3月26日~4月1日のみことば - 2023.03.26 Sun
桜もいよいよ満開になりつつありますね。
教会の桜も八部咲きといったところでしょうか。
先週は降る雨に桜が散ってしまわないかはらはらしていましたが、教会の桜は何とか持ちこたえてくれました。
いよいよ2022年度も大詰め。
4月から新しい環境に変化していく人も、そうでない人も、心新たに出発していきたいですね。
新しい歩みにも、変わらないみことばを心に携えて一歩を踏み出していきましょう♪
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26日(日) エレミヤ書30章4-24節
一言メッセージ:今朝は「ヤコブの災いと救い」と題される箇所です。4節で「イスラエルとユダ」と書かれているので、これは南北イスラエルどちらをも含む預言でしょう。4-7節は「災い」が襲い、民が慄く姿が描かれています。しかし、7節の終わりに「しかし、ヤコブはここから救い出される」と語られ、8節以降、救いが歌われていきます。非常に興味深いことが2点あります。少し長くなりそうなので、二日に分けて読みます。今朝読みたい点は11節、15節です。11節で神さまは「わたしがお前と共にいて救う」と告げますが、同時に「わたしはお前を正しく懲らしめる。罰せずにおくことは決してない」と語っています。神さまはイスラエルと共にいて救うが、その罪を不問にするのでなく、必要な罰は与えるのです。その時、大事なのは「正しく懲らしめる」という言葉です。神さまは愛情だけでなし崩しに全てを不問にする方ではない。受けねばならぬ懲らしめは懲らしめとして、正しく判断する。15節でも「なぜ傷口を見て叫ぶのか。お前の痛みはいやされない。お前の悪が甚だしく、罪がおびただしいので、わたしがお前にこうしたのだ」と、神さまが正しく罰する姿が描かれる。けれど同時に、17節では「さあ、わたしがお前の傷を治し、打ち傷を癒そう、と主は言われる」のです。何度かご紹介してきましたが、宗教改革者マルティン・ルターは「みことばは私たちを救うために裁き、生かすために殺す」と語りました。今朝の箇所はそんな神さまの正しさが見出せるのです。では、私たち自身はどう裁かれ、罰せられたのか。ここでも神さまは私たちの罪の罰を不問にはされなかった。その罪をイエスさまが一身に引き受け、十字架にかかって死して贖ってくださったのです。今朝の礼拝ではイエスさまの十字架の場面を読んでいきます。私たちに代わって十字架にかかった救い主の姿を、改めて身近に感じましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝は神さまが「正しく裁く方」であることを読みました。あなたは私たちを「救うために裁き、生かすために殺す」方です。神さま、どうぞ私たちの罪を正しく裁き、同時に、私たちの中にある、あなたを蔑ろにしてまで我が意を押し通す身勝手さを正してください。私たちの救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。
27日(月) エレミヤ書30章4-24節
一言メッセージ:今朝は、30.4-24に見出す2つ目の点について、です。注目するのは21節です。神さまはイスラエルを救う際、「一人の指導者が彼らの間から、治める者が彼らの中から出る。わたしが彼を近づけるので、彼はわたしのもとに来る。彼のほか、誰が命をかけてわたしに近づくであろうか、と主は言われる。」と語ります。「命をかけて」は「命を賭して、捨てて」というニュアンスも含む言葉です。だから私たちは「命を捨てて神さまに近づき、私たちを救った指導者」としてイエスさまの姿を思い起こす。以前ご紹介しましたが、ある牧師の説教集の言葉を紹介します。「この世での命を終え、神の許に帰る時、私たちは神の前に立たされて最後の審判を受ける。生前のあらゆる罪が告げられ、打ちひしがれる私たちの傍らにイエス・キリストが立ち、神に向かってこう告げるだろう。『父よ、この者はわたしを十字架につけた罪人の一人です。しかし、私が十字架にかかってまで救いたいと願った者です。どうぞ罪をお許しください。』」エレミヤは22節で語ります。「こうして、あなたたちはわたしの民となり、わたしはあなたたちの神となる。」今年の受難節、どうぞイエスさまの十字架が自分の救いのためだったのだ、と身近に感じてほしいと願います。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝、私たちは自分の身を捨ててまで私たちを救った救い主イエスさまのことを想起しました。イエスさまが贖ってくださったからこそ、私たちは神さまの愛に気づきました。今年の受難節、私たちがイエスさまを救い主と信じ、グッと身近に感じる時となりますように。イエスさまの御名で祈ります。アーメン。
28日(火) エレミヤ書31章1-6節
一言メッセージ:31章は「新しい契約」と題され、バビロン捕囚からの解放を語る預言集です。短い預言が幾つも連なっているので、少しずつ、丁寧に読んでいこうと思います。1節で「神がイスラエルすべての部族の神となり、彼らは神の民となる」との言葉は、神が捕囚によってちりぢりにされていた民を再び集め、御自分の民としてしっかりと守り育むことを宣言する言葉で、31章全体にかかる言葉です。今朝の箇所で最初に目が留まるのは2節です。神さまは「民の中で剣を免れた者は、荒れ野で恵みを受ける」と語ります。「荒れ野」は人が生活するに厳しく、水が少ないイスラエルでは作物の育ちにくい土地です。そこに住む民は様々な事情のために逃亡していた民です。しかし彼らに神が語るのは、5節「あなたはサマリアの山々でぶどうの気を植え、植えた人が植えたその実の初物を味わう」です。それは、安心して生活できるようになる、という具体的なイメージを与える言葉です。「初物を味わう」ともあります。律法では「初物」は神さまへの献げ物ですが、ここで言わんとしているのは「支配者に奪い取られる暮らしから解放される」という意味です。1-6節の預言は「あなたはもはや何者の支配も受けず、当たり前に暮らしていけるようにされる」です。そうして民は6節「我らの神、主のもとへ上ろう(礼拝しに行こう)」と安心して言えるようになる。私たちの生活を振り返る時、様々な課題はありますが、毎日安心して休むことができ、食べることができ、礼拝できる。当たり前のようだけれど、それが奪い取られるのが争い(戦争)です。私たちは「当たり前」を改めて感謝しましょう。神さまの祝福は今も与えられているのです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝から「新しい契約」を読み始めました。今朝はみことばを読みながら、神さまの祝福として、日々の「当たり前」の生活があったことを想起しました。神さま、日々の生活を感謝します。あなたの祝福を思いながら、今日も一日過ごせますように。救い主イエスさまの皆で祈ります。アーメン。
29日(水) エレミヤ書31章7-9節
一言メッセージ:今朝の箇所は生き残った民がイスラエルに帰還する様を語った預言です。8節「目の見えない人も、歩けない人も、身ごもっている女も、臨月の女も共にいる」と書かれます。それぞれ、周囲の助けが無ければ生きられない人々であり、社会が困窮する時、なかなか助けの手が差し伸べられない人々です。神さまは、そんな人々もちゃんと「呼び集める(連れ帰る)」と約束されるのです。今朝私が注目したのは9節「彼らは泣きながら帰って来る」という記述です。私は「泣きながら帰って来る」という記述に民の安心を見る気がします。先日3/20、1966年に静岡で起こった味噌会社専務一家4人の殺害事件、通称「袴田事件」の犯人とされた袴田巌さんの再審(裁判のやり直し)が正式に決定しました。袴田さんは無実を主張し続け、2014年に静岡地裁で裁判のやり直し(再審)が認められて釈放され、今月13日には東京高裁でも再審が認められていましたが、13日以降、東京高等検察庁が特別抗告を出すか断念するか、注目を集めていました。そして3/20、東京高検は特別抗告を断念したことが明らかになりました。今後、再審が始まるでしょうが、なぜこの話をしたかと言いますと、メディアでも袴田さんの様子が取り上げられた際、袴田さんの様子を見て「痴呆症」と思う人々も出ましたが、これに対して弁護士の亀石倫子さんがツイッターでこんなコメントを出していたからです。「(彼は)死刑が確定して48年間、告知書の独房で死と隣り合わせの日々を送って来たことによる拘禁反応で、妄想の世界にいるのです。でも、釈放後は能面のようだった表情が今は和らいできている。」人は本当に絶望し、恐怖や不安を感じ続けると、自分を守るために心の内側に閉じこもり、感情を出せなくなる。でも今朝の9節で、民は「泣きながら帰って来る」のです。それは、押し殺していた心が回復され、感情が表で出るほどに安心した姿です。神さまの救いは身体的なだけでなく、心をも救い出してくださるのですね。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝、私たちは苦しい生活を強いられていた民が泣きながら神さまの救いを味わっている姿を読みました。それは、押し殺していた心が解放された姿です。神さま、あなたの救いは身体だけでなく心をも救ってくださいます。あなたの御業が私たちにも世界にも実現しますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。
30日(木) エレミヤ書31章10-14節
一言メッセージ:今朝の箇所は神さまに救われた民が帰還してくる光景と、彼らが豊かな食事と祭りを喜び祝う様が記されます。注目したのは、聖書の中で多用される表現ですが、神さまが羊飼いに譬えられていることです。羊飼いは民にとって非常に身近な存在でした。羊は臆病で、自ら身を守る術を持たぬ生き物です。目が悪いため、群れのリーダーを見失うと途端にパニックに陥るそうです。そんな羊を守る存在が羊飼いです。羊飼いは四六時中、羊と共に生活し、また時に強盗や野獣から身を挺して羊を守ります。つまり、常に共にいて守り導く存在です。聖書を読んでいて「面白い」と思うのは、実は、人々が持つ羊飼いのイメージは決して良くなかったことです。羊飼いは前述のように危険だし、放牧の際に他人の土地にも入って草を食べさせるので「強盗」と同じように扱われたし、何より律法や規定を守れないので「罪人」と考えられました。でも、聖書は各書で神さまを「羊飼い」と譬えます。私見ですが、そこには「杓子定規に規定で民を縛り付けるよりも、私たちの人生に伴い、生かす柔軟な方」というイメージもあるのかもしれません。私たちも、神さまを「〇〇せねば赦されない」と怖いイメージでみるのでなく、話の分かる、でも私たちを生かし導くために本質はしっかり守らせる羊飼いとイメージした方が、神さまを理解しやすいと思います。新年度は久留米教会でも、皆さんと共に神さまを喜び祝って踊る宴会(13節)が行いたい、と願っています。ちなみに、羊に与えられた大事な能力は、何年経とうと主人の声は決して間違わないことだそうです。私たち、神さまの御声、御心は外さないで生きるものでありたいですね。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝の箇所では、神さまが「羊飼い」に譬えられていました。羊飼いのイメージは私たちに、神さまの姿を様々想像させてくれます。あなたが柔軟な、でも本質を決して外さない羊飼いでいてくださるから、私たちもその御声に常に従える羊であらせてください。守り導いてくださる神さまに感謝し、祈ります。アーメン。
31日(金) エレミヤ書31章15-17節
一言メッセージ:今朝の箇所はマタイ2.18で引用された預言です。「ラケル」は創世記の族長ヤコブ(後にイスラエルに改名)が最も愛した妻で、ヨセフとベニヤミンの母です。ヨセフの息子がマナセとエフライムで、イスラエル12部族にはベニヤミンとマナセとエフライムが加えられています。なので、この箇所が伝える「ラケルの悲嘆」は、祖国滅亡と捕囚を意味します。ここで注目したいのは、エレミヤが祖国滅亡と捕囚を「母の悲しみ」で表現したことです。古代社会では女性は家の財産と扱われ、社会的発言権を持つのは成人男性だけでしたから、悲しみを表現する際、「父ヤコブが衣服を引き裂いて嘆く」でも良かったはずです。でもエレミヤは「母ラケル」と表現した。そこには、理屈を超え、命を生み育んできた母が、密接に心が結びついている子どもと引き裂かれ、深い痛みを伴って泣く姿で、神さまの痛みをも表現したと思うのです(理由は明日の箇所)。でも神さまは続けて言う、「泣きやむがよい。目から涙をぬぐいなさい。あなたの苦しみは報いられる、と主は言われる。息子たちは敵の国から帰って来る。あなたの未来には希望がある。」神さまの御業は人を追い詰め、滅ぼして終わりではない。必ず祝福と希望がある。それこそ深い心の痛みにさえ神は寄り添い、涙を拭っていくのです。今日は年度最後の日です。嘆きは必ず祝福に代わる。課題を抱えている方はそう祈りながら、年度を締めくくりましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝の箇所でエレミヤは母ラケルに言及しながら、率直な心の痛みにも寄り添い、涙をぬぐい、癒してくださる神さまを預言しました。神さま、あなたの御業には未来と希望があります。年度最後の日、私たちは課題にも痛みにも寄り添い、整えてくださるあなたへの信頼を分かち合います。どうぞ、あなたの良しと思われる時に、最善の仕方で御業を行ってください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。
4月1日(土) エレミヤ書31章18-20節
一言メッセージ:今朝から23年度です。新しい生活、学業が始まった人たちを覚えて祈りたいと思います。さて、今朝の箇所はエレミヤ書で極めて大事な箇所です。この箇所は戦後間もない1946年、神学者・北森嘉蔵が『神の痛みの神学』を発表した際、中心テーマとして取り上げた箇所です。18-19節ではエフライム(北イスラエル)が、「自分たちが神さまを蔑ろにしたために懲らしめとして祖国滅亡を経験したが、そのことを通して自分たちは本当に神さまに立ち返って生きることを思い知った」悔い改めの箇所です。これを受けての神さまの言葉が20節なのですが、北森嘉蔵はこの箇所に不思議な記述を見出します。文語訳で読んでみます。「エホバ(神)いいたもう、エフライムは我が愛するところの子、悦(よろこ)ぶところの子ならずや、我彼にむかいて語るごとに、彼を念(おも)わざるを得ず、是(ここ)をもて我が腸(はらわた)、かれの為に痛む。我必ず彼を恤(あわれ)むべし。」波線部を新共同訳は「わたしは彼を憐れまずにはいられない」と訳していますが、「憐れむ」のニュアンスは文語訳聖書が語るように「相手の訴えで自分の腸がねじ切れるほどに痛む(共感する)」です。北森が注目したのは「神さまは、冷徹にエフライムの罪を断罪し、正義に基づいて罰を与える裁判官のような存在でなく、御自分もエフライムのことを思うと一緒になって痛みを感じつつ、彼の立ち帰りを願い続ける存在である」と論じたのです。昨日の箇所で「ラケルの涙」を取り上げ、「神さまは母のように、民を思って痛む」と書きましたが、正にそれは今朝の箇所にある通り、神さまは自ら痛んでまで民を愛し、しかし正そうとされる方なのです。考えてみると、私たちもまた、イエスさまの十字架という痛みを通して神さまの愛を知り、救われました。神さまは今も私たちのために痛みを負いつつ、私たちを愛し、正し、整え、導こうとしてくださっています。新年度のはじまり、この神さまの伴いを感じてスタートいたしましょう。
祈り:天のお父さま、今朝のみことばをありがとうございます。今朝私たちは、あなたが痛みをも引き受けながら、私たちを愛し、救い、今も導いてくださる方であることを分かち合いました。新しい年度もあなたの御心を模索します。どうぞ導いてください。特に進学、就職、新しい生活を始める方々を祝福し、お守りください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。
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3月19日~25日のみことば - 2023.03.18 Sat
3月も半ばを過ぎ、いよいよ桜も開花し始めましたね。
教会の桜も今日、一つだけしっかり咲いているものを発見!!
いよいよ春本番だなあと感じています。
今年度の礼拝も残すところあと2回。
まあ、年度が替わっても毎週日曜日の礼拝は続きますから、何ということはないのですが、教会の子どもたちを中心に、引っ越しをしたり、新たな学校に進んだりという子も多いので、年度の切り替わりの時は、やっぱりなんだかドキドキ?ワクワク?します。
そして、そんな変化の時だからこそ、「変わらない神さまのことば」をこころにもって歩んでいくことのできる幸いをかみしめる時期です。
皆さんは、年度で何か変化があるでしょうか?
新しい歩みを始める方にも、特別変化のない方にも、神さまの導きが豊かにありますようにお祈りします♪
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19日(日) エレミヤ書26章1-節
一言メッセージ:26章から45章までは、エレミヤの活動の記録です。今朝の箇所は「ヨヤキム王の治世の初め」に語られた預言です。ヨヤキム王は宗教・政治改革を行ったヨシヤ王の次男で、ヨシヤ王がエジプト軍と戦って戦死した後、兄のヨアハズが即位しますが、すぐにエジプトによって廃位され、弟ヨヤキムがエジプトの支配下の王として立てられます。彼はエジプトへの貢物のため、民に重税を課し、その中から自分の私腹を肥やした王です。後にバビロンの影響が強まるとバビロンにも貢物を贈るのですが、バビロンからの離脱も画策したため、第一次バビロン捕囚を招いた人物です。彼の治世は民にとって悪政でした。そんな時代にエレミヤは神から「一言も減らさず、わたしが命じる言葉を全て語れ」と促されます。その言葉は「神に立ち帰らねば、エルサレムも神殿も滅ぼされる」でした。これを聞いた「祭司と預言者と民のすべて(7節)」はエレミヤを捕らえ「あなたは死刑に処せられねばならない」と訴え出ます。エルサレムと神殿の破壊預言を神への冒涜と考えたからです。これに対して12-15節でエレミヤは自らが神に遣わされた預言者であることを明言し、「神の御心に聞くこと」を強調します。結果、16節で裁判官であった「高官たち」と取り囲んでいた「民のすべての者」はエレミヤの無罪を宣言します。それは「主の名によって(主に派遣されて)語った」と理解されたからです。さらに17-19節では長老たちが判決を支持し、100年前のミカ預言を論拠に、「主が災いを思い直されるかもしれない」と発言します。今朝わたしは、この箇所にいろいろ思わされます。例えば、「今はイエスさまの受難を覚える受難節。もしイエスさまがエレミヤのように抗弁していたら、また民が感情に流されずに歴史をちゃんと受け止めていれば、イエスさまは十字架にかからなくて済んだか」とか、エレミヤを敵視した「祭司と預言者」は、彼ら自身が神のみことばを正しく聞かねばならないのに、既得権を守るためだとか、「エルサレム、神殿は聖いモノ」という固定概念だけで反発したのだろう、とかです。さらに、長老がミカ預言を根拠に高官の判決を支持したのも、歴史が未来を方向付けるヒントとして正しく用いられていた、とか。皆さんはどう感じますか?どうぞ、それぞれに考えてみてください。そして、考えたように行動してみてください。今朝、エレミヤも14節「お前たちの目に正しく、善いと思われることをするがよい」と促しています。神さまと向き合い、判断し、行動するのはあなた自身です。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝からエレミヤの行動報告を読み始めます。エレミヤの預言は激しく、だから彼を排除しようとする者も出てきます。けれど、エレミヤは臆することなく、「お前たちが正しく、善いと思うことをなせ」と民に、そして私たちに促します。それは、周囲に流されず、きちんと神さまと向かい合って行動することの促しです。私たちはその促しにより、御心を模索します。神さま、どうぞ私たちに、御心を模索する静かな心と冷静な判断と、踏み出す勇気とをお与えください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。
20日(月) エレミヤ書26章20-24節
一言メッセージ:今朝の箇所は「預言者ウリヤの死」です。エレミヤと同じく、滅亡預言を語った預言者ウリヤは王たちの怒りを買い、エジプトに亡命するも、連れ戻されて処刑されます。23節では「王は彼を剣で撃ち、その死体を共同墓地へ捨てさせた」とあります。埋葬すら許さず、肉体が獣に食われて滅び、復活の希望すら奪われる、呪われた死の光景です。今朝の箇所を読みながら私たちは「神の御心に従って生きた預言者がどうして無残に死ぬのか。エレミヤは助けられるのに、どうして神はウリヤを助けないのか」と感じたりもします。それは私たちにとって謎のままです。でも考えてみると、イエスさまもまた十字架上で無残に殺害されたのです。十字架上の殺害が無かったのではない。殺害された。でも神さまはイエスさまが死んだままで終わらないように、復活を与えられた。私たちの信仰は「理不尽な出来事が起こらないために信じる」ものでなく、「理不尽な出来事が起こってもなお、神が私たちに目を留め、顧みてくださると信じる」ものです。そして、イエスさまの復活は「その信仰は必ず応えられる」と証しているのです。今週も、イエスさまの受難と復活が私たちに何を示しているか、考えつつスタートしましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝は預言者ウリヤが無残に殺害された記録を読みました。正しい人の理不尽な死に私たちは「どうしてこんなことが」と思います。でも神さま、イエスさまも理不尽に死なれました。そう思い返す時、私たちは「理不尽な出来事が起こらない」ではなく、「理不尽な出来事が起こっても、それでも神さまは私たちを顧み、整えてくださる。それは死の先においても」と信じます。どうぞ、今週もイエスさまの死と復活を思い起こし、自分たちの生活と重ね合わせながら「どこに福音を見出せるのか」と問うてスタートさせてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。
21日(火) エレミヤ書27章1-22節
一言メッセージ:27-29章は南ユダ最後の王ゼデキヤ王の治世でのエレミヤ預言です。エレミヤは神さまに命じられ、差し迫ったバビロンに対して服従することを示すべく、軛を作って自らはめ、象徴行動をとります。3節を見ますとエレミヤはユダの王ゼデキヤだけでなく、エドム、モアブ、アンモン、ティルス、シドンの王にも軛を示します。彼らが結託して反バビロン同盟を結成しようとしていたからです。エレミヤは彼らに対して「バビロンに従うように主は言われる」と繰り返します。エレミヤのこの預言は徹底抗戦を求める多くの人にとっては弱腰に思われたでしょう。でもそこで冷静に考えねばならないのは、徹底抗戦を主張する人々の論拠です。彼らは「周辺国が結託すれば、バビロンもおいそれと手が出せない」と考えたのだろうが、それは希望的観測に過ぎない。加えて、その希望的観測の主張をさらに強固にするべく、彼らは「私たちの神が共にいる、神殿がある」と主張したでしょう。でもエレミヤはその根拠を「主なる神が言われる、バビロンに従え」と崩します。もし私たちがこの時にエルサレムにいたら、どう判断したでしょう。非常に判断に悩んだでしょう。そんな私たちに聖書は示します、「決断に困る時ほど、私たちは己の希望的観測ではなく、神さまの御心から冷静に考え、祈りなさい」と。今朝の続きはまた明日です。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。エレミヤはゼデキヤ王と周辺5国の王にバビロンへの服従を説きました。それは、神の「どうしてお前たちが死んでよいか、どうして都が廃墟と化してよいか」との憐みでしたが、民の中では己のプライドや希望的観測のため、徹底抗戦を求める者もいます。神さま、この状況に私たちは自分たちを重ねます。私たちもまた、己の願望のため冷静さを失うこともあります。でもどうか、その時こそ、冷静に鎮まり、御心をこそ模索する私たちであれますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。
22日(水) エレミヤ書28章1-17節
一言メッセージ:今朝はエレミヤとハナンヤという預言者の対決記事です。バビロンへの服従が神の御心と説くエレミヤに対して、ハナンヤは「主はこう言われる」と自らを「神さまから遣わされた預言者」と宣言しながら、「2年のうちにバビロンが崩壊し、第一次捕囚で連行された仲間や奪われた祭具が取り戻される」と預言します。そしてハナンヤはエレミヤがかけていた軛を外すと、打ち砕いて、「このようになる」と宣言します。今朝、私が注目したのは15節、エレミヤがハナンヤに語った言葉です。エレミヤは告げます。「ハナンヤよ、よく聞け。主はお前を遣わされていない。お前は民を安心させようとしているが、それは偽りだ。」エレミヤはハナンヤが預言した根底にあるのは「民を安心させようとする、お前の思い」と指摘します。ハナンヤは「民を不安にしたくない」と考えた。それは優しさだったかもしれません。しかし、個人や集団の願望であって、「御心」とは区別せねばなりません。私たちは時に苦言を呈されることがあります。その時、私たちは(相手次第でもありますが)感情で反発したり、攻撃的になることもあります。でも、私たちはその時、少しだけ思いとどまって「神さま、この苦言はあなたの御心ですか?それとも、単なる誹謗中傷ですか?」と考えたい。私も「神さまの御心かもしれない」と思ったら、相手が誰であれ、受け止めて反芻しようと努力します(「できる」と断言できないので「努力」です)。「御心じゃないだろう」と思った時には断固、対峙します。エレミヤが示した大事なことは、「御心はどこにあるか」と純度を高めながら模索することです。御心と願望をごっちゃにしてはいけないのです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。エレミヤはハナンヤと対決し、ハナンヤの根底にあるのが「民を安心させたい」という願望であると指摘しました。それは優しさかもしれませんが、願望があなたの御心を混同した時、私たちは結果、あなたの御心を軽んじてしまいます。どうか私たち、今朝の箇所をしっかり受け止めつつ、あなたの御心を第一に求める者であらせてください。御心に従ったイエスさまの御名で祈ります。アーメン。
23日(木) エレミヤ書29章1-23節
一言メッセージ:今朝はエレミヤが第一次捕囚でバビロンに連行された同胞に書き送った手紙の言葉です。エレミヤは捕囚の民に向かって「家を建てて住み、園に果樹を植えて食べ、妻をめどり、…人口を増やし、減らしてはならない(5-6節)」と語ります。それは「定住の勧め」であり、捕囚の民には「祖国への帰還を諦めよ」との絶望的な響きに聞こえたでしょう。でも、その言葉だけに心捉われてはいけない。10節で神さまは「七十年の時が満ちたら、わたしはあなたたちを顧みる」と未来を語る。11-14節前半は私がよく礼拝の祝祷で選ぶ箇所です。「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。そのとき、あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。わたしを尋ね求めるならば見出し、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしに出会うであろう、と主は言われる。」私たちは自分の目の前に辛い出来事があると、心が揺れ動き、「一刻も早くこの事態が改善されるように」と願い、祈り、祈りが叶えられなければ「神さまはいない」と散々、不幸を嘆きます。厳しい指摘をすれば、その時の私たちは自分本位です。神さまの意図を最後まで理解せず、言葉じりしか聞いていないのです。神さまは言われる、「わたしがあなたに与えた計画は平和の計画である。そのために、今は災いに見えても忍耐しなさい。あなたが自分の願望で私を見ることを止め、正しくわたしを呼び、祈り、求める時、わたしはお前に応えるし、お前は本当の私を見出し、出会う」と語ってくださる。その時を待つべく、神さまはバビロンでの定住を促した。エレミヤは私たちに「自分たちの願望で物事を見ることを一度止め、神を信じ、この出来事を通して神さまは何を示そうとしているのかと問いなさい」と促します。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。エレミヤ書を読み続けながら何度も厳しさを感じてきました。でも、今朝の箇所にてあなたは、困難の先にも祝福があると思い起こさせ、だからこそ忍耐し、日々を生きるようにと示してくださいました。神さま、どうぞ私たちに忍耐と、御心を探し求める信仰をお与えください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。
24日(金) エレミヤ書29章24-32節
一言メッセージ:ここ最近、真の預言と偽りの預言の違いがずっと強調されています。真の預言とは、ただただ純粋に神さまの御心をこそ語り伝えることであり、偽りの預言とは己が願望や都合にで「神の御心」を語ることでした。今朝の箇所でもバビロンの捕囚として連行されていた祭司シェマヤが、エレミヤがバビロンの捕囚の民に書き送った手紙に立腹し、エレミヤを排除するように祖国の祭司に働きかけてきます。エレミヤはそんなシェマヤに対して神の預言を告げます。「わたし(神)は彼(シェマヤ)を遣わしてはいない。彼は偽って、あなたたちを安心させようとしている(31節)。」そしてシェマヤ本人は言及されませんが、彼の子孫が潰えて行くことが語られるのでした。大変厳しい言葉ですが、それだけ、神さまの御心を模索すること、語り伝えることは謙虚さが必要なのです。私自身もいっそう気をつけますが、皆さんもぜひこの指摘を心に刻んでください。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝も改めて「御心と自分の思惑、願望を区別すること」が示されました。あなたが「唯一の主」であることの大切さを改めておぼえます。どうぞ私たち、大事な事柄の時ほどちゃんと、昨日の箇所で約束されたように「災いの計画でなく、平和の計画のために」あなたの御心を模索して決断する者であれますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。
25日(土) エレミヤ書30章1-3節
一言メッセージ:30-33章は「慰めの書」と言われる、バビロン捕囚からの回復預言です。今朝の箇所はその序文です。短い箇所ですが、私はこの箇所に3つのことを思います。①「神のことばは、ひとつとして違えられることがない。」神さまは2節で「わたしがあなたに語った言葉をひとつ残らず巻き物に書き記しなさい」と命じます。書き残されるということは、後に読み返され、検証されることです。私たちが書いた言葉は、時に「あの時はこう言っていたけれど…」と言い訳しながら訂正せねばならない事柄も多い。しかし神さまは「ひとつ残らず書き記しなさい」と告げます。それはご自分が語った言葉が何一つ違えられていないことを、後に証明するためです。②「厳しい現状は未来永劫続くものではない。」神さまは3節で「回復する日が来る」と語ります。「回復する日が来る」ということは、まだ現状は厳しいのです。でも神さまは「必ず現状は祝福へと変わる。だから期待して待て」と告げるのです。③「祝福は初めから与えられていた。」3節で神さまは「回復」として「彼ら(捕囚の民)を先祖に与えた国土に連れ戻し、これを所有させる」と宣言します。「未だかつてなかったほどの祝福を与える」と言ったのでなく、「私がはじめにあなたたちの先祖に与えていた祝福を、あなたたちにも与える」と告げています。いうなれば、神さまの御心に従って生きていれば、先祖に与えておられた祝福に生きることができていたはず。しかし、神さまを離れて思うままに生きた結果、彼らは自分の居場所を失う捕囚となっていた。でも神さまはその民に、はじめからの祝福を再度、取り戻させると言われる。それは、神さまとの向き合い方も原点に戻って生きればいいとの示唆です。3つの示唆を思い返しながら、今日もスタートです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝は3つの示唆を見出しました。あなたのお約束は違えられぬこと、直面する厳しい現実は未来永劫続くものではないこと、あなたは私たちを整えてもう一度向き合ってくださること、です。どうぞ3つの示唆を覚えながら、みことばを読み、日々を過ごせますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。
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3月12日~18日のみことば - 2023.03.11 Sat
ここ数日で一気にあたたかくなりましたね。
いよいよ春がやってきたという感じがして、ワクワクします。
しかし、今日は日本に生きる私たちにとってはあの未曾有の大災害「東日本大震災」「東京電力福島第一原子力発電所事故」を思い起こすときでもあります。
12年前の今日、九州に住む私たちは、テレビから流れてくる情報に驚き、その報道をかたずをのんで見守り、祈ることしかできませんでした。
災害の前にいかに人間が無力であるか。私たちは何をしたらいいのか、戸惑い、何かしなければという思いと、自分の状況からくる制限に焦りを感じたりしたことを思いだします。
あのとき、たくさんの悲しみと苦しみ、恐怖の前に、神さまに「なぜですか」と食らいつくような祈りをも祈っていました。それは、はらってもはらってもまとわりついてくるような「不安」「恐れ」からくる祈りでした。この暗闇の中で、神さまあなたはどこにおられるのですかと私たちは繰り返し神さまに問うていました。
そうして、私たちがその祈りの先に見出したのは「いと小さきものに寄り添うイエスさま」でした。
なぜこんなことが起こったのか、わたしたちはすべてを知ることはできません。
しかし、そんな絶望の中でわたしたちの心に示されたのは「貧しい人に寄り添い、悲しむ人と共に悲しみ、自分も共に痛むイエスさま」だったのです。
はからずも、この時期教会はイエスさまの十字架の苦しみを覚える受難節。
この時期が来るたびに、私たちはあの震災の痛みと、しかし同時にそれに寄り添ってくださるイエスさまの姿を思い起こすのです。
まだまだ復興は道半ばであり、原発事故に関しては未だ「原子力緊急事態」は解除されていません。
そこにはまだまだ悲しむ方々があり、多くの課題があります。
わたしたちは、これらを続けて覚え、イエスさまがそうなさったように「悲しむ人と共に悲しみ、泣く人と共に泣く」ことを通して、今なお苦しみを負う方々に連帯し祈ります。
そして、神さまが一人ひとりに与えてくださった尊い命が何よりも大切にされる社会が実現するように祈り、声を上げていきたいと決意を新たにされるのです。
ぜひ、皆さんも共に祈りを合わせてくだされば幸いです。
今週も皆さんの上に神さまの先立ちと伴いがありますように。
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12日(日) エレミヤ書22章1-9節
一言メッセージ:今日と明日はユダの王への言葉です。1-5節は王としての心得を語っています。そこでは社会的に弱い立場にいる人たちを蔑ろにせず、彼らが理不尽な苦しみを受けないように配慮することが書かれていきます。注目したいのは3節の弱い立場の人たちリストの中に「寄留の外国人」が書かれていることです。現代で言うところの、戦争などによる難民や亡命者、祖国では生活が厳しいために「出稼ぎ」に出る外国人でしょうか。最近、日常の様々な場面で海外の方と接する機会が増えました。人間はすぐに身内意識が働くためか、マイノリティー(少数者)の方々に対して差別的になる傾向は世界共通です。以前、ネット記事で秀逸な記事を読みました。アメリカの航空会社の旅客機での出来事です。ある便で、一人の白人男性が、隣席にアフリカ系の方が座ることになり、「私はコイツの隣は嫌だ。席を替えろ」と騒ぎだした。すると乗務員さんが近づいてきて語りました。「お客様、大変、不愉快な思いをさせて失礼いたしました。代わりの席をご準備いたしましたのでビジネスクラスにお移りください。」そして、アフリカ系の方をビジネスクラスに移動させたそうです。秀逸でしょ?文句を言っていた男性は「人種」によって人を価値づけました。しかし、乗務員は「人権」でモノを考えました。神さまが「寄留の外国人」を保護対象と示すのは、正に人種でなく、人権の事柄だからです。私たちの周りにも差別はあります。その時、私たちが判断せねばならないのは国籍や同族意識でなく人権であり、集団意識でなく個人としての相手への理解です。聖書の教えは現代においても極めて適切なのです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。私たちは今朝の記述の中に、「人種や民族で相手を判断するのでなく人権の事柄として、個人として相手を受け止めること」の示唆を見出します。格差がひどい社会では、弱い者がさらに弱い立場の人を蔑視して己を高く見せようとする愚かさが顕著になりますが、私たちはいつも、あなたが与えてくださった一つひとつの命を尊び、共に生きることを心がけることができますように。私たち一人ひとりを救うべく、十字架にかかられた救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。
13日(月) エレミヤ書22章10-30節
一言メッセージ:今朝の箇所はヨシヤ王の死後、南ユダ王国の混乱と滅亡(捕囚)に至る流れを示しています。10-12節ではヨシヤの子シャルムが書かれます。シャルムは幼名で、彼の王としての名はヨアハズです。ヨシヤ王がエジプト軍との戦争で戦死した後、南ユダでヨアハズが王位に就きました。しかしバビロン軍と戦い破れたエジプト軍は退散する際、バビロンへの防衛線として南ユダを利用するため、ヨアハズ王を捕囚としてエジプトに連行します。それが10節にある「引かれて行く」です。13節以下は、ヨアハズの後、エジプト寄りの王ヨヤキムの話です。しかし彼はバビロンの力が強くなると、今度はバビロンに貢物を贈り、取り入ります。その結果、強国への貢物の費用が莫大なものとなり、国民はますます疲弊しました。24節以降出てくるコンヤ(ヨヤキン)はヨヤキムの息子です。彼は在位3ヶ月にして侵略してきたバビロンに倒され、第一次バビロン捕囚によって連行されていきます。それが25節です。ちなみに、今日の箇所では書かれませんが、その後、ヨシヤ王の末子であったゼデキヤが最後の王となりますが、彼は周辺国と共に反バビロンを企てたため、最後は滅亡に至ります。エレミヤは今朝、南ユダの滅亡していく様を語りながら、人々に考えさせます。15節はヨヤキム王への語り掛けの形を取りながら、読者たる私たちへの問いかけです。「あなたの父(ヨシヤ)は、質素な生活をし、正義と恵みの業を行ったではないか。そのころ、彼には幸いがあった。彼は貧しい人、乏しい人の訴えを裁き、そのころ、人々は幸いであった」と。幸いとは何でしょう。豊かさとは何を指すのか。さだまさしさんの名曲「風に立つライオン」で、アフリカにて働く医師の言葉が歌われます。「この偉大な自然の中で病いと向かい合えば、神さまについて、ヒトについて考えるものですね。やはり僕たちの国は残念だけれど何か、大切な処で道を間違えたようですね」1987年の曲ですが、そのメッセージはますます現代に響きます。みことばは私たちに問います。「幸いとは何か、豊かさとは何か」と。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。南ユダ王国の滅亡に至る流れの中で、私たちは「幸いとは何か。豊かさとは何か」と問われます。その問いを日々の生活に即して考えていけますように、日々みことばをください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。
14日(火) エレミヤ書23章1-8節
一言メッセージ:今朝の箇所はバビロン捕囚からの解放預言です。「南ユダ王国が滅亡する前にここまで語られていたか」と思うと、神さまのみことばの凄さを感じます。1-2節では民を顧みなかった王たちへの叱責が語られ、3-4節では神さま自らが民を顧み、ちりぢりにされた場所から連れ戻すと宣言され、5-6節では一度倒されたダビデ王家を象徴的に描きながら復興を語り、7-8節では民の歓喜が語られます。私にとって非常に印象的なのは7-8節です。そこでは、人々がもはや神さまのことを「出エジプトの奇跡を行った神」ではなく、「私たちをバビロンから連れ帰った神」と呼ぶと言及されます。それは、神さまが昔話の神、神話的な存在なのでなく、今の私たちにとって確かに向き合い、関わってくださる神さまだと、人々が実感を持って呼ぶようになると言われるのです。ここに私は「私たちの信仰もかくありたい」と思う。神さまを実感もって「わたしの神さま」と言える信仰です。どうか皆さん、今日は、自分が神さまとどう出会い、信じたか、もしくは何故教会に通うことになったか、どうして今も通っているのか、を思い返してください。そこに「神さまとは私にとって今も共に生き、導いてくださる方」という喜びが再度湧き起ってきてほしいと思います。今日は神さまと再び、しっかり向き合う日です。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。あなたは南ユダが滅亡する前にバビロン捕囚からの解放すら預言される方です。民はこれから滅亡と捕囚という苦しみを経験します。でもあなたはその苦しみが永遠に続くものではないことを最初に示されます。神さま、私たちも時に苦難を経験します。でも、苦難の際にあなたが私たちを祝福し、必ず幸いに導いてくださることを確信させてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。
15日(水) エレミヤ書23章9-40節
一言メッセージ:今朝の箇所は非常に長いですが、エレミヤの預言者たちへの預言をまとめた箇所です。エレミヤは自らが預言者であるからでしょう、預言者への批判の言葉は痛烈です。今朝の箇所では8つのブロックにわけて読むことができますが、その内容は深いところで通底しています。すなわち、「預言者とは神のみことばを受け、語り伝える者であり、自らの願望や思惑を神のみことばとして語ることは決して許されない」です。逆を言えば、祖国滅亡に至るのに、民にとっても耳触りのよいように「私たちはアブラハム以来の救いの約束をいただいた民族だから、神が見捨てることはない」と語るばかりで、神さまに真摯に向き合わない預言者が多かったのでしょう。この言葉は牧師には特に直球ですが、でも全てのクリスチャンにも「あなたは誰を信じてクリスチャンであるのか?」と問うてきます。以前も書きましたが、フィリピンのボクサーであるパッキャオは敬虔なクリスチャンで、彼は「クリスチャンとはchrist(キリスト)と共にある者。もしキリストがいなければian(I am nothing 私には何も無い)だ」と語りました。私たちはイエス・キリストを信じ、神さまの救いをいただき、今を生きています。「神さまか、世の風潮か」という二者択一的でなく、「神さまの御心を持ってこの世、社会を生きる」者でありましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝の箇所は、エレミヤの預言者たちへの痛烈な批判の預言集でした。その言葉は私自身も牧師として身を糺されますし、全てのクリスチャンにとっても「私たちは誰を信じ、いまを生きているのか」と原点を問い直されます。神さま、どうぞ私たちが、改めてキリストを信じて生きていることを思い起こし、今日も導きと恵みに期待して生きられますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。
16日(木) エレミヤ書24章1-10節
一言メッセージ:今朝の箇所は第一次バビロン捕囚の後に語られた預言です。エレミヤは幻で良いいちじくと悪いいちじくの入った2つの籠を見ます。良いいちじくは第一次捕囚で連行された人々を指しています。一方、悪いいちじくは第一次捕囚の後、バビロンに対抗しようと画策した王や指導者たちを指しています。エレミヤから見れば、バビロンによって滅亡になるのは、自分たちの国が神さまを蔑ろにして来たがゆえの当然の裁きであり、それは受けねばならない出来事です。でも、それに抗う人々はあくまでも自分たちの知恵や算段で神に対抗しようとしているのです。そんな箇所の中で私が目を留めたのは5-7節です。第一次捕囚の民はバビロンに連行される際、財産も地位も名誉も奪われましたが、神さまは彼らを守り、連れ戻すと語ります。7節にこう記されます。「わたしは、わたしが主であることを知る心を彼らに与える。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。彼らは真心をもってわたしのもとへ帰って来る。」何も持たずに捕囚として連行された彼らですが、解放時には、神さまを「主である」との確信と、「真心」を得て帰ってくる。それは、ある意味で財産よりも貴く、生きる上での支えとなるものです。数日前、「幸いとは何か。豊かさとは何か」との問いかけをしましたが、その問いの答えに通じる恵みですね。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝のみことばであなたは捕囚とされた民が必ず解放されること、そしてその際に「神を主と知ること」と「神さまと真摯に向き合って生きる真心」を取り戻させてくださることを読みました。あなたが与える試練であれば、厳しさの中に幸いへの気づきがあることを思います。神さま、私たちも様々な、あなたに問いかけたい疑問を持ちつつ生きていますが、どうかいつか、あなたの真意に気づく時をお与えください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。
17日(金) エレミヤ書25章1-14節
一言メッセージ:13節の「この巻物」は、おそらくエレミヤ書24章までの預言です。エレミヤがバルクという人物に命じて、エレミヤの23年分の預言をまとめさせたようです。そこで語られるのは、「民は神を蔑ろにし、異教礼拝(ご利益宗教)に走ってきた。それゆえ、神はバビロンの王ネブカドネツァル(ネブカドレツァルと表記)を僕として、南ユダを滅亡させる」です。エレミヤから告げられた預言の凄さというのは「世界を席巻しようとする強国の王すら、主の僕である」という大胆さであり、そこに至るまでの神さまの粘り強さです。私が最も注目したいのは3-4節です。「23年の間、主の言葉はわたしに臨み、わたしは倦むことなく語り聞かせたのに、お前たちは従わなかった。主は僕である預言者たちを倦むことなく遣わしたのに、お前たちは耳を傾けず、従わなかった。」「倦むことなく」との言葉が二度繰り返されています。ヘブライ語の字義通りに訳せば「朝早く起きて事を成す」です。神さまが夜明けを待ちきれないほどの思いで、民を何とか早急に立ち帰らせ、救おうとしてきた表現です。23年です。何と長く、粘り強い期間でしょう。神さまの熱意は変わることなく南ユダに注がれていた。けれど、彼らは神さまの熱意を気に留めず、無下にした。神さまの祝福を「当たり前」とする驕り、怖いですね。私たちは神さまの粘り強さへ驚きと同時に、「だからこそ、神さまに誠実であろう」と心がけたいです。今日も私たち、神さまと誠実に向き合ってスタートしましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。エレミヤは24章までを前半の預言としてまとめました。そこで語って来たのは23年もの間告げられた、神さまの「私に正しく立ち帰れ」との呼びかけでした。その粘り強い促しは今も世界に呼び掛けられているものです。神さま、私たち、先にあなたの呼びかけに気づき、信じた者たちだからこそ、未だあなたを知らぬ家族や仲間たちのことを思います。どうか、彼らにもあなたを信じるきっかけと信仰をお与えください。私たちにもその一助を担わせてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。
18日(土) エレミヤ書25章15-38節
一言メッセージ:今朝の預言は、神さまが怒りを「杯」に見立て、南ユダから始めて、世界中に滅びを宣言する預言です。17-26節では世界の各国が列挙され、27-29節では「この滅びは免れようがない」と断言され、30-38節では凄惨な場面が預言されます。この具体的な実行が25.9で語られたようにバビロン王ネブカドネツァルによって世界が席巻されていく様であり、だからエレミヤは25.1にあるように、この預言をネブカドネツァル即位1年目に語っています。歴史を見ますと、ネブカドネツァルは在位期間40年の間、世界中で戦争を起こし、バビロンによる支配を確立していきます。が、今朝の預言で非常に目が留まるのは26節にて、そのバビロンすら最後には滅びていくと書かれていくのです。私はここに、「戦争とは何なのか」と感じます。世界を侵略する理由は富や地位。名誉などかもしれません。でも、平家物語が冒頭で「祇園精舍の鐘の声、諸行無常の響きあり。娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。猛き者もつひには滅びぬ、ひとへに風の前の塵に同じ」と語るように、人の栄華など一時期のものに過ぎず、権力の衰えと共に支配する者は没落していくものです。ならば、人は何のために覇権を握ろうとするのか。今朝の箇所において、エレミヤが語る預言は「最後、誰も勝者がいなくなる。あなたはそこで何が本当の幸いと思うか」と問うているように思えてなりません。21世紀になり、未だ戦争を終わらせられない私たちにエレミヤの言葉は、強く響いてきます。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝のエレミヤの預言では、神さまの怒りが全ての民を飲み込み、最後には支配者バビロンすら滅びていく様が語られました。その時、誰が勝者なのでしょう。人間の力への渇望は一体、何を生み出せるのでしょう。どうか、本当の平和を来らせてください。平和の君イエスさまの御名で祈ります。アーメン。
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3月5日~11日のみことば - 2023.03.04 Sat
3月に入りました。
各地の高校でも卒業式が行われたようですね。
今年はノーマスクでの卒業式が行われたところも結構あったようです。
大変な中でも、素敵な青春を過ごすことができていればいいなと思いながら、ニュースを眺めていました。
久留米教会の中でも、今年は小学校、中学校、高校、それぞれに卒業を迎える子たちがいます。
それぞれ受験を乗り越えた子、今まさに真っ最中の子も。
一人一人にとってまさに新しい出発の時、また人生での大切な節目を迎えています。
そこに至るまでには、きっと悩み、もがき苦しむときもあったでしょう。また、挫折するようなこともあったかもしれません。
日本全国の受験生たちの中には、希望の学校に合格できず、複雑な気持ちで今を過ごしている子たちもいるだろうと思います。
教会では「神さまの導き」という言葉を使うことがあります。
そして、それは時に自分の意志とそぐわない方向へ進まざるを得ない場合にも使われます。
もちろん、すべてのことを「神さまの導き」と考えるのは乱暴ですし、注意が必要です。
しかし、実際に、その時はわからなくても、後から振り返ると自分では不本意だった道へ進んだことが実は今の自分にとって、とても大切だったと思えることがある。
そういったことを振り返る時、「ああ、自分では気づかなかったけれど神さまはちゃんと私に必要な道を備えていてくださったんだな」と驚きと感謝を思わされるのです。
今、新しい道を歩みだそうとしているたくさんのひとたち。自分の希望にかなった道を歩もうとする人にも、不本意な道を歩もうとしている人にも、きっと今からの道に神さまの導きがありますようにと祈りたいなと思わされています。そして、その道に必ず神さまが伴っていてくださることも、ぜひ知ってもらいたいなと思っています。
さあ、新しい週もみことばを聞きながら、深呼吸して1歩1歩歩んでいきましょう♪
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5日(日) エレミヤ書18章18-23節
一言メッセージ:今朝は「エレミヤの告白」という、エレミヤから神さまへの切実な訴えです。エレミヤ書で「告白」は5箇所あります。①11.18-12.6、②15.10-21、③17.14-18、④18.18-23、⑤20.7-18です。今朝の箇所は18節がエレミヤを邪魔者と考える人々が彼を排斥しようと企む言葉で、19-23節はエレミヤが神さまに「彼らを滅ぼしてください」と怒って訴える箇所です。エレミヤの怒りは情的に共感できますが、今朝わたしたちが注目したいのは18節、エレミヤを邪魔者と考えた人々のことです。彼らはエレミヤを神さまから遣われた預言者と認めてはいます。しかし、彼らは「エレミヤだけが預言者じゃない」と考え、排斥しようとします。それは、エレミヤの預言が苛烈過ぎて、自分たちの都合や既得権益を侵害するからです。ここに彼らの問題が見えます。彼らは自分たちの都合が第一であり、神さまの御心は二の次です。それが、自分たちを救うための御心であっても、自分の方が大事になっていました。私たちは彼らの姿を反面教師にしましょう。私たちは大事な順序を間違う時、生き方を間違えてしまいますから。今日は日曜日、礼拝の日です。会堂で、ネットで、事情によっては時間を異にしても、礼拝を守りましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。エレミヤは神さまの御心よりも、自分たちの都合を優先する民の傲慢さ、思い違いに怒りました。神さま、私たちも思い違いをすることがあります。素直に悔い改めます。どうぞ私たちにあなたを第一とする生き方を忘れないようにしてください。私たちの模範であるイエスさまの御名で祈ります。アーメン。
6日(月) エレミヤ書19章1-15節
一言メッセージ:今朝の箇所はエレミヤが壺を買い求め、長老や長老格の祭司に持たせてベン・ヒノムの谷に遣わし、預言の宣告と共に、壺を破壊するように指示する話です。ベン・ヒノムはエルサレムの西から南にかけて街を囲むように位置する谷で、異教礼拝の儀式として人身御供が行われていた場所です。神さまは預言を通して、そんな悪しき風習を糾弾します。5節「わたしはこのようなことを命じもせず、語りもせず、心に思い浮かべもしなかった。」神さまは命を祝福し、育む方だから、自分の利のために他者を犠牲にする人身御供は神さまの意に適うはずもないのです。さて、今朝の箇所で不思議なのは「どうしてエレミヤ自身がそこに行かずに長老たちを代理で遣わすのか」です。理由は簡単で、エレミヤの語る預言が祖国滅亡だったので、彼は神殿に近づくことが禁じられていたのです。だから、エレミヤは代理の人を遣わします。が、さらに興味深いのは、エレミヤがそうしてまで、民が拒む預言を伝えようとする動機です。「神さまに命じられた」という理由もあるでしょうが、私が感じるのは「エレミヤは本当に祖国を愛していた」です。祖国を愛し、同胞を救いたいがゆえに、彼らにとって耳障り良くてもその場しのぎな偽りを語ろうとせず、厳しくとも神さまの祝福に至るための真理を語り抜いたのです。私たちもその場しのぎの薄っぺらな言葉でなく、内実のある神さまのみことばに耳を傾けて今週も歩みだしましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。一週の働きの始めに、あなたは厳しいみことばをくださいました。私たちは耳障りの良い言葉が好きです。でも、本当に大事なことは耳障りでなく、あなたの御心をこそ第一に聞くことです。私たちの望む言葉でなく、あなたの御心を聞かせてください。週の働きの始まりに、救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。
7日(火) エレミヤ書20章1-6節
一言メッセージ:「この国は神の御心に背いたから滅亡する」と預言し続けたエレミヤは、時の神殿最高指導者であるパシュフルによって鞭で打たれ、一晩投獄されました。翌朝、パシュフルはエレミヤが懲りたであろうと考えて解放しますが、エレミヤはパシュフルに「主はお前の名をパシュフルではなく、『恐怖が四方から迫る(マーゴール・ミッサービーブ)』と呼ばれる」と語ります。古代世界において名前を変えることは、「変える者が変えられる者を支配している」という意味を持ちました。つまり、エレミヤは「主なる神がお前を支配し、お前に四方から恐怖が襲い掛かって来るようにされる」と宣言したのです。驚くのは4節後半、エレミヤは祖国を滅ぼす相手を、それまでの「北の国」でなく、「バビロン」と初めて名指しで語りました。パシュフルは心臓を掴まれるほど驚いたでしょう。自分の権威と懲罰をもってエレミヤを黙らせようとしたら、かえって自分が神の裁きを宣言されたのです。今朝わたしたちはこのやり取りを読みながら、パシュフルを反面教師にしたいと思います。自分の考えが本当に神さまの御心に沿うものかどうか、吟味したいのです。もし「神さまの御心に沿うと思う」ならば、「神さま、間違っているならばどうぞ諫め、正してください」と祈りつつも、周囲が何を言おうと貫けばいい。もし「御心に適うものじゃない」と思えば、早々に方向転換すればいい。怖いのは、自分の願望を「神の御心」と言い訳することです。この一点だけ注意して今日もスタートしましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。私たちはパシュフルとエレミヤの記述に「自分たちは本当にあなたの御心に沿っているか」と振り返ります。もし御心に沿っているならば、私たちを勇気づけ、貫かせてください。もし御心に沿っていないなら、素直に方向転換する勇気をお与えください。御心がなりますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。
8日(水) エレミヤ書20章7-18節
一言メッセージ:今朝の箇所は「エレミヤの告白」の最後5つ目です。エレミヤは7-13節で、自分と神さまとの葛藤や対立を率直に語り、「あなたの勝ち(7節)、わたしの負け(9節)」と語りました。エレミヤは預言者として神さまのみことばを取り次ぐことに疲れ、「もう辞めたい」と何度も思ってきました。それは、エレミヤの語る預言が祖国滅亡預言だったので、誠実に神さまのみことばを取り次げば取り次ぐだけ、同胞から敵意や誹謗中傷を受けてきたからです。エレミヤだって、わざわざ好き好んで敵対したくない。でも、神さまはエレミヤに「語れ」と命じ続けました。そして14-18節で率直に嘆きつつも、預言者を続けようと決意したのです。その確信は11節「主は恐るべき勇士としてわたしと共にいます」と感じたためです。人々がどれだけ騒ぎ、敵視しようと、神さまに勝つことはできない。その神さまは、虐げられる民を救うため、自らも彼らと共に生きていることを示すため、エレミヤを彼らの代表のようにして生かし、用いている。私たちもいつもいつも、神さまに感謝ばかりは祈れません。悔しさや憤り、疲れ、嘆きだってある。ならば、どうぞ神さまに素直に投げかけてください。どれだけ嘆き悲しんでも、でも神さまはいつもあなたと共に居てくださるし、あなたを用いて御業を行われる方です。神が共にいてくださる、それが私たちにとって最高の力です。エレミヤ同様、感謝の笑みと諦めの苦笑いを持って、今日もスタートです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。エレミヤは率直にあなたと対立し、自分の葛藤も投げかけました。でもあなたはそのエレミヤをいつも強め、立たせ、用いられました。神さま、私たちも時に、自分たちの中に簡単に飲み込めない思いを抱えます。あなたはそんな私たちをも丸ごと受け止めてくださり、共にいて、1つずつ整えてくださるでしょう。期待し、信じて従います。御心を行ってください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。
9日(木) エレミヤ書21章1-10節
一言メッセージ:今朝の箇所で、南ユダ最後の王ゼデキヤは祭司をエレミヤに派遣します。この時、エルサレムはバビロン軍によって包囲されています。王はエレミヤを通して主の託宣を聞き、あわよくばエルサレムを包囲するバビロン軍を追い払うような御業を期待します。しかしエレミヤが伝えた神の言葉は「神はバビロンを用いて、この国を滅ぼされる」という、期待と真逆の言葉でした。5節の「わたし(神)は手を伸ばし、力ある腕をもってお前たちに敵対し、怒り、憤り、激怒して戦う」は王にとって絶望的な言葉だったでしょう。今朝の箇所で注目したのは8節です。神さまは祖国滅亡後の預言として、「わたしはお前たちの前に命の道と死の道を置く」と告げ、どちらを選ぶか問います。死の道は祖国に留まること、命の道はバビロンに捕囚として連行されることです。捕囚は、祖国を奪われ、自分たちのプライドも地位も財産も全てを奪われる、絶望的な事柄です。逆に、留まれば少なくとも先祖伝来の土地から離れないで済む。でも神は捕囚を「命の道」と告げました。このことをどう捉えましょう。私は思います。「己がプライド、また固執したい様々な出来事があろうが、たとえ這いつくばろうとも神さまの導きに従うことに未来はある。一時的な挫折はあっても、神は必ずそこから私たちを救い出し、祝福に導いてくださるから」。神さまを根拠として生きる時、未来は必ず開かれるのです。未来を拓く神さまに期待して一日をスタートしましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝の預言は南ユダの人々にとって絶望的に響きました。でも同時に、滅亡とバビロン捕囚、そしてそこからの解放を知る私たちには、一時的に自分の誇りとするものが奪われても、神さまを根拠とした時、未来は必ず切り開かれることを覚えます。神さま、口で言うほど簡単に割り切れないことと、分かっています。でもどうか私たち、いついかなるとき、どんな状況においても、あなたの導きを信じて生きることができますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。
10日(金) エレミヤ書21章11-14節
一言メッセージ:申命記17.18-20には「王に関する規程」が書かれます。内容を要約すると、「律法(神の御心)を絶えず学び、実行すること。そうすれば、王位は長く保たれる」です。今朝の箇所12節前半は正にそうです。「ダビデの家よ、主はこう言われる。朝ごとに正しい裁きを行え。搾取されている人を虐げる者の手から救い出せ。」言い換えるならば、「政治とは、民を労わり、誰もが等しく、安心して生きるためのもの」です。しかし権力者は時に身勝手な理屈で民を支配し、搾取します。だから、今朝の箇所12節後半-14節において、王が民を虐げるならば、神さま自らが「わたしはお前たちの悪事の結果に従って報いる(14節)」と宣言し、「わたしは火を放ち、火はすべてを焼き尽くす」と滅亡を語りました。今の世界を見て、神さまはどう思うでしょう。そして私たちは今の社会に対して、どう行動するように促されているのか。今朝は問いかけられる箇所です。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝のみことばに私たちは「政治とは民のためにおこなうもの」であると改めて見ます。けれど現実はみことばとあまりにかけ離れ、生きること、食べることすら当たり前でない人々が増えています。神さま、あなたは今の社会をどう見られるでしょうか。どうぞ私たち一人ひとりが主権ある国民として、この国をどう正していけるか、問い直す一日を過ごさせてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。
11日(土) 東日本大震災から 12 年を数えての祈り
今日は東日本大震災から12年目の日です。震災発生後、日本バプテスト連盟では「現地支援委員会」が発足し、2021年度まで10年間、支援活動をしてきました。今は東北地方連合が被災支援委員会を作り、働きを引き継いでいます。今年も彼らから「一緒に祈ってほしい」と祈りが送られてきました。今日のみことばメールは、彼らの祈りを一緒に祈りたいと思います。以下、原文です。
主よ、東日本大震災・東京電力福島第一原子力発電所事故から 12 年が経ちます。これまでの主の寄り添いと導きに感謝いたします。そのような中、昨年 3 月 16 日に発生した福島県沖を震源とする震度 6 強の大きな余震に 12 年前の大震災を想起しました。さらに先月 2 月 6 日、トルコとシリア国境付近で起こり甚大な被害をもたらしている大地震を覚え、心を痛めています。私たちは今もなお、震災と震災の間を生きていることを思い、被災された方々のために共に祈りを合わせます。
主よ、私たちは 12 年前の大震災によって失われた 15,900 人1と、関連死した 3,786 人1の命を覚え、いまだに行方不明となっている方が 2,523 人2と、その安否確認ができないでいるご家族関係者のことを思います。さらに津波や原発事故によって避難を強いられている方が 31,438 人3おられます。震災から 12 年を経過しても「原子力緊急事態宣言」は発令中であり、福島の原発立地地域では避難指示が解除され、新たに特定帰還居住区域が指定されましたが、なお帰還希望者の減少、インフラ整備の遅れなどで町の回復には至っていません。どうか主よ、避難者の皆さんの将来への道筋と希望を与え、導いてくださるようお願いいたします。また、国の復興予算は前年を大幅に下回り、地方自治体における必要とされる復興事業も縮小せざるを得なくなっています。必要な復興支援が確保されるようお支えください。
主よ、東京電力福島第一原子力発電所における廃炉作業は遅々として進まず、今春の「ALPS(アルプス)」汚染処理水の放出が決まりました。福島県のみならず、宮城県でもようやく回復してきた漁業における深刻な被害が懸念されています。また、宮城県の東北電力女川(おながわ)原発 2 号機は住民の、リスク懸念をよそに来春の再稼働となり、国は全国の原発の 60 年延長利用に舵を切りました。主よどうか、日本各地で想定されている巨大地震や、薄れつつある原発への危機感を私たちが失うことなく、取返しのつかない事態が再び起こることのないようお導きください。そして、その備えを私たちが忘れず、目を覚ましていくことができますように。
主よ、新型コロナウイルスの感染拡大も、様々な規制が緩和され収束に向かうかに見えます。しかし失われる命は留まることなく、基礎疾患がある方や高齢者、幼児などへの影響が懸念されています。また、現在起こっているミャンマーでの軍事クーデター、ロシアによるウクライナ侵攻など、各地での争いと暴力は全世界に暗い影を落とし、また多くの人権問題を起こしています。戦争による核の脅威やエネルギー問題、環境破壊による温暖化は、私たちの生活に脅威と不安を与え続けています。主よ、どうか主の平和がありますように。そして私たちを和解のつとめに仕える者としてください。
主よ、これからも私たちが被災された方々のことを忘れず、世界で起る新たな苦難の中で苦しみ痛む人たちに寄り添っていけるよう、私たちの信仰を新たにしてください。いつもあなたが共にいてくださることを忘れず歩む私たちでありますように。
みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン
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2月26日~3月4日のみことば - 2023.02.25 Sat
間もなく2月も終わります。
毎日様々なニュースが聞こえ、心がざわざわします。
トルコ・シリアの地震のニュースは減ってきていますが、今も家族の安否のわからない方々や特にシリアの情勢不安定のために安心して避難生活を送ることのできない人たちがいることを思います。
わたしたちにできることは多くはありませんが、祈りや募金などで少しでも支えることができればと願います。
教会学校でも、子どもたちが地震の被害のために祈っています。
わたしたち大人も一緒に引き続き祈っていきたいと思います。
今週も皆さんそれぞれにおかれたところで共に祈り、みことばにきいていきましょう!
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26日(日) エレミヤ書16章14-節
一言メッセージ:今朝の箇所はバビロン捕囚からの解放預言です。非常に目を惹くのは表題にあるように、バビロン捕囚からの解放を「新しい出エジプト」と捉えていることです。このエレミヤの預言は衝撃的です。それまで、民は「神さまはかつて先祖を救い出してくださったけれど、今やその影も形もない」と嘆いていた。神さまを「私たちには関係ない」と諦めた気持ちでしか考えていなかった。でもエレミヤは「神さまは今も生きておられ、今の私たちの苦難に対しても、かつてと同じく救いの御業を実現してくださる」と示したのです。主なる神さまは生きておられるのです。私たちは自分たちが困難に直面している時、また社会が不穏である時に、「聖書は神さまを力強く語るけれど、私たちはそんな実感がない」と疑ってしまう。でもエレミヤは語るのです。「主なる神が、今、あなたの人生において御業を成される。神は生きておられる」と。私たちは目先のことで右往左往するのでなく、神さまを期待して待てばいいのです。神さまはエレミヤを通して告げます。21節「それゆえ、わたしは彼ら(民ら)に知らせよう。今度こそ、わたしは知らせる。わたしの手、私の力強い業を。彼らはわたしの名(存在)が主(絶対者)であることを知る。」今日は日曜日。主なる神さまと向き合うべく、共に礼拝に集いましょう。10:30に会堂とネットでお待ちしています。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。エレミヤは「主は生きておられる」と改めて私たちに示してくれました。私たちは自分たちの課題や状況が困難であればあるだけ、「神さまはおられるのか」と疑います。自分たちの我慢や忍耐の限界を棚に上げ、神さまを疑います。でも、今日私たちは「主は生きておられるから信じ続ければいい」と示されました。神さま、あなたを信じます。どうか御業を行ってください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。
27日(月) エレミヤ書17章1-4節
一言メッセージ:今朝の箇所の表題は「ユダの罪と罰」です。南王国が2節「アシェラ(アシュタロテなどとも表記。土着信仰の女神で、雨をもたらすと信じられたバアルと組みで信仰され、雨が大地に降って作物が育つ過程を、バアルがアシェラと性交して子どもが生まれる様で理解して信仰。いわゆる、ご利益的な信仰。)」を拝んでいた罪を告発し、それゆえ3-4節で祖国が滅亡することを語っています。今朝私が注目するのは1-2節「ユダの罪は、心の板に、祭壇の角に、鉄のペンで書きつけられ、ダイヤモンドのたがねで刻み込まれて、子孫に明記されるものとなる」です。これは「今の世代の過ちが未来永劫に記憶され、子孫たちがその罪を知る」という意味です。私はこの言葉に今の私たちへの示唆も見出すのです。私たちは自分たちを無力で、ちっぽけな存在と考え、すぐに目先の事柄や感情に動かされます。でもエレミヤの示唆は、そんな私たちも「子どもたち、孫たちに対して責任を負っている」と告げる。私たちの言動は未来の子どもたちの模範となるのか、それとも残念極まりない罪とみられるのか。そう捉える時、私たちは今を生きることの責任を感じます。子どもたち孫たちに誇れる未来を遺すためにも、私たちは今を誠実に生きるのです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝、私たちは未来への責任を考えました。私たちの言動は子どもたち、孫たちの未来を左右するかもしれません。特に、原発や憲法改悪は子どもたちを切実に追い詰めるでしょう。神さま、私たちは未来への責任を負っているからこそ、あなたに誠実に生きる者でありたいと思います。どうぞ今日も私たちに目を留め、御心に従わせてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。
28日(火) エレミヤ書17章5-8節
一言メッセージ:今朝は「主に信頼する人」という箇所です。エレミヤは「神に逆らう者は人間の力を信頼するが、そこには未来への保証がない。一方、主に信頼する人は、自分たちの限界や算段を超えて神の絶対的な祝福と導きをいただいて生き続ける」と語りました。それこそ「干ばつの年にも憂いなく、実を結ぶことをやめない」木々のように。先日、大好きな博多華丸・大吉の漫才で面白い話題があった。大吉さんが「ドラえもん」好きで詳しいのですが、華丸さんが「もし、ドラえもんの秘密道具を一個もらえるとしたら何をもらったら良か?」と切り出したのです。彼は続けてこう語る。「私ももう50を超えましたけん、そりゃ、子どもみたいなこと言うて…とは思います。でも、この年になると、辛い出来事を前にして、『あぁ、ドラえもんがいてくれたらなぁ』って思ったりすることもあるとです。」漫才では「ドラえもん」でしたが、私たち風に言えば「人生経験重ねてきましたけれど、誰でも時に、どうしようもなくて、『神さま…』って祈りたくなる時って、あるでしょう」ということです。そんな人々に対して、エレミヤは言う。「主に信頼したらよかやんね。」何故なら「主がその人のよりどころとなられる(7節)」からです。この「よりどころ」は単なる気休めでない。岩波訳では「頼み(根拠)となる」と訳されています。今日も、私たちの根拠である神さまを思いながらスタートしましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝エレミヤは「人間を信頼する人」と「主を信頼する人」を比較しました。考えてみると、私たちは誰しも時に、自分の手に負えず、周囲の協力すら助けにならぬ出来事に直面するのに、多くの人が、その時に本当に頼れる神さまと出会うことを後回しにしています。神さま、私たちはそういう人たちより一足早く、あなたを知り、信じ、平安をいただいています。どうか家族や友人、周囲の人たちにも、あなたを信じるからこその平安と希望を伝えさせてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。
3月1日(水) エレミヤ書17章9-13節
一言メッセージ:今朝は「人間の心を知り尽くす神」という箇所です。エレミヤは人間について考え続けたのでしょう。彼が出した1つの結論は「人の心はとらえ難く病んでいる」です。同じ問題に直面したのがパウロです。彼はローマ7.15や19-25節で「人間は自分が望むことを実行せず、かえって憎んでいることをする」と語っています。「私たちの心は『神の律法に従う』という法則を知っているのに、体は『罪の法則』に縛られている」とも表現しています。エレミヤもパウロも、「私たちは『こうありたい、これが正しい』と分かっているのに、それが困難を伴うものであったり、損になりそうなことであったり、願望と違う事柄であったら、見て見ぬふりしてしまうのだ。それが私たちにとって将来的に良くないことであるとわかっているのに」と語りました。そうなのです、私たちは神さまを信じたら善いと分かっているのに、一歩踏み出すことを躊躇させる自分もいる。でもエレミヤは10節で神さまの言葉を取り次ぎます。「心を探り、そのはらわたを究める(奥底まで知っている)のは主なるわたし(神)である」と。そのことばに私はホッとします。神さまは、私のいい加減さや恐れ、弱さも全部知っていてくださる。そのうえで「信じなさい。私を信じて生きたらいい」と促してくださる。私たちの問題を承知の上で、なお引き受けてくださる。であれば、私たちは安心して信じたらいい。信仰とは「誤りなく生きられるから信じる」ものではなく、「誤り多いながら、その自分から、委ねて、神さまに応答して生きること」なのです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝は、あなたが私たち以上に私たちをご存じの方であってくださること、だから、自分の弱さすら委ねて信じて生きてよいことを分かち合いました。神さま、ただただあなたを信じます。どうか私たちを、みことばと礼拝を喜び、日々あなたの導きに期待して生きる者へと成らせてください。今日の一日もお導きください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。
2日(木) エレミヤ書17章14-18節
一言メッセージ:エレミヤ書には「エレミヤの告白」と呼ばれる嘆きの言葉が5箇所あります。1つ目は11.18-12.6で、2つ目が15.10-21で、今朝の箇所が3つ目です。ここでエレミヤは「主よ、あなたがいやしてくださるなら、わたしは癒されます。あなたが救ってくださるなら、わたしは救われます。あなたをこそ、わたしはたたえます」と呼び掛けます。15節以下を見ますと、この時のエレミヤは「私たちの国は神によって北の国(バビロン)が攻め寄せてきて、滅ぼされる。私たちが神を蔑ろにしてきたからだ」と告げていましたが、その預言が実現しないために、人々から「主の言葉というならば、早く実現させてみろ」と揶揄されていたようです。冷静に考えて、エレミヤを揶揄した民は愚かです。その言葉が実現したら滅びるのは自分たちなのに、「本当だったらやってみろ」と語る。彼らが考えねばならなかったのは、「自分たちはいつ滅ぼされても仕方ない罪を犯している。でも、その災いを踏み留めてくださっているのは神さまであり、神さまが今も悔い改めを呼び掛け続けてくださっている」だった。現代でも、私たちは「戦争できる国にさせてはいけない」と言い続けていますが、こう主張しますと「日本は何があろうと戦争しないから、今の動きでも大丈夫」と言う人々がいます。そのくせ、自民党の改憲案が何を示しているか知りもせず、「憲法は古い」と主張する。原発も同じ構図です。私たちは神さまのみ言葉から社会を冷静に見極めねばなりません。今日も「神さま、御心を実現してください」と祈り、一日をスタートしましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝の箇所は、エレミヤが自分を揶揄する人々がいかにいい加減で、願望と無理解ばかりで、神さまの示唆に基づかないものかを指摘し、嘆きました。神さま、私たちはそうならないために、あなたの御心を模索して生きます。どうぞ御心こそ実現してください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。
3日(金) エレミヤ書17章19-27節
一言メッセージ:今朝の箇所は「安息日の遵守」を呼び掛ける言葉です。この箇所はおそらくエレミヤの預言ではなく、後代の付加です。というのも、安息日規定が強調されるようになるのは、南王国が滅びた後のバビロン捕囚の時期だからです。バビロン捕囚の際、ユダヤの民は自分たちが神さまを蔑ろにしてきた罪を痛感しました。そこで改めて神さまに立ち帰ろうとしますが、既にエルサレム神殿は破壊されているし、何より自分たちはバビロンに連行されている。つまり、先祖伝来の礼拝所が無い。そこで彼らは「場所」に重きを置くのでなく、「礼拝する日」を重視し、安息日規定を強調するようになりました。さて、私たちは今日、この箇所から何を聞きましょう。コロナのため会堂に集えない人もいる今、また職種によっては日曜日もお仕事の人もいるし、遠方からネットで礼拝に参加くださっている人々もいる状況で「日曜日は会堂にて礼拝を守らねばならない」と縛り付けることが適切とは思いません。私が思うのは「そもそも安息日は、一週間の働きの中で神さまを覚えて礼拝することを大事と伝えている」という原点に帰り、「週の中で一日、それぞれの場、それぞれの時に礼拝を守ろう」という示唆です。単なる「お客さん」的に礼拝を眺めるのでなく、自分自身が礼拝者として神さまとしっかり向き合っての礼拝であってほしい。そのために、youtubeのアーカイブはお役に立てると思います。時と場は異なっていても一緒の礼拝に繋がりましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝は「礼拝を大事に守る」ことを分かち合いました。コロナの国内感染が始まり4年目になり、私たちも「それまでの礼拝は日曜日に会堂に来れる人のためだけの礼拝だった」と反省しました。でも今は、時も場も異なっていても一緒に礼拝できるチャレンジを始めています。神さま、どうか私たち一人ひとりが礼拝を大事に守り、いつも、あなたとも教会とも、繋がっていることを確信させてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。
4日(土) エレミヤ書18章1-17節
一言メッセージ:今朝の箇所は、神さまがエレミヤに陶工の家に行くように命じるところから始まります。陶工は器を作るも、気に入らなければ壊し、土に返し、また作り直していました。神さまはエレミヤにそんな陶工の仕事を示し、「イスラエルの家に言え。私はこの陶工のように、お前たちにも成し得る。ある時、お前たちを断罪してもお前たちが悔い改めるなら、私は思いとどまる。一方、お前たちを祝福していても、お前たちが悪を行い、わたしに聞き従わないならば、幸いを思い直す」と預言するように命じます。これに対して民は11節以下では、神さまの呼びかけを聞かず、「我々は我々の思い通りにし、かたくなな悪い心のままふるまいたい」と反論したため、神さまは彼らへの裁きを告げるのです。この箇所を読みながら思い起こすのは、創世記2.6-7のアダム創造の物語です。神さまがアダムを、泥をこねて作りました。まさに陶工のように、です。神さまは泥をこねて人を形作りますが、仕上げに「その鼻に命の息を吹き入れられた。こうして人は生きる者となった」とある。この描写が告げるのは「人間は本来、塵芥に過ぎない存在。しかし、神さまはそんな人間を熱心に創造し、彼らを生かすべく『命の息(神の命)』を吹き入れてくださった。人は神さまと向き合い、神さまに命をいただいてこそ、本当の意味で『生きる』存在なのだ」です。にも拘わらず、今朝のエレミヤ書では、人間は自分たちの創造者を軽んじる。それは本末転倒な生き方なのです。新共同訳ではコヘレトですが、口語訳の伝道の書12章1節は名訳です。「あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ。」今日が私たちのこれからの人生において、最も若い日です。ここからの人生を祝福に充ちた日々に変えるべく、作り主である神さまをしっかり覚えましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝の箇所は創世記や伝道の書を思い起こすみことばでした。私たちは時に驕り高ぶり、創造主なるあなたを忘れ、自分たちの能力や環境に依拠して、自分があなたに並び立つような勘違いに陥ります。神さま、どうぞ私たちの愚かさを正し、あなたに正しく向き合う者とならせてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。
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