fc2ブログ
topimage

2022-10

8月28日~9月3日のみことば - 2022.08.27 Sat

夏休みが終わり、新学期がスタートした方も多いと思います。
ここ数日は少し暑さも和らいだように思いますが、また暑くなるのでしょうか。。。
そろそろ、暑さから解放されたいですね。
まだまだ残暑続きますが、皆さんも健康に気を付けてお過ごしください。

今週もみことばを聞きながら1週間を過ごしていきましょう♪

***

※聖書の箇所は日本聖書協会の聖書本文検索から読むことができます。⇒こちら
 ページの下のほうにある「書名・章・節から探す」に以下の事項を選択・入力してください。
・訳名選択     : 新共同訳
・旧新約・続編選択 : 旧約聖書
・書名選択     : イザヤ書
・章選択      : 該当章数を入力(章まで入力するとその章すべてが表示されます。)


28日(日) イザヤ書22章15-25節
一言メッセージ:「シェブナ」という言葉が出てきます。「シェブナ」は宮廷の役職名で、身分は高くないそうですが、王の側近で宮廷を取り仕切る執事役だったようです。彼は王をたぶらかして、私腹を肥やしていたとし、16節「高いところに自分の墓を掘り、岩をえぐって住処を造ろうとする」と指摘されています。神さまはこのシェブナの悪事を見過ごさず、排除すると告げます。そして20節以降はエルヤキム(ヒゼキヤ王時代の宮廷長。列王記下18.26以下で、南王国にアッシリアが攻めてきた時に応対した人物の一人)に役職を継がせると告げます。彼の働きは非常に期待されていますが、神さまは25節で「その日(滅亡の日)」には南王国の全てが滅ぼされていくと告げます。私たちは「えっ?結局、正しい人も滅ぼされてしまうのか」と考えてしまいますが、神さまの救いを誤解してはいけません。私たちの罪はその場しのぎの対処療法で許されていくわけではなく、決定的な赦しは神さまがご自身の独り子イエス・キリストの十字架において実現したのです。神さまの裁きは私たちを生かし、救うための裁きです。宗教改革者マルティン・ルターは「神は私たちを生かすために殺し、救うために裁く」と言いました。目的は生かすことであり、救いです。だから私たちは一時的な苦境を神さまの結論と思わず、御心に至るための途中経過と思っていましょう。今日は日曜日、礼拝の時です。今朝も共に神さまの御心に励まされ、元気づけられましょうね。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝私たちは神さまが中途半端な方でなく、私たちに軽微な痛みは負わせながら、でも決定的な救いとして、イエスさまの死と復活を行ってくださったことを思い起こしました。神さま、どうか私たちが直面した苦難であなたを見失うことなく、苦しい時にも信じ続ける者であらせてください。あなたの最善の導きを信じ、味わうことができますように。救い主イエスさまの御名で、期待して祈ります。アーメン。

29日(月) イザヤ書23章1-18節
一言メッセージ:13章から続いた諸国民への裁きの言葉も今日の箇所をもって終わります。あー、しんどかった。今朝の箇所もティルスやシドンという地中海沿岸のペリシテ人の街への、2つの時代にまたがる預言が合わさってできています。1-14節はアッシリアによるティルス、シドン滅亡の預言で、15-18節はバビロン捕囚末期の預言です。ティルスという街はヨナ書に出てくる街で、ヨナが神さまの命令を全力で拒否しようとしてティルスからスペイン南方の街タルシシュ(当時は世界の果てと考えられていた)に向かって船出した街です。地中海域への貿易の要所であり、だからこそ旅を経てティルスに帰ってきた船が街が滅びた姿に嘆いています。一方、15節以下はバビロン捕囚が終わる時期に(エレミヤは捕囚期間を70年と語っていたので、それに合わせている)、ティルスはようやく支配を脱することができると預言される。ティルスの解放後の姿は「忘れられた遊女(年輩の遊女)」であるが、17節では「主がティルスを顧みる」とあります。ティルスは相変わらず、かつての華やかさを求めて、自分の過ちに気づかず、神さまの救いの完成のまでかつての生活に戻っていきますが、神さまはそんなティルスをも顧み、いつか気づくと待っておられるのです。
  先日、池井戸潤さんの小説『あきらとアキラ』を読んでいました。彼は銀行員の視点から、会社経営や事業展開をテーマにした小説を得意としています。ドラマの「半沢直樹」シリーズなども彼の作品ですが、この『あきらとアキラ』という小説の中で、ある2つの会社がスーパーマーケットの新規展開で対立する場面がありました。1つの会社はスーパーマーケット経営の成功者をリーダーに雇用し、もう1つの会社は現場で叩きあげた者をリーダーに据えて、対立します。成功者の戦略は人の多く集まる一等地を購入し、豊富な品揃えで勝負しようとしますが、叩き上げのリーダーの戦略は、土地は借地の中心部から少し離れたところ、でもその分だけコストを抑え、様々なチャレンジを行うことを前提とした展開でした。結果は叩き上げのリーダーの店舗が生き残り、成功者の店舗は数年で閉店しています。その中で叩き上げを抜擢した会社の社長は言うのです。「かつて成功を体験した者は、その成功体験をパターン化し過ぎてしまい、そこからしかモノを考え切らず、お役様を見ず、臨機応変な対応を模索できなくなる。」ティルスはかつての自分の栄華に固執し、自分が滅ぼされた理由や誰が本当に頼るべき神かを見出せない。その行く末は滅亡です。でも、神さまはそれでもティルスに寄り添う。私たちはこの箇所からティルスを反面教師にし、自分の思考に固執せず、神さまを身近に見出しながら歩みたいものですね。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。ティルスの姿は、どこかで私たちに警告を発します。かつての自分の順風満帆だった時代に固執し過ぎ、今を見出せなくなる、そんな人間の弱さを示します。神さま、どうか私たちはいつも、あなたが今私たちに促される示唆を思い、誠実に歩む者であれますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

30日(火) イザヤ書24章1-23節
一言メッセージ:今朝の箇所も非常に読みにくい箇所です。というのも、呼び掛けられる対象も時期も、全部で7つに分けられていて、一貫性が見えない箇所だからです。例えば1-16節まではエルサレムに対しての預言で、17-23節はバビロンに対する預言です。1-16節でも1-13節は厳しい裁きのことばですが、14-16節はバビロン捕囚から解放されて救いを喜び合っています。でも16節後半に出てくる、衰えを嘆く「わたし」が誰であるかはまた不明です。こういう分かりにくい箇所は、全体を網羅しながら読むことは難しいので、気になる文に注目して読んでみましょう。私の目に留まるのは5節です。「地はそこに住む者のゆえに汚された。彼らが律法を犯し、掟を破り、永遠の契約を棄てたからだ。」神さまの律法を蔑ろにしたために地が滅ぶと書かれます。私たちが考えたいことは「律法とは何か」です。律法は神さまがイスラエルのために与えた掟ですが、私たちは律法の性質を見誤ってはいけません。律法を「守らなければ救われない」というハードルと考えると、律法を守らない、守れない人たちを切り捨てる根拠になってしまいます。本来の律法はそうではなく、「神さまに愛されたからこそ実行するもの」です。つまり、「愛なる神さまへの応答」なのです。幼い子どもを想像していただくと分かりやすいですが、幼い子どもは無条件に愛されています。でも、度を越してはしゃぎすぎると重大な怪我の恐れがあるため「ダメ」と叱られます。それは、その子の安全と共に成長を促すための叱りです。神さまの裁きは叱りです。民が自分たちの過ちに気づき、立ち返り、成長するように神さまは叱ります。だから14-16節のように厳しさの先に救いが歌われているのです。私たちは神さまに正しく向き合い、応答する者でありたいものです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝わたしたちは律法について考えました。私たちは時にあなたを誤解し、律法を「救われるか救われないかを判断するハードル」のように考え、あなたを息苦しい存在のように勘違いしてしまうことがあります。でも、律法は私たちがあなたに愛され、救われているからこそ、身勝手に生きて滅びてしまうのでなく、あなたの守りと導きの中で生きていくための応答でした。神さま、私たちはあなたを信じます、そして応えて生きます。どうぞ私たちに伴い続けてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

31日(水) イザヤ書25章1-10節前半
一言メッセージ:今朝の箇所は久しぶりに明るく読める箇所です。表題にあるように「神の驚くべき御業」です。これまでの神の裁きが最後にはどうなっていくのか、を記した箇所です。イスラエルが虐げられ、アッシリア、バビロンといった大国すら滅びていった先にあるのは6-10a節の神の救いです。際立って見えるのは、「神の救いがイスラエルにだけ実現するのではなく、神によって滅ぼされた国々のすべての民にも与えられている」ことです。「主は祝宴を開き、すべての民に良い肉と古い酒を供される」「すべての民(の)死を永久に滅ぼしてくださる。すべての顔から涙をぬぐい、御自分の民の恥を地上からぬぐい去ってくださる。」文章では、神さまの救いにおいて、それまで言われていた「〇〇の民」といった民族や国などの分類が消え、ただ「ご自分の民」という言葉で統一されています。人間が作ってきた分類や対立が神さまの前で乗り越えられ、皆が「共に生きる仲間」になっていくのです。ここに私たちは神さまの平和を見出します。今日は8月末日です。「平和を覚える月間」の終わりに私たちが分かち合うのは、「神さまの平和とは、敵味方といった枠組みが取り払われ、皆が『共に生きる仲間』とされる世界」です。私はこの平和を心から願い、祈ります。8月は終わりますが、引き続き、神さまの平和シャローム実現を祈ってまいりましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。8月の終わりに、私たちは改めて神さまの平和シャロームを分かち合いました。あなたは終わりの日(終末)に、全ての民を集め、それまで人間が作ってきた分類や対立を取り払い、共に生きる者とし、救ってくださいます。神さま、私たちはあなたの平和を待ち望み、祈り、今日も生きてまいります。あなたの平和が実現しますように、私たちにもその一端を担わせてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

9月1日(木) イザヤ書25章10後半-12節
一言メッセージ:昨日は、神の驚くべき御業として世界の民の救いの預言が語られました。そんな日の翌日に「モアブの滅亡」を改めて記述されるなんて迷惑なのですが、イザヤ書には何故だか今朝の箇所でモアブというイスラエルの周辺国の滅亡を記されます(聖書研究的には「このことば、後代の付加じゃないの?」と思ったりもします)。本来は15-16章でモアブへの神の裁きは書かれているので、そちらで合わせてもらいたいものです。なので、今朝はこの箇所を離れて、モアブに関する好意的な面を分かち合ってみたいと思います。旧約聖書の中にルツ記があります。主人公ルツはユダヤ人ではなくモアブ人です。彼女はモアブに移住してきたユダヤ人家庭の息子に嫁ぐのですが、しばらくすると義父、夫、夫の弟が次々と死去します。女性世帯になり、姑ナオミは祖国イスラエルに帰国することにします。姑ナオミは二人の嫁を実家に戻そうとするのですが、ルツはナオミを一人にすることを拒み、イスラエルに一緒に移住するのです。最初はモアブ人であるために周囲に白い目で見られるのですが、健気に姑を支えるルツは、ナオミの家の有力者ボアズに認められ、再婚していく物語です。さて、何がモアブ人にとって好意的な話なのかと言いますと、実はこのボアズとルツの孫がエッサイです。エッサイは後の英雄王ダビデの父であり、新約聖書のマタイ福音書1章ではルツもイエスさまの先祖として名が残されています。聖書の中には民族主義的な排他性も見られますが、一方、それに真っ向から対抗する精神も多々見られます。様々な視点が聖書の中で共存しています。聖書自身が多様性の塊と思えるのです。さて今日から9月。新たな月も新たな出会い、新たな取り組み、新たな神さまの示唆を見出しながら歩みだしてまいりましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝はモアブへの裁きの言葉がありましたが、一方で聖書にはモアブへの好意的で、イエスさまの救いに加わっていく広がりがあることも分かち合いました。聖書は様々な視点を共有しています。その中で私たちは、聖書そのものも1つの視点に偏って読むのでなく、広がりをもって読むことが示されます。新しい月も、自分の狭い視野に閉じこもらず、あなたの示唆を模索しながら自分を広げて歩んでいくことができますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

2日(金) イザヤ書26章1-6節
一言メッセージ:今朝の箇所は一昨日読んだ25.1-10aに続く言葉です。昨日の「モアブの滅亡」の箇所が一昨日と今朝の箇所の間に入り込んできたのです。今朝の箇所では、25.1-10aに続く言葉として、民族や国の違いに捉われず、神さまが本当の神だと信頼した人々が共に救われていくことが歌われています。注目したいのは3節で二度「平和」と語られていますが、この平和は8月に何度も分かち合ってきたヘブライ語のシャロームです。そのニュアンスは「すべての人が神さまに与えられた命と尊厳を喜び、暴力や敵意を棄て、違いを認め合い、共に生きていく平和」です。そうやって神さまに平和シャロームを見出した人々に起こる出来事が5-6節「主は高いところに住まう者を引き下ろし、築き上げられた都を打ち倒し、地に打ち倒して、塵に伏させる。貧しい者の足がそれを踏みにじり、弱い者の足が踏みつけて行く」です。そのままに読みますと、富や暴力によって権威者と振る舞っていた人々が没落し、弱く貧しいくされていた人々が神さまによって高められていく様子に見えますが、ここで大事なことはイザヤ書が平和シャロームと語っていることです。何かと言いますと、「神さまを信じ、平和シャロームを知った人々はもはや社会的身分、経済格差などの力関係が不要となり、皆が一人ひとり、神さまから与えられた命と尊厳を尊重し合って生きる世界が到来する」というのです。だから、それまでの社会的権威は皆によって捨てられ、弱い人々がかつての権威に捉われずに、どこであっても大手を振って歩ける、そんな社会が描かれるのです。私たちの国の憲法は、日本人のみならず、世界中の人は誰でも「基本的人権」を有していること、それは人類の歴史の中で勝ち取られてきた大事な倫理であることを告げています。未だ世界を見ますと、とてもそうは思えないほどの格差はありますが、でも憲法は、誰もが基本的人権を持ち、誰にもそれを侵害されてはならず、平和を願って生きていく存在と謳います。そんな理想像が既に2,700年前にイザヤによって預言されています。私たちは聖書を「古い読み物」と考えるのでなく、現代でさえもなお未来を指し示し続けている神のみことばと捉えて読み続けて参りましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝は神さまの示す、神の国の完成預言でした。神さまの平和シャロームが実現していく時、人は誰しも、あなたに与えられた命と尊厳を尊び、暴力や格差は捨て去られ、共に生きていくことが記されます。神さま、私たちは今も真摯に平和シャロームを願い続けます。どうぞ、シャロームを来らせてください。私たちにもその一端を担わせてください。あなたの平和と程遠い憲法改正など棄却させ、格差を助長する国葬などの愚策の数々を頓挫させるべく、小さくとも意志を表していけますよう励ましてください。平和の君イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

3日(土) イザヤ書26章7-19節
一言メッセージ:今朝の箇所は、神の国の完成、救いの完成で何が起こるかが書かれた預言です。内容が豊富なので、3日かけて読んでみたいと思います。今朝は7-11節に特に注目します。預言者は「神に従う者の行く道は平ら(7節)」と告げます。それは昨日見たように「人の命に上下の格差が無い」からです。誰もが神さまに与えられた命と尊厳を喜び、互いに対等な者として共に生きようとするのです。それが9節の「あなたの裁きが地に行われるとき、世界の住む人々は正しさを学ぶでしょう」です。一方、10-11節では「神に逆らう者」への言及があり、11節では「彼らに恥を受けさせてください。あなたの火が彼らを焼き尽くしますように」と物騒な表現がされます。誤解せずに読みたいのですが、「焼き尽くす=滅ぼす」という理解ではありません。この火は金属を精錬する際に、一度、金属を溶かし、不純物を取り除き、叩きあげて純度と強度を増していくような「火」です。相手を滅ぼす火ではなく、相手を成長させる火なのです。かつてアメリカで公民権運動を指導したキング牧師は「主よ、敵対者を滅ぼすのでなく、相手の中にある敵意が滅ぼしてください」と祈りました。それは相手が共に生きていけるように変えられることを願った祈りでした。今朝の預言も、神に背く者の滅びでなく、作り変えられるための「火」を願います。神さまの平和はとことん共に生きていくことを目指しているのです。明日も26.7-19を読んでまいりましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。預言者は神さまの平和が実現していく時、全ての人が等しい存在として生きていくことを示唆しました。そこには、かつて、敵意や格差を当然とした人々も含まれますし、その考えに固執する人々があなたによって精錬させ、平和シャロームの尊さを知って作り変えられていくことが祈られていました。神さま、どうか私たちにもあなたの平和シャロームを希望とし、実現のために小さくとも一歩ずつ動く者とならせてください。二度と戦争をさせず、人の命と尊厳を踏みにじる社会を認めず、「御心とは違うことはダメ」と証しする勇気と言葉と信仰をお与えください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

***




8月21日~8月27日のみことば - 2022.08.20 Sat

8月も後半に入りました。
まだまだ暑い毎日ですね。
お盆休みも終わり、大人の皆さんはまたお仕事の忙しい日常を送っておられると思います。
お盆と言えば8月15日は77回目の敗戦記念日でした。
皆さんは、どのように過ごし、どのようなことを考えたでしょうか。
教会では8月は毎年「平和を覚える月間」として、聖書から平和について聞いています。

教会学校でも、8月は特に平和について覚えています。
先日は、小学科の子どもたちと平和の願いを込めて「へいわのいのり」を書いて集めました。
悲しいことですが、ウクライナで戦争が起こっていることをニュースや新聞などでリアルタイムで知っている子どもたち。ですから、具体的にウクライナのことなどにも思いをはせながら書いているようでした。また、今年度から小学科の子どもたちは礼拝の中のお祈りの言葉の一部を自分たちで考えているので、比較的すんなりと自分の言葉で祈りの言葉をつづっていました。
その他にも「絵をかいていい?」という子もいて、「じゃあ平和ってどんな風か想像して、描いてみてね」と声をかけると、考えながら一生懸命にえんぴつを走らせていました。
1つ1つの写真を撮るのをうっかり忘れてしまったので、また今度アップしますね。
とりあえず、全体像はこんな感じ。
202208heiwanoinori.jpg

一人一人違ったかたちの祈りの手が、それぞれ違う言葉や絵で、同じ平和を祈っているところに、何か平和への大事なヒントがあるように思われました。
これからも、子どもたちと一緒に平和を祈り続けていきたいなと思わされました。

皆さんは、8月をどんなふうにすごされますか?
共に平和への祈りを合わせることができたらいいなと思います。

それでは、今週も皆さんの歩みに神様の祝福がありますように!
今週の日々のみ言葉をどうぞ↓


***

※聖書の箇所は日本聖書協会の聖書本文検索から読むことができます。⇒こちら
 ページの下のほうにある「書名・章・節から探す」に以下の事項を選択・入力してください。
・訳名選択     : 新共同訳
・旧新約・続編選択 : 旧約聖書
・書名選択     : イザヤ書
・章選択      : 該当章数を入力(章まで入力するとその章すべてが表示されます。)

21日(日) イザヤ書18章1-7節
一言メッセージ:今朝の箇所は昨日の箇所から時代的には遡る内容です。紀元前714-711年に当時、まだ強大であったアッシリアに抵抗するために、アシュドドの反乱という国際的な事件が起こります。地中海沿岸のペリシテ人の都市国家アシュドドが、エジプトの南にあるクシュ(エチオピア)と組み、アッシリアに反乱したのです(当時のエジプトはクシュ系の王朝となっていた)。南ユダ王国はアシュドドと領土を接している分、影響を受けます。特に紀元前722年に北イスラエル王国がアッシリアに滅ぼされていたため、南王国の人々は「次は自分たちが滅ぼされるんじゃないか」と強い恐怖を感じていました。だから、南王国の指導者たちは「エジプトが後ろ盾になってくれるならば、いっそ反乱に加わってアッシリアに対抗する」とさえ考えたのです。しかし、イザヤはそんな動きを「災い(1節)」と断じます。イザヤが告げたポイントは4節です。「神さまは、『わたしは黙っていても、お前たちに目を注いでいる。お前たちが本当に頼るべきは誰か思い起こすべく、太陽よりも強い熱を持って、刈り入れを邪魔する激しい雨雲のように』と言われている。だから今は神にこそ目を注ぎ、御心をあおげ。人の思惑や算段に絶対は無く、お前たちが予期せぬ出来事に翻弄され、身を切られないように。」今朝は日曜日です。今朝の説教の中で、私は「主」について考えます。私たちは神さまを「主(しゅ)」と表現しますが、別の読み方は「あるじ」です。私たちが神さまを「主」と呼ぶ時、「私たちのあるじ」と認識し、ちゃんと仰いでいるでしょうか。物事を決定する時は己が算段で考えていないでしょうか。イザヤは私たちに問います、「主は今、私たちに目を注いでおられる」と。神さまの目が私たちを整え、最善の歩みをさせてくださいますように。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝の箇所でイザヤは、アシュドドの反乱に際してイスラエルの指導者たちが安易に算段に走ろうとしたことを諫め、「神さまに目を注げ」と告げました。あなたこそが私たちの神であり、最善を与え、守り導いてくださる「あるじ」であるのに、私たちも時に、焦りや習慣によって自分たちの算段で物事をはかろうとします。でも神さま、救いはあなたにこそあります。どうぞ私たちが物事を決断する時、心鎮め、あなたに向き合う者であれますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

22日(月) イザヤ書19章1-15節
一言メッセージ:今朝は「エジプトの審判」という箇所です。昨日少し触れましたが、この時のエジプト王朝はクシュ(エチオピア)系の王朝となっています(エジプト王朝も時代によって内部抗争が起こっているんですね)。今朝の箇所は昨日のアシュドドの反乱直前、エジプト内での反乱によってクシュ系の王朝が確立していった内容になっています。それが2節の「わたしは、エジプトをエジプトに刃向かわせる」です。さて、今朝の箇所で私が注目したのは14節「主は、彼らの間に迷わす霊を注がれた」です。神さまはエジプトを倒すために軍隊を遣わしたのでなく、彼らの間に迷いを生じさせたというのです。迷いとは何が正しい事柄か判断つかず、様々な選択の中で選びきれない状態です。「こちらの言い分も分かるし、でもこちらの言い分も正しいと思う」と迷う時は私たちにもありますが、迷った時、私たちは臆病になります。特にエジプトは「王は神の代理者、神である」という神権政治体制ですから、神の代理者である王朝が倒れることは国家の価値観がひっくり返るような騒ぎだったでしょう。日本も戦中までは「天皇は神で、日本は神国だ」という価値観が強調されましたから、敗戦した途端、「神国日本」を信じ込んでいた多くの若者たちが価値観を失いました。迷ったのです。人の正しさは所詮、一時的な価値観に過ぎません。本当の正しさは神にこそあります。だから逆を言えば、私たちは迷う時には、神さまの正しさを求めたらいいのです。今朝も神さまの御心を模索しながら一日をスタートしましょうね。
祈り:天のお父さま、今朝のみことばをありがとうございます。今朝は迷いについて考えました。人は時に人生に迷います。でも神さま、あなたは迷いの中でさえ私たちに出会おうとしてくださいます。私たちが迷う時も、己が都合、己が願望でなく、あなたと出会う機会とできますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

23日(火) イザヤ書19章16-25節
一言メッセージ:今朝の箇所は神さまによる「終わりの日の和解」預言です。非常に興味深いことに、ここで和解に至るのはイスラエルを挟んで覇権を争っていたエジプトとアッシリアであり、間に挟まれていた弱者イスラエルです。大国たちが自分たちのやり方、都合、思惑に行き詰まり、本当の正しさを神さまに求めていくと、25節でその三者がそろって、神さまの祝福を受けるようになる、と預言者イザヤは語りました。今年の平和を覚える月間、私たちは「神さまの平和は敵対する者同士も一緒に生きるようになること」と分かち合っていますが、この箇所は正に、敵対する者たちが神さまの御前にて一致し、共に生きる者とされる、という示唆そのものです。人の理屈、人の正義は所詮、自分の目に見える範囲や近しい人たちを思っての判断です。でも、神さまの示唆は全ての人、敵対する者たち同士すら共に生きる者としてくださる正義です。戦争の世紀と言われた20世紀、世界は二度にわたる世界大戦で大きな傷を負い、その後の冷戦期には「強大な武力を持つことによって相手を封じ、安定を生み出す」と考えてきました。しかし冷戦が崩壊し、ようやく平和が来ると思った途端、蓄えられた武器や技術者が武装組織や弱い国の手に渡り、もはや小さな国、テロ組織ですら核兵器を持つようになると、「強い力を持つことによって平和を作る」という理屈そのものが成り立たなくなったのです。その時に私たちが見出す平和の姿とは何か。それは、そもそも敵対していた者同士が共に生きていく世界です。戦後77年目の今年、私たちが見出す神さまの平和の示唆は、敵対していた者同士さえ共に生きていく世界であり、その間をもっとも弱かった存在(民衆)が繋げていく。民衆による平和実現です。聖書のメッセージは時を超え、とても現実的な示唆だなぁと思います。この示唆を実現させていくのが今の私たちです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝の箇所にてイザヤが示したのは、かつて敵対していた者同士が、神さまの御心を模索する中で共に生きるようにされる、との示唆でした。神さま、戦後77年目の今、私たちはそのみことばの中に平和のヒントを見出します。どうぞ世界があなたの平和実現に向けて、一歩ずつでも歩みだせますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

24日(水) イザヤ書20章1-6節
一言メッセージ:アシュドドの反乱の顛末です。当時、アッシリアに反乱したアシュドドには様々な支援者がいました。エジプト(クシュ系王朝)もそうですし、他の地中海沿岸部のペリシテ人の都市国家もヒッタイト人などの部族も連合を組み、アッシリアのサルゴン2世に背きます。近隣国の団結を見て南ユダ王国も反アッシリア同盟に加わろうと考えますが、イザヤは自ら連行される奴隷の恰好をして「同盟に加わると、私たちはアッシリアの奴隷になる」とアピールします。これは象徴行動と言われ、預言者が神さまの預言の内容を体現するデモンストレーションです。非常に人目を引く行動ですが、イザヤが本当に告げたのは「反アッシリア同盟に与するな」ではなく、「ピンチの時にこそ、正しく神の御心に聞け」です。それは私たちに対しての示唆でもあります。私たちは6節のような後悔はしたくありません。だからこそ、「望みは神にこそかける」のです。さぁ今日も神さまが与えてくださる新たな一日です。神さまの導きを模索しながらスタートしましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝私たちはイザヤの示唆から「望みは神にこそかける」と分かち合いました。迷い多い私たちですが、迷いの中であなたと出会い、あなたを見上げて生きる者であらせてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

25日(木) イザヤ書21章1-10節
一言メッセージ:今朝の箇所は時代がまたグッと下がった預言です。少し整理しますが、紀元前721年に北イスラエル王国はアッシリアによって滅ぼされます。そのアッシリアを滅ぼしたのはバビロンとメディアの連合軍です(紀元前612年)。バビロンは紀元前598年にエルサレムを占領し、王たちを捕囚とし、南ユダ王国に自分の意に従う新しい王を立てます(第一回バビロン捕囚)。しかし、南ユダ王国はエジプトを頼ってアッシリアの支配から脱しようとした結果、紀元前587年に再度バビロンに攻められ、完全に滅ぼされ、国の主だった人々(王族、貴族、職人などの技術者たち)がバビロンに連行されるのです(第二回バビロン捕囚)。バビロン捕囚は、ぺリシアのキュロス王によってバビロンが滅ぼされる紀元前539年まで続きます。キュロスの政策は支配地域に税金を課しますが、ある程度の自治も認めます。そこでバビロンで捕囚とされていた民の一部は祖国イスラエルに帰還し、そこで新たな生活を始めます。彼らがエルサレムに第二神殿を建築するのです。さて、今朝の箇所はどの時代を指しているかと言えば、ペルシャによってバビロンが滅ぼされていく際の描写です。著者は3-5節で、バビロン捕囚を受けていた民として登場します。彼はバビロンでの苦しい生活のため体の節々の痛みを訴えますが、それ以上に注目したいのは、彼はバビロンが滅びて自分たちが解放されていくことを信じられていないことです。苦しい生活を強いられ続けると人間は希望を持つことを諦めます。希望が裏切られることが怖いからです。でも、そんな諦めに捉われていた人に神さまは今朝の箇所にてバビロン滅亡を告げます。「二頭立ての戦車」とはキュロス王に率いられてバビロンに攻め上ってきた「エラムとメディア(2節)」です。こうしてバビロンが滅びたその時、9節で捕囚であった民は「倒れた、倒れた、バビロンが。(バビロンの)神々の像はすべて砕かれ、地に落ちた」と喜び踊るのです。今朝の箇所にて分かち合いたいことは「希望は神さまにこそある」です。先ほども、人間は辛い状況が続くことで希望をもつことすら失うと記しました。それは、人間が信仰を己の願望と重ねて考えるからです。「私はこう願う」が叶えられることが信仰ではありません。神さまの御心が必ず成ると信じることが信仰です。私たちは神さまを信じ、御業に期待するからこそ希望を失わずに生きられるし、世間の風潮に流されずに神さまを信じ続けることができるのです。週の後半も神さまを信じて元気に歩みましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝の箇所で人間は己が願望が叶えられない状況が続くと希望すら失うこと、だからこそ私たちは自分たちの願いでなくあなたの御心と御業にこそ希望を抱き、信じ続けることを分かち合いました。どうぞ、あなたが希望の源であると確認しながら残りの半週も過ごさせてください。イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

26日(金) イザヤ書21章11-17節
一言メッセージ:今朝の箇所は「エドムについての預言」です。エドムはユダの南に位置でバビロンとは遠く隔たっていますが、バビロンに従属することによって繁栄していた民です。実際、エルサレム陥落時に、エドムもバビロンと一緒にエルサレムを包囲しています。エドムはアラビアのドマ(11節)というオアシスの都市にバビロンの政治状況を伝えるための伝達役を置いていました。伝達役は神さまによるバビロン滅亡がなされようとしている時に、12節のように「夜明けは近づいているが、まだ夜だ(バビロンの力は衰えてきたが、まだ滅びるわけがない)」と応えています。つまり、誰にとってもバビロンが滅びるなんて信じられない状況だし、バビロンに従っておけば、まだ安泰だと思っていたのです。しかし彼らの算段空しく、神さまの御業は進み、バビロンは滅びていくのです。今朝の箇所は人の算段や見通しが神さまには意味をなさず、御心は人の思惑を超えて実現していくと示しているのです。私たちは今日も世界や日本の情勢を見ながら、権力者の横暴な政策、支配によって苦しむ民衆の姿、戦争など、「どうしてこんなことが起こるのか」という出来事を思い起こします。でもその時に同時に「神さま、あなたの御心を行ってください」と祈る。人の思惑を超えて神さまがどう動かれるのか、私たちは期待と共に祈り続ける者でありましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝はエドムという、バビロンに追従することで栄えていた民が、自分たちの算段が所詮、人間の知恵でしかないことを経験していくとの預言を読みました。神さま、私たちは今の世界を見ながら、あなたの御心とかけ離れた状況を様々見ます。どうかその1つ1つにあなたの御心を表してください。御業が行われますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

27日(土) イザヤ書22章1-14節
一言メッセージ:今朝の箇所はエルサレムに関する預言ですが、これらは同時代に語られた神さまの預言ではなく、様々な時代の言葉が合わさった箇所と考えられます。例えば4-7節はバビロンによるエルサレム陥落の話ですが、12-14節などは陥落前夜にやけくそになって大宴会したことは考えられません(エルサレム陥落時は籠城戦だったので、食料が尽きていたとされています)。だからここは北イスラエル王国が滅亡した時の預言と考えられます。北王国がアッシリアによって滅ぼされていく時、神さまは南王国の民に「兄弟国が滅びていくことを嘆け」と呼び掛けたのに、彼らは軽薄にも「北は滅びるが、自分たちは国を存亡できた」と喜び祝いました。神さまは自分たちの利しか興味を持たない南王国に「お前たちが死ぬまで、この罪は決して赦されることがない」と語ったのでした。今朝の箇所で私は、私たちの見通しの温さ、視野の狭さを思います。私たちが物事を判断する時、見えない御心を思わず目先に捉われてばかり、冷静で客観的な視点よりも情緒的で経験則な考えに捉われてばかり、未来を思うよりも今の苦労を回避することに固執してばかり、に判断していませんか。本当に大事な視点は「神さまの御心」です。なぜなら、私たちを最善へと導くためにいつも伴ってくださる神さまを無視して、良い方向に進むわけがないからです。時には、自分にとって辛い出来事でも「きっとこれが最善の祝福に繋がる」と神さまを信じる選択も必要です。そうやって神さまに従おうとする時、神さまは私たちをますます祝福し、伴ってくださるでしょうし、選択を間違えても私たちを正しく導き直してくださるでしょう。大事なことは正しい選択をすること以上に、御心を模索し続けること。私たちは今朝の箇所でエルサレムの軽薄さを反面教師にして、神さまを信じる者でありましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝はエルサレムの民の軽薄さを反面教師とします。私たちもあなたを主と信じながら、決断をする時など、自分たちの都合や常識、算段で動いてばかりだったでしょう。最善に導いてくださるのはあなたであるのに、自分たちの思惑を優先させていたと思います。神さま、反省します。どうぞ、これからはあなたの御心を思いながら物事を判断する私たちであらせてください。間違った時にも、あなたの整えを信じ、模索し続ける私たちであれますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

***








8月14日~20日のみことば - 2022.08.13 Sat

8月も半ばを迎えようとしています。
世間的には”お盆休み”ですね。
実家に帰省したり、お墓参りをしたりして過ごす方も多いかと思います。
感染拡大中で時期をずらしたり、帰省を見合わせている方もいるかもしれませんが、それぞれに良いお休みの時となりますように。

そういえば教会には”お盆”という考え方?風習?はありません。
それは、亡くなった人は生きている私たちと分断された「あの世」にいるのではなく、私たちが生きている間も私たちを守ってくださっている同じ神さまのもとにいるのだと信じているからだと思います。
そういう意味では、教会の感覚では生前の世界と死後の世界は神さまという存在において「地続き」なのです。
ですから、特別にこの期間だけ帰ってくるという感覚はあまりなくて、いつでも神さまを介して行き来できるような?そんな感覚なような気がします。
比較して考えてみると面白いなぁ。皆さんは、どんな風に感じるでしょうか。

8月は亡くなった方を思い起こす時であり、また平和を願い、命の大切さを思う時でもあります。
教会でも毎週の礼拝で平和について聖書のメッセージを聞いていきます。
どうぞ、会堂で、またYouTubeや音声配信を通して共にメッセージを聞いてみてくださいね。

今週も皆さんの歩みが一歩一歩守られますように。
今週のみ言葉をどうぞ。

***

※聖書の箇所は日本聖書協会の聖書本文検索から読むことができます。⇒こちら
 ページの下のほうにある「書名・章・節から探す」に以下の事項を選択・入力してください。
・訳名選択     : 新共同訳
・旧新約・続編選択 : 旧約聖書
・書名選択     : イザヤ書
・章選択      : 該当章数を入力(章まで入力するとその章すべてが表示されます。)

14日(日) イザヤ書14章1-2節
一言メッセージ:13章から23章までは、イザヤによる諸国民への預言集です。昨日13章ではバビロンへの審判が語られましたが、今朝の箇所では、「バビロンが弱体化していくことが、支配されていたイスラエルの民の回復になる」という箇所です。ここで歌われているのは、社会の逆転です。かつて、支配していた者が支配される側に、踏みにじられてきた者が社会の強者となっていく。その原動力は1節「主の憐み(愛)」のゆえです。こう書きますと、神さまの愛はイスラエルにだけ注がれ、それ以外はご自分の民ではないかのような印象を与えますが、そうではありません。明日からの箇所ではイスラエルの周辺の強国、民族への裁きの言葉が続きますが、それは「彼らを切り捨てるための言葉」というよりも、「彼らもまた、神の支配の下にある民」という言葉です。事実、先の話ですが、19.25などでは支配していた者と支配されていた者とが共に共存する姿が描かれていきます。そういう結論を分かって読み進めていく時、私たちは神さまの御心が、国々の衰退にあるのでなく共存の平和にあることを見出します。共に生きるようになるために、他者を踏みにじってでも強者であろうとする者が、その性根を叩き折られていくのです。明日は8.15、77年目の敗戦記念日です。77年前を意識しながら、みことばを味わいましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝の箇所は、イスラエルの回復の箇所でした。イスラエルが回復されていくのは、国の衰退という表面的な理由でなく、あなたの憐み、愛、共存の意志のゆえです。神さま、今わたしたちは77年目の敗戦の夏を迎え、戦争の惨禍を思い起こしながら、二度と戦争をさせないためにみことばを読みます。どうぞ私たちに平和の示唆と具体的な取り組みをお示しください。先ずは、平和憲法を維持することができますように。平和の君イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

15日(月) イザヤ書14章3-23節
一言メッセージ:今朝は77年目の敗戦記念日です。今朝の箇所はバビロンの滅亡預言ですが、私たちはこの箇所を、77年前の日本に与えられた言葉のように読んでみたい。というのも、77年前、私たちの国は敗北しましたが、それは日本の支配を受けていたアジア諸国にとっては3節で語られるように、解放の知らせだったのですから。私たちは今朝、バビロン滅亡の預言に、日本のかつての歴史を重ねて読みます。その時私たちは、日本の過ちの数々に気づかされます。例えば、6節でバビロンが力によって諸国を踏みにじり、人々の権利も命も蹂躙してきたことが指摘されます。戦中の日本軍がアジアにて行った虐殺、労働力確保のための人々の拉致、従軍慰安婦はもちろん、同化政策ではそれぞれの国の言語を使わせず、日本語を強要し、母国語を話す者をスパイ容疑で拷問しました(挙句、歴史修正主義の人々は「日本がそんな残虐なことをするわけがない」と主張し、小さな事例による反論を試みますが、そんな数例で全体の残虐行為を否定できるわけがありません。愛国心と妄信的な願望をごちゃまぜにしてはいけません)。また、13節で「お前は心に思った。『わたしは天に上り、王座を神の星よりも高く据え…いと高き者(神)のようになろう』」と書かれていますが、これも、天皇を神とし、「神国」と自称し、「国の危機には神風が吹く」と騒ぎ、最後には「神風特攻隊」と称して、若者たちに自爆テロを強いていく愚行に走った日本の姿と重なります。また20節の「お前は、自分の国を滅ぼし、自分の民を殺した」との言葉も、日本の捨て石にされた沖縄や、少しでも良い和解条件を作ろうとした結果、原爆が投下された広島、長崎のこと(中島文昭協力牧師が生前、5歳で経験した被爆体験を話して下さりながら、何度も悔しそうにこう主張しておられたことを思い起こします)、また「欲しがりません、勝つまでは」とのスローガンのゆえに栄養失調で死んでいった子どもたち、家族の大黒柱を奪われ、路頭に迷った家族、戦後の大量の戦災孤児などなど。国の驕りのために、国内外に多大な犠牲を強いて滅んだバビロンと、77年前の日本の姿は密接に重なります。戦争は勝とうが負けようが、民衆にぬぐいがたい傷を負わせるのです。77年目の敗戦記念日を迎え、私たちは「何があろうと二度と戦争しちゃいかん」と再確認しましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。バビロン滅亡の記述を見ながら、私たちは、勝とうが負けようが、戦争がどれほど大きな傷を国内外の民に強いるのかを観ました。それは77年前の日本の姿でした。神さま、もう二度と戦争させないと誓って制定された憲法の決意を今わたしたちも自分たちの決意とします。どうぞ、世界があなたの平和実現に向けて歩みだせますように。平和の君イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

16日(火) イザヤ書14章24-27節
一言メッセージ:今朝はアッシリアへの預言です。アッシリアは北イスラエル、アラム、ペリシテという反アッシリア同盟を滅ぼし、南ユダ王国に従属を強いた強国でしたが、後にバビロンによって滅ぼされた国です。一時代はエジプトにまで強い影響を与えた強国でした。しかし、彼らもまた、滅びを宣言されます。イザヤは告げます、27節「万軍の主が定められれば、誰がそれをとどめえよう。その御手が伸ばされれば、誰が引き戻しえよう。」人は軍事力などの力によって栄華を誇ろうとします。しかし、人の力など、神さまの前に無力なものです。人は力を破壊できる能力と捉え、軍を誇りますが、神さまの力は創造のために用いられていきます。本当の力とは、相手を滅ぼすためのものではなく、生かすためのものなのです。今、私たちは力を正しく認識し、「平和(シャローム:神の平和を表す言葉。全ての人が、神が与えてくださった命や尊厳を喜び、『今日も生きててよかった』と心から享受し、共存し合う状態)」実現のために用いていきたいものです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。あなたは強国アッシリアの威を退け、破壊でなく、平和実現のために力を奮われる方です。神さま、どうぞ今、世界に平和を実現してください。長引くウクライナの惨状を、ミャンマーやウイグルでの人権侵害を、一部の利益・多数の都合のために原発や米軍基地などの犠牲を強いられる地域を、政治によって無力にされる多くの民を憐れんでください。どうか一日も早く平和シャロームを実現してください。私たちにもその一助を担わせてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

17日(水) イザヤ書14章28-32節
一言メッセージ:今日から三日間、取り上げられるペリシテ、モアブ、ダマスコ(アラム)とエフライムは反アッシリア同盟を組みましたがアッシリアに滅ぼされた3国です。28節では「アハズ王の死んだ年」と記載されています。アハズは反アッシリア同盟加盟を拒否した時の南ユダ王です。彼は同盟を拒否したため、反アッシリア同盟に攻め込まれ、それを撃退するためにアッシリアに貢物を贈り、反アッシリアを背後から攻め滅ぼしてもらいました。聖書研究によれば、28節の「アハズ王の死んだ年」という記載は正確ではなく、正確には「ペリシテを滅ぼしたアッシリアのサルゴンⅡ世の死んだ年と言われます。その年にイザヤは、ペリシテに「アッシリアが滅んだからといって、自分たちは解放されると思ってはならない」と告げています。「蛇の根からマムシが出る(29節)」とあるように、より強大な外敵であるバビロンが攻めてくることが示唆されているのです。そんな厳しい預言の中で私たちの目に留まるのは32節です。イザヤは「シオン(イスラエル)」という弱小国家に注目するように示します。強国の前に吹けば飛ぶような弱小国に過ぎないのに、「その基を据えるのは主」であり、「困窮する民の救いはそこにある」と示します。その意図は「人間は目に見える強さによって物事をはかる。しかし、本当の強さとは主にこそあり、主は弱くされた民と共におられ、民を受け入れられる方だ」と告げるのです。戦争の世紀と言われた20世紀を終え、21世紀に入った途端に世界は2001年のニューヨークの同時多発テロを目撃し、それ以後も暴力による圧政は世界各地で続いています。また、一見すると落ち着いているようですが、世界は長引く不況と政治によって、民衆がじわじわと苦しめられ続けています。今わたしたちは「本当の力とは神にあり。神は民をご自身に招いてくださる」ことを改めて思い起こしていきましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝、ペリシテへの警告を読みながら、力とはあなたにこそあること、そしてあなたは民をご自分に引き寄せ、慰めと平和をくださる方であることを分かち合いました。戦争の世紀と言われた20世紀を終えたのに、私たちは新たな世紀に入って22年、未だに争いや力による理不尽に直面しています。神さま、あなたの平和を願い求めます。どうぞ世界に、あなたにこそ力と平和があることを悟らせてください。平和の君イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

18日(木) イザヤ書15-16章(今日は2章分です)
一言メッセージ:昨日のペリシテへの警告に続き、今朝はモアブの滅亡預言です。全体を通して、モアブがアッシリアによって滅ぼされていくことの描写が長大に書かれていますが、気になる箇所が2箇所あります。15.5「わが心は、モアブのために叫ぶ」と、16.11「わがはらわたはモアブのために、わが胸はキル・ヘレスのために、竪琴のように嘆く」です(キル・ヘレスは7節の「キル・ハレセト」と同じで、どちらも15.2の「キル」を指しています)。今朝の箇所ではモアブの滅亡が淡々と語られてきたような印象ですが、この2箇所を見ると、神さまが自分の身を切られるような思いでモアブの滅亡を語ってきたことが分かるのです。「罪ある者が滅亡していく様を、神は自らの痛みと受け止めながら嘆く」というのはエレミヤ31.20でも記されますが、ここに私たちは神さまの真意を見出します。神さまは「罪人は滅びて当然」と切り捨てる神ではありません。民の罪はうやむやにできないけれど、その罪のためにご自分も共に痛みを味わう方です。罪人を赦し、生かすために、御自分も共に痛みを引き受けてくださる方なのです。これが「憐れみ」です。考えてみますと、私たちも皆、神さまの憐みによって救われました。だからこそ、今ある命を感謝し、神さまに応答して生きる者でありたいですね。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝はあなたが、モアブのために自ら痛みを負って嘆いてくださる姿を読みました。あなたは罪人を切り捨てるのでなく、その者に伴いながら、立ち返り、生き直すことを促してくださる方です。私たちもそうやって、救われました。神さま、どうぞあなたの救いを喜び、感謝して今を生きる者であらせてください。平和の君なる救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

19日(金) イザヤ書17章1-11節
一言メッセージ:今朝は「ダマスコとエフライム」への預言です。ダマスコはアラム王国の首都であり、エフライムは北イスラエル王国のことです。この箇所は反アッシリア同盟が滅ぼされていく様を描いた箇所です。注目したいのは7-8節です。神さまはアラムも北イスラエル王国も滅亡することを語っていますが、しかし7節「その日には」と、神さまの救いによる回復の時が来ることを語っています。そして、「その日」に民が気づくのは、自分たちがご利益を求めて信じていた神々(バアル、アシェラなど)はしょせん「自分の手が作り、自分の指が作った祭壇」でしかなかったことです。ここが人間の弱さですが、人間は時に、自分たちの願望を正当化するために「神」を作り出します。自分たちの都合で信仰を操作し、自分に有利なように他者を縛ろうとします。例えば、恐怖で人を縛り、信じられない額の献金を強要したり、犯罪行為に手を染めさせる旧・統一協会などのカルト宗教はその例です。でも、私たちはそこで冷静に、本物の神さまを見極めねばならないのです。戦時中、天皇を神とすることによって多くの国民やアジア諸国の人々の生活と尊厳と命を奪った愚行を二度と繰り返さないように、私たちは神さまを正しく神さまとしてまいりましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝わたしたちは、アラムと北イスラエル王国滅亡の預言を読みながら、自分たちの願望を正当化するために神を作ることの愚かさを考えました。私たちの国もかつて、天皇を神とし、その結果、戦争の大惨禍を行ってしまいました。神さま、私たちは二度と道を誤りたくありません。どうぞいつも、あなたに誠実に向き合う私たちであれますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

20日(土) イザヤ書17章12-14節
一言メッセージ:今朝の箇所の表題は「諸国民のどよめき」です。何による「どよめき」かと言いますと、ペリシテ、モアブ、アラム、北イスラエルを滅ぼし、南ユダを従属させ、エジプトと対立し、強大な力を誇り、紀元前7世紀前半には世界の覇権を握ったアッシリアが、その数十年後には急激に衰退し、バビロンによって滅ぼされようとしているため、です。諸国は強大な力を誇ったアッシリアが、かくも脆く滅びる様子を目の当たりにし、「いかにすれば生き残れるか」と時代を先読みしようと騒ぎ経っているのです。しかし預言者は言います。13節「国々は、多くの水が騒ぐように騒ぎ立つ。だが、主が叱咤されると彼らは遠くへ逃げる。」本当に頼るべきは誰か、信じるべきは誰か。彼らは神さまの力の前に、己が驕りを恥じ、退くのです。さて、今朝の箇所は「諸国民が退いて終わり」なのでしょうか。いいえ、イザヤは2章の終末預言で、諸国の民が主の前に集い、争いを止め、武器を捨て、殺し合うのでなく共に生きる世界を目指して歩みだすことを預言します。その過程として、諸国は今、退くのです。世界が本当の平和に気づき、その実現に一歩踏み出すには、彼ら自身が戦争の愚かさと平和の尊さ、その実現の手段のために自分たちが何を行うのか、気づく必要があるのですね。私たちは既に神さまの平和を気づかせていただいた者として、争いを止め、互いを否定すること(武器)を手放していきたいものです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝読んだ箇所は、諸国民が本当にあなたの平和に気づくために、大混乱を経験することでした。それまでの、自分たちの力に頼る生き方が無駄であったことを悟り、本当の平和に気づき、実現のために一歩踏み出すには、時間がかかります。それは今の世界も同じです。神さま、どうぞ世界があなたの平和のヴィジョンに気づきますように。力による支配でなく、互いを認め合う共存を目指していくことができますように。戦後77年目の今、平和の君イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

***







7月31日~8月13日のみことば - 2022.07.30 Sat

7月も終わりを迎えようとしています。
暑さも本番を迎え、熱中症の注意報が出る日もちらほら。
どうぞみなさん、体調第一に過ごしてくださいね。

教会では、感染対策をしながら礼拝を続けていますが、不安な方にはオンラインでの礼拝参加も呼び掛けたりしながら、体と心の健康を保ちながら過ごすようにおすすめしています。
そして、これはコロナ感染症が流行し始めてからずっと私たちが言い続けていることですが、「コロナにかからないのが一番いいけれど、もしもかかってしまってもどうぞ連絡してください。つらい時だからこそ孤独にならないで、祈ってつながりましょう。」と呼びかけています。
現代は、「ご近所付き合い」や「親戚付き合い」そのほか、様々な人間関係でも、あまり深く付き合うことをしなくなってきました。わずらわしさから解放された面もあるかもしれませんが、誰かに頼ったり、頼られたりしながら支え合う機会も減ってしまったのかもしれないなとも思います。
「だれかに迷惑をかけてはいけない」という思いは、人を孤立させていってしまうことも多々あります。だから、教会では「お互いに迷惑をかけない」ではなく「お互いに困ったときはまず祈り合おう、支え合おう」と考えています。
そして、だからこそ、そんな教会の交わりは弱さをさらけ出してもいいほっとできるものなんだなとコロナ下になって改めて感じています。
こんな素敵な交わりに、一人でも多くの方が集ってくださることを願っています。

今週も皆さんの歩みが神さまに守られますように。

***

※聖書の箇所は日本聖書協会の聖書本文検索から読むことができます。⇒こちら
 ページの下のほうにある「書名・章・節から探す」に以下の事項を選択・入力してください。
・訳名選択     : 新共同訳
・旧新約・続編選択 : 旧約聖書
・書名選択     : イザヤ書
・章選択      : 該当章数を入力(章まで入力するとその章すべてが表示されます。)


31日(日) イザヤ書11章1-11節
一言メッセージ:今朝は番外編で、イザヤ書11章の「神の国」預言と現行憲法の話をしたいと思います。イザヤ書11章が示す「平和実現」は「子どもたちが争い合わず、兄弟のように育てる未来を作るために、親たちが過去の対立を乗り越えようと努力し始めることであり、その民に寄り添い、彼らの痛みや苦しさを受け止め、共に生きる救い主が与えられ、神の平和のヴィジョンが多くの人に共有されていく」です。私はこのヴィジョンを現時点で最も的確に訴えているのが現在の日本国憲法前文と思っています。憲法前文を、下線部に注目しながら読んでみてください。
日本国民は正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民と協和による成果と、わが国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基づくものである。われらはこれに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義を信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う。われらは全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和の内に生存する権利を有することを確認する。
われらは、いずれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従うことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立とうとする各国の責務であると信ずる。
日本国民は、国家の名誉にかけて、全力をあげて崇高な理想と目的を達成することを誓う。
  前文を読みますと、憲法の目的は「政府の行為によってふたたび戦争の惨禍が起こることのないように」、世界に平和を実現することにあると分かります。そのために憲法は3つの原則を作りました。先ずは「平和主義」です。9条でも記されますが、日本国憲法は武力行使を拒絶し、「平和を愛する諸国民の構成と信義を信頼して」平和であろうと考えました。そして、「平和主義」を守るために、「国民に主権」を与えて、「政府の行為に」よる戦争を回避させようとしたのです。私たちの主権は「戦争をさせないため」に、先の戦争の惨禍を繰り返さないために託されたのです。しかし、私たちは時に権力の前に自分たちを無力と感じてしまいます。そこで憲法は「基本的人権を尊重(「平和を愛する諸国民」や「全世界の国民が欠乏から免れ、平和の内に生存する権利を有する)」することを憲法で定めました。さらに何がすごいって、この憲法は「周辺国は知らんけど、日本人はこうやって生きていきます」という視野狭窄ではなく、「平和を愛する諸国民」「全世界の国民が」と語り、「世界の人々が戦争の無い平和を願っているし、誰もがちゃんと命を喜んで生きることができる権利がある」と定めています。つまり、世界の人々と共に生きることを憲法は願ったのです。私は憲法前文を読みながら、イザヤ書が語る「皆が過去の対立を乗り越えて互いに尊重し合って生きられるように、子どもたちの未来を守るために、今、自分たちが努力を始めよう」という平和実現の方向性と重なって読めるのです。だから、結論としてこう言います。私たちの国の憲法は現時点においても世界で最も先進的な平和実現を目指しており、戦争と暴力の拒絶という、まだ世界が到達し得ていない高い理想を謳っています。それは、イザヤ書が示す平和実現と重なっています。だからこそ私は憲法を守らねばと思うのです。明日から8月、平和を覚える時です。戦後77年目、平和実現を机上の空論にせず、子どもたちの未来のために歩みだしましょう。私たち自身がまず「平和を実現する者(マタイ5.9)」となっていくのです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝はイザヤ書11章と現行憲法を重ねて読みました。現行憲法はイザヤ書の示す平和実現のために与えられた具体的な力です。改憲を訴える人々もいますが、どうぞ、この憲法の精神を分かち合いながら、この憲法に基づいて平和実現を訴えていくことができますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

8月1日(月) イザヤ書11章11-16節
一言メッセージ:神さまの平和預言(11.1-10)直後の箇所ですが、11節で「その日が来れば(10節冒頭と同じ)」とあるように、これは1-10節の神の平和が具体的に実現した時に預言でもあります。11節で描かれているのは「御自分の民の残りの者を買い戻される」です。政治的混乱や戦乱、強国による滅亡などによって捕囚となっていた歴史など、これまでイスラエルが経験していた様々な状況によって散り散りにされていたイスラエルの民が帰還してくるというのです。11節の「アッシリア」は北王国を滅ぼしたアッシリアであり、「エジプト、上エジプト、クシュ」はアフリカ大陸の雄エジプト、「エラム、シンアル」はバビロンを、「ハマト」はシリア地方、「海沿いの国々」は地中海沿岸地に逃げ、あるいは捕囚として暮らしていた人々を指し、彼らが皆帰ってくると記します。さらに13節では「エフライムとユダ」が言及されますが、エフライムはかつての北イスラエル王国の中心部族で、ユダは南ユダ王国です。北王国滅亡の決定打となったシリア・エフライム戦争で双方が敵対して戦争しましたが、その対立の歴史も乗り越えられていくのです。14節は「イスラエルが逆に近隣国を侵略している」みたいに見えますが、9.11との関係で見ると、奪われていた土地を取り戻すというニュアンスです。15節はエジプトに、16節はアッシリアに囚われていた人々の帰還の預言です。私たちには土地名や民族的対立と敵対関係はよく分かりませんが、要素だけ抽出するなら、この箇所では「力の支配によって虐げられていた民の権利が回復され、あらゆる敵意が乗り越えられ、皆が本来生きていた場所にて生きられるようになる」との預言です。今日から8月に入ります。神さまのみことばから「平和(シャローム)」を意識し、過去の戦争を思い起こし、現在の世界を見渡し、未来のこどもたちに同じ過ちや悲しみを負わせないために、平和を祈り、行動する時です。その始まりの日、私たちは散らされていた民の帰還と和解、共存が、神さまの平和の姿と分かち合いました。さぁ、これを現実化するため、今わたしたちは、そして世界は何から取り掛かるでしょうか。この8月、共に平和を祈ってまいりましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝はあなたの平和の実現がイスラエルの民にとってどんなものであるか、そのみことばを分かち合いました。そこに書かれていたのは、あらゆる民の帰還であり和解であり、共存でした。神さま、世界はまだまだあなたの平和(シャローム)と程遠いです。でも戦後77年の今年、私たちはまたみことばから平和を分かち合い、どう実現できるか、模索してまいります。どうかあなたの平和を実現してください。そのために私たちも参与することができますように。平和の君イエスさまの御名で祈ります。アーメン。
※明日から11日まで牧師の夏季休暇のため、みことばメールはお休みです。時々、イザヤ書11章1-10節のメールを振り返りながら、平和(シャローム)実現をお祈りください。


12日(金) イザヤ書12章1-6節
一言メッセージ:ご無沙汰していました。夏季休暇を終え、久留米に戻ってきました。今日からみことばメール再開です。さて、再開一発目は神さまの救いへの人々の応答です。イザヤは1節で「あなたは言うであろう」と、神さまの救いを体験した個々人の応答を語り、4節では「あなたたちは」と、今度はイスラエルの民衆の応答を語っています。1-3節では一人ひとりが神さまに「慰められた、救われた」と語ります。ここで注目したいのは、ここでは一人ひとりが神さまの救いを「この社会のこと、国のこと」以前に、「私の事柄」と実感していることです。彼らは自分たちの生活で神さまの救いを変化として感じているのです。その具体例が3節です。この「泉に水が湧き、皆が水を飲める」ということは、乾燥地帯であるイスラエルの民にとって極めて現実的な恵みでした。ちなみに、この光景は小学校の時にフォークダンスで踊った「マイムマイム」のオリジナル描写です。あの曲の歌詞は「マイム、マイム、マイム、マイム、マイム・ベッサッソン」でしたが、ヘブライ語「マイム」は「水」です。私たちはよく分からないままに踊ってましたが、あの曲は「水や、水!水が出た~♪」という喜びの歌です。さて4-6節は民が集団として神さまの救いに応答する箇所です。注目したいことは、彼らは神さまが自分たちに成してくださった事柄を諸国民への証としていることです。それも「私たちはこんなに祝福された。いいだろ?」との自慢でなく、「このちっぽけな自分たちを顧みて、信じられないほどに救ってくださったのは、ただ祝福に満ちた神さまのゆえ」と、神さまを強調しているだけなのです。8月は平和について考える時です。戦後77年、私たちが語り足りていなかったことは「平和の尊さ」だったかもしれません。戦争の悲惨さは様々聞いてきまし。けれど、伝え聞いた言葉はどうしても薄れてしまいます。では、戦後世代にとって語れる言葉は何か。それは、伝え聞いてきた戦争の悲惨さと共に、「今、私たちはそんな悲惨な歴史の上に、平和の一端をいただいている。武器を捨てると憲法に記したからこそ、戦後77年、戦争に巻き込まれずにこれた。でも、この平和はまだ、未完成であること。もっと実感をもって、もっと広げて、それこそ世界に平和を実現していこう」と感謝と夢を語っていくことなのかもしれません。神さまの平和シャローム実現はまだ私たちに託された使命ですね。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝の箇所では、あなたの救いを経験した民が、個々人の生活においてもあなたの救いを実感していたこと、民衆としてはその救いを証しとして全世界に告げようとしていたことを分かち合いました。神さま、戦後77年、私たちもそこに示唆を見出します。戦争の悲惨さと共に、憲法が戦争を拒否したからこそ私たちが享受できた平和の喜びと証を今度は私たちが身近なところから世界へと告げる番なのかと思います。神さま、どうぞ世界にあなたの平和シャロームを実現してください。私たちにその一端を担わせてください。77年目の8月に平和の君イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

13日(土) イザヤ書13章1-22節
一言メッセージ:今朝の箇所はペルシア王キュロスによってバビロンが滅ぼされていく預言です。記述では、バビロンが徹底的に破壊されていく様を描いていますが、史実はまるで違います。バビロンはキュロス王に対して無血降伏したのです。バビロンの最後の王ナボニドスはその悪政により、既に将軍たち、民衆、バビロンの神マルドゥクの祭司たちからも見放されていたようです。一方、キュロス王は支配した地域に対して穏健な統治を行っています。その土地の信仰を認め、政治的自治もある程度を認め、捕囚民は解放して自分たちの故郷に戻ることを認めています。徴税や賦役は軽くはなかったものの、非人道的な無茶な支配は行わなかったため、バビロン側の民衆や祭司たちが無血開城して、バビロンは滅びたのでした。それが2節の「手を振り、貴族の門から入る」との記述です。では、今朝の箇所後半で「神の怒り」として街が破壊され、バビロンの民が殺害される記述は何か。それは、それまでのバビロンの、自らを神かのごとく振る舞う支配に対して、彼らが所詮人間でしかなく、神を自称するおこがましさを示すために、非常に対照的に記した記述のようです。先月の祈祷会ではハバクク書を読みました。ハバクク書1章では、バビロンによる南ユダ王国滅亡時の攻撃の激しさに「ここまでするのか」と嘆く預言者ハバククの呻きが書かれていましたが、2.2-4で神さまは「(私の業は)必ず来る」と語り、王が強い力を誇っても、所詮、人間に過ぎないと記していました。事実その言葉どおりバビロンは、かつての隆盛を知っている者から言えば信じられないような無血降伏で滅びていくのです。今朝のイザヤ13.22で神さまは言います、「今や、都に終わりの時が迫る。その日(神の救いの日)が遅れることは決してない。」今朝は8/13。77年目の配線記念日を前に、私たちは神さまの平和実現を改めて祈らされます。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝、私たちはバビロン帝国の滅亡の記事を読みました。そこには、甚だ無残な記述が並びます。けれど史実は、バビロンの無血降伏でした。預言者はその滅亡に、神さまの御業を見たことでしょう。神さま、今、私たちの国は77年目の敗戦記念日を控えています。そして、私たちは戦争の惨禍を繰り返さぬべく作られた憲法の改憲危機を迎えています。どうか私たちにあなたの平和を示し、その尊さと、「護ろう」との言葉と勇気と機会をお与えください。平和の君イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

***






7月24日~30日のみことば - 2022.07.23 Sat

いよいよ小学校などは夏休みに入りましたね。
子どもたちには楽しい夏を過ごしてほしいと思いますが、感染拡大で出かけるにもいろいろと考えてしまう状態です。
落ち着いたと思ったらまた感染拡大。いつまで続くのかと見えないトンネルを通っているような気持にもなります。

聖書の「詩編」にはそんな先の見えない状態の中で「神さまなぜですか?」「神さまいつまでですか?」と問いかける詩がたくさん記されています。自分に敵対する者に対しての思いをつづる文章では、時々「え!聖書にこんなこと書いてあるの?」と思うほど過激なことが書いてあることもあります。
でも、そんな苦難の中で神様に訴える詩編は、ほとんどの場合最後は「神さまは素晴らしい。ハレルヤ」というような言葉で終わります。
わたしたちも日々様々な困難の中で「なぜ?」「いつまで?」と問いたい思いを抱えています。でも、聖書はそれもいつかは神さまへの賛美に変わっていくことを伝えています。
それがいつになるか私たちには、わかりません。
でも、私たちを愛しておられる神様は必ず解決の時を与えてくれるのだと信じて、この大変な時を乗り越えていきたいなと思わされています。

今週もみ言葉に励まされながら歩んでいきましょう♪


***

※聖書の箇所は日本聖書協会の聖書本文検索から読むことができます。⇒こちら
 ページの下のほうにある「書名・章・節から探す」に以下の事項を選択・入力してください。
・訳名選択     : 新共同訳
・旧新約・続編選択 : 旧約聖書
・書名選択     : イザヤ書
・章選択      : 該当章数を入力(章まで入力するとその章すべてが表示されます。)

24日(日) イザヤ書8章23節後半-9章6節
一言メッセージ:昨日の続きです。昨日は「神さまの情熱で平和が実現していく、とイザヤが預言した」ことを読みました。今朝は預言の内容5-6節に注目します。イザヤは「ひとりの男の子が『私たちのために生まれた』」と語りますが、この子について「その名は『驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君』と唱えられる」と説明しています。その言葉を1つずつ短く考えていきたい。①「驚くべき指導者」を英訳聖書で見ますと「ワンダフル カウンセラー」と書かれています。カウンセラーには「相談者」という意味がありますが、聖書が語る「驚くべき指導者」とは「民の声を聞き、理解する者」という意味合いがあります。②「力ある神」の「力」とは誰かと誰かを比べて「こっちが強い」と比較できるような力ではありません。強調すると「限界の無い絶対的な力」です。③「永遠の父」の「永遠」とは、限りの無いことから派生して「不変」を意味します。いつ、いかなる時にも、私たちがどういった状況に陥っていても、決して変わることのない保護者としていてくれるのが「永遠の父」です。④「平和の君」の「平和」はヘブライ語のシャロームです。シャロームは単に「戦争が無い」ではなく、「生きとし生けるものが本来、神さまが与えてくださった命を喜び、共に生きている状態」です。イザヤの語った4つの言葉のイメージをまとめましょう。「この子は、民の現実を自ら味わい、彼らの声を知り尽くし、圧倒的な神の力と不変の存在として私たちと共に生きてくださり、誰もが『生きててよかった』と神に感謝するような命を与えてくれる方」です。イザヤは続けて6節で、このみどりごによって「平和は絶えることがない。王国は正義(神の恵み)と恵みの業(誰もが当たり前に生きられる社会)によって、今もそしてとこしえに、立てられ続ける」と語ります。救い主が実現するものは「永遠の平和」です。まもなく、8月に入ります。戦後77年、戦争を直接知っている世代が減る中で、その「二度と戦争を繰り返しちゃいかん」との言葉をどう引き継ぎ、皆で共有し、子どもたちに伝えていけるか、課題です。そんな私たちにイザヤ書は「民の生身の声を知る」から始まる平和実現のヒントをくれています。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝は、未来ある赤ん坊の誕生に神さまの平和の実現を見たイザヤの言葉を読みました。そのことばは今の私たちから見ても理想的ですが、実現の遠い言葉でもあります。でも神さま、あなたは私たちに平和を実現させようと願ってくださいます。どうぞ私たちが平和を諦めず、一歩ずつでも、誰もが互いに尊びあって生きる平和実現に向けて歩みだせますように。平和の君イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

25日(月) イザヤ書9章7節-10章4節
一言メッセージ:今朝の箇所は非常に分かりにくいですが、昨日まで読んでいた「南王国への裁き」ではなく、「北王国への裁き」です。聖書の記述が込み合っていますが、まぁ、結論部分で言えば、北も南も大差ありませんので、普通通りに読んでいきましょう。今朝の箇所では4回にわたって「しかしなお、主の怒りはやまず、御手は伸ばされたままだ」が繰り返されます(それぞれ、11節、16節、20節、10章4節の末尾)。先ず、この箇所の構成を理解したいのですが、7節の「主は御言葉をヤコブに対して送り」とありますが、「御言葉(ダーバール)」というヘブライ語は「出来事」とも訳せる言葉です。つまり、神さまは4回にわたって北王国に悔い改めのチャンスとなる出来事を与えたが、彼らは神さまに応えず、そのチャンスを無下にした。だから、「主の怒りはやまず…」だと言うのです。1回目のチャンスは7-11節にある「北王国が反アッシリア同盟を組むとき」、2回目のチャンスは12-16節で「指導者も宗教者も神の御心を考えず、目先の同盟に頼ろうとしたとき」、3回目のチャンスは17-20節で「同じ北イスラエルのマナセ族とエフライム族で敵対したとき」、4回目のチャンスは10.1-4で「貧しい者を見捨て、権力者の私利私欲で国が突き進んでいたとき」です。それぞれに共通するのは「その時々に、神さまの御心を求め、自分たちの在り方を見返せばよかったのに」です。ユダヤ人のことわざの「人は後ろ向きに進む」という言葉があるそうですが、これは「過去を振り返りながら、見えぬ未来に向かって生きるのが人間」という意味だそうです。未来は見えなくとも、過去を振り返りながら歩めばいい。しかし、北王国の民は自分たちの利益と都合だけで過去も神さまも見ずに突き進むのです。私たちはイザヤ書を読みながら、過去の過ちを繰り返さず、神さまの御心を求めて歩む者でありたいですね。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝は北王国への裁きの言葉でした。神さま、あなたは何度も民にご自分に気づくためのチャンスをくださったのに、民は己が都合、己が利益、己が知恵に固執した結果、あなたを見失い、滅びました。神さま、私たちは過去の歴史とあなたの御心に注視しながら生き方を模索します。どうぞ、あなたの平和に向けて一歩ずつでも歩み出す私たちであれますように。平和の君イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

26日(火) イザヤ書10章5-19節
一言メッセージ:今朝の箇所はこれまでには珍しく、アッシリアに対する裁きの言葉です。5節でイザヤは人間の社会では絶対的な軍事力を誇るアッシリアを「神の鞭、神の杖」と説明し、南王国を正すためにアッシリアを用いたと語ります。つまりイザヤは「アッシリアは南王国を懲らしめるための道具」と言うのです。しかし、8-11節でアッシリア王は自分の力を誇り、驕ります。カルノ、カルケミシュ、ハマト、アルパド、ダマスコはそれぞれアッシリア王が滅ぼした街であり、「サマリアもエルサレムも必ず同じようになる」と驕ります。これに対してイザヤは15節以下で「道具が神のように振る舞うとは何事か」と叱責するのが今朝の箇所です。イザヤの「所詮、王も人間に過ぎない。神の前に驕ってはならない」という理解は極めて的確です。人は神ではないのです。だから、どれほど力を持とうと驕ってはならない。以前、ある牧師の息子から父親(とっても情熱的な牧師で説教中によく泣く)の説教の話を聞きました。「皆さん、私たちは神さまを『主』と呼びます。一方、人間で力を持ち、てっぺんまで上り詰めた者を『王』と評しますが、『王』と『主』の漢字の違いに注目してほしい。『主』は『王』から切り離されて、なお上に『てん』が乗っている。つまり、『主』とは人間が決して到達し得ない、卓越した存在なのです。」彼はこう語りながら、泣いていたそうです(笑)。「何も泣かんでも」と思いますが、とても印象的で大事な示唆です。人間は神にはなれない。ゆえに、神に対して驕ってはいけません。さすがに私たちは「王」にはなりませんが、それでも「王」のように振る舞う者を前にしても「あなたは主なる神ではない」とちゃんと理解し、振り回されず、御心を求める者でありたいですね。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。イザヤはアッシリア王の驕りを指摘し、「人間が神にはなれない」と明確に語りました。私たちはその確固たる指摘に、人間の傲慢さと神さまの尊さを思い起こします。神さま、私たちはいつもあなたの御心を求め、その示唆に生きる者に、力に惑わされぬ者としてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

27日(水) イザヤ書10章20-27節
一言メッセージ:昨日の箇所でイザヤは「アッシリアがたとえどれほど強大であっても、所詮は人間に過ぎず、本当に頼るべきは神さま」と語りました。そして、今朝はアッシリアの滅亡も語り始めます。20-23節ではアッシリア滅亡の預言です。そこでは何度も何度も「イスラエルの残りの者が帰って来る」と語られます。とても考えさせられるのは「アッシリア滅亡時に帰って来る者は『残りの者(わずかな者)』」ということです。アッシリアが滅亡に至るまでの間に、多くの民がその強大さに「結局、アッシリアには誰も歯向かえない」と心折れてしまっている。人間は終わりの見えぬ苦しみにとても弱いのです。「いつまでこの苦しみ、痛みが続くのか」と思う時、私たちはまるで永遠に苦しみ続けると勘違いして、早々に心折れてしまいます。でも、神さまは24-27節で語ります。「かつて、あなたたちの先祖を奴隷として苦しめたエジプトさえ、私の前に屈したではないか。その私が今、お前たちに救いを語っている。」今朝の箇所は「辛い状況下でも、なお神に希望を持ち続けなさい」との促しです。アウシュヴィッツ強制収容所を生き残った精神科医ヴィクトール・フランクルは収容所を生き残った人と生き残れなかった人の違いを「希望を持ち続けられたかどうか」と説明しています。希望がいつ実現するか分からなくても、希望があると信じ続ける者は生き残っていく。イザヤも今朝「強大な人間ではなく、神にこそ目を向け、希望を保ちなさい」と促してくれます。私たちも、神さまの平和シャロームに実現を期待して祈り続けましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝の箇所にてイザヤは「強大な力に屈するのでなく、神に希望を保ち続けなさい」と促します。私たち人間は目の前の現状で右往左往します。けれど「驕れる人も久しからず」のように、権力を振るう者も一時の存在に過ぎません。神さま、どうぞ私たちは一時の出来事に惑わされず、あなたの御心を追い求め、あなたに希望を持ち続ける者であれますように。平和の君イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

28日(木) イザヤ書10章27節後半-34節
一言メッセージ:話が行ったり来たりしていますが、今朝の箇所は反アッシリア同盟が南王国に攻め込んできた時の描写です。なぜ、それが分かるかと言えば、27節後半から32節に至る町の名前が南王国の町々だと言われるからです。詳しいことは分かりませんが、このルートはエルサレムに至る主要道路ではないそうです。主要道路にはラマ(29節)という防衛の要衝があるそうですが、反アッシリア同盟はそのルートを避け、防衛体制が希薄なルートを通ってエルサレムに近づきます。だから29節の「ラマは震え」は、防衛拠点が取り残されて周辺が次々と陥落していく様子に、「えっ!思ってたんと違う!」と動揺し、かといって出陣しても平野での合戦では撃破されかねない、という想定外の事態に慄いている描写なのです。人間、「想定外」に弱いです。想定内の出来事には落ち着いて「こうやって、こうやって、こう対処する」と整理して動けるのに、想定外の事柄には頭も体も反応が遅れます。いや、想定外が大きすぎると思考停止にもなり、現実逃避が始まり、「あいつが悪い、こいつが悪い」と無駄な責任転嫁を始めてしまいます。この時の南ユダは正にそうだったでしょう。反アッシリア同盟の想定外の侵略ルートに動揺しまくっている。でも、そこでイザヤは言います。「『万軍の主なる神(33節)』が今、自分たちに何を示しているのかを模索しなさい」と。それは、「本当に頼るべき方(神)を思い起こしなさい」でしが、アハズ王は愚かにもアッシリアという強国に頼ることしか考えませんでした。私たちも想定外には弱いですが、でもその時にも「神さま、今、あなたは私たちに何を示し、どう促しておられますか」と祈り、冷静な目と先の先を見通す知恵を持つべく、日頃から神さまの御心を模索する習慣をつけておきましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。私たちは「想定外」には弱く、その度合いによって思考停止に陥りがちです。でも神さま、私たちはそんな状況に陥っても、あなたを思い起こし、祈る冷静さをお与えください。あなたに祈り、心と思考を落ち着かせ、あなたの御心と導きを模索する信仰をお与えください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

29日(金) イザヤ書11章1-5節
一言メッセージ:イザヤ書11.1-11は「神の国」預言です。私が「平和」について考える時、必ず思い浮かべる箇所の1つです。というのも、この箇所は現代の世界がいかに平和を実現するのか、そのヒントが満載だからです。2日に分けて読んでいきます。今朝は1-5節を選びました。ここでは、神の御心を行う指導者の登場が書かれるのですが、先ず1節が非常に面白い。「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで」とある。「エッサイ」はダビデの父親ですからダビデ一族を意味するのでしょうが、「株」は「切り株」です。つまり「ダビデ家がかつての栄華を失い、滅び去ったその時」に、「若枝」が芽生えると11章は語り始めます。2節「その上に主の霊が留まる」の「留まる」は「宿る」とか「特別な力を与える」というニュアンスに聞こえますが、別訳をすれば「どっこいしょと座り込む」です。「はぁ?これが救い主の姿?」と疑問が湧いてくる記述です。多くの人にとって「救い主とは誰にも屈しない強い力と優れた知恵を持ち、世界を席巻する」ヒーロー像を思い浮かべてもおかしくないのに、聖書の記す救い主像は「民衆と変わらず地べたを這うような中に生まれた普通の若者に、神の聖霊が『どっこいしょ』と腰掛ける」ことから始まるのです。なぜ、それが救い主なのか。3節で「(彼は)目に見えるところによって裁きを行わず、耳にするところによって弁護することは無い。弱い人のために正当な裁きを行い、この地の貧しい人を公平に弁護する」と記されます。それは、社会的弱者に寄り添い、彼らの言葉にならぬ思いに耳傾け続ける者です。つまり、神の示す救い主とは強大な力を持つカリスマでなく、民衆と共に生き、民に寄り添う方なのです。イザヤ11章は「神の国」の実現のために、民に寄り添う者の存在を先ず示したのです。さぁ、本題は明日です。明日は6節から読みましょう。
祈り:天のお父さま、今朝のみことばをありがとうございます。今朝から私たちはイザヤ11章の「神の国」預言を読み始めました。この言葉は現代に生きるすべての人々が耳を傾け、平和実現のヒントとする金言です。そのはじめに、あなたは「民に寄り添う」ことを教えてくださいました。神さま、私たちはそんな方を知っています。イエスさまです。明日も続きのみことばを読みますが、どうぞ戦後77年目の今、私たちはイザヤ書に平和実現にヒントと、イエスさまに伴われながら一歩を踏み出す勇気をいただけますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

30日(土) イザヤ書11章6-11節
一言メッセージ:「神の国」の平和実現を告げる箇所です。6節から既に不思議な言葉です。「狼は小羊と共に宿り、豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち、小さい子どもがそれらを導く。」イザヤが告げた言葉は弱肉強食の世界で、食ったものと食われたものが共存している光景です。これは理想的だけれど夢想でしょうか。いいえ、西南神学部の旧約学の教師である日原広志師はかつて7節の厳密なニュアンスを含め、こう訳しました。「母牛と母熊が自分自身を奮い立たせて、『おともだちになろう』と語り、共に干し草を食らう。その時、その子どもたちは兄弟同然に育つ。獅子は草を食べる、あのうちに従って。」厳密な訳が意味することは以下です。①母牛と母熊はかつての弱肉強食の歴史を覚えていて、共存することにぎくしゃくとしている。②しかし、母親たちが自分を奮い立たせて必死に共存を目指す時、子どもたちは過去の経緯を超えて、兄弟のように互いを理解して生きていける未来がきている、③後半で「あの牛」と定冠詞がついているのは、おそらくこの牛と獅子はかつて、弱肉強食の時代に何らかの形で出会っており、どちらもその記憶を覚えている。しかし、牛はそれでも獅子に共存のための草食を伝え、獅子も過去を乗り越えるために草食を覚えようと努力している、です。ここから何が分かるかと言うと、「傷つけあった歴史はそう簡単に乗り越えられないと聖書は知っている。でも、親世代が子どもたちの未来のために、自分たちで過去の対立の歴史を引き受けて生きようと一歩踏み出す時、未来は変わっていく」です。実際、親世代が自分たちを必死に律する2つの理由があります。1つは、6節の終わり「小さい子どもがそれらを導く」です。大人たちは子どもたちの未来のために、自分たちを奮い立たせるのです。2つ目は9-10節が語るように、皆が神の平和のイメージを共有し、目指しているし、昨日読んだ1-5節に書かれた「民衆に寄り添う救い主が自分たちに伴ってくれることに励まされて、過去を乗り越えようと努力を始める」からです。「神の国」預言の実現は難解です。でも、私たちが本気で平和を実現しようとした時、世界は変わり始める。聖書はそう私たちを励ましているのです。
祈り;天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。イザヤ書は「神の平和実現」のために、今の大人たちが必死になって過去を乗り越えようと努力し始めることを示唆しました。神さま、私たちの世界には多くの対立があり、互いがそれぞれの正義を主張し合っています。でもあなたは民に寄り添う救い主を通して、子どもたちに平和な未来を遺したいと願う民の努力から平和は実現すると告げられました。神さま、私たちは子どもたちに平和を遺したいです。どうぞ一歩ずつでも、私たちに努力を始めさせてください。平和の君イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

***






NEW ENTRY «  | BLOG TOP |  » OLD ENTRY

プロフィール

久留米キリスト教会

Author:久留米キリスト教会
福岡県久留米市にある久留米キリスト教会のブログです。
わたしたちの教会は、日本バプテスト連盟に加盟する、プロテスタント派のキリスト教会です。
(※ブログに掲載した文章の無断転載はご遠慮ください)

カテゴリ

お知らせ (23)
教会写真館 (28)
踊牧師の一人ごつ (146)
未分類 (178)

カウンター

リンク

このブログをリンクに追加する

検索フォーム