通りに私たちも一週間を過ごさせてください。救い主イエスさまのお名前でお祈りします。アーメン。

23日(火) 詩編66編1-20節
一言メッセージ:1-12節で詩人は自分のことを「われら」と複数形で表現していますが、13節以降は「わたし」と単数形になっています。この使い分けに注目しましょう。1-12節は、出エジプトの解放という過去と、バビロン捕囚からの解放という詩人たち世代が経験した出来事を振り返りながら、「神さまは、時代は違えどもいつも私たちを救ってくださった」という意味で「我ら」と語っています。一方、13節以下の「わたし」は詩人が自分自身の経験を振り返りながら、「苦難の時に御業を実現してくださった神さまに、わたしは向き合う」と単数形で歌っています。つまり詩人は、民族の過去の歴史が今の私に繋がっていること、神さまの祝福はかつての祖先のように私にも与えられていることを意識しているのです。
  今日23日は沖縄では「命(ぬち)どぅ宝」の日です。75年前の沖縄戦で本土の捨石にされた沖縄では20万人の死者が出ましたが、そのうち12万人は沖縄県民の犠牲でした。これは当時の県民の1/4にあたります。これほどの犠牲が出た理由は日本軍が敗戦確実となる中で、できる限り良い条件での停戦協定を取り付けるための時間稼ぎと言われています(同じ意味合いの犠牲者が広島、長崎の原爆であり、このことは生前、中島文昭協力牧師も悔しさを口にしていましたね)。そして今朝6月23日は沖縄戦が終わった日(諸説あり)とされ、以後、沖縄では「慰霊の日」であり、「いのちこそ宝」と思い起こす日となりました。
  1985年5月8日、当時の西ドイツ大統領リヒャルト・フォン、ヴァイツゼッカーは第二次大戦の敗戦40年を振り返って歴史的な演説を行いました(『荒野の40年』)。彼はドイツの戦後40年を出エジプトの40年と重ねて、イスラエルの民が40年の荒野の旅を通して、神さまに従って生きることを学んだように、ドイツも戦後40年で様々なことを教えられてきたと訴えました。その演説はナチスの行った残虐な過去をちゃんと受け止めながら、正しく未来を切り拓いていく宣言でした。ヴァイツゼッカーは「過去に目を閉ざす者は未来に対して盲目になる」と語ったのです。過去の歴史に学び、その上に生きる。今の日本にも必要な示唆です。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝の詩編66編、詩人は民族の歴史が今の自分に繋がっていること、だからこそ自分も神さまと向き合い、誠実に生きることを歌いました。神さま、私たちも同じようにありたいと願います。私たちも歴史をちゃんと振り返ります。過去の過ちは繰り返さず、あなたの御心に沿って生きる者でありたい、生きる国でありたいと願います。神さま、どうぞ私たちが一歩ずつでもあなたの平和に近づく者であれますように。沖縄の人々に慰めを、そして今も犠牲を強いている本土への悔い改めを与えてください。救い主イエスさまのお名前で祈ります。アーメン。

24日(水) 詩編67編1-8節
一言メッセージ:67編はとても牧歌的な詩で、私たちはホッとします。今朝の詩の中で私は2つのことを分かち合いたいと思います。
1つは、この詩には敵への報復を祈るような思想が皆無ということです。今まで皆さんと共に詩編を読み続けてきましたが、他の詩には敵への報復を祈るような思想がたびたび見られました。でもこの詩は、3節で「すべての民」の救いが祈られ、5節でさらに具体的に「諸国の民(ユダヤ人以外の民)」も救われることが祈られているのです。全世界の民が皆、しっかりと食べることができ(7節)、神さまの祝福をいただいて平和であれることを祈っているのです。
もう1つ気づくことは、67編は神さまの祝福を祈ると同時に、「すべての民があなた(神さま)に感謝をささげる」ことが願われています。これは大事な示唆です。私たちの幸いな生き方とは、一方的に神さまから豊かな恵みをいただくだけでは得られないのです。私たちもまた、神さまと向き合うことが幸いなのです。例えば、誰かからプレゼントをいただくことは嬉しいですが、誰かにプレゼントをして喜んでもらえた時も本当に嬉しいじゃないですか。同じように、私たちの幸いは、神さまから一方的に祝福されるだけでなく、私たちも神さまを喜び祝うことは必要なのです。
祈り:神さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝わたしたちは、本当の幸いは一方的に祝福をいただくだけでなく、私たちもまたあなたを喜び祝い礼拝することにあると知りました。神さま、今、私たちはあなたを喜び祝います。あなたが私たちの神さまであってくださること、イエスさまが救い主であられること、聖霊が日々私たちに神さまやイエスさまを身近に覚えさせてくれることを心から感謝します。同時に神さま、私たちはこの喜びにさらに多くの方が加わって欲しいと願います。どうか争う国々が、民族が、宗教が、人々が、皆あなたの御許に集い、共にあなたを喜び祝える、そんな平和が実現しますように。救いが成りますように。救い主イエスさまのお名前で祈ります。アーメン。

25日(木) 詩編68編1-36節
一言メッセージ:68編は神さまが圧倒的な力をもって世界を統一し、平和を実現してくださるように、との詩です。詩の細部では神さまの力がどれほど圧倒的であるかが書かれています。例えば、21節では神さまを「死から解き放つ神」と言いますし、23節で「海の深い底から(海の深い底は神さまの力が及ばない場と考えられていた)」すら救いを実現される神さまが描かれます。また、イスラエルにとって長年の具体的な強敵だったエジプト(32節、ちなみに31節の「葦の茂みに住む獣」も同じ)すら散らす神さまが歌われます。これほど圧倒的な力を持つ神さまでありながら、同時に詩人はその神さまが弱い人々にちゃんと目を留めていてくださることを歌います。6-7節で「みなしごの父となり、やもめの訴えを取り上げ、孤独な人が身を寄せる家を与え、捕われ人を救って神殿に住まわせ」、12節では当時の社会では弱者とされた「大勢の女たちが良い知らせを告げる」のです。「良い知らせ」とは13節では戦勝の知らせです。決定的な救いを、当時は取るに足らぬとされた人々が喜びの歌と共に告げ広めていく。神さまの救いが世界のあらゆる制約や限界を超え、皆が同じ人間として喜びを分かち合われていく、そんな描写で歌われていくのです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝私たちはあなたの示される平和の姿の一端を分かち合いました。神さま、あなたが世界を正しく導かれる時、横暴な権力者が廃され、誰もが同じ人としてその命を喜び、あなたの祝福に感謝します。神さま、今私たちはそんな世界を願います。理想に程遠い現実ですが、一歩ずつでもあなたの御業を実現してください。私たちも平和実現の一助を担うことができますように。平和の君イエスさまの名で祈ります。アーメン。

26日(金) 詩編69編1-37節
一言メッセージ:69編は1節の表題で「ダビデの詩」とありますが、この詩はダビデよりもエレミヤと理解して読む方が分かりやすいです(ちなみに詩編の多くは「ダビデの詩」とありますが、聖書研究によれば、有名なダビデの名前を借りて作った詩がむっちゃくちゃ多いです)。
  エレミヤは南ユダ王国滅亡期の預言者で、「悲しみの預言者、悲劇の預言者」と呼ばれます。というのも、彼の預言は「祖国はバビロニアによって滅亡し、主だった民は敵国の首都バビロンに連行されて捕囚の生活を強いられる。神さまはその果てに民を捕囚の生活から解放してくださる」というものでした。当時、預言者を自称する人々は「大丈夫、私たちの国は神の国だから、敵国が攻めていても必ず助けられる」と語っていたのです。合わせて、人々は耳障りの良い言葉を語る偽預言者たちを信じ、祖国滅亡を語るエレミヤを敵視するのです。今朝の箇所はそんなエレミヤの経験に照らすならば、彼が井戸に放り込まれている状況です。そんな苦境の中で、エレミヤはなお、「神の御名を賛美してわたしは歌い、御名を告白し、神をあがめます(31節)」と歌います。苦しいのです。でも、人が神さまに対抗できないように、神さまのみことばはどれほどの苦境を経験していようが、必ず実現する。エレミヤはそんな神さまへの信仰に突き動かされるのです。
祈り:天のお父さま、今朝わたしたちは詩編69編のエレミヤの預言者活動に思いを馳せました。人間は耳障りの良い言葉を求め、その結果、あなたのみことばを蔑ろにすることが何と多いことでしょう。けれど、あなたのみことばは私たちの思惑や願望でなく、御心に基づいて語られ、いかなる障害があろうと必ず実現します。神さま、どうぞ、私たちがあなたのみことばをこそ喜び、信じ、従うことができますように。イエスさまのお名前を通して、正直に祈ります。アーメン。

27日(土) 詩編70編1-6節
一言メッセージ:詩編70編で詩人は神さまに自分の苦しみを訴えていますが、じゃあ具体的にどういう状況で苦しんでいるのかは分かりません。ヒントは6節の「貧しい」「身をかがめている」です。「貧しい」エブヨーンは社会的・経済的に弱い立場にされた者、「身をかがめる者、苦しむ者」アニーは生きる力を失いつつある者です。そんな苦しみの中で詩人はひたすらに神さまの救いを求めて祈ります。その願いは率直です。2節の「速やかに」はものすごい強調で、「とにかく即効で助けて」です。この詩で大事なことは、詩人が自分の力、周囲の協力で物事を解決しようとせず、ただ神さまに助けを求めたことです。それは小手先の一時的な助けでなく、根本の救いを求めるからです。私たちには考え及ばない、でも、全てが最善に整えられる神さまの御業を求めているのです。この気づきこそ、この一週間のみことばメールのまとめですね。
祈り:天のお父さま、この一週間も日々、みことばをありがとうございました。今週は苦難の中であなたに助けを求める詩が続きました。今、一週間を振り返りながら、私たちは1つのことを確信します。神さま、あなたは全知全能のお方です。私たちがあなたに祈るのは、今私たちが直面する課題を一時的にどうにかするためでなく、あなたによって根本から解決いただきたいからです。あなたは私たちの思惑を超えて、全てを最善に導かれます。だから神さま、繰り返しお願いします。あなたの御業を、あなたの整えを、あなたの救いを与えてください。御心が成りますように、救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。


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毎週日曜日10:30からの礼拝にもぜひお越しください。
また、YouTubeでの礼拝ライブ配信ものぞいてみてくださいね(^^)


6月14日~20日のみことば - 2020.06.15 Mon

梅雨に入り、日曜日は雨の中の礼拝となりました。
雨の日は出かけるのが億劫になったり、気持ちが内向きになりがちですが、外を見てみるとあじさいをはじめ植物たちは恵みの雨を受けて美しく咲いています。
この雨によって植物、また農作物などがすくすく育っているのを見ると神さまの業を覚えずにはいられません。本当に神さまのなさることは不思議です。

6月に入り、久留米教会では会堂に集まっての礼拝、また祈祷会や教会学校を再開しています。
とはいえ、まだ新型コロナウイルスが終息したわけではありませんから、マスク着用や消毒の準備、換気(エアコンをつけるときは礼拝前に換気)、簡略プログラムなど対策をしながらとなっています。
また、YouTubeでのライブ配信とホームページでの音声配信も継続しますので、そちらもお使いください。ライブ配信は礼拝終了後も動画として残りますし、音声配信も続けて公開していますので、日曜日には聞けなかったという方もどうぞ!!

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14日(日) 詩編57編1-12節
一言メッセージ:詩編57編は前半と後半に分かれる詩です。前半2-5節では詩人を害する相手がいて、詩人は「神さま、あなたに助けを求めます」と訴え続けます。5節などは詩人が厳しい状況に陥っている様子が書かれています。この状況が変わるのが後半7-11節です。7節は興味深いことに、詩人はただ神さまに助けを求めて屈みこんでいただけですが、相手が勝手に自分の罠にはまり込んで自滅するのです。詩人はそれが神さまの働きであったと気付くのです(8節)。
  私の好きな似た話に、民数記22章の「バラクとバラム」という話があります。イスラエルの民を倒そうとしたモアブ王バラクが呪術師バラムを雇って呪わせようとする話です。バラムがロバにのってイスラエルの民に近づくのですが、途中でロバが立ち止ってしまう。バラムはロバを叩いて行かせようとすると、ろばが「わたしが何したというのですか、三回も私を叩くなんて」としゃべるのです(ディズニーみたい)。バラムがロバと言い合っていると、彼の目が開け、実は進もうとした道に主の使いが抜き身の剣をもって立っていたと気付く、という話です。この話、何が面白いかと言えば、当のイスラエルの民は全く知らないところで神さまに守られているのです。神さまが全部整えてくださり、いつの間にか助けられているのです。
  私たちも同じです。神さまは日々、私たちを整えてくださっている。ただ私たちが気づかないことが多いだけです。今日は日曜、礼拝の時です。新しい週も神さまの整えをいただきながら歩めることを感謝して、神さまと向き合う時を持ちましょう。YouTube配信は続けていますから、お越しになれない方は活用ください(日本バプテスト連盟久留米キリスト教会で検索ください)。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝、私たちはあなたが私たちのあずかり知らぬところで、ちゃんと助けてくださっていることを知りました。きっと先の一週も私たちが気づかなかっただけで、あなたはいっぱい私たちの歩みを整えていてくださっていたのでしょう。神さま、あなたの御業に感謝します。できることなら直面しなくていいトラブルには遭わぬように引き続き整えていてください。どうぞよろしくお願いします。救い主イエスさまのお名前を通して、主なる神さまにお祈りします。アーメン。

15日(月) 詩編58編1-12節
一言メッセージ:58編は、詩人の非常に激しい感情が書かれた詩です。「何もそこまで言わんでも」と言うくらいに敵意むき出しで叫ぶ詩なのですが、注目したいのは、詩人が批判する相手である「人の子ら(2節)」です。ヘブライ語原文はエリームという言葉なのですが、訳の可能性が2つあるのです。1つは「異教の神々」を指すと理解する解釈です。この場合58編は、自分を神かのように振舞いながら自分勝手な正義を主張する人々に対して、詩人は「人が神さまになっちゃだめだ」と痛烈に批判した詩と読むことができます。人はすぐに調子に乗るからですね。もう1つの理解はエリームを「沈黙」と理解する解釈です。この場合、2節は「ほんとうに正義は沈黙だ、とお前たちは語るのか」という訳になります。そこで詩人が批判しているのは、社会には不正義のために苦しめられている民衆がいるのに、「仕方ないよね」と考えて声をあげない民への批判の詩なのです。言うなれば、沈黙する民への批判の詩と読めるわけです。
  今、アメリカをはじめとして世界中で人種差別に対しての抗議行動が広がっています。私たちにとっても決して対岸の火事ではありません。日本の中でも海外の方々への批判や差別があります(今回の新型コロナの影響で皆が苦しんだのに、アジア系外国人留学生への支援は成績の良い人上位3割みたいなむちゃくちゃな差別が公然と言われました)。沖縄で起こっている辺野古基地建設や米軍基地の集中は「沖縄に辛い状況を押し付ければ本土は安心」と、沖縄を捨て石にする判断があるように見えます(先週の日曜日の沖縄県議会議員選挙が終わりましたが、終わった途端、新型コロナの対策としてストップしていた辺野古基地建設が再開されました。この休止は県議選で政府に不利な結果が出ないようにするための戦略だったと指摘があります。実際、自民党側は辺野古基地建設を選挙の争点にしないようにあれこれと手を打っていました。結果は反基地を主張した現知事派が過半数を取りましたが、自民党の議席も増えています)。
  アメリカの公民権運動のリーダーだったキング牧師はかつてこう語りました。「最大の悲劇は悪人の圧政や残酷さではなく、善人の沈黙である。」今、私たちは58編をどう読みましょうか。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝、私たちは58編を読みました。エリームという言葉をどう理解するかで、この詩は性格を変えます。人が神のように驕ることへの批判とも受け取れます。その場合、私たちは自分を正しますし、また周囲が驕っているならば、その人々を諫めねばなりません。一方で、社会の不正を前に黙っていていいのか、という読み方もあります。そうであれば、今の社会に対して、私たちは沈黙していていいのか、と問われます。沈黙することで子どもたち、孫たちの未来が危うくもなるのです。神さま、あなたは時々、私たちに深く問いかけられます。私たちは平穏に生きていたいのに、その平穏を勝ち取るために、あなたは私たちに「あなたはどうする?」と問われます。神さま、簡単に答えは出せません。どうかみことばと向き合って、自問させてください。平和の主、イエスさまのお名前で祈ります。アーメン。

16日(火) 詩編59編1-18節
一言メッセージ:詩編59編は元来、詩人の個人的な歌だったのですが、その詩を読んだ人たちが「分かる~、あるよね、そういう『何なん、これ?何でこげんなったと?』って言いたい辛いこと」と共感しまくったため、いつの間にか民族的な詩と拡大解釈されていった詩です。じゃあ、何が「あるある」と共感されたかと言えば、自分には何の落ち度もないはずなのに、敵意いっぱいで責められる経験です。6節を見ると詩人は「悪事を働いたこともないわたし」と言っています。実際に何の悪事も無いというわけではなく、突然「敵」から攻撃される理由が分からない状態です。詩人から見れば「敵」は7節、15-16節のように夜中にうろつく野犬のように見えます。そんな中で詩人はひたすらに神さまに助けを求めています。12節の「彼らを殺してしまわないでください」と14節の「彼らを絶やし、絶やして、ひとりも残さないでください」という言葉が矛盾しているように見えます。ヘブライ語原典を見ると12節の「殺してしまう(ハーラグ)」は物理的な力を持って命を奪うことですが、14節の「絶やす(キッラー)」は「終わらせる」という意味でして、物理的な抹殺でなく、彼らの攻撃が終わることを願っています。つまり詩人は「神さま、殺さんでいいから、とにかく彼らを黙らせて、二度と噛みついてこないようにしてください」と願っているのです。
そんな59編の中で今朝、注目したいのは9節です。詩人にとって「敵」はとにかく恐ろしい相手です。でも、詩人は「主よ、あなたは彼らを笑い、国々をすべてあざ笑っておられます」と語ったことです。人間がどれほど力を振るおうとも、神さまの前では赤ん坊同然です。先月産まれた我が家の三男がいくらフニャフニャ言って私を叩こうともまるで痛くないように、神さまは「おぉおぉ、可愛いもんだ」と笑いながら、御業を行われる。詩人はそれほどに神さまを信頼しているのです。
祈り:天のお父さま、今朝わたしたちは詩編59編を通して、あなたに信頼し祈ることがどれほど力強いことかを知りました。どれほど私たちが困難を経験していようとも、私に敵意いっぱいに噛みついて来る者がいようとも、あなたはまるでふざけているかのように彼らをあしらい、私たちを守ってくださいます。神さま、私たちはあなたに頼ります。どうか、あなたの御業を行ってください。相手を滅ぼすことまでは願いません。もしかしたら、その敵すらもいつか友になるかもしれないから。だからともかく今の課題から私たちをお救いください。期待して祈ります。アーメン。

17日(水) 詩編60編1-14節
一言メッセージ:今朝の60編で詩人は「私たちがこんなにしんどい状況なのは、神さまが私たちに怒って、『お灸を据えちゃろう』と思われたからだ」と思っています。古代の人たちはそういう風に考えました。4節で「大地を揺るがせ」とありますが、国が根幹から揺るがされるほどの大規模な問題が起こっているのです。例えば、今の日本で言えば、憲法が変えられそうになっているとか、社会が弱い者の犠牲を公然と強いていて、弱い民が命を絶つくらいの緊急事態です。そんな中で13節、詩人はあることを悟ります。「人間の与える救いはむなしい」です。どれほどの栄華を誇ろうと、所詮、人の栄華は移ろいゆく儚いものです。そんな中で詩人は改めて神さまを信じて生きることに希望と救いを見出しているのです。
  さだまさしさんの名曲「風に立つライオン」はアフリカで医師として活動した柴田紘一郎さんをモデルにした歌ですが、その詩の中にこんな一節があります。「この偉大な自然の中で病と向かい合えば、神さまについて、ヒトについて考えるものですね。やはり僕たちの国は残念だけれど何か、大切なところで道を間違えたようですね。」今、新型コロナウイルスという緊急事態の最中で私たちも「神さまについて、ヒトについて」考える時なのだと思います。
祈り:天のお父さま、今朝もわたしたちにみことばをありがとうございます。今朝私たちは詩編60編を通して、人の儚さとあなたの偉大さを考えました。詩人は「人間の与える救い(喜び)はむなしい」と語りました。何故ならば、ヒトにはいつも限界があり、その喜びは一時的な、移ろいゆくものだからです。でも神さま、あなたが与えてくださる救い、喜びは永久に私たちを祝福し、導いてくださるものです。神さま、どうぞいつも私たちを掴み、私たちがあなたの祝福を当然と誤解せず、感謝と期待に生きることができますように。救い主イエスさまのお名前で祈ります。アーメン。

18日(木) 詩編61編1-9節
一言メッセージ:今朝の61編はわたしの大好きな詩です。この詩にはとても素敵な人生のヒントが満載だからです。3節を見ますと、詩人は「心挫けるとき、地の果てからあなたを呼びます」と語ります。面白いのは「心挫けるとき」です。詩人は「心挫ける前に」でなく、既に「心挫けて」いるのです。何かのトラブルに直面し、あらゆる手を尽くしたのに、願う成果を得られず、心挫けたのでしょう。でもここからが61編のすごさなのです。
  詩人は気づきます。「心挫けた」のは、自分が即効性のある解決や結論を求めていたからです。でも神さまは「常にわたしの避けどころ(4節)」であり、その神さまの御許にいるから自分は「神の幕屋にとこしえに宿る(5節)」ことができるのだと悟ったのです。トラブルを一発で解決する御業を求めていたのに、彼が知ったのは、「神さまは毎日祝福を与えてくださっていて、その毎日の積み重ねがとこしえへと繋がっていく」ことでした。大事なことは日々の積み重ね。日々、神さまに祝福されていることを覚えることだったのです。だから7節で詩人は歌います。「王の日々(守られる毎日)になお日々を加え、その年月を代々(とこしえ)に永らえさせてください」と。
  私たちは61編を通して気づかされます。神さまの祝福は今日も与えられていて、そんな毎日が私たちをとこしえの祝福へと導いてくれるのです。今日の一日は物事が悪くなるかもしれない一日ではありません。神さまの御計画の中でとこしえの祝福に続く一日です。今日も安心して一日を始めていきましょう。
祈り:天のお父さま、今朝の61編はわたしたちをとても嬉しくしてくれます。自分たちを振り返ってみますと、わたしたちはいつも、あなたに即効性のある御業を求めているように思います。焦り過ぎていたのです。でも61編はそんな私たちに「神さまの祝福は今日も明日も与えられる。そんな積み重ねの中でとこしえの御業は成るのだ」と教えてくれます。神さま、わたしたちは焦らず、あなたの導きを祈り続けます。どうぞ、今日の一日も安心して歩み出させてください。救い主イエスさまのお名前で祈ります。アーメン。

19日(金) 詩編62編1-13節
一言メッセージ:これまでたくさんの詩編を読んできましたが、言い忘れていたかもしれません。今朝の62編の2-3節、6-7節のように、新共同訳聖書で一段低く書かれている箇所はその詩のテーマ、歌でいうサビ、強調の部分です。今朝の62編では正にそこが詩人の強調点です。
  さて、62編で詩人は理不尽な権力者(力ある存在)に苦しめられる社会の姿を見ています。多くの人が動揺する中で、彼は2-3節、6-7節のテーマを繰り返すのです。2節で詩人は「わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう」と語りました。「ただ」というヘブライ語「アク」は強調を表します。詩人は動揺する状況の中で「ただただ神さまと向き合おう」と決め、心を鎮めて、現状の打開を図るのです。そこに「わたしの救いはある」からです。
  では詩人の訴えの結論はどうなったのでしょう。12-13節に結論が示唆されています。詩人は「ひとつのことを神は語り、ふたつのことをわたしは聞いた(悟った)」と語ります。最初の「力は神のものであり、慈しみは、わたしの主よ、あなたのものである」は、やっぱり神さまこそが御業の実現者であるという確信です。後半の「ひとりひとりに、その業に従って、あなたは人間に報いをお与えになる」とは、偉大な神さまがこの私、ちっぽけなわたしにもちゃんと御業を実現したとの喜びです。そう、詩人は神さまに救われているのです。ここに人生の道しるべがあります。自分の知恵、知識、常識、経験、好みで決断するのでなく、神さまの御心を模索するのです。それが「信じる」です。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。詩編62編は私たちに希望を与えます。あなたにこそ救いがあること、だから沈黙してあなたと向き合うことが、人生の幸いなのだと詩人は語りました。加えて私たちは62編から、神さまはちゃんと報いてくださるお方と確認しました。神さま、私たちもあなたに向き合います。どうぞ私たちを顧み、祝福してください。あなたに期待し、祈ります。アーメン。

20日(土) 詩編63編1-12節
一言メッセージ:詩編63編は、10-12節は何だか雰囲気が変わるのですが、9節まではとっても嬉しくなる詩です。詩人の変化に注目してみましょう。2節で詩人は「わたしの体は乾ききった大地のように衰え、水のない地のように渇き果てています」と訴えました。その彼が6節で「わたしの魂は満ち足りました」と語っています。乾ききったものが満ち足りたのです。その間に何があったのでしょう。それは3-5節にあるように、神さまへの礼拝でした。
  今、日曜日の宣教で「礼拝さいこう」というシリーズを続けています。「さいこう」は平仮名で毎週、そこに文字を当てはめながら宣教を続けています。6/7は「礼拝最高」、6/14は「礼拝再考」でした。礼拝について考えますと、礼拝は私たちにとって何という祝福なのかと気づかされます。もし神さまと向き合わないならば、私たちはどこまでいっても自分たち人間の力にすがるしかなかったでしょう。でも人間にはいつも限界があり、時に強い者の横暴の前に涙しながら口を閉ざすしかない時もあったでしょう。でも私たちは神さまを信じているのです。人間の限界を超え、無限の可能性を持つお方に期待して生きる生き方が与えられているのです。だから、神さまを信じる時に、私たちは自分たちの限界を超えた希望をいただくのです。詩人がまさにそうでした。彼の乾ききった心、身体は今や満ち足りたのです。彼は今や6節「賛美の声」をあげるほど満ち足りたのです。
  さて、明日は礼拝の日です。明日は「礼拝砕鉱」というタイトルで宣教します。砕鉱は発掘などで使う言葉です。明日も共に礼拝に集い、みことばを分かち合いましょう。
祈り:天のお父さま、今週も日々、みことばをありがとうございました。今週の始まり、月曜日にわたしたちはあなたのみことばに問われました。人が神になってはならないこと、そして、今、社会の不正義に声を上げないことへの「それでよいのか」との問いでした。そこで私たちが考えたのは、「私たちはちっぽけだし、不要なもめ事に巻き込まれたくない」という躊躇だったかもしれません。でも、今週、私たちが読んできた日々のみことばは、様々なトラブルや課題の中で本当に救いを与えてくださるのは主なる神さまだと言う詩人たちの確信でした。時に「即効性のある御業でなく、日々の祝福の積み重ねがとこしえに至る」と諭され、「沈黙して神さまと向き合え」との示唆があり、「礼拝において私たちは自分たちの限界を超える神さまの希望を得ている」ことを思い起こさせてもらいました。神さま、あなたは最高のお方です。どうぞこれからも私たちを導き続けてください。明日の礼拝も兄弟姉妹たちと、また新たな方々と共に礼拝を守らせてください。あなたの救いと希望が一人ひとりに与えられますように。救い主イエスさまのお名前でお祈りします。アーメン。


***

今週も神さまの祝福があなたの上にありますように。
できればぜひ、に日曜日の礼拝で(場合によってはネットを通して)お会いしましょう!!




6月7日~6月13日のみことば - 2020.06.07 Sun

久留米では30度を超える暑い日が続いています。
間もなく梅雨入りでしょうか。
6月から学校も再開され、少しずつ日常を取り戻しつつあるように感じますが、北九州をはじめなお感染が広がっている地域もあり、まだまだ緊張感のある毎日でもあります。
感染された方やそのご家族、そして感染の不安の中治療や日常生活維持のために働いてくださっている方々を覚えて、改めて祈っていきたいと思います。

また、アメリカで起こった人種差別事件のニュースにも心ざわつく近頃です。。
一人ひとりのいのちはすべて神さまから祝福された尊い命。
それにくだらない謝った優劣をつけている私たち人間を、神さまはどんなに悲しいまなざしで見つめていらっしゃるだろうか…。
未だ根深くある差別に対する憤りを感じ、神さまのみ心に反する人種差別にはっきりと「NO」と声をあげます。それと共に、自分の中にある様々な差別意識・間違った優越感や正義感について振り返り、神さまに悔い改めることの重要さも感じています。

「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ」。
イエスさまが教えてくださった祈り(主の祈り)の一節です。
神さまのみ心(神さまの良しとされること)が天で成るように、この地上にも成りますように。
この祈りを、まさに今この時に祈りたいと思います。


***

※聖書の箇所は日本聖書協会の聖書本文検索から読むことができます。⇒こちら
・訳名選択     : 新共同訳
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7日(日) 詩編50編1-23編
一言メッセージ:詩編50編は神さまの裁きについて歌っています。先日も書きましたが、神さまの裁きは罰するためでなく、私たちを生かすための公正な判断です。実際、詩人もそのことをちゃんと理解しています。1節では、神さまが世界の端から端まで全て見通しておられること、3節では、神さまは黙ったままでいる方ではないと語ります。7節で「わたしはお前を告発する」と書かれますから、神さまは全てを正しく明らかにすると理解しているのです。
神さまは7節からの「わたしの民」と、16節からの「神に背く者」に向けて、それぞれに語り掛けます。
  「わたしの民」への語り掛け(7-15節)で神さまは、御自分の民に何を求めているかを語ります。それは、「まぁこれくらいしとけば良いだろう」という打算的な「献げ物(8節)」ではなく「告白(14節)」、つまり真心、本心です。神さまは民が真心から神さまと向き合っていると思われる時、15節、「わたしを呼ぶがよい。苦難の日、わたしはお前を救おう」と言われます。
  一方、「背く者」への語り掛け(15-22節)で神さまは、「お前は口先では私の思いが何であるか、分かったようにかたっているが、どういうつもりか?お前は私の思いを理解せず、軽んじているではないか(16-17節)」と迫ります。それこそ、世界の端から端まで見通しておられる神さまが、「背く者」の言動も心も見抜きながら語り掛けるのです。ただ、ここで注目したいのは22節で神さまは「神を忘れる者よ、わきまえよ」と語り掛けていますが、この言葉を原文のニュアンスを忠実に訳出しようとした岩波訳で読みますと、「どうかこのことを悟ってくれ、神を忘れた者たちよ」と訳されています。神さまの願いは「背く民」がそのまま滅びてしまうことでなく、彼らが神さまに立ち帰り、救われることにあるのです。エゼキエル33章11節と同じですね。
  今朝は日曜日、礼拝の時です。私たちは真心をもって、神さまと向き合いましょう。礼拝に集える人々は兄弟姉妹と共に神さまの前にへりくだり、諸事情で集えない方はそれぞれの場で安心して神さまに呼びかけてください。今日私たちは、神さまと向き合い、「わたしの民よ」との呼びかけを聴きましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。詩編50編は私たちに生き方を諭します。神さまが願われるのは、私たちが神さまに背き、自分勝手な生き方の果てに人生の一時的な喜びだけで虚しさを覚えて終える生き方でなく、神さまに立ち帰り、私が私として生まれ育ち生きていることの喜びを、神さまを通して得る生き方にあります。神さま、今朝は日曜日です。どうか、私たちがあなたに誠実に向き合うことができますように。礼拝に集える者はあなたの前に喜びをもって進み出て、事情のために集えない方はその場にあってあなたの御心に思いを馳せることができますように。どうか私たちを「わたしの民よ」と呼びかけ、週の初めにふさわしい安息日を過ごさせてください。救い主イエスさまのお名前で祈ります。アーメン。

8日(月) 詩編51編1-21節
一言メッセージ:詩編51編は詩人が罪の悔い改めを願う詩ですが、読んでいて分かるように、悲壮感よりも神さまへの信頼と期待感が前面に押し出されてくる詩です。読んでいて、何だか元気が出てきます。
  3節で詩人は神さまに「憐れみ」を求めます。彼自身は3節にあるように、自分が神さまの御心に背いて生きてきた罪人だったことを自覚しています。5-7節では「生まれた時から、私は神さまの御心から反れてきた」と告白します。けれどそこで彼は悲壮感いっぱいに「もうだめだ」と嘆くのでなく、「こんなに罪人な私だけれど、その私を救うことができるのは神さま、あなたしかいません」という期待感を歌うのです。4節の「わたしの咎をことごとく洗い」とありますが、この「洗う」は叩いて汚れを浮かせるような洗い方がイメージされています。以前、Tさんから「戦中、近くに朝鮮の方々の集落があったが、そこの人たちの洗濯物はいつも真っ白だった。あの人たちは洗濯物を川にもっていき、汚れた部分を石で叩いて落としていた」と話してくれました。そんなイメージが4節の「洗う」です。神さまは私たちの罪を無かったことにするのでなく、必要なだけ叩き、正しながら、赦し、救ってくださると詩人は歌うのです。日本語では記されていませんが、原典であるヘブライ語では9-10節の「~してください」という言葉は全て「(他ならぬ)あなたが」と、この救いは正に神さまによる救いなのだ、と理解しているのです。
  今朝の箇所の中心テーマは19節です。神さまが求められるのは高飛車で自分の都合ばかりの者でなく、神さまの前にへりくだり、神さまによって整えられていく者です。嬉しいじゃないですか。神さまは罪だらけの私たちを100も承知の上で、でもたった1つ、神さまにまっすぐに向き合おうとする者を祝福し、整え、もう一度、私たちを立ち上がらせてくださるのです。
  今日から新しい一週の仕事が始まります。神さまに整えられ、新鮮な気持ちでスタートしましょうね。今週の皆さんの歩みのために祈らせていただきます。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝私たちは詩編51編から、あなたによって整えられることを分かち合いました。私たちはあなたの目にあって罪人です。きっと自分で気づいていないことでも、あなたに背くことをいっぱいしてきたことでしょう。でもあなたは、そんな私たちをも愛し、私たちがあなたに誠実に向き合い、悔い改める時、憐れみ深い御手をもって私たちを整えてくださいます。神さま、どうか私たちをあなたの御心の中で清め、整えてください。今直面する課題も過去の後悔も先の見えぬ不安も、人間関係の痛みも、自分の汚さや弱さも、疲れた体も弱った心も、すべてをあなたに差し出し、委ねます。新しい週の働きもあなたに1つ1つ導かれていきますように。週の初め、あなたの祝福と憐れみに期待して祈ります。アーメン。

9日(火) 詩編52編1-11節
一言メッセージ:詩編52編は非常に分かりやすい詩です。義人が、神に逆らい、己が威光を誇る者を笑う詩です。世間一般から言えば、弱者が強者を笑っているような詩でしょう。でも詩人は自分の力を誇る者の今の姿でなく彼の先行きを見越して、「あ~ぁ、彼は神さまに歯向かい、己が都合で嘘をつき、我が世の春かのように振舞っているけど、神さまに逆らう者を神さまはちゃんと見ているのに」と歌うのです。
  今の大河ドラマは明智光秀を主人公にした「麒麟がくる」です。先月までは、美濃の国(今の岐阜)の話でした。光秀の主君である斎藤道三が嫡男・高政に憎まれ、親子で戦になります。光秀は戦っても勝ち目のない道三に矛を収めるように提言するのですが、その時の才藤道三のセリフが今朝のみことばと重なります。道三役の本木雅弘さんが泰然とこう語ります。「わしはケチだが、決して偽りは申さん。しかし高政は偽りを申しておる。人のうえに立つ者は正直でなくてはならぬ。偽りを申すものは必ず人を欺く。そして国を欺く。決して国は穏やかにならぬ。」
  ドラマ放送後、ネットでは「どこぞの総理に聞かせたい」といった意見が飛び交いましたが、正に詩編52編でもそうなのです。神さまに誠実である者を神さまはちゃんと目を留めておられる。現状に対して必ず揺り返しが起こります。その時を待ちつつ、私たちは神さまに誠実に、泰然と今日も過ごしていきましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝のみことばを読みながら、私たちは今の自分たちの社会と重なって読めてしまいます。今の社会も嘘偽りを重ねる為政者により、社会は荒れ、人々は労苦を背負わされています。神さま、あなたはこの社会を見て、「良し」と言われますでしょうか。あなたが祝福してくださった命が、人の価値観の下で踏みにじられることをあなたは認められますでしょうか。神さま、私たちは身近なところから社会の危うさに声をあげ、あなたの御心に基づく平和を願います。どうぞ、全ての命が尊ばれ合い、互いの違いを認めて共に生きる社会へと、一歩ずつでも歩ませてください。御旨が行われますように。いつも小さな民に寄り添ってくださる救い主イエスさまの御名によって祈ります。

10日(水) 詩編53編1-7節
一言メッセージ:詩編53編も昨日同様、神さまに逆らう者への苦言がうたわれます。1節で「神を知らぬ者」とありますが、原文のニュアンスを忠実に訳出しようとした岩波書店出版の聖書や、月本昭夫訳では端的に「愚か者」と訳されています。神さまがいないと考えることを聖書は「愚か」と語っているのです。大胆な訳ですが、でも、これはとても大事な視点なのです。
  以前、突然いただいた電話で「牧師さん、神がいるかどうかどう証明できるか」と問われました。彼の主旨は「神は目に見えないし、手で触れられない。どう証明するのか」でした。私は「愛を考えてみてください。愛は、例えば、誰かへの思いやりや子どもたちを思ってあれこれするとか、そういった行動に現れますし、時にプレゼントといった形で表されることもあります。でも、愛そのものはこれという形で表すことはできません。でも、私たちは愛を確かに知っている。神さまも同じで、形で表すことができなくても確かにあるものです。私たちクリスチャンは例えば、一日が守られたとか、苦しい時にもくじけない希望を得るとか、時には自然の美しさを見ながら、神さまがいると感じています」とお応えしました。相手の方は一休さん的なとんちのように受け取ったかもしれませんが、後にわたしは、もう一つ踏み込めば良かったと思いました。「そもそもですね、神さまを私たちの理解の範疇で捉えることそのものが無茶なんですよ」と。私たちは神さまを把握して信じているのでなく、私たちの理解を超えた神さまを信じ、従っているのです。人生の導き主は神さまであって、私たちじゃないのです。箴言1章7節で賢者も語っています、「主を畏れることは知恵のはじめ」って。神さまを信じて生きること、それが最高の知恵なのです。
  さぁ、今朝も私たちは「賢く」歩み始めましょう。神さまが私たちと共にいてくださるなら、さて今日はどんな一日になるでしょう。
祈り:天のお父さま、今朝も示唆に富む御言葉をありがとうございます。岩波訳が「神を知らぬ者」を端的に「愚か者」と訳したことには笑いました。あなたは全知全能のお方でありながら、同時に、私たちのような小さな存在にも目を留め、私たちと共に生きてくださるお方です。私たちはそんな神さまを把握や証明などできるわけありません。だから私たちはただ、あなたを信じます。どうぞ今日も私たちをお導きください。救い主イエスさまのお名前でお祈りします。アーメン。

11日(木) 詩編54編1-9節
一言メッセージ:詩編54編はどういう状況の詩でしょう。1-2節を見ますと、ダビデがサウル王に命を狙われている時の状況のようです。詩人はそのダビデの状況を思い浮かべながら、5節で「暴虐な者がわたしの命をねらっています」と語ります。かなりピンチな状況なのでしょう。
  注目したいのは5節の終わりの一文です。詩人は神さまに向かって「彼ら(自分の命を狙う人々)は自分の前に神を置こうとしない」と訴えました。「神さまを目の前におく」というのは、「神さまの存在を意識しながら自分の現実を見る」ということです。詩人は「神さまに逆らう者は、神さまの存在をまるで意識せず、好き勝手にやっている」と訴えました。逆を言うならば、彼自身は「神さまの存在を意識しながら生きていた」のです。
  その時、詩人はピンチの中で未来の希望を見出します。6節「神はわたしを助けてくださる」のです。詩人は9節、わたしは敵が神さまによって退けられる様を見ると歌ったのです。神さまを信じる時、私たちは未来を信じられるのですね。さぁ、今日の導きを信じ、元気に歩み出しましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝、詩編54編を通して私たちは、「自分の前に神を置く」生き方、神さまを意識しながら生きることを知らされました。私たちは忘れっぽく、また限界だらけですから、トラブルや課題に直面すると、すぐに目の前でいっぱいいっぱいになり、あなたを見失います。その結果、何度、失敗を繰り返してきたことでしょう。でも今朝、詩人は私たちに、「神さまが私たちと共にいてくださると信じることから、もう一度自分の現実をみてごらん」と促してくれます。その時、私たちは目の前の出来事だけでなく、あなたの導きにも目が向けられていきます。あなたの守り、整え、導きに期待します。神さま、どうか今日も私たちを導いてください。一日の終わりに「あなたが共にいてくださり、平安な一日だった」と祈らせてください。今日の一日に期待し、イエスさまのお名前でお祈りします。アーメン。

12日(金) 詩編55編1-24節
一言メッセージ:詩編55編の詩人はピンチに直面しています。彼には敵がいて、その敵が彼の命を奪おうとすらしています。さらに悲しいことに、その敵は彼の友であり、かつては「楽しく、親しく交わり、神殿で共に礼拝した仲間」なのです。私たちの人生には時々、深く信頼していた仲間から裏切られるような出来事が起こります。裏切られたと分かった時、私たちは心に深い傷を負います。激しい怒りが湧いたり、淋しすぎて「もう逃げたい」と想ったり、うろたえるものです。詩人もそうでした。彼は率直に「不安だ、うろたえています(3節)」と語ります。そんな中、詩人は一貫して「わたしに耳を傾けてください(聞き入ってください)、(3節)」と訴え、呼びかけ(17節)、そして1つの確信を得ました。それは18節にあるように「神はわたしの声を聞いてくださる」という確信です。私の叫びは無意味なのでなく、ちゃんと神さまに受け止められているのです。
  今朝の箇所の中心は23節です。「あなたの重荷を主に委ねよ。主はあなたを支えてくださる。主は従う者を支え、とこしえに動揺しないように計らってくださる。」神さまに重荷を委ねる時、神さまが私たちを支え、必ず導いてくださる。
マタイ11章28-29節を思い起こしましょう。「疲れた者、重荷を負う者は誰でもわたしのもとにきなさい。休ませてあげよう」と言われたイエスさまは「わたしのくびきを負い、わたしに学びなさい」と言われます。「くびき」とは家畜の肩にかけて農地を耕すための道具でした。イエスさま当時は左右に二頭がかける「くびき」が多かったようです。イエスさまは「わたしのくびきを負いなさい」と言われます。そのくびきを負うのは「私」と「イエスさま」なのです。イエスさまは「私があなたと共に生きるから。あなたは一人で全てを背負って生きるのでなく、私があなたと共に生きるから、安心しなさい」と言ってくださったのです。
今朝の詩編55編も同じです。わたしたちの抱える重たい課題、無理をして自分で担おうとせず、神さまに率直に祈り、「イエスさま、どうか私と共にこの課題に向き合ってください」と祈りましょう。大丈夫、あなたは決して一人ではないのです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝、詩編55編を読みながら、マタイ11章のイエスさまの言葉も連想しました。あなたは旧約でも福音書でも、いつも変わることなく、「わたしがあなたと共に生きる。だから安心しなさい」と言い続けてくださっています。神さま、どうか、あなたに伴われて生きているとの平安を満たしてください。あれやこれやありますが、ただただ、あなたの伴いと平安を祈ります。救い主イエスさまの御名で、アーメン。

13日(土) 詩編56編1-14節
一言メッセージ:今日は土曜日です。今週のみことばメールで取り上げた詩編はずっと、苦しい状況の詩人の訴えの言葉でした。でもどの詩でも詩人が言い続けたのは、「神さまがおられる」という信頼でした。今朝の56編もそうです。詩人は神さまに苦しい状況を訴えます。その中でも目を惹くのは5節と11-12節です。どちらも「神のみことばを賛美する」「神により頼めば恐れはない」、「肉に過ぎないものが神さまに守られるわたしに何ができようか」と繰り返します。今朝の詩の中で「良いなぁ」と思うのは、詩人が「敵を滅ぼしてしまってください」とまで訴えていないことです。そりゃ、時に私たちも強い怒りに捉われます。でもこの詩人同様に、「民の屈服(8節)」や「敵が退くこと(10節)」は求めるに留め、滅びることまでは求めないようにしましょう。何故なら、神さまはその相手をも救いたいと願っておられるからです。
  昨年まで、幼児園にKくんというユニークな子がいました。お調子者で、時々、力と思いが先走るとお友だちに意地悪もしてしまう。ある時、意地悪された子の声が園庭に響きました。「先生に言うけんね!」するとKくんは大慌てで「ごめん、ごめんって」と追いかけるのです。そして彼はまた仲良く遊ぼうと努力し始めます。その姿がとても微笑ましく、また示唆的でした。
  詩人の訴えはこの「先生に言うけんね」と同じです。「あのね、神さま、そのね、〇〇くんがね、わたしにね、いじわるしてね…」と訴えたらいい。きっと神さまは私たちの訴えを「ウンウン」と頷きながら、にこやかに耳を傾けてくださるに違いありません。そこから先は神さまの働きです。お委ねしましょう。
祈り:天のお父さま、今朝は56編の詩編をありがとうございます。今朝、私たちは苦境を訴える詩人の言葉を見てきました。詩人は敵に追い詰められながら、でも敵への復讐までは願わず、ただ「神さま、あのね」と訴えました。神さま、私たちも時に「あんちくしょう!」という強い怒りを持ちます。でも、報復はあなたに委ねます。ただ今朝私たちが願うのは、私たちの訴えに耳を傾けてくださいという願いです。どうか、嘆き求める私たちの声に耳を傾け、ひとつひとつ、受け止めてください。そしてどうか、私たちの心を癒してください。この一週の疲れも労苦も、あなたが受け止め癒してくださいますように。救い主イエスさまのお名前で祈ります。アーメン。


***

今週も皆さんの上に神さまの祝福がありますように。



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Author:久留米キリスト教会
福岡県久留米市にある久留米キリスト教会のブログです。
わたしたちの教会は、日本バプテスト連盟に加盟する、プロテスタント派のキリスト教会です。
(※ブログに掲載した文章の無断転載はご遠慮ください)

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