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2020-09

9月27~10月3日のみことば - 2020.09.28 Mon

9月も最後の週となり、間もなく10月になります。
新型コロナウイルスの影響で普段通りの生活・活動ができなくなってもう半年がたとうとしていますね。いわゆる「新しい生活様式」に慣れてきた面もありますが、やはり気兼ねなく人と会ったり、食事をしたりできないことのストレスは大きいですね。
また、非正規雇用の方やお店や観光業の方々など、生活に支障の出ている方も多くおられ、終息の予測のできない中で厳しい状況をみるにつけ、新型コロナウイルスの終息と苦しい状況の中にいる方に手を差し伸べられる社会の実現を祈らずにはおれません。

しかし、一方でこの状況だからこそ新しい可能性を発見したり、今までのやり方を見直すことができるのではないかとも思います。私たちの教会もこの新型コロナウイルスのことをきっかけにYouTubeでの礼拝ライブ配信を始めました。そのことを通して、礼拝に来たくても来ることのできな方にも時を同じくして共に礼拝できる可能性を考えています。
もちろん、問題点や考えなければならないこともたくさんありますが、今この時に神さまはどんなことを求めておられるのか、そのためにどんな方法があるのか祈りつつ考えていきたいと思わされています。
先日の日曜日の礼拝メッセージでも、神さまを信じる時、私たちは固定観念から解放され、自分の中で「ひっくり返し」を経験するのだというお話を聞きました。
お話の中で紹介された西部・そごうの「さ、ひっくり返そう」という広告。とっても印象的でした。
公式ホームページで動画を見ることができるので、ぜひ見てみてくださいね。
 ⇒西武・そごうのページ
メッセージを聴いておられない方ホームページの礼拝メッセージページやYouTubeページでチェックしてみてください。
 ⇒礼拝メッセージ音声配信
 ⇒9月27日メッセージ・YouTube配信
  ↑今回はライブ配信がうまくいかなかったので、聖書朗読とメッセージのみ再配信中。

今週も皆さんの歩みの上に神さまの守りと導きがありますように!


***今週のみことば***

※聖書の箇所は日本聖書協会の聖書本文検索から読むことができます。⇒こちら
・訳名選択     : 新共同訳
・旧新約・続編選択 : 詩編→旧約聖書
・書名選択     : 詩編
・章選択      : 該当章数を入力(章まで入力するとその章すべてが表示されます。)

27日(日) 詩編131編1-3節
一言メッセージ:131編の詩人は女性ではないかと言われています。彼女は1節で「高くを見ていません。大き過ぎることを、わたしの遠く及ばぬ驚くべきことを、追い求めません(大それた欲を持っていません。自分の手に余る事柄は求めません)」と神さまに語りかけます。「神さま、もっと私に恵みを!こうしてほしいです!」と訴えるのでなく、沈黙して、赤ん坊が母からの授乳で養われるように、幼子が「お腹減った」と言いながら母に頼るように、彼女も神さまに養われていることを素直に感謝しました。そして3節で、神さまを素直に信じて生きることを呼びかけます。これが131編です。
  131編を読みながら、私たちは「足るを知る」ことの大事さを思い起こします。私たちは非常に貪欲で、「もっとこうしたい。もっとこうありたい。もっと認められ、大事にされたい」との渇望があるように思います。もちろん、向上心という意味では大事なことでしょう。けれど今の社会などは、他者との比較ばかりを行い、不平不満で心がいっぱいになっている人が多いように思うのです。131編は私たちに静かに告げます、「今すでに神さまにいただいている祝福を思い起こし、感謝しなさい」と。今を神さまに感謝しつつ、一日一日を歩み続ける。そんな歩みが3節の「とこしえ」へと繋がるのだと思うのです。今日は日曜日、礼拝の時です。神さまに感謝して。礼拝に集いましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝の131編は私たちに「足るを知る」こと、今あなたにいただいている恵みを数えて感謝することを教えてくれます。神さま、私たちは131編にドキッとします。私たちは、あなたにいただいた恵みを素直に感謝していましたでしょうか。不平不満で陥り、あなたを待ち望む前にいら立ち、あなたを軽視していませんでしたでしょうか。もしそうであるならば、ごめんなさい。どうぞ許してください。そして今一度、あなたに感謝して生きる者とならせてください。今日のみことばに感謝し、救い主イエスさまのお名前で祈ります。アーメン。

28日(月) 詩編132編1-18節
一言メッセージ:132編は非常に難解な詩編です。ダビデ王朝への愛着が強いのですが、旧約聖書の歴史であるサムエル記や列王記には、1-5節のような「ダビデが神殿建築の場所を探すために労苦した」という記述は見当たらないのです。残っているのは歴代誌上22章、28-29章だけです。歴史が食い違うので、読者である私たちは混乱してしまいます。じゃあ、この詩から何を見出そうかと言いますと「ダビデは熱心に神さまに応答したいと願った」という姿勢です。私たちは日々、神さまの祝福を「当たり前」と誤解してしまうほど、日常的に祝福を与えられています。ダビデはそんな神さまの祝福に、自分なりに応えたいと願ったのです。その姿勢が尊いのです。
  最近、長男が「お父さん、お手伝いしたい」と度々言ってきます。私はその申し出が既に嬉しい。私たちが神さまに応えたいと願う時、神さまも同じ気持ちでいてくださるのだと思います。それこそ、神さまが自ら業を行われた方が遥かに素晴らしい結果でしょう。でも神さまは私たちの成果や結果よりも、その心をこそ喜んでくださいます。そのことを思い起こしながら、今週も始めていきましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。週の働きの始まりに、みことばは神さまに誠実に応えることを示してくれました。そりゃ、私たちが何かやるよりも、あなた自らの御業の方がはるかに優れています。でも、あなたは私たちの行動の成果や結果よりも、その心をこそ喜んでくださるでしょう。そして、私たちの足らぬ働きに祝福を増し加え、あなたに御業として用いてくださいます。神さま、この新しい週、あなたは自分たちなりにあなたにお応えする一週であれますように。小さな働きを喜び、用いてください。私たちの父なる神さまに感謝し、祈ります。アーメン。

29日(火) 詩編133編1-3節
一言メッセージ:133編は、バビロン捕囚から解放され、イスラエルの帰還した民が、共に集い礼拝できる幸いを感謝し、賛美した詩です。50年を超える捕囚生活で正直、イスラエルに戻れるなんて考えても無かった民が再度集い、共に礼拝できる感動を歌った詩です。
私たちも5月31日のペンテコステ礼拝にてこのみことばを分かち合いました。新型コロナウイルスの緊急事態宣言後、礼拝に集えた時にこのみことばを分かち合ったのです。あれから4ヵ月が経ちました。今も新型コロナウイルスの恐れはあるものの、私たちは毎週、会堂で礼拝を守っています。毎週の礼拝が当たり前のように感じられてきた人たちもいるかもしれません。でも、わたしは礼拝に集えたことの感動を忘れずにいますし、もう1つ、願いをもちつづけています。それは、病の方々や、医療従事者である仲間たちが礼拝に帰ってこれることです。特に中司万寿夫兄や山口有佳姉、門内正子さんのような医療従事者の方々は新型コロナの最前線で必死に苦闘しながら、同時に自分たちがウイルスを持っているかもしれないという緊張感の中で必死に医療を守っています。その心身のくたびれは半年以上続いています。本当なら、彼ら彼女らこそ一緒に礼拝して、ホッとしてほしい。でも、彼らは今も自分たちの働きに向き合っています。その献身的な姿勢に私は頭が下がるし、この方々のために切実に祈らされます。「神さま、仲間たちをお守りください。共に座り、共に礼拝する祝福を一日も早く取り戻させてください。」どうぞ皆さんも一緒にお祈りください。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝133編で「兄弟が共に座っている、なんという喜び、なんという恵み」とのみことばを読みました。読みながら、私たちはこの新型コロナウイルスの感染拡大の中で、必死に最前線で戦っている医療者の仲間たちのことを思い起こします。半年以上、緊張と通常以上の勤務体制が続いています。神さま、どうぞその一人ひとりをあなたが顧み、祝福し、慰め、力と希望を与えてください。また一緒に礼拝できるように導いてください。私たちにいつも伴い、共に生きてくださる救い主イエスさまのお名前で祈ります。アーメン。

30日(水) 詩編134編1-3節
一言メッセージ:134編は大好きな詩です。この詩は120編から続く巡礼詩集の終わりの詩で、エルサレムの巡礼を終え、それぞれ故郷に帰ろうとする人々に祭司が呼びかけた詩です。巡礼にやって来た人々にはそれぞれの事情があったでしょう。願いが叶えられたことの感謝で来た人や、純粋に礼拝したくて来た人もいたかもしれません。でも、様々な課題に苦しみ、故郷から避難するようにやって来た巡礼者や、神さまに縋りついて「もういい加減にしてくれ、助けてくれ」と訴えた人もいたでしょう。集まってきた人々は皆、事情を抱えていました。でも、今、巡礼を終えて故郷に戻ろうとする人々に向かって、祭司は「主の僕らよ、こぞって主をたたえよ」と呼びかける。本来、旧約で「主の僕」と言えばアブラハムやモーセ、ダビデのように偉大な人々を指す言葉です。でも祭司は名も記されぬ巡礼者を「主の僕」と呼びかけます。「神さまがその一人ひとりに目を留め、一人ひとりを理解してくださり、一人ひとりに御手を差し伸べて導いてくださるから、安心して、神さまに従い、賛美して生きていきなさい」と促してくれるのです。何と心強く、嬉しいエールでしょう。
  私は今、思うのです。私たちも社会の中で小さな民のひとりです。でも安心しましょう。私たちも主の僕とされています。だから希望をもって、今日も神さまを賛美して初めていきましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。134編に私たちは元気と希望をいただきました。わたしたちは小さな民の一人にすぎないと思っていました。でもあなたは、そんな私たち一人ひとりに目を留め、「我が僕」と呼び、祝福してくださいます。神さま、どうか、その幸いをいつも思い起こして生きる者とならせてください。救い主イエスさまの御名で心から祈ります。アーメン。

10月1日(木) 詩編135編1-21節
一言メッセージ:135編は出エジプトの物語を思い起こしながら、神さまを賛美し、従い続けようと呼びかける詩です。今日は4節に注目します。「主はヤコブを御自分のために選び、イスラエルを御自分の宝とされた」ですが、この「宝」は文語訳聖書では「珍寳(うづたから)」と訳されています。その意味は「誰もが評価する宝物なのではなく、『なんでそんなんが宝物なの?』と言われるのに、その人にとってはかけがえのない宝」です。これは素晴らしい訳です。何故なら、イスラエルは宝となり得ぬ地域であり、民だったからです。地図でイスラエルを見ますと、南はアフリカ、東はアラビア世界、北は今のヨーロッパを結ぶ中間地点、交通の要所でした。だから、古代世界で覇権を握ろうとする強国はいつも他の地域への侵略のためにイスラエルを侵略しました。一方、イスラエルはいつも強国に翻弄される弱小民族でした。弱いのです。でも、神さまはそんなイスラエルを選び、支配ではなく、宝物とされました。ここが面白いのです。他の国々は利のためにイスラエルを支配しようとしました。でも神さまは彼らを宝物にされた。その理由は申命記7.6-8「ただ、神さまの愛ゆえに」です。
神さまが民を愛してくださったが故に御業を実現してくださった。その愛は今、私たちにも同じように注がれています。私たちも社会ではちっぽけな存在です。でも大丈夫、わたしたち一人ひとりは神さまの宝物。私たちは神さまの目に尊い存在なのです。どうか自分を小さいと誤解せず、胸張って、感謝して今日も歩み出しましょう。
祈り:天のお父さま、今朝のみことばをありがとうございます。神さま、あなたはイスラエルの民を、そしてわたしたちを御自身の宝物としてくださいました。私たち自身に何か価値があったのではなく、ただあなたの愛ゆえに、です。その愛は一時的な好み程度ではなく、ご自分の独り子イエス・キリストが十字架にかかってまで救おうと決意くださるほどの愛でした。神さま、わたしたちはあなたの愛によって生かされていることを改めて思い起こします。どうか、私たちが自分たちを見失わず、あなたの愛に感謝して誠実に生きる者となれますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

2日(金) 詩編136編1-26節
一言メッセージ:136編は礼拝での交読文として歌われた詩です。各節の前半部は「〇〇に感謝せよ」と祭司が歌い、後半部を会衆が「慈しみはとこしえに」と応唱する詩です。
  皆で読むととても気持ちの良い詩ですが、じっくり考えると不思議に思う言葉も含まれています。例えば、10節で「エジプトの初子を討った(命を奪った)」ことや、19-20節の「〇〇を滅ぼした」は、イスラエルの立場から見れば祝福と思うかもしれませんが、討たれた側の立場から見れば理不尽な話です。また16節のように「イスラエルの民に(40年)荒れ野を行かせた」ことは、純粋に感謝なのでしょうか?でも、詩人は「感謝せよ」と語ります。
私たちは詩人の言葉に、自分たちが近視眼的で、いつも目先の出来事や事柄だけで「幸い」とか「不幸」を結論付けがちだと教えられます。神さまの御業は今、目の前の事態が結論ではないのに、私たちは目先の出来事だけで判断してしまいます。でも、詩人は「慈しみはとこしえに」と歌い、「とこしえ」に目を留めよと促します。労苦も「何故?」と訴えたい出来事も、今の私たちに見えていないだけで、神さまの御業の中では必ず幸いとなり、「感謝」に変わる。136編は、神さまの御業を長い時の中で見極めることを示しています。焦らない、焦らない。安心して、今日の一日を歩みましょう。
最後に、僕の願いの1つ書きます。新型コロナウイルスが終息した後、私たちも久留米教会として「〇〇に感謝せよ、慈しみはとこしえに」という詩を皆さんで紡ぎ、礼拝で朗読したいのです。「〇〇に感謝せよ」は皆さんが1つずつ考えてください。ご自分の体験、気づき、喜び、今分からない出来事です。そんな出来事を話しながら、皆で「慈しみはとこしえに」と呼び交わし、神さまに献げたいのです。終息後の礼拝が楽しみです。久留米教会の136編を作りましょう。
祈り:天のお父さま、今朝のみことばをありがとうございます。136編を通して私たちは、目先ではなく、あなたの御業を長い時間の中で判断することに気づきました。あなたの御心は私たちには簡単に理解できません。「何故?どうして?」と訴えたい出来事も起こるのです。でも、神さま、あなたはそんな出来事さえも、あなたの御手の中で整えてくださり、最後には「感謝」と言えるように用いられるでしょう。神さま、私たちはたとえ今、分からない事柄を抱えていても、それでもあなたを信じ、あなたに従います。どうぞ、今日の一日を守り、明日の一日を導き、そんな積み重ねの中で、あなたの慈しみをとこしえまで続け、お与えください。イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

3日(土) 詩編137編1-9節
一言メッセージ:詩編137編は背景が分かりやすい詩です。詩人はバビロン捕囚で連行された神殿詠唱者です。彼は「バビロンの流れのほとり」に座り、悲しさや口惜しさに泣いています。祖国は滅び、連行されたバビロンでユーフラテス川の川さらいをさせられていた時、彼は現場監督であるバビロンの役人から「お前、神殿詠唱者なのか。じゃあ、何か神殿での歌を歌え」と命じられました。4節で彼は断固拒否したように書いていますが、それは願望であって、現実は歌わざるを得なかったのでしょう。だから1節で、彼は泣いているのです。7節のエドムは、エルサレム陥落時にバビロンに加担し、戦後、イスラエルの土地をかすめ取った近隣の民です。詩人はそういったエドムやバビロンへの口惜しさと自分たちの境遇の悲しさを歌ったのです。
  今日で今週の仕事が終わりですね。この一週間、みなさんは充実して過ごせましたか?仕事のこと、家庭のこと、人との付き合い、全てを「感謝」と言える人は幸いです。一方、悔しさや悲しさ、挫折を経験した人もいるかもしれません。だって、人生には往々にして、そういう経験が起こるものですから。では、今朝の詩編はそんな私たちに何を示すのでしょう。それは、そんな口惜しさを神さまにそのままぶつけたらいい、ということです。時々、「神さまにこんな嫌なことを祈っていいのかな?」と質問される方がいますが、大丈夫、祈って下さい。神さまは私たちの状況をちゃんと理解してくださった上で、私たちの思いのたけを受け止めてくださいます。そして私たちの願い通りでなくとも、後に最善と思えるように、御心を行ってくださいます。だから安心して、今の思いを祈っていいです。新しい週に向けて、神さまによって心身の慰めをいただきましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。詩編137編は、自分たちの思いのたけを包み隠さず、神さまに訴えて良いことを教えてくれます。口惜しさも後悔も、不甲斐なさも罪悪感も丸ごと、神さまはちゃんと受け止めてくださいます。そうやって神さまに受け止められるからこそ、私たちは新たな忍耐と展望をもって、もう一度、自分たちの境遇に向き合わせていただけます。神さま、最善の聞き手となってくださいましてありがとうございます。どうぞ、あとは御心のままに御業を行ってください。救い主イエスさまのお名前で祈ります。アーメン。

***




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9月20~26日のみことば - 2020.09.22 Tue

つい数週間前は真夏日が続いていたのに、すっかり秋の陽気になり、朝晩は少し肌寒く感じる今日この頃です。やっとホッとできる気候になりましたが、ホッとすると同時に夏の疲れが出やすい季節でもあります。皆さんの健康が守られます様に。

先日の日曜日(20日)には、久留米教会では「召天者記念礼拝」が行われました。
先に天に召された方々を思い起こす礼拝なので、会堂の前には懐かしいお顔の写真が並びました。
(プライバシー保護の観点からライブ配信には映り込まない場所に飾りました。)
毎年遺族の方々にもお声掛けするのですが、今年は新型コロナウィルスの心配のため、普段礼拝に来ている方々で礼拝を守りました。
死とそれにともなう別れは私たちにとって悲しく、苦しいものです。
でも聖書は、死は単なる終わりではない。死の先をも神さまの御手の中にあるということを語ります。
悲しみはある、でもそれを乗り越える希望もまた与えられていることを心に留める時となりました。
メッセージは教会ホームページのメッセージのページから聴くことができます。
気になった方はぜひチェックしてみてくださいね。

***今週のみことば***

※聖書の箇所は日本聖書協会の聖書本文検索から読むことができます。⇒こちら
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20日(日) 詩編124編1-8節
一言メッセージ: 124編はとても想像力を刺激されます。「主がわたしたちの味方でなかったら」を私たちの事柄として想像してみましょう。皆さんなら、どう想像しますか。私はこんな風に考えました。
 主がわたしたちの味方でなかったら、朝起きて一日を想う時、苦労ばかり思いつくだろう。
 主がわたしたちの味方でなかったら、人と向き合う時、その場しのぎでやり過ごすばかりだろう。
 主がわたしたちの味方でなかったら、力ある者に媚びへつらうことが人生の得と考えただろう。
 主がわたしたちの味方でなかったら、バレないならば何をやっても良い、と思っただろう。
 主がわたしたちの味方でなかったら、物事の最大の判断基準は損得だっただろう。
 主がわたしたちの味方でなかったら、仲の良い人間以外とは付き合わずに過ごそうとしただろう。
 主がわたしたちの味方でなかったら、自分の限界を感じた時、それ以上の努力はしなかっただろう。
 主がわたしたちの味方でなかったら、希望を口に出すことを愚かと思っただろう。
 主がわたしたちの味方でなかったら、人生に不満ばかりだっただろう。
 主がわたしたちの味方でなかったら、未来に不安ばかりを感じただろう。
 主がわたしたちの味方でなかったら、死の間際に怯えるばかりだっただろう。
 しかし、何と感謝なことでしょう。主はわたしたちの味方です。だから、わたしたちの人生は今日も祝福に満ちています。今日も共に礼拝しましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。「主がわたしたちの味方でなかったら」を想像しました。もし、あなたがいなければ、わたしたちは自分たちの限界の前に、全てを虚無的に感じたことでしょうから。でも、神さま、あなたは私たちの味方でいてくださいます。いつも、いかなる状況においても、あなたは私たちに目を留め、私たちと伴い、私たちを守り、私たちを祝福し、わたしたちを導かれます。どうぞ今日、礼拝において、その希望を確認させてください。救い主イエスさまのお名前で祈ります。アーメン。

21日(月) 125編1-5節
一言メッセージ:125編は「主により頼む(主に信頼する)」ことの尊さと確かさを歌った詩です。神さまに信頼するということは、神さま以外のものに依拠しないことです。私たちは辛い時、先を見据えるよりも目の前の出来事でいっぱいいっぱいになります。そして自分にどうにもできない現実を前に絶望します。でも神さまに信頼することは、私たちの限界を超えて、私たちの見えぬ未来に期待することです。望みなき時に、なお望むことができるのです。
神の子で救い主でありながら、私たちと同じ人間となって生まれ、私たちと同じ労苦や理不尽な現実を知ったイエスさまは、あのゲッセマネにおいて、『神さま、できることならこの杯(十字架の死)を取り除いてください』と祈りました。それは私たち人間と同じ姿です。神さまがおられると分かりながら、現実を受け止め切れずに苦しむ生身の人間の姿です。でも私はそんなイエスさまに慰めを見出すのです。私たちの救い主は私たちの現実の辛さを知っていてくださるのです。そのイエスさまがつらい時・絶望を感じる時、共にいてくださるように祈りましょう。イエスさまが私たちの希望です。イエスさまは逃げ出したい現実の先に復活という希望を示されました。私たちの救い主は、先が見えなくても、人間の絶望的な労苦を経験しながらも、神さまの希望があることを示されたのです。そんなイエスさまが、私たちを見捨てるはずがない。だから『イエスさま、共にいてください』と祈りましょう。
様々な出来事を聴き、体験しながら、「望みなき時になお望む」ことの辛さと、でも「望み」の根拠なる神さまのことを考え続けています。
祈り:天のお父さま、今朝のみことばをありがとうございます。125編の詩人は「主により頼む」ことを告げました。神さま、信仰とは神さまを頼り、期待することと私たちは知っています。でも、実際に苦しい時、その言葉を実行することさえ辛いです。あなたにどう祈ればいいのか、分からぬ時もあるのです。けれど、その時に私たちはゲッセマネのイエスさまを思い起こします。神の子であり救い主でありながら、私たちと変わらぬ生身の人として怯え苦しんだイエスさまは、正に私たちに寄り添う救い主でした。神さま、私たちはあのイエスさまの姿を思い起こしながら、あなたに祈ります。どうか私たちをお守りください。インマヌエルの救い主イエスさまのお名前で祈ります。アーメン。

22日(火) 詩編126編1-6節
一言メッセージ:126.5-6は有名なみことばです。これは、「初めに労苦した者が、後に祝福を受ける」という意味合いに読める言葉です。でも、そんな単純な意味合いではないのです。何故なら、古代イスラエルは常に外敵の侵略に怯えますし、ただでさえ水の少ない地域ですから収穫は天候に大きく左右されます。そんな中で農夫たちは精一杯働きながら、自分たちの手に負えないところを神さまに祈るのでした。126編の祝福はそんな、人の手に負えないところで信じられない御業を行う神さまにあります。1節に「主がシオンの捕われ人を連れ帰られると聞いて」とありますが、祈祷会で用いている月本昭男さんの訳では「主がシオンの命運を転ぜられたとき」です。自分たちの不安だらけの未来を、神さまが大ドン絃返しで祝福へとひっくり返されると言うのです。4節に「ネゲブの川の流れ」とありますが、ネゲブは年間降水量200mmの乾燥地域です。川はほぼ干上がっています。でも雨季になり、雨が降ると川底に水が流れるのです。1節も4節も、どちらも恵みの基は神さまです。神さまの御業による祝福を歌った、それが126編なのです。
  私たちの毎日も同じですね。私たちも努力しますし、精一杯誠実に生きています。でも、私たちはその実りは神さまに期待します。神さまが私たちを祝福し、私たちに皆と共に喜び合う祝福を与えてくださいますように、です。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝は126編に、あなたの祝福に期待することを分かち合いました。今、私たちが苦しい時を経験していても、この苦しみを5節の「涙と共に種を蒔く」ような、祝福の始まりとしてください。私たちに見えぬ先をも見据え、慈愛に満ちて導いてくださるイエスさまの御名によって祈ります。アーメン。

23日(水) 詩編127編1-5節
一言メッセージ:127編は元々、若い夫婦への祝福の詩だそうです。1節の「家を建てる」は建築の話というより「家庭を築く」という意味合いです。だから3-4節の出産の話に繋がるのですが、では今、背景を超えて我が事として受け取るときに、この詩のどこに目が留まるでしょう。それは1節冒頭の「主ご自身が建ててくださるのでなければ」です。詩人は神さまへの期待を歌っています。
  現代社会はとても世知辛く、結果や成果を出すことが能力を測る基準のようになっています。逆を言えば、周囲の納得を得て、称賛される結果を出さねば、その人が無能かのように蔑む風潮があります。そのためでしょうか、皆が結果や成果、ひいては人の目に翻弄され、失敗しかねないチャレンジは避け、困っている人がいても厄介ごとは避けようとします。そして人は孤独を強くしていく。先日、新聞でありましたが、今年はコロナ禍で自ら命を絶つ方が多いのだそうです。とても悲しいことです。
でも、そんな風潮の今、私たちは127編から「主ご自身が成して下さる」ことに期待していいのだと教えられます。もちろん、精いっぱいの努力はします。でも、結果を出されるのは神さま。望む結果で無い時には、「神さまの御心に沿えていたかな?」と振り返り、「沿えていたんじゃないかな」と想えたら「神さま、でっかい祝福を次に回されましたね?」と期待する。結果が私の命の価値を左右するのではないのです。一人ひとりが神さまに祝福された命なのだから、結果や成果によってあなたの価値が変わるなんて幻想に惑わされないで生きていきましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。127編はわたしたちの心を軽くします。神さまの導きの中で生きることの祝福とゆとりを見出します。私たちは精一杯に努力します。でも、望む結果が出ぬからといって、私たちの命の価値が左右されるという風潮は過ちです。だって、一人ひとりはあなたの祝福をいただいて生きる命ですから。神さま、どうかあなたの導きに期待して今日も生きる者としてください。望まぬ結果の時には、「神さま、次がでっかい祝福ですね」と期待できるゆとりを与えてください。一日の始まりに希望の基イエスさまのお名前で祈ります。アーメン。

24日(木) 詩編128編1-6節
一言メッセージ:128編は古代イスラエルの幸せを、素朴な家族像を通して描いた詩です。基本的には読んだままなのですが、一点、面白い言葉を見つけました。1節の「主を畏れ、主の道を歩む人」は一般的な「人間」という意味合いですが、4節の「主を畏れる人」という「人」が一家の責任を持ち、彼の判断で一族の未来が決まる家長である成人男性を表すゲベルという言葉なのです。子どもは親や周囲の大人の言うことを聞きながら育ちます。反抗期には理由なく反発したし、将来を考えて不安になることもあったし、若さ故の焦りや潔癖さで物事を短絡的に断定したこともあります。そうやって大人になり、自分で仕事をはじめた時、周囲の声はアドバイスとなり、自分で物事を決断するようになりました。その時、私たちは自由に決断できるけれど、同時に決断に責任が伴っていることを実感したのです。それが私たちにとってのゲベルの状態です。ゲベルは責任もって決断せねばならない。でも、128編のゲベルは、決断の規範に「主を畏れること」を持ち、神さまの御心を求め、従う。それが最善の幸いに繋がるからなのです。その示唆は今の私たちにも同じように与えられています。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝のみことばは大人たちへのエールでした。物事の決断をせねばならない時、私たちは何を基準に決断すればいいのか、悩みます。でも詩人はシンプルに「主を畏れる」ことを示しました。あなたの御心に従う時、すべては神さまの御手の中で整えられます。その安心が私たちの強みです。神さま、どうぞ今日も御心を模索しながら歩み出させてください。導きに期待し、イエスさまのお名前で祈ります。アーメン。

25日(金) 詩編129編1-8節
一言メッセージ:129編はイスラエルの人々にとって、生活に密着した詩でした。外敵によって侵略を受ける苦難をテーマにしていますが、けれど、その侵略は一時的なものに過ぎず、彼らの行為が徒労に終わることを歌っています。1、2節の前半部は同じ言葉の繰り返しですが、その分、2節末の「彼らはわたしを圧倒できなかった(侵略できなかった)」が強調されます。3節は侵略者によって国が蹂躙される様ですが、4節で「主が正義」だから、神さまは侵略者の束縛を断ち切られるのです。
  注目したいのは6節の「抜かれる前に枯れる屋根の草」であり、7節の「穂を束ねてもふところを満たすことのないように」です。「抜かれる前に枯れる屋根の草」とは、当時の家の屋根は梁を作り、棕櫚の葉を重ね、泥を重ねて固めたのですが、その泥に含まれた種から目を出す草です。けれど、屋根の泥では根が張れず、直に枯れるのです。また、当時の麦の収穫は茎を集めて穂の部分だけをふところの袋に入れたそうですが、「穂を束ねてもふところを満たすことのない」とは、外敵が略奪しようとしても穂が全て収穫済みの状態です。どちらも、外敵の侵略が徒労に終わる様を歌っています。
  どれも、イスラエルの民にとっては日常の生活風景です。彼らはその風景を見ながら、129編を思い起こし、「何だかんだ言っても、神さまはちゃんと守って下さるよね」と確認し合ったのでしょう。
  ここで考えてみましょうね。私たちにとって、日常の生活の中で神さまを思い起こすものって何でしょう。私たちも日に何度も「神さまはちゃんと守ってくださるもんね」と思い起こしたいものです。
祈り:天のお父さま、今朝のみことばは、わたしたちに日常の中であなたを思い起こさせるものは何かなぁ、と考えさせます。食卓のご飯でしょうか、道を歩いていて見かける草花でしょうか、元気のよい子どもの挨拶の声でしょうか、おだやかな日差しでしょうか。人それぞれでしょうが、神さま、どうぞわたしたちが一日過ごす中で、何度もあなたを思い起こし、感謝と平安を感じることができますように。私たちに日々伴ってくださる救い主イエスさまのお名前で祈ります。アーメン。

26日(土) 詩編130編1-8節
一言メッセージ:1節の「深く淵の底」とは、人生のどん底という意味です。130編は、詩人がもはや絶望感いっぱいの中で、神さまに向かって切実に呼びかける詩です。この詩の中で注目したいのは「主」という言葉です。新共同訳を見ますと、「主」という言葉が連呼されていますが、ヘブライ語の原典では言葉の使い分けがされています。手持ちの聖書に書き込んでいただければ良いですが、2節、3節後半、6節は「わが主」で、8節は「かれこそ」、残りは「ヤハウェ」か「ヤハ」という神さまの固有名詞です。「ヤハウェ」は「〇〇さん」という固有名詞ですが、「我が主」は関係性を表しています。詩人は1節で、絶望しながら「ヤハウェ」と呼びかけながら、2節で「あなたはわたしの神です。どうぞわたしの声を聞き取ってください」と願ったのです。きっと詩人はこの絶望的な状況に陥るまで、例えば自分の力や友人たちの協力をもらい、権力者の助けを求め、あらゆる手段を講じてきたのでしょう。けれど助けにならなかった。もはや彼にできることは何もない。そんな中で彼は「まだ私には神さまに助けを願える」と気づき、「ヤハウェよ、あなたこそがわたしの神さまです。あなた以外に救いはありませんでした。わたしは今、ようやく気付きました」と呼びかけた。それが130編なのです。
  私たちはこの詩に2つのことを教えられます。1つは「私たちは人の力に頼るのでなく、主なる神さまを常に覚えて生きるのだ」ということ、もう1つは「神さまはこんな最後の状況に陥るまで神さまから離れ、罪を重ねた者でさえ、その叫びに応えてくださる」というです。宗教改革者のマルティン・ルターはこの130編を読みながらこう語ったそうです。「あぁ、われらに罪は多かれど、神の慈愛はいや勝れり。」週の終わりに私たちは神さまへの信仰と慈愛を思い起こしましょうね。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。私たちは今朝、130編から、常に神さまを覚えて生きることと、あなたの慈愛は限りなく深いこと、を分かち合いました。週の終わりに深い慰めをありがとうございます。今週、私たちはどれほどあなたに背いたことでしょう。気づいている罪もあれば、気づかずに犯した罪もあったかもしれません。どうぞ、全てを受け止め、お赦しください。週の終わりにあなたの慈愛によって締めくくることができますように。今日の一日をお守りください。救い主イエスさまのお名前で祈ります。アーメン。


***

今週もみことばが皆さんの人生の旅路の道を照らす光となりますように。



9月13~19日のみことば - 2020.09.15 Tue

台風が過ぎ、吹き抜けていく風が秋の風になってきましたね。
日中はまだまだ暑いですが、ようやく暑い暑い夏が終わったようですね。
季節の変わり目、皆さん体調に気を付けてお過ごしくださいね。

今週も毎日のみことばをアップします。
皆さんの毎日がみ言葉によって支えられます様に。

***今週のみことば***

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・訳名選択     : 新共同訳
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13日(日) 詩編119編153-160節
一言メッセージ:今朝の箇所で、詩人は「神に逆らう者」によって、かなり追い詰められている状況のようです。「顧みてください(153節)」、「贖ってください(154節)」、「命を得させてください(154節)」と3つの願いを訴えています。辛い状況の際、私たちであれば「神さま、私は真面目に信じてきたつもりです!なのに、どうしてこんな苦しい目に遭うんですか!理不尽です!」と突っかかっていきそうですが、詩人が危機の中でなお、神さまに期待し、願い続けるのです。154節では、神さまが自分に代わって(自分の前に立ちはだかって、自分を庇って)敵と対峙してくれることを期待しています。なぜ彼はそこまで神さまに期待できるのでしょう。それは156節にあるように、「神さまの憐れみの豊かさ」を知っているからです。ここで言われている「憐れみ」はヘブライ語のラハミームという言葉です。ラハムという言葉は女性の子宮を指す言葉でもありますから、ラハミーム「憐れむ」という言葉は、苦しみすら経験しながら命を生み出していく、そんな愛情と強さを含んだ憐れみなのです。詩人は、神さまを母のように無条件に信じているのです。そして、その期待は決して裏切られることは無いのです。今、皆さんのしんどいことは何ですか?しんどい時には、ただ神さまを思い浮かべてください。神さまはあなたを苦しめて見捨てるのでなく、憐れみをもってあなたを守られます。だから大丈夫ですよ。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝はあなたの憐れみについて、改めて考えました。私たちは厳しい課題に直面すると、自分のことでいっぱいいっぱいになり、あなたを見失います。でも詩人は、あなたの憐れみはいついかなる時にも変わらず、私たちに注がれていることを信じました。神さま、私たちもあなたの憐れみラハミームを信じます。どうか、私たちを丸ごと理解してくださった上で、あなたの御業を行ってください。あなたに期待して、救い主イエスさまのお名前で祈ります。アーメン。

14日(月) 詩編119編161-168節
一言メッセージ:今朝の箇所は週の初めにとても勇気づけられる言葉です。161節の「地位ある人々」というのは、おそらく、バビロン捕囚後にイスラエルに帰還した人々を監督するため、バビロンを滅ぼしたペルシャ帝国から派遣されてきた高官のことです。彼らは、ある程度の自治をイスラエルに認めながらも、支配者ゆえの理不尽な行為もしていたのでしょう。詩人は、そんな権力者の理不尽な行為に苦しみながら、「でも私が本当にひれ伏すのは神さま、あなたです」と歌いました。164節の「日に七たび賛美する」は単なる回数でなく、「何度も何度も」という意味合いですが、それくらいに詩人は神さまを思い起こすのです。そんな中で注目したいのは、165節と168節です。165節で詩人は「(神さまに従う者を)つまずかせるものはない」と語りました。現実には、ペルシャの高官の理不尽な行為があるのに、それらは彼らにとって「つまずき」にならないのです。何故か。それは168節が語るように、「彼の人生はすべて神さまの御前にある」からです。神さまはこの理不尽な現実さえも用いて、全てを整えられるからです。今朝、週の初めに確認したいことは、「私たちの良いことも悪いことも、すべてを最善の導きのために用いる神さまが、今日も私たちと共におられる」ということです。すごいことですね。新しい週の始まり、神さまの導きに期待して歩み出してまいりましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。週の始まりにあなたは希望に満ちたみことばをくださいました。新しい一週、私たちはどんな事柄を経験するでしょう。喜びもあれば、しんどいトラブルに直面するかもしれません。でも、あなたはわたしたちに「つまずきはない」と約束してくださいます。あなたはしんどい出来事すら祝福のために用いられるでしょう。神さま、あなたの御業を信じます。主なる神さまに祈ります。アーメン。

15日(火) 詩編119編169-176節
一言メッセージ:長かった119編もとうとう終わりです。終わりの言葉は未来の希望を歌った言葉です。169-176節を見ますと、「〇〇でしょう」とか「〇〇してください」といった未来を願う言葉が連なっています。詩人は未来を見ています。その未来は、不安に満ちた未来ではありません。希望に満ちた未来です。もちろん、169節の「叫び」は嘆きの叫び、悲痛な叫びですから、今は苦しい境遇にいるのです。でも、今は苦しくても、未来には祝福が満ちるのです。何故か。神さまが導いてくださるからです。174節で詩人は歌います、「主よ、御救いをわたしは望みます。あなたの律法はわたしの楽しみです。」神さまがおられる、この揺るぎない真実があるから、クリスチャンは強く、しぶといのです。神さまは今日も私たち一人ひとりに目を留めておられます。さぁ、神さまの眼差しの中で歩み出しましょう。
祈り:天のお父さま、22回にわたって詩編119編を学んできました。その終わりにあなたが示してくださったのは、未来への期待です。「あなたがおられるのだから…」、その真実は私たちにとってどれほど大きな希望でしょうか。あなたがおられるから、私たちは自分たちの限界を超えて、あなたに期待し、ワクワクします。どうぞ、私たちにあなたが考えられる最善を与えてください。一時的なしんどさも享受します。でも、どうぞ、しんどさの分だけ、早いところでっかい感謝も用意くださいね。私たちを祝福のうちに創造し、愛し、救い、導いてくださる神さまに祈ります。アーメン。

16日(水) 詩編120編1-7節
一言メッセージ:120編は最初に2-7節を、最後に1節に戻って読んでみてください。そうすると、分かりやすくなります。2節で詩人は自分の過ち、罪に気づき、神さまに「助けてください」と呼びます。彼が気づいたのは、軽口や誤解、意図していない言葉も含めて、自分がいかに神さまの御心と離れて、偽りに満ちた言葉を語ってきたか、ということです。5節のメシェクは黒海に周辺の山岳民族、ケダルはアラビア地方の遊牧民ですが、120編では「戦闘を好む異民族」といった意味合いで使われており、要は、自分の言葉はそれほどに無責任で、相手に怒りや敵意を湧きおこらせ、要らぬ争いを生じさせてきたと嘆いているのです。そんな自分の過ちに気づき、7節で詩人は平和を願います。そして1節、彼は神さまに「助けて下さい」と呼びかけます。その時、私たちは希望を見出します。神さまは呼びかける詩人に応えてくださるのです。罪人であり、償いきれぬ過ちを抱えているのに、神さまは悔い改める人を見捨てず、応えてくださる。いかなる過ちを抱えていても、必ず救ってくださるのです。だから、詩人は神さまに赦されながら、もう一度、人々に向かって語ります。今度は軽口でなく、神さまの御心を意識しながら。私たちもそうありたいと願いますね。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。120編を読みながら、私たちは自分たちを振り返りました。私たちの言葉も、詩人同様、深く反省せねばならぬほど、過ちに満ちたものだったでしょう。自分で思い出しても、イライラした時の一言、疲れた時の対応、軽い冗談のつもりが相手のひきつった顔など、「なんであんなこと言ったのだろう」と反省しきりです。神さま、どうぞその1つ1つをお赦しください。そして、どうぞ傷つけ、怒らせてしまった相手との具体的な和解へと導いてください。あなたによる再スタートを願いつつ、イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

17日(木) 詩編121編1-8節
一言メッセージ:121編はただただ祝福の詩です。エルサレムに巡礼する巡礼者の歌です。1-2節は巡礼者の歌で、3-8節は巡礼者に与えられる神さまの祝福を歌っています。3節では神さまが私たちの歩み(人生)を整えてくださること、4節ではいつでも目に留めていてくださること、5節では守ってくださることが記されます。6節の「昼の太陽」と「夜の月」は寒暖差激しい中東の気候をイメージしてください。「昼の太陽」は猛暑、「夜の月」は寒さです。砂漠などでは昼と夜での気温差が50度を超えると言われますが、そんな厳しい状況でも神さまは巡礼者を守ると詩人は歌うのです。
そんな121編で今朝注目したいのは1-2節です。巡礼者はそびえ立つ山々を見上げています。現代人は普段、人間の進歩を誇っているのに、大自然を前にすると、ただ佇んでしまいます。自分たちを超える何かを感じているのでしょう。信仰者はそんな大自然の背後に、その自然を創造された神さまの存在を思い起こします。巡礼者も同様で、神さまの存在を想い起こし、「自分はなんてちっぽけだ」と思ったのです。でも、そこで彼は気づくのです。そんなちっぽけな存在に過ぎない自分なのに、天地創造の神さまが目を留めてくださっているという事実に。普段、当たり前のように「神さまは私たちを見守ってくださる」と耳にするのに、改めて考えると、何て偉大な御業でしょう。神さまが私たち一人ひとりの個性も事情も、課題も願いも、全てを理解しておられるうえで、私たちを倒れて絶望で終わることなく、いついかなる時にも見守り、支え、導いてくださるのです。
今朝、私たちは神さまの偉大な御業を思い起こして、一日をスタートしましょう。きっと、今日の一日は当たり前の一日でなく、祝福と御業に満ちた一日となることでしょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今日、わたしたちは偉大なあなたを見上げて一日をスタートします。神さま、お願いです。今日の夜、一日を振り返る時に、あなたの恵みを1つ1つ数えさせてください。その時、あなたの守りを実感し、感謝と平安をもって一日を締めくくることができますように。あなたの一日の導きに期待して祈ります。アーメン。

18日(金) 詩編122編1-9節
一言メッセージ:122編は7月12日の宣教で取り上げた箇所です。教会HPから聞き直せます。
さて、122編1節は今年度の久留米教会の年間聖句です。「主の家に行こう、と人々が言ったとき、わたしはうれしかった。」ここには、詩人の喜びが詰まっています。詩人はエルサレムに巡礼した際、他の部族と一緒に礼拝したことを喜んでいます。そして「一緒に礼拝して、私たちは家族同様になれるんだ」と知るのです。6-7節では詩人の喜びがシャルシャルという音が繰り返されます(エルサレムのヘブライ語読みはイェルシャレム、平和はシャローム、6節の「求める」はシャアルー、「平安があるように」はイシュラユー、7節の「平安」はシャルワー)。その興奮をもって、詩人は8節で「わたしはぜひとも語りたい。兄弟、友のために、神さまの平和を!」と歌うのです。
私はこの詩に久留米教会のこれから目指したい姿を見出しています。それは「共に礼拝し、共に生きる教会」です。現代は何かと人と人を分断します。意見の合わない人々は互いを憎み合い(政治や原発などの意見の総意による対立など)、国籍や民族の違い(近隣国や在日の方々へのヘイトなど)、宗教の違いなど、本来理解しあって、一緒により良いものを目指せばいいだけなのに攻撃の対照する。今のコロナ禍では「べき」「ねばならない」で人を裁く自粛警察。偏見や固定概念に凝り固まった人々。違いを認め合えば互いに補い合えるし、一緒に生きるからこそ多様性が広がるのに。そんな社会の中で、私は神さまへの礼拝によってあらゆる相違を乗り越え、共に生きる教会を目指したいのです。それこそ、「主の家に行こう、と人々が言ったとき」、大喜びしたいのです。そんなヴィジョンを122編に見出しています。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝のみことばに、わたしは教会の目指す姿を見出します。現代社会が人と人を分断するのであれば、私たちは神さまの平和な御国を体現すべく、「共に礼拝し、共に生きる教会」でありたいです。教会はどうぞ私たちに、あなたの平和、あなたの御国を少しずつでも体現させてください。久留米教会があらゆる人々を繋ぎ、共に生き始める教会として、さらに用いられていきますように。私たちの平和の君なる救い主イエスさまのお名前で祈ります。アーメン。

19日(土) 詩編123編1-4節
一言メッセージ:123編は神殿に巡礼する貧しい人々の歌です。おそらく、具体的な状況はネヘミヤ記5章と考えられます。当時のイスラエルは、バビロン捕囚から解放され、ペルシャ帝国から許可を得た監督ネヘミヤや祭司エズラの指導の下、民衆が第二神殿を建設した後です。少しずつ暮らしが安定する中で、経済的に裕福な者と貧しい者とが分かれてきました。貧しい人々が食べることができず、子どもたちを奴隷として売ったり、田畑や家を抵当に取られたり、と苦しんでいます。貧しい民は監督ネヘミヤに訴えます。123編はそんな民の悲痛な詩です。
では、彼らの訴えはその後、どうなったか。ネヘミヤ記5章を読み進めますと、ネヘミヤは彼らの言葉を聞き、強く憤り、貴族や役人たちを批判し、民の負債を帳消しにし、同胞を奴隷として売ることを禁じます。さらに、祭司を呼び、その約束を守らない者への厳しい罰も規定しました。民の訴えが社会の変革を起こしたのです。
  民がネヘミヤに訴えた叫びを見ながら、私は彼らの言葉の根底に深い信仰を見出します。ネヘミヤ5.5で貧しい民はこう訴えます。「同胞も私たちも同じ人間だ。」それは、神さまの前に皆が同じ人間だ、という深い信仰に基づく叫びです。人間は誰しも、経済的格差や社会的地位は関係なく、皆が神さまに創造され、愛された一人ひとりなのです。この神さまへの信仰に立つからこそ、彼らは自分たちと子どもたちの命と尊厳を訴えていったのです。
  この理解は今の時代にも改めて強調されねばならないです。まして今の日本において、私たちは奴隷でなく主権者と明記されているのですから、私たちは堂々と訴えて良いのです。逆に沈黙は同調と理解されてしまいます。今、私たちが訴え守るのは、子どもたち、孫たちの未来のためでもあるのです。123編は私たちへのエールですね。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝のみことばに励まされます。あなたは私たちを奴隷として創造されたのでなく、あなたの御前に誰もが愛され、祝福をいただき、共に生きていくための存在として創造されました。123編の詩人たちはあなたへの信仰に立って、「私たちは皆同じ人間だ」と訴え出ました。神さま、その行動は今の私たちの社会でも必要です。私たちは憲法によって国の主権者と定められながら、その実、政治によって奴隷同然に扱われる者も出てきました。神さま、どうか今、私たちがあなたへの信仰に立ち、「否は否」と訴えることができますように。私たち自身のためにも、子どもたち、孫たちの未来のためにも、声を上げる者とならせてください。あなたの励ましと伴い、困難な未来をも切り拓かれる御業に期待し、イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

***



9月6~12日のみことば - 2020.09.07 Mon

昨晩は台風が九州を通過し、予報では、これから徐々に収まっていく予報ですが、今もまだ強い風が吹いています。
教会にあるヤシの木のような高い木が倒れたら…と心配していましたが、幸いにも倒れることなく、教会また附設の幼児園も被害なく過ごせそうです。
各地にも大きな被害がでませんように、またこれから台風が上陸する朝鮮半島の方々にも大きな被害が出ないことを祈ります。

さて、先週は牧師の休暇のためお休みしていましたが、今秋からまた日々のみことばを掲載します。
今週もみことばによって支えられ、歩むことができます様に…(^^)

***今週のみことば***

※聖書の箇所は日本聖書協会の聖書本文検索から読むことができます。⇒こちら
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6日(日) 詩編119編97-104節
一言メッセージ: 今朝のみことばで、詩人は神さまの律法に従うことを「愛している」と表現しました。そして、神さまの律法に従うことによって「私は知恵ある者となった(賢くなった)」と語ります。今朝は「賢さ」について考えてみたいと思います。聖書の語る賢さは「学校の成績が良い」とか「モノをよく知っている」といった知識でなく、「何が正しいことで、何が全てを整えるか」を悟り得る知恵です。また「今、何が得か」と近視眼的に物事を捉えるのでなく、「神さまが必ず導いてくださるのであれば、何が神さまの御心に沿う事柄か」と未来を見分けます。前半の「何が正しいか」を悟る知恵については私たちも意識しやすいのですが、後半の「未来を意識して」は苦手な方も多いでしょう。でも、私たちの見ている現実はあまりに一時期のものです。例えば、流行なんてワンシーズンで終わるものがいっぱいじゃないですか。人の力も一時期のものです。平家物語も冒頭で「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。奢れる人も久からず、ただ春の夜の夢のごとし」と語っています。「平家でなければ人ではない」とまで驕った人々も、歴史を見れば、その繁栄は一時のものに過ぎません。それが、人の限界です。人の目を惹く繁栄は、いつも限界だらけなのです。だから詩人は、人の賢さに留まるのでなく、神さまの知恵、神さまの賢さに生きることを勧めます。今日は日曜日、礼拝の日です。巨大な台風10号が近づく中なので、不安を感じる方はネットでの礼拝参加もお勧めします。場所は様々ですが、私たちは今日も自分の思惑、理解、経験、感情で全てを判断するのでなく、神さまの知恵に生きる者となりましょう。
祈り:天のお父さま、今朝のみことばをありがとうございます。今朝のみことばは私たちに、あなたの御心、知恵、律法に生きることが何よりも賢いことだと告げました。神さま、私たちは弱く、いつも目先の事柄に右往左往し、あなたの御心よりも自分の思惑を優先し、あなたの導きよりも自分の感情に走り、あなたの祝福よりも今の損得を考えてしまいます。でも神さま、私たちは一時的な威勢でなく、あなたからいただく永遠の祝福を求めます。どうぞ、私たちに日々、あなたの御心を悟らせ、従わせてください。今日もどうぞ礼拝に集い、あなたの御心を知ることができますように。救い主イエスさまのお名前で祈ります。アーメン。

7日(月) 詩編119編105-112節
一言メッセージ:105節は119編の中で最も有名なみことばでしょう。「あなたのみことばは、わたしの道の光。わたしの歩みを照らす灯(ともしび)」。
  詩を読んでいますと、詩人は神さまのみことばに従っているのに苦しい状況にいるようです。107節では「甚だしく卑しめられている」し、110節では「(神さまに)逆らう者が常に罠を仕掛けて」いる状況です。私たちは詩人を見ながら、神さまに従ってもつらい経験があるし、最後には厳しい結末が生じるのではないか、と不安を持ちます。
でも、冷静に今一度、詩人の言葉に目を留めましょう。彼は「神さまのみことば」を「歩みを照らす灯」と語っています。灯が照らす先はせいぜい数mです。そもそも遠い先々までは照らしません。でも、一歩先を確実に照らします。詩人はそれで良いと言うのです。何故なら、私には一歩先しか見えなくても、神さまのみことばによる一歩一歩は完全な祝福に至るための一歩ずつなのだから。詩人はそうやって、一歩先を積み重ねながら、神さまに従うことを信頼しているのです。
彼の信頼の強さをもうひとつ分かち合いましょう。105節の「みことば」はヘブライ語ダーバールです。これは、「word(ことば)」の他にも「event(出来事、事件)」や「fact(事実)」という訳もできる言葉です。詩人の確信はここにも見られます。神さまのみことばは人生の中で、言葉として知ることもあれば、出来事や事件として起こったり、何が本当に正しいことかを示す事実として現れるのです。私たちの人生にも実現します。私たちはみことばを読み、日々の生活の中で実現されている神さまの出来事を見出していけるのです。
今日から新しい週の働きが始まります。今週、どんなダーバールと出会うでしょうね。
祈り:天のお父さま、今朝もみことば(ダーバール)をありがとうございます。あなたのみことばは、私たちの人生を導く光であり、私たちの一日一日を確かな歩みにさせる灯でした。私たちは弱く、先が見えないため、人生の中で何度、「思ってたのと違う!」と落胆してきたことでしょう。でも神さま、あなたに従う時、たとえ一時的に落胆しても、あなたは私たちをそのままに放置しません。あなたのみことばは、私たちの人生に確かな出来事、事実として実現していきます。神さま、私たちはその時を期待しながら待ちます。どうぞあなたの御業を私たちの上に実現してください。今週もあなたへの期待に生きることができますように。救い主イエスさまのお名前で祈ります。アーメン。

8日(火) 詩編119編113-120節
一言メッセージ:今朝のみことばには「心の分かれている者」が登場します。ここで言われる「心が分かれている」とは、神さまの律法を知りながら、神さまから離れる者です。何故、人は神さまから心が離れてしまうのか。それは「わたしは○○がしたい」からであり、神さまに従うことが自分たちの願望や思惑を否定するように感じるからです。でも改めて考えてみてください。神さまに従うことが楽であり、安心なのです。神さまの祝福はこの命が終わったとしても、その後までの約束です。
今の時代、将来の不安が多いため、皆が必死になって貯金したり、他人と関わることを避け、我が身を守ろうとしています。でも、私たちは神さまを身近に感じることによって、神さまの整えと導きの中で生きられます。神さまに従う人を笑う人もいます。でも、そのような方々はいざ、自分の力や理解を超える出来事に直面した時、どこに平安を得るのでしょう。自分や周囲の力に依拠して生きる時、その限界を超えた時、何が希望となるのでしょう。私たちの希望は自分たち自身にはありません。ただただ神さまにあるのです。そう思う時、私は神さまを信じて生きることが「楽」だし「安心」と思うのです。信仰は喜び、慰め、元気、優しさ、希望、その他もろもろ、私たちを生かす力を与えてくれます。そして、信仰は私たちに信じたように生きて良いのだと後押ししてくれるのです。
祈り:天のお父さま、今朝、私たちはみことばに「心の分かれている者」のことを考えさせられました。私たちも時に、あなたに従うよりも自分の都合や願望を優先します。その結果、一時的な楽しみは得られるでしょうが、あなたに従うことによる平安や期待は感じられません。あなたの前に大らかに過ごすのでなく、周囲の目に振り回されてしまいます。そう思う時、私たちは過去を整えていただき、今を期待に満たし、将来にわたる約束を与えてくださるあなたを信じ、従います。救い主イエスさまのお名前で祈ります。アーメン。

9日(水) 詩編119編121-128節
一言メッセージ:今朝の箇所はとても面白い表現があります。122編で詩人は神さまに「わたしの保証人になってください」と訴えているのです。今の時代、何かと言うとすぐに「責任」という言葉が口にされます。「責任」と言ってしまえば、物事のミスや、押し付けられた結果が出せないことが、その人の失態として押し付けてしまえるからです。でも、この論理は究極的には破綻しています。何故なら、ミスのない人間などいないからです。今朝のみことばがキラリと光って見えます。詩人は神さまに「あなたがわたしの保証人になってください」と訴えます。予期せぬトラブルが起こっても、精一杯取り組んだのに物事がうまくいかなくても、それですべてが潰えてしまうのでなく、そこからさらに御業が起こることを願うのです。
  恩師の関田寛雄牧師が言っていました。「キリスト教信仰は『にもかかわらずの信仰』。私たちがどれほど苦境にあろうと、『にもかかわらず、神さまはおられる。イエスさまが伴ってくださる』から、私たちにはどんな時にも希望が与えられています」と。
  詩人もそんな心境なのでしょう。社会の理不尽を前にして126節で詩人は言います。「(今こそ)主の働かれる時です」!何とすがすがしい信仰でしょう。無責任なのでなく、責任感があるからこそのことばです。精一杯生きた上で物事が惨状で終わってしまうのでなく、ここから神さまの御業が起こるし、自分がその目撃者として、最後まで向き合うからこそのことばです。わたしたちもピンチの時に、その場で一言祈りましょう。「神さま、今こそあなたの働かれる時です」って。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝のみことばはとても私たちの心を自由にしてくれます。あなたが私たちの保証人です。だから私たちは自分たちにでき得る精一杯の働きを誠実に行います。でも、私たちの限界の先は神さま、あなたの御業に期待します。「さぁ、今こそあなたの出番です」と祈って、あなたの御業を見届けます。どうぞ、慈しみ深く、あなたの僕のために計らってください。主なる神さまに祈ります。アーメン。

10日(木) 詩編119編129-136節
一言メッセージ:今朝の箇所で詩人は社会の理不尽さ、人々の不信仰さに大きく落胆しています。そして神さまに「憐れんでください(132節)」と訴えています。では、その「憐れみ」とは具体的に何か。それは129-130節です。詩人は自分自身がしっかりと神さまの御心を守ることが周囲への証となること、その証によって人々が神さまに従うことの幸いと確かさを理解していくことになるだろう、と考えていることです。言うなれば、詩人は「私を祝福してください」と自分のことを願ったのでなく、自分を通して人々が神さまを信じるようになることを願ったのです。詩人は切実です。131節では「わたしは口を大きく開き、渇望しています」と語っています。それほど精一杯祈っているのです。
  私は今朝のみことばを読みながら、週報3面のスケジュール欄で祈り続けている方々のことを思い起こします。礼拝に時々来てくださる方、行事だけ顔を見せてくださる方、一時期来ていたけれど今は来られない方、一回だけ来会された方など、おられます。その方々もきっと私たちと同じく、神さまを渇望していたのです。でも今はお越しになっていない。今、その方々はどうしておられるのだろう。もし機会が与えられるならば、また礼拝を御一緒したいし、私たちの教会でなくてもどこかで礼拝に集っていて欲しいと願います。今朝は上記の方々や家族、友人たちのことを祈りましょうね。
祈り:天のお父さま、今朝のみことばをありがとうございます。今朝、みことばを読みながら、私たちは最近、礼拝におみえにならない方々のこと、礼拝に連れてきた家族や友人のことを思い起こしました。今は新型コロナウイルスの懸念もありますから、余計に難しいかもしれませんが、神さま、どうか憐れみをもって私たちの祈りを聞き届けてください。どうぞ、私たちが今朝祈る方々と共に、礼拝に集う機会が与えられますように。イエスさまのお名前で祈ります。

11日(金) 詩編119編137-144節
一言メッセージ:今朝の箇所、詩人の気持ちは私たちの気持ちに近いです。彼は社会が神さまの御心に反れ、強い者の横暴や理不尽がまかり通っていることに、「どうして、まっすぐな神さまの裁きが実現されないのか。なぜ、神さまの正義が行われないのか」と憤っています。彼は一生懸命に神さまの御心を実行しようと努力するのですが、141節では「若いねぇ(別の訳では、「幼い、弱い、ちっぽけ」も可)と侮られます。でも、彼は一時の感情に流されず、じっと耐えながら、神さまのみことばに生きようとしています。144節の月本昭男訳(祈祷会で使っている注解書の著者)は「あなたの定めは永遠に義です。私に分別させてください、わたしは生きましょう」となっています。
  先週と今週は行けていませんが、ここ最近、人吉に水害ボランティアに行っています。教会関係の方々と一緒ですが、神学生も数名参加しています。20代前半から僕と同級生までですから、親しく話しています。彼らと話していると、20代前半の神学生の真っすぐさがとても印象的です。それこそ「若さ」ゆえか、極端なまでに真っすぐで危うさも感じるのですが、でも同時にとても好ましいのです。私も神学生時代、誰に対しても「おかしいものはおかしい」と言い続けてきました。そんな私も今は42歳。少しは人との対し方や話し方は柔らかくなった(?)し、早急に結論を出すことなく、可能な限り時間をかける粘り強さも付いたかもしれません。でも、根っこの部分であの時の真っすぐさを保ち続けたいと思います。私の中で変わるものと変わらぬものがある。変わらぬものは、神さまへの純粋さでありたいのです。皆さんは、年を重ねる中で何が変わり、何が変わらぬものですか?
祈り:天のお父さま、今朝のみことばをありがとうございます。今朝のみことばに自分の若い頃を振り返らされます。あなたを知って信じた時と、今の私は、どう変わり、どう変わらないでしょう。見た目や体力などは変化してきたでしょうが、でも、神さま、あなたへの純粋さは保てていますでしょうか。バプテスマを受けた時のあの喜び、あの感動、神さまに従うことにワクワクしていた、あの純粋な信仰を私は今も保てているでしょうか。もし、どこかあなたへの信仰がマンネリ化して、感動を失ってしまっていたら、どうぞ、私をもう一度、磨き上げてください。上っ面の言葉としてみことばを受け止めるのでなく、あなたが今の私に語りかけてくださる呼びかけとしてみことばを読ませてください。いのちのみことばなるイエスさまによって祈ります。アーメン。

12日(土) 詩編119編145-152節
一言メッセージ:今朝のみことばで、詩人は切実に神さまを呼んでいます。145-146節では「(あなたを)呼び求めます。こたえてください。掟を守ります。お救いください。定めを守ります」と連呼します。何故なら、150節で迫害する者が近くにいるからです。では、そんな不安の中で詩人は何をしているのでしょう。彼は目を凝らし、耳を澄まし、神さまを感じとろうとしているのです。147-148節で、彼は「夜明けに先立ち、みことばを待ち望み」「夜警に先立ち」神さまに意識を集中しているのです。その理由こそが今朝の箇所の中心です。彼は151節で、敵よりも神さまこそが自分の身近にいてくださることを確信しているからです。時々、「神さまの御心が分からない」と思う時があります。反省を込めていいますが、その時の私は「神さまの御心がわからない」のでなく、「私の願いに沿って神さまが動いてくださらないから分からない」だけです。でも詩人は目で見えず、耳で聞こえなくても、神さまが今日も、今この瞬間にも私の傍らにあると確信している。だからこそ、神さまを感じるために彼は意識を集中させているのです。一週間の働きも今日で終わりです。ぜひ今日寝る前にでも、一週間を振り返ってみてください。感謝なこともあれば、訳の分からない事柄もあったでしょう。注意したいのは、訳の分からない事柄です。その時、神さまは私の願いと別のことを考えてらっしゃったのかもしれない。私たちが気づいていなかっただけで、神さまはいつも私の傍らにいて、私たちの将来のために最も必要な整えを行ってくださっていたのかもしれない。そんな発見を積み重ねながら私たちの信仰をより強く、より希望に満ちていきましょう。大丈夫、神さまは私たちの思惑を超えて力強く、粘り強く、愛情深い方です。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝のみことばに私たちは一週間を振り返りました。今週、わたしたちはどれほどあなたに気づいて過ごしてきたでしょう。あなたはいつも私たちの傍らにおられ、慰め、励まし、諫め、教え、庇い、守り、整え、導いてくださったですが、わたしはどれだけそのことに気づけたでしょう。もし気づけていなかったならば、どうぞ今夜、一週間を振り返る時に、新たな発見を次々と見出させてください。発見の分だけ、詩人のようにあなたへの信仰を強くすることができますように。明日、爽快な目覚めと共に礼拝に集うことができますように。イエスさまのお名前で祈ります。アーメン。


***




8月23~29日のみことば - 2020.08.24 Mon

今週も毎日のみことばをまとめて掲載します。
皆さんの毎日がみ言葉によって支えられますように。

***今週のみことば***

※聖書の箇所は日本聖書協会の聖書本文検索から読むことができます。⇒こちら
・訳名選択     : 新共同訳
・旧新約・続編選択 : 詩編→旧約聖書
・書名選択     : 詩編
・章選択      : 該当章数を入力(章まで入力するとその章すべてが表示されます。)


23日(日) 詩編119編33-40節
一言メッセージ:今朝は33-40節のみことばです。神さまに誠実な生き方を願う詩人の歌です。注目したいのは36-37節です。詩人は「不当な利益」を求めません。いつの時代も、人は「利益」を求めますが、時として、不当な利益は「もっと、もっと」との際限ない欲を湧きおこらせ、言い訳しながら、他者を倒してでも奪おうと搾取を生み出し、人々の中に敵意と憎しみを生み出しました。その際たるものが戦争です。詩人はそういった人間の欲を冷静に分析して、37節で「むなしいもの」と表現しながら、「不当な利益にではなく、あなた(神さま)の定めに心を傾けるようにしてください」と願います。詩人は自分が本当に喜びと感謝と希望を持って生きていくために、「利益」によって人生を狂わされたくないのです。敵意と対立でなく、愛をもって笑いながら生きていける、そんな人生を願うのです。だからこそ、詩人は神さまに目を留め続けたいと願います。ここには、人生のヒントがありますね。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。「平和を覚える月間」を歩む中で、私たちは大事なヒントを得ました。それは、いかに欲を抑えて生きるか、です。人は弱く、欲に振り回されると人生が狂います。「共に生きる社会」でなく、「自分のための社会」を願ってしまうのです。でも、そんな人の弱さを退けるのが、あなたへの信仰です。あなたを信じて生きる時、わたしたちはあなたによって与えられているものに感謝し、足りぬものは祈って期待し、誰かのものを奪うのでなく分かち合うことの喜びを見いだします。神さま、詩人と同じく私たちもあなたに目を向けて生きることを願います。どうぞ、私たちに日々、信仰を強く与えてください。私にいつも伴ってくださるイエス・キリストの御名でお祈りします。アーメン。

24日(月) 詩編119編41-48節
一言メッセージ:41-48節の冒頭文字はヘブライ語のワウですが、ワウで始まる言葉は「そして」とか「しかし」とか「だから」といった接続詞ウェしかありません。だから、この部分は日本語では全く訳出されていませんが、正確に訳すと「だから主よ」とか「そしてわたしは」と書かれています。詩人は頭ひねりながら41-48節を書いたのでしょうね。
  41-48節は詩人が権力者(46節「王」)の前で神さまのことばを取り次ぐ状況です。具体的に言えば、王本人の前で詩人は王を批判するのです。神さまの御心とは言え、私たちは人と揉めたくないものです。でも詩人は46節で「神さまの定めを告げること」に躊躇しません。何故か。それは42節、彼は「みことばに拠り頼んでいる」からです。神学者の月本昭男さんの訳では「わたしはあなたのことばに信頼しました」とあります。詩人は、たとえ王から敵対されても、神さまのお約束を信じたならば必ずすべてが整えられると信じて、王の前でみことばを告げているのです。
  牧師であった祖父が生前、こんなことを言いました。「“しっている”と“している”は違う」。含蓄ある言葉です。知っていても、信じていても、そのように生きているかどうかはまた別。私たちは今、みことばに信頼して生きているでしょうか?神さまの救いの約束、平和の宣言を必ず起こることとして、期待して私たちも生きていきましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝、詩人は強い存在の前でもあなたへの信仰に立つ生き方、周囲の声にひるまずに真理を告げることを示しました。それは、あなたのみことばに信頼していたからです。私たちもまたあなたを信じています。どうぞ、あなたのみことばを知っているで終わらず、実践するもの、みことばに従って生きる者であれますように。私たちは詩人ほどに強くはありませんが、福音の一端でも実行できる者となれますように。救い主、平和の君なるイエスさまのお名前で祈ります。アーメン。

25日(火) 詩編119編49-56節
一言メッセージ:原文のニュアンスを大事に訳出した岩波書店出版の聖書で見ますと、49-50節は「思い起こしてください、あなたの僕へのことばを。あなたが私に希望を持たせたのですから。これが、わが惨めさの中での私への励まし、あなたのことばが私を生かすのだから」と訳されています。今までのように「神さまを信じ抜きます」という決意だけでなく、「あなたが私に希望を持たせたんですよ、あなたのことばが私を生かしているのですからね」と念押しするのです。
  ちょっと自分のことを書こうと思います。私は2001年に就職が決まらないままが大学を卒業し、フリーターをしながら就職活動をしていました。そんな4月末のことです。東京で働き始めた友人のアパートに泊まり込みながら、就職活動させてもらえることになりました。その期間、悲しいほどに就職活動はうまくいかないのに、ハンセン病原告団との出会いや、無神論者の方と夜通し議論しながら自分の信仰を伝えきれなかったこと、など自分のそれまでの22年をひっくり返すような出来事には多々遭遇しました。そんな中で私は悩み始めたのです。「私はもう一度、神さまについて学びたいんじゃないか。」でもそんな思いを打ち消すため、一生懸命、神学部に行けない理由を探しました。「弟や妹はまだ学生。自分は大学を卒業させてもらったのだから、これ以上、親に負担をかけちゃいけない。本当に神学を学びたいならば、就職してお金を貯めた後でも、仕事を引退した後からでもいいじゃないか。」でも不思議なことに、私がどれだけ否定しても、「もしかしたら、今神さまが『わたしに従いなさい』と私を呼ばれているのじゃないか」との考えが膨らんでいくのです。数か月、徹底的に自問しました。けれど答えは出ない。そこで最後に私はこう祈りました。「どれだけ献身の思いを否定しても、神さまに呼ばれているように思えてならない。じゃあ神さま、あなたに任せます。もしあなたが私を招いたのであれば生涯、牧師をします。でも、もし献身が僕の勘違いだったら、ちゃんと卒業後に仕事に就かせてください。」こう開き直って、私は献身したのです。神学部で5年学び、2007年から14年、久留米教会で牧師を続けられています。19年前のあの決断は間違っていませんでした。そりゃ苦労は山ほどありますが、後悔はないです。今でもあの開き直りは私の根底にあります。「神さま、あなたが私に希望をもたせたのですからね!あなたのことばが私を生かしておられるのですよ!そこんところご理解いただいた上で、ひとつよろしく!」って(笑)。きっと神さまは笑いながら「分かっとる」と言っておられるでしょう。
信仰ってそれでいいんじゃないかと思うのです。あれこれ先までは分からない。でも、「神さま、信頼してますよ」と祈って、神さまに委ねたらいいのです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝のみことばは、私自身の過去を思い起こさせました。19年前、悩みに悩んで献身を決意した時の祈りに、あなたは誠実に応え続けてくださっています。今、私は確信します。苦労や葛藤や悩みの分だけ、あなたの祝福は深く、強く、確かです。神さま、どうぞ52節で詩人が歌ったように、私たち一人ひとりに、「永遠にあなたの御心を現わし、力づけ続けてください。」主なる神さまに祈ります。アーメン。

26日(水) 詩編119編57-64節
一言メッセージ:57-64節で詩人は、神さまに憐れみを求めます。敵が彼を追い詰めようとしているからです(61節)。敵の誘惑は詩人の心を揺さぶり、彼は必死に抵抗しています。厳しい状況のはずですが、詩人はそんな自分の現状を64節「この地は主の慈しみに満ちている」と語りました。課題があり、困難があり、痛みがあっても、彼は自分の境遇を「慈しみ(ヘブライ語でヘセド)」と表現するのです。ヘセドの意味は「真実や正義や公正を含んだ慈しみ」です。言うなれば、詩人はどれだけ厳しい状況に居ても、神さまの正しいご判断がこの世界に満ち溢れているし、自分はちゃんと神さまの目に留められているから大丈夫だと確信し、神さまを自分の生きる支えと理解しているのです。
今週も半分が過ぎようとしています。今、私たちはどんな気持ちですか?「社会は理不尽だ。私は苦しんでばかりだ」と嘆きますか。それとも詩人のように「課題もあるけど大丈夫。神さまの慈愛が満ち溢れている」とワクワクするのでしょうか。後者でありたいですね。そのためにも、神さまへの信頼を強めましょう。今朝も「神さま、どうぞよろしく」と祈って一日を始めましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝の詩も私たちにいろいろと考えさせます。私たちは時に、自分の抱えた課題にいっぱいいっぱいになり過ぎて、「なんでこんな理不尽がまかり通るんだ。なんでこんなに苦しい思いをせにゃならんのか」と憤っています。でも詩人は「大丈夫、この世界は神さまの慈愛に満ちている」と語りました。だからこそ、詩人は希望を見失わずに生きていました。神さま、私たちもそうありたいと思います。そのために、あなたが傍にいて下さることをいつも確信していられますように。今日も一日を祈って始めます。どうぞ、あなたの慈愛をそこかしこに見出せる一日となりますように。イエスさまのお名前で祈ります。アーメン。

27日(木) 詩編119編65-72節
一言メッセージ:キリスト教はよく「赦しの宗教」と言われます。それは、キリスト教が徹底的に「人は罪を犯すが、神さまはそんな人間に悔い改めとやり直しを与えてくださる」と信じているからです。今朝の箇所もそうです。原文のニュアンスを訳出した岩波書店が出版した聖書では「善きことをあなたは行った、あなたの僕に。ヤハウェよ、あなたの言葉にしたがって」とあります。では、その「善きこと」とは何でしょうか。それは67節、つまり失敗の経験です。詩人は以前、69節にある「傲慢な者の偽り」に惑わされ、手痛い失敗をしています。でも、詩人は神さまによって軌道修正され、助けられる経験をしました。だから68節で「あなたは善なる方、すべてを善とする方」と悟ったのです。キリスト教は赦しの宗教です。その赦しとは、過去を水に流して無くすのでなく、その過ちを神さまと自分だけが覚えていて、だからもう二度と同じ過ちに陥らないように悟り、再度やり直せることです。私たちは失敗や後悔を抱えても、神さまによって再度立ち上がれるし、神さまへの感謝に生かされる。私たちは神さまによって今日も導かれて生きるのです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝はあなたが善なる方と分かち合いました。人間は罪を犯しますし、後悔を抱えて生きています。多くの人は、その罪や後悔を隠し、忘れようとして生きています。でも神さま、あなたは私たちの罪を共に受け止めてくださり、そこから再度やり直しを与えてくださいました。だから神さま、私たちは許された感謝の記憶として、自分たちの過ちを記憶します。罪人に寄り添ってくださる救い主イエスさまのお名前で祈ります。アーメン。

28日(金) 詩編119編73-80節
一言メッセージ:73-81節はとても興味深い箇所です。詩人は78節にあるように、彼を「偽りによって迷わせる傲慢な者」がいることを語っていますが、同時に、75節ではその苦しみを「わたしを苦しめられたのは、あなたのまことのゆえ」と記しているのです。敵が私を苦しめているのに、それは神さまのまことのゆえ、とは一見、矛盾しているようです。でも、こう理解してみましょう。「わたしは偽りを語る人によって惑わされて、神さまの御心から離れて過ちを犯してしまった。神さまは全部を知っていたけれど、わたしが過ちに気づいて教訓にするため、過ちを黙認された。」それは神さまが私たちを鍛えるため、なのかもしれません。
  ヘブライ人への手紙12章5-6節にこんなみことばがあります。「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはならない。主から懲らしめられても力を落としてはならない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである。」
  今週も一週間、過ごしてきました。たくさんの仕事や心配事を抱えている方々もあるでしょう。でも、ちょっとホッとしましょう。神さまはちゃんと私たちに目を留めてくださる。時に苦労や過ちを放置することもあるが、それは私たちを鍛えるための一時的なもの。必要な時にはちゃんと助け、導いてくださる。私たちは今、どれだけつらくても神さまの御手の中に生きているのです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝のみことばは、わたしたちに、試練の中でも神さまの意志が働いていることを教えてくれます。神さまが私を鍛えるために試練を与えられることもあるのでしょう。私たちにとってはしんどいですし、「これのどこか鍛えるためだ!」と青筋立てて怒りたくなることもあります。でも、私たちにとってどれだけ辛くても、そこはあなたの御手の中であると信じます。どうぞ、私たちが神さまへの信仰から反れることないくらいで、あなたの御心に気づくことができますように。救い主イエスさまの御名により祈ります。アーメン。

29日(土) 詩編119編81-88節
一言メッセージ:昨日は、「試練にも神さまの御心が働いている」と分かち合いましたが、今朝のみことばでは、詩人はより緊迫して、「神さま、あなたはいつ助けてくださいますか?」と問うています。83節の「煙にすすけた革袋」は煙にいぶされて油分がとび、弾力を失った革の袋です。破れそうなボロボロの状態です。詩人は「なんで、神さまの御心に反する人々があんなに傍若無人に振舞っているのに、神さまは彼らを罰しないのですか?」と疑問を持ち、今にも心折れそうなのです。
普段、私たちは詩人の気持ちで詩を味わいますが、今朝は逆に、詩人を苦しめる者の立場で詩を読んでみたいと思います。というのも、8月、私たちは平和を覚える月間として過ごしており、私は日本人のクリスチャンの一人として、加害者としての視点を思い起こす必要があると思うからです。
  数年前のことです。平和に関する宣教を作っている時、ふと疑問が起こりました。「戦中、日本の教会は日本軍のアジア侵略を支持し、神さまへの信仰と天皇崇拝を両立すると主張し、とんでもない罪を犯した。では、その時イエスさまはどこにいて、日本の教会をどう見ていたのだろうか。」しばらく考え続けた後、私はこう思い至りました。「日本の教会がアジア侵略を正当化し、軍の侵略が起こっていた時、イエスさまはきっと、アジア諸国で踏みにじられ、苦しめられた人々、殺害された人々の傍らで涙を流しておられたのだろう。『わたしが愛し、十字架で救った命同士が、殺し殺されていく。奪われていく』と涙しながら、亡骸を抱き、迫害される人々をかばうようにその背に隠しておられたのではないか」と。そう思った時、私は日本の教会の戦争責任を痛感したのです。
  今日の詩と合わせて考えた時、私は思うのです。詩人は苦しい状況を訴え続けました。彼は神さまへの信仰を棄てようとはしない。私たちは彼に神さまの救いが与えられるように願います。その時、私たちは詩人の側にいると思っています。でも、ちゃんと神さまの御心を知ろうとしない時、私たちは詩人を苦しめる者の側にいてしまうのです。正に、戦時中の日本の教会がアジア諸国に苦しみを与えてしまったように、です。
  私たちは今、神さまの平和を心から願います。戦争の被害者であり、同時に加害者であった日本の教会の一員として、今、本当に平和を実現せねばならないと思わされるのです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝は、詩人の苦しみの訴えを通して、先の戦争のことを思い返しました。神さま、先の戦争において、私たちの国はやはり、とんでもない過ちを犯しました。敵味方という区別などなく、ただあなたが愛し、救ってくださった命を、自分たちの都合や誤った理解によって苦しめ、奪ってしまいました。戦後75年、私たちは戦争の悲惨さを体験せずに過ごしてきました。でも、だからといって、その体験を歴史の出来事に風化させてはならないことを思います。いや、75年経った今だからこそ、直接体験された方が少なくなり、戦後の混乱の記憶も社会全体の中で薄れていく今だからこそ、私たち一人ひとりを、被害者であり加害者であるとの歴史に立って、平和を実現する者とならせてください。平和の君なるイエスさまの御名で祈ります。アーメン。

※8月30日(月)-9月4日(金)は牧師・主事の夏期休暇になりますので、みことばメールも休ませていただきます。


***



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Author:久留米キリスト教会
福岡県久留米市にある久留米キリスト教会のブログです。
わたしたちの教会は、日本バプテスト連盟に加盟する、プロテスタント派のキリスト教会です。
(※ブログに掲載した文章の無断転載はご遠慮ください)

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