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2021-07

7月18日~24日のみことば - 2021.07.17 Sat

梅雨も明けて、いよいよ夏本番!
暑い毎日が続きそうですね。
マスクをしていることで暑さ倍増ですが、熱中症にも気を付けて元気に過ごせますうように!

明日も久留米教会では、感染防止対策をしながら会堂であなたをお待ちしています。
もちろん、YouTubeでのライブ配信も行っていますから、直接来ることをためらわれる方は、YouTubeからのご参加お待ちしています♪ ⇒YouTubeチャンネルはこちら

新しい1週間も皆さんの上に神さまの祝福が豊かにありますように!

***

※聖書の箇所は日本聖書協会の聖書本文検索から読むことができます。⇒こちら
 ページの下のほうにある「書名・章・節から探す」に以下の事項を選択・入力してください。
・訳名選択     : 新共同訳
・旧新約・続編選択 : 旧約聖書
・書名選択     : 創世記
・章選択      : 該当章数を入力(章まで入力するとその章すべてが表示されます。)


18日(日) 創世記22章1-19節
一言メッセージ:今朝の箇所はアブラハム物語のクライマックス「イサク奉献」の物語です。しかし、じっくり考えてみると、非常に不可解な物語です。アブラハムは「信仰の父」と呼ばれますが、彼の行いは常軌を逸しています。21章で喜びのうちに生まれたイサクを、神さまの命令とは言え(1節では「神はアブラハムを試された」とありますが、アブラハムにはまだ「試み」であることが分かっていません)、イサクを殺害して神さまに献げるなど、普通はできない事柄です。けれど、アブラハムはそれを行おうとする。それは何故でしょうか。
  この物語を理解するためには、17.17と18.12を振り返らねば分かりません。アブラハムもサラも神さまから「男の子が生まれる」と告げられた時に、「無理無理、ないない」と否定し、笑っていました。自分たちの身体的な状況からみて、もはや子どもが生まれるとは思えなかった二人は、人間の常識を超える仕方でイサクを授かりました。その時、「イサク(「彼は笑う」という意味)」という名前には2つの思いが込められた。1つは21.6にあるように「神さまが笑い(喜び)を与えてくださった」という感謝であり、もう1つは「私たちは自分たちの常識で神さまの御心を見誤って、笑ってしまった。もう二度と、神さまを疑うことはしない」との戒めです。この経験があったからこそ、アブラハムは神さまの試みにもまっすぐに応えようとしたのです。神さまはアブラハムの行動を見て、彼の信仰を祝福した。それが今朝の物語です。
  物語の結論は14節「主は備えてくださる」です。大事なことは「主は」です。物事を自分たちの常識や経験だけで判断するのでなく、神さまの御心をこそ求めるのです。神さまは暴君ではありません。イサク奉献は「試みるため」であり、それほどの無茶を私たちに要求などされません。私たちの未来も神さまが備えてくださる。私たちもまた、精いっぱい誠実に生きるならば、その先は神さまの備えを心待ちにしましょう。神さまは最善の時に、最善の御業を行ってくださいます。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝わたしたちは、アブラハム物語のクライマックスを読みました。一見すると、アブラハムの行動は常軌を逸しています。けれど、その背景には、イサク誕生という祝福に伴う「二度とあなたを疑わない」という戒めがありました。神さま、私たちもアブラハムに倣い、あなたを信頼し抜きます。どうぞ、私たちの人生にもあなたへの信頼と希望とをお与えください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

19日(月) 創世記24章12-14節
一言メッセージ:アブラハムの息子イサクの物語は残念なことに、あまり面白くありません。そこで、アブラハムの僕がイサクの妻リベカを見出した時の話から一部だけを切り取ってみます。僕は主人アブラハムから「息子イサクの妻を探しなさい」と命じられます。加えて「自分たちが今いるカナンからは妻を取ることは禁じる」、「イサク本人は連れて行くな」と言われ、途方に暮れてしまいます。そこで、彼は神さまに祈って、リベカを見出すのです。この時の祈りが今朝の箇所です。僕は「町の娘に水を求めますから、その娘が私だけでなく、ラクダにも水を飲ませてくれたなら、その娘をイサクの妻とさせてください」と祈ります。なんて雑な選び方…と思うのですが、一方で、決断で途方に暮れた時には、「神さまに祈って結果を待つ」という決断の仕方もあるものです。
  自分のことでも思い起こすのですが、今から17年前、神学部の専攻科にいた私は翌年春から開校される神学部大学院に進むか、専攻科を卒業してどこかの教会に着任するか、悩んでいました。ある事情があり、神学部に留まり続けるのが辛い時期でした。まだ学びは足りないと自覚しながら、神学部は出たい。そんな中で私は神さまに祈って、決断を任せました。「神さま、2月に大学院の入試を受けます。もしあなたが、しっかり学びなさいと言われるのであれば大学院に進ませ、もう現場に出なさいとお考えであれば入試を落とし、4月までにどこかの教会に着任させてください。」結果は入試に合格し、学びを深め、辛い課題に向き合い続けることとなりました。けれど、その経験が今、牧師としての自分の肥やしだし、あの経験があったからこそ家族が与えられたし、久留米教会にも着任することになりました。あの時、「うえー、残るのやーめた」と自分の感情に従わなくて良かったと本気で思います。
  不思議ですが、神さまの導きは私たちには見出せない未来まで見通して与えられます。その時には意味が分からなくても御心と信じて従い抜けばいいのです。信じた先に導きは拓かれています。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝は、あなたの御心が分からない時には、自分にとってしんどい決断であっても、あなたの御心を求めて従い抜くことを分かち合いました。あなたの御心は深く、導きは私たちの予想しえない先まで見通しての導きです。であるからこそ、神さま、私たちにあなたを信じ抜く信仰と忍耐をお与えください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

20日(火) 創世記25章19-34節
一言メッセージ:今朝からはアブラハム、イサクに続く族長ヤコブの物語です。「族長」は一般的には民族の長なのですが、聖書では特にイスラエル民族の出発点となった3人を指します。けれど、その族長ヤコブはイサクの長男ではなく、双子の次男でした。通常の家督相続から言えば、不可解な話なのです。けれど、今朝の物語では兄エサウと弟ヤコブとの関係が明確に描かれています。
  兄エサウは活動的で単純ですが、弟ヤコブは少々狡猾です。兄の調子の権利を狙い続けています。兄も兄なのですが、腹ペコの時に食事を餌に長子の家督相続の権利を得られると思う弟も弟です。浅はかすぎますが、どうしてこんな人物が族長となるのか。でも、そこで私たちは自分たちの考えを改めさせられます。以前、「聖書が聖書であるのは、登場する人物は聖なる者なのでなく、神さまご自身が聖なる方であるということ」と話しましたが、同じように、族長も本人が優れた人物であるかどうか以前に、先ず神さまの決断があるのです。逆に言えば、問題ある人物であっても、神さまは私たちに関わってくださるのです。自分たちを考えればよく分かりますが、私たちは誰一人、「わたしは清廉潔白で、罪ひとつ犯したことがない」と言えない。けれど、その私たちが神さまに愛され、救われ、信仰者となれた。族長ヤコブもそうです。数日、彼の物語を読みますが、褒められないことだらけです。けれど、神さまがいかに関わってくださるかを見ていきましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝から族長ヤコブの物語を読み始めました。ヤコブは物語の最初から、あまり感心しない姿が描かれます。けれど、私たちはそのヤコブと自分たちを重ね合わせながら、みことばを分かち合っていきます。どうぞ、ヤコブを通して、あなたの愛と祝福が私たちにも与えられていることを知ることができますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

21日(水) 創世記27章1-45節
一言メッセージ:今朝は長い箇所を選んでしまいました。父イサクが老齢のため、家の権利を長男エサウに相続しようとした時に、母リベカと弟ヤコブは父を騙して長子の権利を奪い取ります。ひどい話です。「子山羊の毛を身体に巻きつければお父さんを騙せる」みたいな雑な話ですが、完全なる詐欺行為です。リベカとヤコブは「上手くいった」とほくそ笑んだでしょう。けれど、物事は思わぬ方向に逸れて行きます。狩りから帰ってきた兄エサウは怒り心頭で、41節では「父が死んだら、弟を殺してやる」と息巻いています。それを知ったリベカはヤコブを呼び、「お兄さんがお前を殺そうとしています。すぐに逃げなさい」と言って、自分の兄ラバンの許へとヤコブを逃がすのです。ここに注目したいのです。家の相続権を得て、一家の全てを手にしたと思ったヤコブは、その全てを棄てて我が身一つで逃げ出さねばならなくなったのです。ここが人生の不思議さです。ヤコブは将来の約束を得たと思ったのに、それまで持っていた家族の権利すら失ったのです。
  さて、ここからがヤコブ物語の面白さです。明日読む箇所ですが、28.10-22で初めて、ヤコブは神さまの働きかけを感じるのです。全て順風満帆だった時ではなく、全てを失った時にこそ神さまを身近に感じる。これは信仰の1つの側面です。自分の知恵、力、周囲の協力を失ったその時に、神さまの偉大さを知らされるのです。それまでも神さまは共にいてくださったはずなのに、それまでは気づかなかったヤコブ。さぁ、ここからヤコブの人生が始まっていくのです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。ヤコブは詐欺を働き、父と兄を黙り、家の権利を奪いました。全てが上手くいったと思ったでしょうが、その途端に彼は全てを失います。家族の権利も、優しい母とも別れ、父の落胆、兄の怒りを背に逃げ出さねばなりませんでした。しかし、その時にこそヤコブはあなたと出会っていきます。神さま、私たちも思い通りに人生を生きられぬことは多々あります。ですが、どうぞ、その時をあなたと出会うチャンスとして生かしてください。私の思い通りよりも、あなたの御心のままこそが最善だと悟らせてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

22日(木) 創世記28章10-22節
一言メッセージ:今朝の箇所ではヤコブは兄エサウから逃げる途中の野宿の場面です。彼は石を枕に眠りますが、その時に夢を見るのです。聖書では夢や幻は人間を超越する存在のメッセージと受け取られます(必ずしも神さまや天使だけではないのですが)。彼が見たのは天まで達する階段と、そこを上り下りする天使たちです。でも、注目したいのは13節「主が傍らに立って言われた」であり、その後に神さまが自ら語り掛ける言葉です。神さまの方からヤコブに近づいて来られる。この時のヤコブは逃亡者なのに、神さまは自らヤコブの傍らに立ち、語り掛けられるのです。その言葉は7つの祝福です。①土地の授与、②子孫の繁栄、③他民族の盟主の約束、④「共にいる」、⑤「守り、連れ帰る」、⑥「あなたとの約束を果たす(決して不履行はしない)」、⑦決して見捨てない。神さまの祝福のオンパレードなのです。ヤコブは仰天して飛び起きますが、逃亡の最中ですから、神さまの約束に応える術はありません。ただ、枕にした石を地面に立てるだけです。
ここに、聖書の神さまと日本的な寺社仏閣の神の違いを感じます。神社では、先ず人間が神仏の傍まで出向き、祈祷とお供えをして、見返りが与えられます。けれど聖書の神さまは、先ず自らが現れ、私たちへの祝福を与え、その祝福に私たちが応答していくのです。つまり、私たちの信仰とは見返りを求める算段でなく、神さまへの感謝であり、期待なのです。
あなたは今、神さまに何を期待しますか?ヨハネの手紙一5.14のように、自分の利でなく、神さまの御心に適う願いながら、きっと叶えられます。それがどんな時に、どんな仕方で…かは分かりません。それこそ「神のみぞ知る」ですが、神さまに期待し、感謝して今日も歩み出しましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝はヤコブへの顕現と祝福の物語を読みました。あなたはヤコブが何も持たぬ時、いや逃亡中であるにも拘らず、自ら現われ、豊かな祝福を約束されます。神さまのあなたの慈愛に心から感謝します。私たちにもヤコブと同じくあなたの祝福と伴いを感じさせてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

23日(金) 創世記29章15-30節
一言メッセージ:今朝の箇所は何かメッセージを得るというよりも、ヤコブの新しい家族についての報告です。なぜ、一日分のみことばメールを用いてまで書くかと言えば、これがヤコブ物語の後半と次のヨセフ物語の素地となるからです。
叔父ラバンの家に着いたヤコブはそこで、従姉妹たちと結婚することになります。が、ここに複雑な人間関係ができてしまいます。ヤコブは妹ラケルを好いたのですが、叔父はヤコブを騙し、最初に姉のレアと結婚させ、その後にラケルとの結婚を許します。兄エサウを騙したヤコブが叔父から騙されたわけです。ともあれ、ヤコブは念願のラケルを妻とします。
  すると、29.31-30.24ではヤコブの子どもたちが生まれた報告があります。ヤコブの息子は12人生まれます。では、誰との間に生まれた子なのか、に注目しましょう(何番目かは分かりやすく、番号で記します)。①ルベン、②シメオン、③レビ、④ユダは姉レアとの子どもです。当初、愛妻ラケルとの間には子どもが生まれなかったのです。29.31で「疎んじられていた」姉のレアは得意でしょうが、妹ラケルの心中は穏やかでない。30.1では姉への嫉妬から、自分の女召使ビルハと夫の間で性行為を持たせ、⑤ダン、⑥ナフタリをもうけます。自分の息子として育てようとしたのです。すると、姉レアも同じことを行います。自分の女召使ジルパに夫ヤコブと関係をもたせ、⑦ガド、⑧アシェルが生まれます。その後、再び、姉レアとの間に⑨イサカル、⑩ゼブルンが生まれます。加えて、女子であるディアも生まれます。そしてようやく、⑪ヨセフが妹ラケルとの間に生まれるのです(⑫ベニヤミンは後に生まれますが、産後の肥立ちが悪かったのか、出産直後の35.16でラケルは亡くなります)。ヤコブは叔父の家で家庭を作りますが、そこにも自分と兄のような、ごたごたがあるのです。今朝は今後の物語の素地でしたが、ヤコブの家族を見ながら、ヤコブ自身の生い立ちと重なるような、家族間のぎくしゃくが見られるのです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝の箇所は今後の物語の素地でした。神さまの祝福をいただいたヤコブも様々な課題を抱えていました。神さま、ここからあなたはどうヤコブを導かれるのでしょうか。どうぞ、あなたの導きを見出させてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

24日(土) 創世記31章1-21節
一言メッセージ:さて、ここからヤコブの人生は、その課題の1つ1つが整えられていきます。先ずは20年過ごした叔父ラバンの家から、元の家に戻ることです。聖書を読みますと、叔父ラバンはヤコブが出ていくことを認めようとせず、ラバンの息子たちもヤコブ一家に対して冷たい(31.1)。そこで神さまはヤコブに「故郷である先祖の土地に帰りなさい(2節)」と告げます。この時にも「わたしはあなたと共にいる」との約束が繰り返されます。では、その約束の下で何が起こるでしょう。これは非常に不思議なことなのですが、14節を見ますと、レアとラケルの二人の間に対立や変な交渉関係が無くなっているのです。二人とも「父の家を出て、ヤコブについていく」と言うのです。神さまの「共にいる」との約束は、先ず、乗り越え難かったはずのレアとラケルの関係を変えることから始まっているのです。
そこでヤコブは一家を率いて、叔父の家から逃亡します。不思議なもので、かつて兄エサウから逃亡したヤコブは、今度は叔父の家から逃亡するのです。しかし、今度は何も持たない旅ではなく、家族を連れての帰郷でした。31章の終わりまで読みますと、叔父ラバンはヤコブとの間に契約を立て、ヤコブたちを無理やり引き止めないこととなりました。こうして、1つずつ、ヤコブの問題が整えられはじめたのです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。あなたの「共にいる」との約束はヤコブの課題を1つずつ取り除いて行かれます。妻であるレアとラケルの関係を対立でなく協力へと導き、叔父との和解も実現されます。神さま、あなたの不思議な御業を見出します。あなたの御心こそは不思議な時に、不思議な仕方で実現します。神さま、わたしたちもあなたに期待します。どうか、私たちの課題においても、あなたの御業を行ってください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

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7月11日~17日のみことば - 2021.07.10 Sat

各地で大雨の被害が続いています。
先日は熱海、また今日は九州を中心にかなりの雨量が降り、河川の氾濫・道路の冠水などニュースになっていました。
久留米もここ数年、頻繁に水害が起こっています。
各地のニュースを聞くと、筑後川のライブ映像とにらめっこしながらハラハラしていたことを思い出します。とにかく、これ以上各地に大きな被害が出ませんようにと祈るばかりです。

近年は水害だけでなく様々な災害が頻発しています。
教会では、地域に根差した教会として久留米の地に立つために、こういった災害の時にも何か教会として皆さんのサポートをすることができないかと模索中です。
もちろん、できること・できないことありますが、私たちの信じるイエス・キリストはいつも助けを求めている人、弱い立場にさせられている人々と共にいる方です。
私たちも小さいものですが、そんなイエス様のあしあとを踏みながら自分たちにできることをしていけたらなと思い、模索しています。

さあ、新しい週もまず礼拝から!
会堂で、YouTubeであなたのお越しをお待ちしています。

それでは、今週のみことばをどうぞ♪
***

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11日(日) 創世記11章1-9節
一言メッセージ:今朝は「バベルの塔」の話です。大まかには知っていても、細部を読むと、さらに深みがある物語です。そもそも高い塔を作ろうとする際に、人々は「天まで届く塔のある町を建て…」と語ります。この「天まで届く」というのは「神に並ぶ存在になろう」という意味です。そこで神さまは人の驕りを罰するのです。深い物語だと思うのは、人々は同じ言葉で意思疎通している時には良好だったのに、言葉が乱れた途端、一致できなくなります。よくわかる記述です。私たちも他人の考えに疑いを持った途端に、関係がぎくしゃくしてしまう。この物語は人間の驕りと脆さが描かれるのです。では、希望は無いのか。いいえ、ちゃんとあります。ヘブライ語を見ますと、9節の「混乱」はバラルという言葉ですが、ヘブライ語の母音を読み替えると、バラルはバーブ・イル(「神の門」という意味)と読めるそうです。驕り高ぶって神と並ぶと考えた時、人はその結果、「混乱(バラル)」を経験する。一方、神さまを信じ、正しく従う時、私たちは「神さまの救いの門(バーブ・イル)」を得る。今朝は日曜日、礼拝の時です。共にバーブ・イルを経験したいですね。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝は「バベルの塔」の物語を読みました。神さま、人間は調子乗りで、自分たちの力を威張る時には、まるで自分たちがあなたに並ぶほどの存在と、あなたがいなくても自分で何でも行えると考えてしまいます。でも、その結果、私たちは手痛い失敗を経験することでしょう。神さま、どうぞ私たち一人ひとり、あなたを信じ、正しく従う者で荒れますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

12日(月) 創世記12章1-8節
一言メッセージ:今朝からはイスラエルの原点である族長アブラハムの物語を読み始めます。アブラハムは聖書を理解する上で大前提となる人物です。彼の物語のクライマックスは22章のイサク奉献です。なので、クライマックスに向けて、1つの問いを考えていきます。その問いとは「アブラハムは神さまの命令とはいえ、どうして大事な息子イサクを捧げよう(殺害して、燃やし尽くそう)とできたのか」です。この問いに向けて、数日、アブラハム物語を読み進めます。
  今朝は12章、アブラハム登場のシーンです。まだアブラムと名乗っています。ある日、神さまがハランにいたアブラムに現れ、「わたしが示す地に行きなさい」と命じます(新共同訳や聖書協会訳聖書には後ろに地図があるので参照ください)。「あなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を高める」と続きますが、私たちが自分をアブラムに置き換えた時、不安になるのは、神さまの示す土地がどこであるか分からないことであり、当時のアブラハムは75歳であったことです。現代は長寿社会となり、元気な方も多々おられますが、それでも「今から、身寄りは無いし、未だどこか分からないけど、神さまが示すから、その土地に引っ越して暮らしてね」と言われると、「何で慣れ親しんだ土地を離れないといけないの」と思うことでしょう。でもアブラムは一家をまとめ、妻や甥のロトを連れて、当てもない旅を始めるのです。アブラハム物語の始まりは敬虔というか、まっすぐな彼の姿が描かれています。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝から私たちはアブラハム物語を読み始めました。どうぞ、「自分だったらどう考えるだろう」とアブラハムと自分を重ねながら読み進めさせてください。アブラハムを通して、私たちも自分たちの信じ方、従い方を問い直す時となりますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

13日(火) 創世記12章10節-13章1-17節
一言メッセージ:今朝はアブラハムの人柄を知る物語です。12章ではエジプトに滞在したアブラムが、妻サライの美しさのために「王が妻を奪うために私を殺すかもしれないから、妹と偽ろう」と算段しています(ちなみにアブラハムは20章でもう1回、息子イサクも26章で同じことをしています)。結果的には神の「ダメ!」との意思のために算段は明らかになるのですが、アブラムにはこういう算段深い面があったことが分かります。一方13章では、甥のロトと争うことを避け、家長であるにも拘らず、土地の選択権を与えるような、思慮深さを持っていたりもします。読み飛ばすつもりですが、14章ではさらわれたロトを救い出すために一族を率いるような勇壮さもあります。私たちにも善良な面もあれば、意地悪い面もあるように、アブラムには様々な面が見られるのです。
  聖書の面白さですが、聖書は「聖なる書」であるはずなのに、そこに登場する人々は私たちと変わらない人間です。良い点も悪い点もある。聖書はそんな人間をそのままに描きます。では、聖書は何が「聖」なのか。聖書が語る「聖」なる存在は神さまです。聖書とは「聖なる神さまが私たち普通の人間と向き合い、関わってきてくださった記録であり、同時に今の私たちにも同じように関わってくださっていることを示す書」なのです。さぁ、今日の一日はどんな一日になるでしょうか。喜ばしいことも、そうでないこともあるかもしれません。でも、そのあなたに今日も神さまは目を留め、守り導いてくださっているのです。安心して今日を歩み始めましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝私たちはアブラハムの人物像を見てきました。彼には良い面も悪い面もありました。それは、私たちと同じです。神さま、私たちは物語を読みながら、そんな私たち人間に、聖なるあなたが関わり続けてくださっていることを確認し、感謝します。どうぞ、引き続き、私たちに目を留め、守り、時に諫めながら、お導きください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

14日(水) 創世記15章1-6節
一言メッセージ:今朝の箇所はものすごく重要な箇所です。この箇所は新約聖書にも、また今の私たちの教会や信仰にも多大な影響を与える箇所です。何が重要か、分かち合っていきましょう。
  1-5節はアブラムが神さまから祝福の約束をいただき、信じたという話です。重要なのは6節です。「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」「義と認める」とは簡単に言うと「救いを約束された」です。ポイントは「アブラムが信じたことを神さまは喜び、救いを約束された」ということです。明日の17章で見ますが、今朝の16章は割礼の指示が与えられる前です。割礼はユダヤ人にとって、神さまの救いの約束の証です。けれど、今朝の箇所では救いの約束である割礼の前に既に神さまはアブラムを「義と認め」ておられる。この箇所に注目したのは、新約聖書のパウロです。先日の宣教ガラテヤ3.6で指摘しています。アブラム以降、「人は律法の遵守によって救われる」と伝統的に考えてきたのに、イスラエルの族長たるアブラムが最初に「義と認められた」のは律法の遵守や割礼の実行ではなく、ただ「信じること」においてだった。パウロはこの箇所から「人は信じることで救われる」という信仰義認を確信していきます。そこには彼自身の回心体験があってこそです。今朝、ぜひ覚えていただきたいことは、今、私たちが「私たちは信じて救われる」と素直に受け止めている信仰義認の旧約聖書の論拠がこの箇所なのです。
ぜひ、私たちの身近な人々にも信じて救われてほしい、と心から祈らされます。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝私たちは信仰義認の根拠となった箇所を分かち合いました。私たちは今、「神さまを信じて救われる」と素直に思えます。その真理に到達するためにパウロはやはり聖書に根拠を見出しました。みことばが人間に真理を示しました。神さま、あなたの救いに心から感謝します。同時に、私たちは身近な人々があなたを信じてくれるようにと心から祈ります。どうぞ、私たちが祈る一人ひとりに、あなたへの信仰をお与えください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

15日(木) 創世記17章1-14節
一言メッセージ:今朝はものすごく大事な箇所です。どうか何度も読み返して理解を深めてください。今朝の箇所で神さまはアブラムに改名と割礼の指示を与えます。割礼は神さまの救いが約束された民の証となりました。ここで、昨日の箇所との関連で決して忘れてはならないことが明確になります。神さまの掟(命令、指示)とは「守らなければ救われないもの」ではなく、「既に信じて救われるとの約束が与えられたからこそ、神さまを信じて、応答して生きるために守るもの」です。この順序を逆にとらえてはいけません。もし「掟を守らなければ救われない」のであれば、救いは人間の努力の結果に成り下がってしまいます。そうではなく、「神さまの救いが先に約束されていて、その救いに感謝して応答する生き方としての掟」だからこそ、救いは神さまから私たちへの素晴らしい贈り物なのです。神さまの救いが先、だから私たちは神さまに応えて生きるのです。
その理解に立つ時、私たちの生き方も大きく示唆されるのではないでしょうか。私たちの生き方は「御心に背いたら神さまに見捨てられるんじゃないかな」と怯えながら生きるのでなく、「こんな私でさえ救ってくださった神さま、ありがとう。精いっぱいあなたに誠実に生きていきます。時々は失敗もやらかすけど、ごめんね。その都度、悔い改めて、あなたに導かれて生きることができますように」となるのです。「素晴らしき哉、クリスチャン人生!」です。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝私たちは、何故あなたの御心に従うのかを分かち合いました。それは、あなたに救われるためのハードルではなく、既に愛し、救ってくださったあなたに感謝して応答するため、でした。そりゃ、既にご存知のとおり、私たちは知ってか知らずか、未だにあなたの御心から離れて、多々過ちを犯しています。でも神さま、「やっべぇ、やらかした」って気づいたら悔い改めます。どうか、そこから私たちを正しく導いてください。いつも私たちに伴い、御心へと導いてくださるイエスさまの御名で祈ります。アーメン。

16日(金) 創世記17章15節-18章15節
一言メッセージ:今朝は少し長いのですが、2つの同じ話を選びました。それは、アブラハム100歳、サラ90歳に子どもが与えられるとの神さまの約束に、アブラハムもサラも「無理無理、ないない」と笑った話です。そりゃ当然です。18.11では「サラは月のものがとうになくなっていた」とあります。つまり、二人は身体的な限界を感じていたのです。けれど、神さまは「今、笑っただろ?なんで笑ったん?」と問い直します。そして「じゃあ、生まれてくる子どもの名前、イサクね」と決められます。その名前の意味は「彼は笑う(17.19)」でした。
  子どもに名前を付ける時、親は真剣に名前を考えます。そして、子どもの名前に自分たちの願いやメッセージを込めて名を付けます。イサクの場合は神さまに命名されたわけですが、アブラハムとサラにとってその名は大事な意味を持ちました。でも、その名前には2つの意味があったでしょう。1つは、少し先になりますが、21章でイサクが誕生した時、サラは「神はわたしに笑いをお与えになった」と言うように喜びです。けれどもう1つの意味は戒めです。「わたしたちはそれぞれ、神さまから祝福の約束をいただいた時、自分たちの常識で『無理無理、ないない』と笑ってしまった。しかし、神さまは人の常識を軽々と超えて御業を行われる。私たちはもう二度と神さまを疑ってはならない」との戒めなのでした。今朝は、アブラハムとサラにとって大事な物語でした。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。アブラハムもサラも、それぞれに神さまの約束を「無理」と笑いましたが、彼らの姿を見ながら、私たちは自分たちを思います。私たちも常識や経験に捉われ過ぎて、あなたの御心を勝手に「無理」「無駄」と判断して足蹴にしてきたことがどれほどあったでしょうか。いや、今も行っているでしょう。でも神さま、今朝の物語が示すように、あなたが決断される時、私たちの常識も憶測も算段も経験も軽々と飛び越え、御業を起こされます。だから神さま、いつも私たちに、自分たちの常識だけで物事を考えるのでなく、あなたの御心をこそ問う信仰と、あなたの御心だと確信したら一歩踏み出す勇気をお与えください。そしてどうぞ御心のままに導いてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

17日(土) 創世記18章16-33節
一言メッセージ:今朝の箇所はアブラハムのソドムとゴモラへの執り成しの物語です。ソドムとゴモラの街の悪行に怒った神さまが「2つの街を滅ぼすからね」とアブラハムに告げるのです。その時、アブラハムは神さまに食い下がります。「あの街に50人の正しい人がいれば、お赦しにならないのですか」と問いかけます。すごいのは25節で、神さまに対して「全世界を裁くお方は、正義を行われるべきではありませんか」と意見までしている。その後は「50人」という正しい人の数を「45人だったら?」「40人なら?」「いや30人でも大事ですし」「よし20人で」「最後の最後10人でどうでしょう?」と交渉し続けるのです。「この粘り強さが私も見習わないと」と思うのですが、この粘り強さの動機は「正しい者を救いたい」という一心、つまり、他者を思う誠実な思いでした。19章を見ますと、それは甥のロトたち家族であったかもしれません。でも、それで良いと思うのです。
  ここ数年の日本では「ヘイト」を煽る人々の動きが目につきます。私も天神で何度か見かけました。非常に残念な運動ですが、彼らが韓国や中国などへの敵意を煽ろうとする度に私は、韓国や中国の友人たちのことを想い起こし、「どれだけ煽られたって、彼らの国を敵視なんてするもんか」と考えます。敵意に振り回されて生きるのでなく、友を想い、共に生きることを選ぶ者でありたい。アブラハムを見ながら、そう思うのです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝はアブラハムのソドムとゴモラへの執り成しの物語を読みました。アブラハムの粘り強さはロトをはじめ、正しい人を思う気持ちでした。神さま、私たちの国でも今、周辺国への敵意を煽る活動が目につきます。けれど、私たちは決して、友人の国を敵視することなどありません。そしてあなたはそんな私たちを「良し」としてくださることでしょう。どうぞ、私たちが共に生きることを選び続ける信仰者であらせてください。私たちに最後まで伴ってくださる救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

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7月4日~7月10日のみことば - 2021.07.03 Sat

7月に入り暑い毎日です。
今日から雨が降り始めましたが、湿気と暑さで余計に体力を奪われそうです。
どうぞ皆さんお体ご自愛くださいね。

今週も日々のみことばをどうぞ!
みことばによって慰められ、戒められ、励まされ、押し出されながら歩む素晴らしい一週間でありますように!!

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4日(日) 創世記2章4節後半-7節
一言メッセージ:創世記には2つの創造物語が描かれています。1つは創世記1.1-2.4前半で、もう1つが今朝から始まる創世記2.4後半以下の物語です。2つの物語には創造の順序などは食い違いがあります。「聖書だから話が食い違うわけがない」と思って読むと大混乱する例です。それよりも、「聖書は様々な記述を含む、多様性を認めている」と理解し、非神話化(神話的な記述は当時の文化や表現であって、それを事実かどうかで読むのでなく、その記述を通して著者が悟った真理を伝えていると理解し、当時の理解や常識、文化を受け止めながら読む読み方)して読みましょう。
  そんなわけで2つ目の創造物語を読み始めますが、今朝は4節後半から7節と短く区切りました。注目したいのは7節です。ここでは人間アダムが創造されます。そのアダムは「土の塵」をこねて造られた泥人形です。非神話化しますと、このメッセージとは「人間はそもそも塵芥に過ぎない存在。けれど、その私たちに神さまが命の息を吹き入れてくださり、『生きる者』となった。つまり、人間とは神さまと向き合い、神さまに生かされてこそ、本当の人生を生きることができる」です。ヨハネ福音書20.22を見ますと、復活のイエスさまが弟子たちと再会する時に「息を吹きかけ」ます。イエスさまを見捨てて見殺しにしてしまった弟子たちがイエスさまから息を吹きかけられ、赦され、今一度、使命をいただく。その際にも「命の息」が吹きかけられているのです。
  今日は日曜日。礼拝にて私たちも神さまの命の息を吹きかけられ歩み出しましょうね。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝私たちは漠然と生きるだけでなく、神さまと向き合い、命の息をいただいてこそ本当に生きる者となると分かち合いました。どうぞ、私たちにも命の息を吹き入れてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

5日(月) 創世記2章8-15節
一言メッセージ:今朝はエデンの園の記述です。注目は15節です。神さまは人をエデンに連れてきて住まわせるのですが、その際に与えた役割は「耕し、守る」です。別の言葉に言い換えると、「管理する、仕える」です。一方、もう1つの創造物語では、1.26で神さまが人間を創造される際には「(あらゆる動物を)支配させよう」と語っています。この違いに注目したいのです。
  創世記では人間と自然との関わりについて2つの示唆があるのです。1つは「管理し、保つこと」、もう1つは「支配し、人の役に立たせること」。2つの理解はそれぞれに主張されてきましたが、2011年3月11日の東日本大震災以後、「管理する、仕える」が強く見直されています。それは福島第一原発の事故の反省のためです。「人間は自分たちで処理しきれないにも拘らず、驕り高ぶり、原子力という手に負えない力に走ってしまっていた」と痛感させられたのです。
  世界は神さまの創造物であり、私たち人間は神さまの御業に生かされている。だからこそ謙虚に、誠実に生きる者でありたいし、過ちを正す必要があるのです。いかなる建前、言い訳をしようとも、人間は己が都合で原子力や戦争を進めてはならないのです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝は自然とどう向き合って生きるのか、を考えました。人間は驕りやすく、あなたの創造を自分たちの所有と考え、やりたい放題に破壊も行ってきました。その結果は福島第一原発事故で顕著にされました。神さま、私たちは悔い改めます。どうか、私たちの手に負えぬ力はすっぱりと断念し、あなたの造られた世界を子どもたち、孫たちにも安全に遺せるように決断させてください。御名によって祈ります。アーメン。

6日(火) 創世記2章16-25節
一言メッセージ:私が結婚式の司式をする際、この箇所からお話をします。ここには聖書の示す結婚観があるからです。聖書からの内容は大きく3つです(実際の式ではもう1つ足して話します)。  ①最初の視点は「あばら骨とは何か」です。あばら骨は内臓を守るものです。古代世界の理解では命は内臓にあると考えられていました。だから、あばら骨は「命を守るもの」です。聖書の示す結婚観の1つ目は「結婚とは命を託すことのできる相手との出会い」です。実際、18節の「助ける者」は「一方が相手を支配する」ではなく、対等なパートナーを表しています。
 ②「命を託すことのできる相手との出会い」はどうやって起こるのでしょう。世界にはものすごい数の人間がいるのに何故?聖書は理由を端的に語ります。22節「主なる神が彼女を人のところへ連れて来られると…」。つまり、命を託せるの相手との出会いは、神さまの御業なのです。
 ③最後の視点は、「アダムがあらゆる動物では見出せず、人間エバに見出したものとは何か」です。それは対話です。生まれも育ちも考え方も違う二人が一緒になるのですから、そりゃ、相違点も多々あります。その二人が互いの考えを語り合い、一緒に生きてこそ、二人は夫婦となるのです。
  こういった聖書の結婚観が見えてくるのですが、現代はさらに新たな視点が求められています。それはLGBTQ+の方々の結婚をどう考えるか、です。神学でも様々な議論があるでしょう。ただ以前にも書きましたが、もし私がLGBTQ+の方から結婚式の司式を頼まれたら引き受けると思います。何故なら、聖書の記した最初の結婚でのポイントは①命を託すほどのパートナーであること、②神が出会わせてくださったと確信すること、③対話を重んじること、が第一義的な結婚観だからです。昨日もそうですが、神学も今もなお検討や再理解が続けられているのです。神学が見直され、信仰も見直されるならば、私たちも常に聖書から自分を見直すことが必要なのですよね。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝は聖書の結婚観を見てきました。現代の状況において、聖書解釈も次々と新たな可能性を示しています。神さま、あなたの創造の業は今なお私たちの中で働き、新たな可能性という創造を生み出しています。神さま、どうぞ私たち、勝手に自分が完成されたと思いあがることなく、日々、あなたと向き合い、新たな気づきとチャレンジを続けていけますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

7日(水) 創世記3章1-24節
一言メッセージ:今朝はエデン追放物語です。蛇の言葉で食べてはならない「善悪の知識の木の実」を食べたアダムとエバはエデンから追い出されます。今朝の箇所で見たいのは3つのことです。
1つ目は人間の醜さです。神さまから「取って食べるなと命じた木から食べたのか(11節)」と叱責されたアダムは12節「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました」と語ります。彼はエバと神さまのせいにして、自分は不可抗力で食べたかのように語ります。けれど6節を見ますと、彼は拒否することだってできたが、自分で判断して食べています。また、エバも13節では「蛇が悪い」と言い逃れしています。ここには人間の「責任の擦り付け」という弱さが描かれています。
2つ目は、「でも、そもそも何故食べてはならない実の木が植えられていたか」という疑問です。2.9を見ますと、「善悪の知識の木」は園の中央に植えられています。確実に目に留まり、食べられる位置にあったのです。食べてダメならば、そもそも植えなけりゃいいし、絶対手の届かないところに植えればよかった。なのに何故、園の中央に植えられていたのでしょう。それは神さまの信頼のゆえです。神さまはアダムたちに「食べちゃダメ」と告げた。それで彼らが守るだろうと、信頼してくださっていたのです。この物語の根底に見出せるのは、神さまの人間への信頼です。
3つ目は、エデンからたたき出される際の神さまの配慮です。神さまはアダムとエバをエデンから追放されるのですが、21節では「皮の衣を作って着せられ」ている。大学の講義では「神さまってツンデレ」と話すとウケていますが、でもそうなのです。神さまはアダムとエバを叱りながら、けれど、彼らへの配慮をされる。そのスタンスは私たちへの関わり方と同じです。何度も何度も神さまの信頼を裏切り、罪を重ねてしまう私たちなのに、神さまは私たちを叱りながらも、どうにか立ち直るようにと信じて、手を差し伸べてくださる。だから私たちは悔い改められるのです。
エデン追放物語に見出せるのは、①人の弱さ、②神さまの信頼、③悔い改めのチャンスです。我が事と受け取って、今朝を歩み出しましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝の物語に私たちは自分を振り返ります。私たちもアダムたち同様に我が身可愛さで罪を重ねてしまいます。あなたが信頼してくださっているのに、です。けれど、あなたはその私たちをそれでも配慮し、立ち直ることを願ってくださいます。神さま、悔い改めます。どうかあなたを信じ、誠実に生きる私たちとならせてください。また弱い私たちの「あなたを信じて救われている」との喜びを通して、近しい人たちにあなたを伝えさせてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

8日(木) 創世記4章1-26節
一言メッセージ:今朝は聖書の示す最初の殺人事件です。悲しいかな、それはカインによる兄弟殺しでした。動機は嫉妬です。今朝の物語は人間の弱さをしっかりと露見させます。カインは弟アベルの献げものが喜ばれることに嫉妬し、アベルを殺害します。神さまは6節で「お前が正しいなら、顔を上げられるはずだ」と語り、暗に、比較でしか自分の価値を判断できないカインを正そうとされたのに、カインにはその意図が分かりません。神さまからアベル殺害の責められた際に神さまに泣きつきますが、その言葉13節を見ても、彼はアベルに対する謝罪ではなく、自分のことばかりに終始しています。農作物を生み出すカインと、家畜を飼うアベルが一緒に暮らしてこそ支え合えたはずなのに、悲しい結末です。では、この物語は何を私たちに示しているのでしょう。それは、「他人との比較でしか自分を見れないならば、私たちの心は嫉妬に支配されてしまう。そうではなく、一人ひとりが神さまと正しく向き合い、そして互いに協力し合って生きればいいのだ」です。コロナ危機の今、私たちも比較でなく、共に協力して生きる教会を目指しましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝の物語に、私たちは「比較に捉われるのでなく、互いの違いを認め合って協力してこそ幸いの生き方」と悟りました。今のコロナ危機は人と人とを分断します。けれど、あなたの示唆は「互いに協力して、共に生きよ」にあります。神さま、私たちから、教会から、その示唆を実現させてください。そして、この社会に、あなたに繋がってこその協力を示させてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

9日(金) 創世記9章9-17節
一言メッセージ:6章から始まるノアの箱舟物語は、物語としては興味深いことばかりですが、大胆に省略します。物語の発端は6.8にあるように「神さまの後悔」だとか、6.15で箱舟は山の中に、長さが135m、幅が22.5m、高さが13.5mで造られますが、洪水にならなければ無用の長物だったとか、8.11の鳩がオリーブの葉を咥えて帰ってきたので今の国連の平和のマークにも使われているとか、面白い話はいっぱいです。でも今朝と明日はノアの箱舟の2つの結論部に注目したいのです。
  今朝の結論はハッピーエンドの結論です。神さまはノアとその一族に「もう二度と滅ぼさない」と約束し、その証として「虹」を与えました。三男「虹太」の名づけの由来ですが、この話は「神さまの祝福」です。人間、生きていれば、望む望まぬに関わらず、様々な困難を経験します。時には人生に絶望しそうな時もある。でも、その度に私たちは虹を見上げて神さまの約束を思い起こすのです。「人生、いついかなる時にも望みは尽きず。大丈夫、神さまが共にいる。」それがノアの箱舟の1つの結論です。間もなく梅雨明けでしょう。どうぞ雨上がりに虹を探してみてください。神さまは今も私たちを祝福してくださっているのです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝はあなたの祝福の約束を分かち合いました。人生には困難やしんどい経験もあります。けれどあなたは、私たちがお約束を思い起こせるように、虹を与えてくださいました。神さま、どうぞ雨上がりの虹を見上げ、あなたを覚えて元気になれますように。私たちの思惑を超えて導いてくださる神さまに祈ります。アーメン。

10日(土) 創世記9章18-29節
一言メッセージ:今朝はノアの箱舟の2つ目の結論部です。昨日の結論部がハッピーエンドな励ましだとすると、今朝の結論部はとても深く、示唆に富む話です。ノアは泥酔して正体をなくすまでベロベロに酔いつぶれ、素っ裸で寝ています。次男のハムが父の姿を見て兄弟たちに話し、長男と三男が父親に着物を被せて裸を隠す。ノアは目覚めるとハムの子カナンを叱責して「呪われよ」と騒ぎます(ハム自身じゃなくてカナンが叱責されていたり、カナンを「末の息子」と語っていることに、研究者は「これって間違いだろうね」と考えています。細かくは気にしないでください)。さて、最も不可解なことは、酔いつぶれたノアの理不尽さです。正体を無くすまで飲み潰れたのはノアなのに、どうして息子に八つ当たりするのか、です。でも、ノアの置かれた状況を考えてみましょう。大洪水によって生き残ったのはノアの一族と動物の一対ずつです。ノアにとって、生き残ったことは祝福でも、同時に同胞を失った悲しみやここから再スタートの重圧はすさまじかった。つまり、「飲み潰れねばやってられない」ほどの葛藤があったのです。東日本大震災の後、仮設住居の中で家族や仲間を救えなかった悲しみや空虚感から、急性アルコール中毒の患者が激増した理由と同じです。そう考えると物語の結末は悲惨でもある。けれど、同時にとても現実的なのです。
私たちの人生は映画やドラマのように1つの困難を乗り越えて終わりでなく、なお続くのです。解決の後に、また新たな困難にも直面する。でもそんな私たちにとって「困難に打ちひしがれるノアが自分の恐れや空虚さを抱えながらも、もう一度、世界に向き合い、神さまの創造を始めていった」と読む時、そこには「この現実から始めていこう」との励ましを見出せるのです。昨日の話と重ねて読みますと、神さまはノアの悲しみや空虚さ、恐れを全て受け止めてくださった上で、なお、祝福の虹を与えられたとも読めるのです。ノアの箱舟物語は現実に重なる励ましなのです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。ノアの箱舟の2つ目の結論部を読みました。今朝の物語はどこか、私たちの現実に即した結論に思えます。だって、私たちはノアのように投げやりになりたくなるような時がありますから。でもあなたは、ここまで悲しみや空虚感に苛まれたノアと共にいてくださり、ここからもう一度、世界を始めてくださいました。神さま、私たちはあなたの伴いを信じ、期待します。どうぞ今、課題を抱える人々にも寄り添い、慰め、励まし、立ち上がらせてくださいますように。イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

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6月27日~7月3日のみことば - 2021.06.27 Sun

20日の礼拝から集まっての礼拝のおすすめ、また祈り会を再開していますが、やっぱり集まっての礼拝や集会はいいなぁと実感しています。
改めて集まると、私たちって本当にいろいろな方法でコミュニケーションをしているんだなぁと思わされます。体の向き、目線、呼吸、声の大きさ、しぐさなどなど…
だからこそ、今の状況の中で「人と会えない」ことの多い状況は私たちが思っている以上に私たちの心に影響をあたえているんだなと思います。
ひとりでいると自分の内側ばかりに考えが向きがちになりますが、実はそんな風に自分一人で突き詰めて考えようとするよりも、他者とのかかわりの中でこそ、わたしたちは本当の自分をとらえられるのかもしれません。
教会は「究極の他者」、私たちに最も遠く、最も近い存在である神さまと出会うところ。
神さまと出会いうことで、「本当の自分」に出会うことができるのだと思っています。

まだまだ感染予防対策は必要ですし、教会でもマスク着用、検温、手指消毒、間隔をあけての着席、プログラムの短縮などなど対策を行いながらの礼拝をしていますが、ぜひ対策をしつつ教会に足を運んでみてください。きっと大切な出会いがあなたを待っていると思います!
もちろん、「まだ人の集まるところに行くのは怖いな」と思われる方は、YouTubeからのライブ配信もつづけていますのでそちらもどうぞ!

今週も皆さんにとって、よい1週間となりますように!!

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27日(日) マタイによる福音書28章16-20節
一言メッセージ:いよいよマタイ福音書最後の箇所です。が、最後の箇所も4日に分けて読みますので、今しばらくお付き合いください(笑)。
  今朝注目したいのは17節で、復活のイエスさまと再会した弟子たちの中に「疑う者もいた」ということです。「疑う」と読みますと、「はぁ?復活やらあるわけなかろうが」と否定したニュアンスと思いますが、原文では「ためらう」という意味があります。どうして弟子たちはイエスさまとの出会いに「ためらった」のでしょう。それは、彼らが最後にイエスさまと一緒だったのが、ゲッセマネでイエスさまが逮捕された時の逃亡、ペトロにとっては大祭司の館での裁判での裏切りだったからです。自分たちの師であるイエスさまを見捨て、見殺しにしてしまった。その罪や後悔、またイエスさまへの後ろめたさや「赦されるわけがない」という恐怖が、彼らを「ためらわせ」たのです。しかし、そんな「ためらう」弟子たちにイエスさまは向き合ってくださいました。18節では自ら「近寄って来て」くださいました。ここが今朝の大事な点なのです。
  私たちは自分たちの過ちから目を背けたい、忘れたい、無かったことにしたいと思っています。だから、時に相手に向き合って謝罪して乗り越えることをせず、一方的に無かったことにして誤魔化そうとします。でも、それは解決ではありません。弟子たちもそうです。彼らはイエスさまの前にやってきます。イエスさまも彼らに近寄り、向き合ってくださる。これが、弟子たちにとって、赦しの第一歩でした。何度も見てきたように、イエスさまは赦しの主です。けれど、その赦しを私たちがちゃんと実感すべく、イエスさまと向き合い、また他者と向き合うことが必要なのです。
  今朝は礼拝の日です。礼拝は神さまと向き合う時。今朝も自らの罪を悔い改め、新たな赦しと力と示唆をいただきましょう。会堂でもネットでも皆さんと一緒に礼拝するためお待ちしています。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。後悔、後ろめたさ、恐れを抱いていた弟子たちはそれでもイエスさまと向き合うべく、ガリラヤの山に集りました。その時、彼らは赦されました。神さま、あなたの赦しに感謝し、私たちも礼拝に集います。どうぞ今日も私たちに赦しと新たな示唆をお与えください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

28日(月) マタイによる福音書28章16-20節
一言メッセージ:昨日に続き、復活のイエスさまと弟子たちの出会いの場面です。今朝から3日間は18-20節に記された、イエスさまの3つの示唆を順々に見ていきたいと思います。
  今朝注目したいのは18節のイエスさまの言葉です。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。」イエスさまは「わたしは神さまから天地万物全てを動かし、従わせる権能をいただいた」と宣言します。ものすごい力です。では、その力をイエスさまは何に行使したでしょう。それは「弟子たちを赦し、再出発させること」でした。人は必ず過ちを犯してしまいます。「分かっててもやってしまう」だけでなく、視野が限られているために、良かれと思いながら、とんでもない失敗を引き起こしてしまうこともあるのです。だから、私たちは誰もが赦されねば生きていけない存在なのです。そして、イエスさまはそんな私たちに「天と地の一切の権能」をもって赦し、再出発を与えてくださる。私たちはイエスさまに贖われ、イエスさまに赦され、今も生かされているのです。今日から新しい一週間が始まります。今週も赦された者として、感謝を持って歩み出してまいりましょう。今週も神さまの御業を喜び、御業の一端をお伝えする、そんな歩みとなりますように。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝わたしたちは、イエスさまが「天と地の一切の権能」をもって私たちを赦し、再出発を与えてくださったことを分かち合いました。私たちは誰しも過ちをやらかし、後悔を抱えます。けれど、あなたはその私たちを赦し、今一度立ち上がらせてくださいます。神さま、あなたの御前に私たちは自分たちの罪を、後悔を、痛みを全て告白します。どうぞ、「天と地の一切の権能」で私たちを赦し、申し訳なく思う相手がいたら、その人との和解をも実現させてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

29日(火) マタイによる福音書28章16-20節
一言メッセージ:昨日は復活のイエスさまの示唆の1つ目として「赦し」を分かち合いました。今朝注目したいのは「使命」です。19-20節には「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。父と子と聖霊の名によって洗礼(バプテスマ)を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」とあります。使命としては「洗礼へと導く(伝道する)」と「教える(教育する)」です。けれど、私は19節最初の「あなたがたは行って」という言葉に注目したいのです。弟子たちは自ら、人々の許に出かけていく。そして、そこで人々と一緒に生き始めていく。昨日分かち合ったように、人は誰しも過ちをやらかし、後悔を抱えます。弟子たちはそんな人々の中で生きて、信頼を得て、あれこれ話すようになるうちに、「自分はかつて、イエスさまを見捨ててしまったんだ」と証するでしょう。その時、「でも、そんな私を赦し、再出発させてくださる救い主がおられるのだ」とも伝える。人々がその言葉に心揺さぶられる。その時にこそ、伝道は可能となるし、教育も始まるのです。今朝、私は「使命」を分かち合います。その使命は先ず「共に生きる」ことから始まるのです。コロナ危機の中でも私たち、イエスさまの赦しと再出発を求める人々と「共に生きる」者でありましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。私たちは昨日の「赦し」に続き、今朝は「使命」を分かち合いました。あなたは弟子たちを赦し、赦された者として多くの人々と「共に生きる」使命を与えてくださいました。今、その示唆に、私たちは自分たちの姿を重ねます。あなたの救いを知ったからこそ、私たちは自分たちの家族や友人、隣人にもあなたの救いを伝えたいと願います。かしこまって伝えるよりも、私たちの喜びや笑顔、希望を通して、自然にあなたを伝えさせてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

30日(水) マタイによる福音書28章16-20節
一言メッセージ:いよいよ今朝がマタイ福音書のラストです。1/16から始まりましたから5か月半もかかりました。最初は「イースター(4/4)くらいに読み終わろう」と思いましたが、途中で「無理だ」と諦めて、開き直ってがっつり読みました。最後までお付き合いありがとうございました(笑)。
  最後に分かち合うのは復活のイエスさまの3つ目の示唆「約束」です。20節でイエスさまは弟子たちに「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と約束されました。イエスさまを見捨ててしまった弟子たちに、イエスさまは「いつもあなたがたと共にいる」と告げるのです。なぜ、そこまで言ってくださるのか。それは、実はこれこそが聖書を貫いて神さまが示し続ける約束だからです。創世記から黙示録まで、この「神はわれわれと共にいてくださる」との約束はそこかしこに登場します。そして、マタイ福音書でも1.23、天使がヨセフにイエスさま誕生を告げる時にも告げています。ここにマタイの最も告げたかったメッセージがあるのです。
  すなわち、「『神さまは私たちと共にいてくださる』、その約束を私たちに明確に示すべく、イエスさまは私たちに寄り添う救い主として来て下さった。あの十字架の苦しみの時にも、最後まで私たちに寄り添い抜いてくださった。そのイエスさまが今、復活して私たちに告げる。『私は天と地の一切の権能を持ち、あなたがたを赦し、再出発させる。さぁ、赦された者として、今、まだ救いを知らぬ人々のただ中で、共に生きなさい。あなたを通して、救いを伝え、みことばを教えなさい。決して恐れてはならない。神さまはいつも私たちと共にいてくださる。』」これが、マタイ福音書が最後に示す物語なのです。私たちはその示しをいただき、今日も歩み出しましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。5ヵ月半をかけて、マタイ福音書を読み続けてきました。その終わりに、イエスさまは「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」との約束をくださいました。神さま、その約束に励まされながら、私たちは今日も歩み出します。どうぞ、あなたと共にいる喜びと希望を、周囲の人々に示すことができますように。救い主イエスさまと共に歩み出せますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

7月1日(木) 創世記1章1-5節
一言メッセージ:マタイ福音書を終え、今朝からの箇所に悩みました。それで、西南大での11年の講義でやっていることを少しずつ書いてみようと思います。大学では、聖書を開いたことのない学生にも面白がってもらえるように話していますから、皆さんもどうぞ面白がってください。
  さて、最初はやはり創世記1章です。「創造物語」ですが、この物語を「史実」と捉えることは難しい。科学的な理解とはあまりに食い違い、ファンタジーに見えてしまうからです。それも当然です。何故なら、創世記は数千年前の人が、当時の常識や文化の中で編纂した物語であり、それを現代の社会科学で価値など、そもそも意味がないからです。では、こういう神話物語はどう読めばいいか。新約神学者ルドルフ・ブルトマンは1941年に「非神話化」という読み方を提唱しました。要約すると、「聖書著者はそれぞれに時代の常識や生活習慣(「生活の座」)があり、その限界の中で聖書を記した。だから現代の読み手は、聖書の記述そのものではなく、その物語を通して著者が伝えたかった真理を読み解く(解釈する)べきであり、そのために聖書研究が必要となる」でした。
  では、実際に創造物語を非神話化してみましょう。解説が長引いたので、今朝は最初の部分だけです。1-5節で神さまは最初の創造で「光」を作りました。光は闇を裂き、隠れていたものを明らかにします。けれど、不思議なことに4節では「神は光と闇を分け」ただけです。闇を滅ぼしませんでした。さて、ここで私たちは自分たちや社会と重ねながら解釈したい。個人で考えれば、私たちの中には、優しい自分がいれば、とても意地悪な自分がいる。好ましい自分がいれば、自分でも嫌になる自分もある。自分で嫌になる部分もいっぱいある。でも、神さまは私のそんな部分を滅ぼされず、分けられた。それは、「嫌な部分を含めて私なのだし、その部分ともちゃんと向き合いながら生きて良いから」です。時に、完璧主義の人は自分にも他人にも理想を求めすぎ、息苦しくなります。今のように、結果や成果で人の価値が評価される時代も正にそうです。でも、改めて聖書を読めばいい。「良い部分も悪い部分も、全部ひっくるめて私は私」、そこから生き始めればいいのです。社会だってそうです。良いも悪いもあって、私たちの社会。そこから歩み始めればいい。何だか面白いでしょ?明日からも少しずつ聖書を読み進めていきましょう。ちなみに、大学講義に基づきますから、一章一節を全部取り上げはしませんから、「いつ終わるん」との不安は不要です(笑)。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝から大学講義の一端を分かち合い始めました。今朝は「非神話化」という読み方を分かち合いました。どうぞ聖書の奥深さを楽しみながら読み進めることができますように。期待して、イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

2日(金) 創世記1章1節-2章4節前半
一言メッセージ:今朝は創世記1章の創造物語です。私は「これこそが世界の成り立ち」と言うつもりはありません。後日記しますが、実は聖書の中にすら、創造物語は2種類あるからです。だから、昨日書いたように、今朝もみことばを非神話化しながら読んでいきましょう。
  この物語では世界は7日間でできたとあります。毎日何かを創造されますが、その7日目に神さまは「安息日(神さまを礼拝する日)」を作られます(2.2)不思議に思いませんか?神さまも休みが必要なのでしょうか。面白い読み方ですが、おそらく、そうではないでしょう。私たちはここに、創世記の著者の伝えようとしたメッセージを見出すのです。
神さまが安息日を作られたのは、人に秩序を与えるためです。それは、「人がちゃんと神さまと向き合って生きることが必要」という秩序です。私たちを思い返せば、よく分かります。人は視野が狭く、常に自分を基準に物事を考えます。だから、自分の目の前の出来事が世界の全てかのように錯覚しがちな生き物です。例えば、「みんなが言っている」という言葉を使う人の「みんな」は自分の仲良しの数人でしかないでしょ?本当に視野が広い人は「自分も一意見、他人も一意見」と多様性を認めるものです。また視野狭く、神さまを知らないならば、私たちは自分の限界が可能性の限界になってしまう。それが人間の弱さです。創世記の著者はその弱さを知っているからこそ「神さまは安息日を定めている。ちゃんと神さまを覚え、意識しながら生きる」と記したのです。
今週も終盤となりました。仕事や動きのペースは各人それぞれでしょうが、どうぞ、身体を休める時と、神さまと向き合う時を作って下さいね。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝は創世記から安息日、あなたへの礼拝について考えました。神さま、私たちは視野が狭く、あなたを覚えなければ、自分の目の前の出来事が全てかのように錯覚しがちです。また、あなたを覚えねば、すぐに自分の限界に失望してしまいます。だから、あなたは私たちに安息日を与え、あなたと向き合う生き方、秩序を定めてくださいました。神さま、あなたのご配慮に感謝します。どうぞ、私たちにあなたを覚えて生きる生き方を定着させてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

3日(土) 創世記1章1節-2章4節前半
一言メッセージ:今朝はメモを取りながら聖書を読んでみてください。先ずは、神さまが何日目に何を創造されたかをメモしてみてください。そうしますと、神さまは時々、張り切って仕事された日があることが分かります。例えば、3日目は水を分けて大地と海を造られた後、11節からは植物を創造されますし、6日目には大地の生き物に続けて、人間を創造されています。
  さて、メモで想像の一覧ができたとして、今度は「良しとされた」という言葉を探してみてください。物語では、創造の後に「良しとされた」という言葉がセットフレーズのように出て来ますが、実は2つだけ「良しとされた」と書かれていないものがある。それは何でしょうか。
  それは2日目に水を分けた時と、6日の人間を創造された時です。なぜ、ここだけ「良し」とされていないのか。「水」を例に考えてみましょう。水は命を育むのに必須なものです。一方、大津波や水害では命を奪うものでもあります。その差は何かと言えば、秩序の有無です。秩序ある水は命を育みますが、秩序を無くした時には命を奪うのです。水に注目して創造物語を見ますと、実は創造の始まり以前、2節の時点で既に世界を覆っています。神さまは2日目にはその水を分けて空と海を造り、3日目には大地と海を分けました。言うなれば、水に秩序を与えることから始めて、命を育めるようにしたのです。そこから考えると、神さまが水を「良しと」しなかった理由が分かります。神さまは水には秩序が必要だと知っておられたのです。
  では「人」はどうか。水と同じように考えると分かりやすい。神さまは人にも秩序ある生き方を求めました。神さまの秩序に従って生きる時、人は違いを多様性と尊び、得手不得手を補い合いながら、共に生きる者となります。しかし、己が都合や願望だけで生きる時、人は違いを攻撃材料にし、得手不得手で命を価値づけ、上下関係で支配しようとする。神さまは人を創造し、私たちがいかにいきるか、神さまの秩序を持って生きるかどうかを見定めるために、最初に「良しと」はしなかったのだろうと思えるのです。
  創造物語を非神話化する時に見えてくるテーマは「わたしたちは如何に生きるのか」なのです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。創造物語は私たちに生き方を問うてきます。神さまの秩序に従う生き方は「共に生きる」ことを喜びとしますが、己が願望や都合で生きる時、人は幾らでも身勝手になります。神さま、私たちはあなたを信じ、あなたの秩序に従い、生きていきたいと願います。どうぞ、私たちから平和を実現させてください。今の状況においても、共に生きることを喜び合えますように。私たちが共に生きるように、十字架で救ってくださった救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

***





6月20日~26日のみことば - 2021.06.19 Sat

梅雨のジメジメした日が続いています。
変わりやすい天気についつい一喜一憂してしまいますが、雨も日差しも植物にとっては恵みですね。

6月20日の礼拝から久留米教会は久しぶりに集まっての礼拝のおすすめを再開します!
もちろんプログラム短縮、マスク、消毒、検温など対策を続けつつですが、久しぶりに会堂に集っての礼拝で皆さんとお会いできるのを楽しみにしています♪
教会学校(小学科・幼稚科)も再開しますよ~!
久しぶりにお会いできるのを楽しみにしています。


先週のお花は、おうちのお花シリーズ(?)第2弾!
教会メンバーの方の畑に咲いたグラジオラスでした。
背の高い色とりどりのグラジオラスが、広い会堂に一層生えて「お見事!」と言いたくなる堂々とした姿でした。
20210613flower.jpg

お花もまた神さまの作品のひとつ。
なんて不思議な、でもなんて美しいんだろうなぁ。神さまってば芸術家!
なんて、思いながらお花を眺めていました。

今週もみことばにみちびかれつつ、1日1日を過ごすことができますように!

***

※聖書の箇所は日本聖書協会の聖書本文検索から読むことができます。⇒こちら
 ページの下のほうにある「書名・章・節から探す」に以下の事項を選択・入力してください。
・訳名選択     : 新共同訳
・旧新約・続編選択 : 新約聖書
・書名選択     : マタイによる福音書
・章選択      : 該当章数を入力(章まで入力するとその章すべてが表示されます。)

20日(日) マタイによる福音書27章45-50節
一言メッセージ:イエスさまの死の場面です。十字架にかけられたイエスさまは一言も発しません。それが十字架にかけられて6時間後の午後3時に、突然、大声で叫ぶ。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」。突然の叫びに周囲の人は「エリヤを呼んだのか?」と聞き間違えますが、それは「我が神、我が神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」との悲痛な叫びでした。
  キリスト教が始まって以来、このイエスさまの叫びは重要な問いになりました。神の子で救い主のイエスさまが神さまに「どうして私を見捨てたか」と叫んで死ぬなど、簡単に許容できないからです。実際、ルカとヨハネの福音書ではこのイエスさまの叫びは削られ、それぞれ、敬虔に御心に服して死んでいくイエスさまが描かれました。けれど、最も古い伝承であるマルコと、そのマルコを手本にしたマタイは、イエスさまの叫びをそのままに残しました。
  後代の解釈者たちでは、「このイエスさまの叫びは詩編22編を意図したものだ。22編は冒頭で詩人が『我が神、我が神、なぜわたしを見捨てたのか』と叫ぶが、終わりには神さまへの賛美で締めくくられる。イエスさまはこの22編を叫んで死んでいかれたのだ」という理解が生まれました。
でも、私はその理解は難しいと思う。この叫びはそのまま、イエスさまの壮絶な叫びだったと思うのです。私はこう理解します。「この叫びは、私たちの叫びだ。私たちには、誠実に生きているつもりなのに、人生には何度も『どうして、何故』と訴えたい出来事が生じる。災害や突然のトラブル、近しい者の死や、病などなど。苦しくて、悲しくて、自分が見捨てられたように思えて、『なんでこんなことになったんだ』と問うてもどこにも答えが見出せなくて。そんな私たちは、いつか神さまに『どうして私は苦しまねばならないのか』と訴えたいのだ。イエスさまはそんな私たちの叫びを、私たちに先立って、私たちに代わって、私たちのために、私たち以上の苦しみである十字架上で叫んでくださったのだ」と。私はこの叫びの中に、イエスさまが本当に私たちの救い主なのだと、私たちに最後の最後まで寄り添ってくださった神の子だったのだと見出すのです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝わたしたちは、イエスさまの十字架の叫びの中に、最後の最後まで私たちに寄り添い抜いてくださった救い主イエスさまの姿を見出しました。あの叫びは私たちがいつかあなたに訴えたかった叫びです。でも神さま、そんなイエスさまの叫びゆえに、私たちは誰にも理解されないとの孤独から解放されました。あなたの愛とイエスさまの伴いに心から感謝します。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

21日(月) マタイによる福音書27章51-53節
一言メッセージ:昨日に引き続き、イエスさまの死の場面です。イエスさまは「我が神、我が神、なぜわたしをお見捨てになったのか」と叫んで亡くなられました。それは最期の最後まで私たちに寄り添ってくださった救い主の姿でした。今朝考えたいのは、この叫びを神さまはどう受け止めたか、です。注目したいのは51節です。「そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け…」。ここで言われる「神殿の垂れ幕」とは神殿の最深部にあった至聖所の幕です。至聖所は神がおられる神聖な場所とされていたので、年に一度、大祭司のみが儀式でだけ入ることが赦された場所です。その垂れ幕とは、神と人とを隔てる幕です。イエスさまの死の直後、この幕が真っ二つに裂ける。裂いたのは神さまです。つまり、この記述が意味するものは「イエスさまの死によって人々の罪を贖った神さまは、今や私たちの人生に自ら手を差し伸べ、救ってくださるようになった」です。先のイエスさまの叫びと合わせて考えるならば、「なぜ私を見捨てたとの叫びに対して、神さまが自ら、私たちを整え、生かし、導いてくださるという仕方で応えてくださった」です。イエスさまの十字架の贖いが私たちの人生に救いとなったのです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。イエスさまの十字架の叫びにあなたは明確に応えてくださいました。神殿の垂れ幕を引き裂き、私たちの人生に御手を差し伸べ、整え、祝福し、導いてくださることが示されました。神さま、イエスさまの贖いの御業と、あなたの赦しに心から感謝します。どうぞ、今週もあなたの救いを喜びつつ、歩む私たちであれますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

22日(火) マタイによる福音書27章54節
一言メッセージ:今朝はイエスさまの死を最も近くで目撃した百人隊長のことばです。百人隊長はローマ人であり、これまで各地で戦争も経験してきた人物でしょう。力をもって相手を屈服させ、支配してきた人物であり、自分の属するローマ帝国の強大さを誇ってきた人物でもある。その彼が、十字架上で人々に嘲られ、憎まれ、無残に絶叫して死んだ男に、「神の子」の姿を見出したのです。彼がイエスさまに見出したのは、最後まで民に寄り添う神の子の姿でした。
彼はイエスさまの死を見て「本当に、この人は神の子だった」と語ります。「本当に」ということは、彼は「本当ではない神の子」を見てきたからです。それは誰か。それはローマ皇帝です。ローマ皇帝は自らを「神の子」と自称していたのです。百人隊長はローマ皇帝とイエスさまの違いを目の当たりにします。力によって支配する者と、愛によって仕える者。民衆とかけ離れた殿上人としてでなく、最も低い者として民と寄り添い遂げる者。強さではなく、弱さを貫いた者。そして、民を威圧する者と、最後まで民に寄り添い、民を庇うように神に問うた者。その違いはあまりに明確でした。しかし、百人隊長は最期の最後まで民に寄り添う救い主に、神の御心を見出したのです。百人隊長は神さまの御心に気づきました。次に気づくのは私たちです。
祈り:天のお父さま、今朝のみことばをありがとうございました。今朝は百人隊長の言葉を見ました。彼はイエスさまの中に神さまの御心を見出しました。民を愛し、民を受け止め、民を赦し、民に寄り添う、神の子の姿を見出しました。神さま、本当に救い主イエスさまをお与えくださり、ありがとうございます。どうか今、私たちも百人隊長に続き、イエスさまを信じ、従う者となれますように。十字架の主イエス・キリストの御名で祈ります。アーメン。

23日(水) マタイによる福音書27章55-61節
一言メッセージ:イエスさまが埋葬されたという話です。この話は単なる報告ではなく、イエスさまの復活を示す大事な記述です。以前記したように、十字架刑はローマ帝国に歯向かう者を怯えさせるための見せしめの刑でした。だから、徹底的に恐怖し、絶望するような刑であったのです。死ぬまでの過程も恐ろしいのですが、ユダヤ人にとってさらに恐ろしかったのは、十字架で死ぬ者の多くが、そのまま放置され、遺体が野獣に食い荒らされることが多かったからです。実はユダヤ人が信じる復活は、生前の体での復活です(だから、ヨハネ福音書でイエスさまが手や脇腹に傷を残しておられたことはユダヤ人にとっては不思議ではありませんでした)。その遺体が野獣に食われて喪失するのは、「復活の希望すら奪われる」ことを意味していたのです。その観点で見た時、イエスさまはアリマタヤのヨセフによって遺体が引き取られ、埋葬されました。この記述にユダヤ人たちは復活を信じる1つのヒントを見出すのです。
  さらに、これは私たちにとって大事な記述ですが、イエスさまの埋葬を終始、見届けたのは女性弟子たちでした。当時の社会で女性は社会的発言権を持たないことは何度か書いてきました。だとすると、女性たちがイエスさまの埋葬を見届けたことはユダヤ人にとっては「嘘だ」と突っぱねる根拠にもなったはずです。けれど、聖書は一貫して証人として女性たちを記している。「当時の常識では不都合なはず。なのに聖書は女性たちの名前だけを記した」という事実に、私たちはかえって、イエスさま復活を示唆するリアリティーを見出すのです。
  聖書は、埋葬の記述から既にイエスさまの復活を私たちに伝えようとしているのです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございました。イエスさま埋葬の記述は、私たちにイエスさま復活の可能性を示します。「復活を信じるか」と問うてきます。神さま、明日も続けて復活への記述を読んでいきますが、どうぞこの記述を通して、私たち自身が改めてイエスさまの復活という御業と向き合うことができますように。御子イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

24日(木) マタイによる福音書27章62-66節
一言メッセージ:昨日は、イエスさまが埋葬されたという記述がイエスさまの復活を示唆している、と分かち合いました。今朝の物語は、復活の可能性に最も怯えた祭司長たちの対応を記しています。彼らはピラトに「弟子たちが遺体を盗み出し、復活を言いふらさないともかぎりません」と訴えます。そして、番兵を配置して見張ることの許可を取ります。もしイエスさまが、彼らが言ったように「神を冒涜した不届き者」であり、「他人は救ったのに自分は救えない(27.42)」のであれば、イエスさまが亡くなった今、安堵していればよかったはず。けれど、彼らは不安に駆られている。それはイエスさまを殺害した理由が、神さまへの敬虔ではなく、自分たちの都合や思惑だと自覚していたからです。彼らは神さまの「否」に怯えているのです。皮肉なことじゃないですか。神さまの御心を蔑ろにした者たちがもっとも神さまの御心に怯えている。でもこれは、ある意味で罪人が神さまに気づくチャンスです。何度も見てきたように、神さまは罪人を赦し、救おうとなさいます。ユダですら許されるのだから、祭司長たちだって信じ、悔い改めるなら赦されるでしょう。
  今、私たちも自分たちを振り返ってみましょう。私たちは神さまの御心に従って生きているだろうか。もし「そうでない」と自覚するなら、それが信じて悔い改めるチャンスです。あなたは今、神さまの赦し、救いへと招かれています。どうか今、その招きを信じ、受け入れてほしいのです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。祭司長たちはイエスさま埋葬後、あなたの御心に怯えました。あなたの御心に背き、自分の都合や思惑を優先したと知っているからです。神さま、今、同じように「あなたの御心に背いていた」と気づくならば、その方に悔い改めと信仰を与え、救ってください。どうぞ、私たちの周囲にもそういった方を起こしてください。私たちもその方々の救いのため、必死に、精いっぱい、共に祈る者であらせてください。十字架にて私たちを愛し、赦し、救ってくださったイエスさまの御名で祈ります。アーメン。

25日(金) マタイによる福音書28章1-10節
一言メッセージ:イエスさまの復活の記述です。とても不思議なことに、聖書には「イエスはむっくりと起き上がり、身体に巻いていた布を取り去ると、墓から出て…」みたいな復活記述は一切ありません。復活を示唆する記述だけです。聖書の意図は復活を単なる物語として描くのでなく、「あなた自身が自ら考え、イエスさまの十字架と復活が自分のための出来事だったと信じなさい」との示唆だからです。その示唆に従い、どうぞ今朝の箇所を読んでください。
  復活の日の朝、イエスさまの墓にやってきた女性弟子たちは空っぽの墓を目の当たりにします。あるはずのイエスさまの遺体が無い。すると天使が現れ、「あの方はここにはおられない。復活なさったのだ。急いで行って、弟子たち告げなさい。『あの方は死者の中から復活なさった。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目に書かれる。』」と伝言を残す。女性弟子たちは「恐れながらも大いに喜び」、他の弟子たちのもとへと急ぎます。その途中で復活のイエスさま本人と出会いますが、やはりイエスさまは「ガリラヤ」と告げるだけで弟子たちと会おうとしない。
  では「ガリラヤ」とは何でしょう。神学者・荒井献は「ガリラヤとは弟子たちにとって、イエスと共に過ごした土地。そこにはイエスの語った言葉や行動が示唆されている」と記しました。続けて、「聖書は私たちにも、自分たちのガリラヤを示唆する。今、私たちはイエスの十字架と復活が私たちの救いのためだったと知らされた。その視点で改めてイエスの言葉、行動を読み直すのだ。その時、私たちは、イエスの言動が今の私たちの現実の生活でイキイキと御心を示していること、信じて従うべく促していることを悟る。それが私たちのガリラヤだ」と語っています。その勧めに従って、もう一度、聖書を思い起こしましょう。イエスさまのことばを、行動を、今の私に向けてのメッセージと受け止めるのです。その時、私たちは復活を信じることができるでしょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝はイエスさまの復活の記述を読みました。聖書は復活そのものを描写せず、私たちに傍証を示しながら、「信じるか」と問いかけています。その1つが「ガリラヤ」です。神さま、どうか私たちが自分たちの実生活と重ねながら、イエスさまの言動が私に向けて示されていることを悟ることができますように。信じて従う私たちとしてください。またどうぞ、この福音を私だけでなく、大事な家族や友人、隣人にも伝えさせてください。私たちを女性弟子たちのように、復活を告げる伝言者として用いてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

26日(土) マタイによる福音書28章11-15節
一言メッセージ:墓を見張っていた番兵たちが祭司長たちにイエスさまの復活を報告した記述です。祭司長たちはイエスさまの復活をもみ消そうとします。とても面白いのは、13節で「弟子たちが夜中にやってきて死体を盗んでいった」という、自分たちの常識の中であり得る可能性で誤魔化そうとしていることです。人間の浅はかさが明確に記されています。神さまの御業を、自分たちの常識や理解の範疇に押し込めて、否定しようとするのです。私たちの周りでも、いや、私たち自身でもあることじゃないか。神さまを否定して自分の理解や常識や思惑や願望を優先するほうが都合がいいし、安心だと思ってしまうのです。でも、思い込んでいるだけです。最善は神さまの御心にこそあるからです。私たちの思惑の中で不都合に目をつぶり、それで本当に安心し、平穏と希望を持って生きていけるのでしょうか。13節で「この話は、今日に至るまでユダヤ人の間に広まっている」とあります。「今日」とは福音書が書かれた時代です。紀元90年代。イエスさまが亡くなって60年ほど経つのに、祭司長たちは代々、復活が明らかにされないように、自分たちの策謀と御心に背いた罪が明らかにされないように隠し続けねばならなかったのです。御心に背く罪は、ずっと隠し続ける苦痛を生じさせています。信じて赦されればいいのに、と心底思います。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。イエスさまの復活を隠そうとする祭司長たちは、福音書が記された時代にも、まだ自分たちの罪を隠し、復活が明らかにされないようにと怯え続けねばなりませんでした。神さまの御心を受け入れ、自分たちの罪を悔い改めれば、真の平安を得られるはずなのに。神さま、私たちは彼らの姿を見ながら、反面教師にします。どうか私たちがあなたの御心の前に誠実に素直に生きる者であれますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

***







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Author:久留米キリスト教会
福岡県久留米市にある久留米キリスト教会のブログです。
わたしたちの教会は、日本バプテスト連盟に加盟する、プロテスタント派のキリスト教会です。
(※ブログに掲載した文章の無断転載はご遠慮ください)

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