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2021-05

5月2日~7日のみことば - 2021.05.02 Sun



早くも5月!ゴールデンウィークとなりました。
とはいえ、今年は…いえ、今年「も」遠出というわけにはいかない感染状況ですね;
おうち時間の過ごし方もだいぶ上手になってきた私たちかと思いますが、やっぱり行きたいところに行けない、会いたい人に会えないというのはしんどいですね。

また、長引くコロナ禍で、肉体的だけでなく、精神的、経済的など様々なつらさに直面しておられる方も多いと思います。
久留米教会では、精神的な辛さを覚えておられる方にはみことばからの慰めを、また経済的に具体的支援が必要な方にはそのような働きをしておられる団体への橋渡しをすることができます。
困っているけれど、どこに連絡していいかわからないという方。どうぞ、ご連絡ください。

久留米の感染状況もなかなか減少せず、もどかしい気持ちですが、神さまに祈りつつ、そしてイエスさまの伴いを感じつつ、1日1日を過ごしていきたいなと思います。
皆さんの上に神さまの守りがありますように…。

★礼拝は、先週と同様インターネットを介した礼拝を中心に行っています。
日曜日10:30からはYouTubeにて礼拝ライブ配信があります。
ぜひチェックしてみてくださいね。
教会YouTubeチャンネルは ⇒こちら!

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※聖書の箇所は日本聖書協会の聖書本文検索から読むことができます。⇒こちら
・訳名選択     : 新共同訳
・旧新約・続編選択 : 新約聖書
・書名選択     : マタイによる福音書
・章選択      : 該当章数を入力(章まで入力するとその章すべてが表示されます。)


5月2日(日) マタイによる福音書19章1-12節
一言メッセージ:1節でイエスさまはガリラヤを離れ、ユダヤ地方へと向かいます。最終的な目的地はエルサレム、十字架の死を観越しての出発でした。弟子たちは分からないが、イエスさまは覚悟の出発でした。その時にもイエスさまはいつもと変わらず、多くの病人たちを癒されるのです。
3節以降、ファリサイ派の人たちがイエスさまを試すべく、議論をふっかけます。それは「理由があれば、夫が妻を離縁することは神の御心に沿うか」です。問題になるのは、その理由が夫の身勝手だったりすることです。当時の社会は男性中心社会であり、女性や子どもは家の財産という扱いでした。だから、家の主人である夫が他の女性と結婚するために、妻に理由をつけて離縁するような例が起こっていました。イエスさまは創世記2.24を引き合いに出して、「結婚とは神の御心によるものであって、身勝手な離縁は神の御心に反する」と語ります。するとファリサイ派は「モーセは律法で離縁を認めているではないか」と問う。これも本来の順序から言えばおかしな話です。「モーセの解釈が神の御心より優先されていいのではないか?」との問いです。順序が逆なのです。イエスさまはそのことを指摘します。
今朝の箇所で私は2つのことを思います。1つは、私たちの身勝手さです。人は状況に応じて掟やルールに例外を作ります。その時、問題は、その例外がどういう意図で作られているか、です。その意図が人の都合や身勝手さであるか、それとも状況に応じて神さまの御心を模索した結果であるか、は大きな違いです。今朝の箇所の離婚規定は人の都合や欲によって神さまの御心から変質させたケースです。一方、神さまの御心をより先鋭化するケースはマタイ6章にある6つの「しかし、わたしは言う」という例や、12.1「安息日に麦を摘む」、12.9「安息日の癒し」などに見られる話です。イエスさまの言動を見ていると、「掟は原則だが、大事なことは常に神さまの御心から物事を見極めること。原則が形骸化するならば神さまの御心によって判断すること」が示唆されています。
私たちは神さまに真摯に、でも頭柔らかく、歩む者でありたいですね。今朝は長くなったので、この箇所から思わされるもう1つのことは明日に回します。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝、私たちはあなたの御心を最優先に生きることを示されました。人は時にあなたの御心を模索することをサボり、原則に縛られ、その原則を自分たちの都合で捻じ曲げる不誠実を持ちます。今朝イエスさまはそんな人の弱さを指摘されました。どうぞ私たちが改めて自分を見返すことができますように。あなたにこそ従い、大らかで平安に生きる者であれますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

3日(月) マタイによる福音書19章1-12節/創世記2章15-25節
一言メッセージ:昨日に続き、マタイ19.1-12を読みます。昨日、この箇所から示される2つの示唆で取り上げられなかったもう1つの示唆を今朝は考えたいのです。それは「結婚の本質とは何か」です。日本では長年、「結婚=子どもを持つ」ことが当然かのような理解が強くありました。だから、子どもが生まれることは喜びだが、子どもが生まれないことは良くない事柄という見方がされてきました。確かに、子どもの誕生は喜びです。けれど、今朝私が分かち合いたいことは、子どもが生まれないことを責める風潮への「否」です。そのために今朝は創世記2章を読みたいのです。
  創世記2章を選んだのは、イエスさまが結婚・離婚について、この箇所を引用されたからです。注目したいのは18節「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」神さまがアダムに必要と考えたのは「助ける者」です。意味は「補助者」ではなく「対等なパートナー」です。「あばら骨」から女性が造られたとありますが、「あばら骨」は「命を守るもの」です。つまり、創世記に記された最初の結婚の物語から見える結婚観から言えば、結婚の第一義的な意味は「命を預け合えるほどのパートナーと共に生きていくこと」です。子どもを産み、育てることは3.15で言及されるのであって、それが第一義的な目的ではないのです。
  現代は「性」についても単純に「男性と女性」では分けられなくなっています。「体は男性でも心が女性」とかその反対など、LGBTQ+の様々なケースが知られるようになり、同性パートナーとして生涯共にいることを公にする人たちも出て来ました。その中で今わたしたちは結婚の目的は「子どもを産み育てる」という固定概念ではなく、聖書に戻り、「パートナーとの出会い」という理解から社会を見直すチャレンジをいただいているのです。聖書は古い古い時代に記されたものながら、今も私たちに深い示唆を投げかけているのです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝私たちはマタイ19章のイエスさまの言葉と創世記から、結婚観について新たなチャレンジをいただきました。あなたのみことばは私たちに日々、新たな視野をくださり、私たちの価値観にチャレンジをくださいます。神さま、どうぞ迷う中でいつも、あなたの御心から真理を求め続ける私たちであらせてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

4日(火) マタイによる福音書19章13-15節
一言メッセージ:今朝の箇所は、イエスさまのところにやって来た親子についての物語です。弟子たちはイエスさまのところにやって来た親子を叱りつけます。何故かと言うと、直前をみますと、イエスさまはファリサイ派と議論している。その議論の邪魔になると判断したのでしょう。しかし、イエスさまは「子どもたちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない」と告げる。そして今朝の中心箇所である14節後半を語るのです。「天の国はこのような者たちのものである。」多くの場合、私たちは13-15節を独立させて読むことが多いため見過ごしがちですが、この言葉は直前19.1-12のファリサイ派にこそ投げかけた言葉です。8節でイエスさまは「あなたたちの心は頑固だ」と語り、神さまの御心を自分たちの都合で捻じ曲げていることを批判していますが、それに相対するように今朝の箇所で「子どもたちのように素直であれ」と告げるのです。おとといのみことばメールで書いたように、当時の社会の中では女性や子どもたちは父親の財産でした。だから、軽んじられていました。けれどイエスさまは「子どもたちは劣った存在ではなく、この子どもたちの素直さこそ、大人たちが学ばねばならないことなのだ」と告げたのです。
  イエスさまは子どもたちに手を置いて祈ります。原文では「手を置いて」という言葉は「両手を置いて」です。イエスさまは真正面から子どもたちと向き合い、彼らを喜び、祝福したのです。私たちも子どもたちに教えられること、多いのです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝は子どもたちの姿に素直さを教えられます。子どもたちが素直に神さま、あなたを信じるように、わたしたちもあなたに誠実に向き合い、信じ、従う者であれますように。救い主イエスさまのお名前で祈ります。アーメン。

5日(水) マタイによる福音書19章16-22節
一言メッセージ:ある青年がイエスさまに「永遠の命を得る(救われる)にはどんな善い行いをすればよいか」と尋ねます。イエスさまは「私に聞かず、神さまに直接祈り、掟を守りなさい」と語りますが、彼は「具体的にはどういうことか」と問い続けます。そして、最終的には、彼は自分の財産を手放すことができず、悲しみながら去って行くのです。この話を読んで、「全財産を放棄して、貧しい人の施しをせねば救われないのか」と怯える人もいるでしょう。けれど、物語の始まりを考えましょう。イエスさまは最初に「全財産を放棄せねば救われない」と話したでしょうか。いいえ、イエスさまが最初に語ったのは「神さまに尋ねなさい」です。私はここに人間の弱さがあると思う。それは「他者からお墨付きをもらわねば不安」という弱さです。私たちの周囲でも経験がありませんか?誰かから意見される時、「みんな、言ってます」という言い方。よくよく問うと、「みんな」はその人の周囲数名でしかないのに、意見を強めるために「みんな」と語る人。私はその表現を聞く度に、自戒として「最初に問うべきは周囲の声ではなく、神さまの御心。私は神さまに誠実に従えているか、神さまに恥じる決断をしていないか」と自問することにしています。ちゃんと神さまに説明できる決断をしているならば、批判にもきちんと向き合えますし、神さまに恥じる決断ならば、周囲がどれだけ庇ってくれても謝罪し、過ちを正す。何故ならば、それが最も将来に対して安心できる決断の仕方だからです。神さまの御心に沿うならば、たとえ一時的な困難があろうと全ては必ず整えられる。神さまの御心に沿わないならば、たとえ今は順風満帆でも後でとんでもない失敗をやらかしてしまう。だから、私は先ず神さまの御心で物事を判断しようとします。皆さんもぜひ、「私の決断や行動は神さまの目にどう映るだろう」って身近なことから考えて取り組んでみてください。その時、私たちは「必ず最善に整えられる」との強い安心を得られますよ。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝、私たちは物語を通して、周囲の声に翻弄されるのでなく、先ず神さまと向き合うこと、神さまの御心を模索して行動することを分かち合いました。私たちは先が見通せないから、周囲の声に翻弄されてばかりです。でも、神さまが未来まで見通し、最善へと導いてくださるから、私たちは未来への平安をいただけます。神さま、あなたを信じ、従います。どうぞ、御心を問う私たちを整え、導いてください。間違った決断をしても、私たちを整えて導いてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

6日(木) マタイによる福音書19章23-30節
一言メッセージ:今朝は昨日の「ある金持ちの青年の落胆」の話の続きです。悲しみながら去って行く青年を見ながら、イエスさまは「金持ちが天の国に入るのは難しい」と語ります。弟子たちは、青年が「神さまの掟をちゃんと守っていた」と聞いていますから、「あそこまで頑張っているのに、まだ救いには与れないのか。じゃあ、誰が救われるのだろう」とざわつきます。その時にイエスさまが言われるのは26節「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」でした。今朝はこの言葉に注目したいのです。私たちはこの物語を見て、誤解してはいけないと思うのです。金持ちの青年やイエスさまの弟子たちは、ある大きな誤解をしている。非常に象徴的な言葉は21節でイエスさまが青年に語っています、「もし完全になりたいなら…」。その意味は「あなたが自らの力で永遠の命を得たいと思うならば…」です。この青年は善行を積み、自らの力で救われようと、自力本願で救われようとしているのです。だからこそ、イエスさまは自ら完全にならんとする青年に対して、「じゃあ、全てを棄てて…」と語ります。でも、イエスさまの真意はそもそも26節、「救いは人間に可能なことではなく、神のみに可能なことだ」です。先ほどの自力本願と比較するならば、イエスさまは神力本願です。「神さまによって救われたらいい」と告げるのです。昨日も書きましたが、私たちは神さまと向き合い、神さまに喜ばれるように考えて、従えばいい。イエスさまは弟子たちに語ったように、信じて従う者にはその「百倍(29節)」もの祝福に満ちた未来を与えてくださるのです。神さまを信じることから一歩ずつ従っていきましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝わたしたちは改めて、自分たちの力や徳にて救われるのではなく、神さまの御業によって救われることを考えました。神さま、あなたの救いに感謝します。私たちは自分たちなりにあなたに向き合い、あなたに喜ばれるように、あなたにお応えしたいと願います。時々(?)、あなたの目に素っ頓狂なことも行ってしまうでしょうが、精いっぱいにあなたに応えたいと思っての行動です。どうぞ笑いながらも受け止めてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

7日(金) マタイによる福音書20章1-16節
一言メッセージ:先日2日の宣教箇所です。イエスさまが語った「ぶどう園の労働者」のたとえは一見、私たちの理屈に合わない。出てくる問いは「どうして朝っぱらから働いた人間と最後に1時間働いた人間の賃金が同じなのか」「どうして最期のものから賃金をもらうのか」「主人は横暴ではないか」です。詳しくはHPでの音声やyoutube配信を聞いていただくとして、ここではポイントだけ話します。先ず思い起こしたいのは1デナリオンの意味です。1デナリオンは「一人の労働者が一日働いて得る賃金」と言われますが、別の言い方をすると、「一つの家族が一日生活するのに必要な金額」です。仮に「最後に来た人間は1時間だから、1/12デナリオンで十分だ」と言われたら、彼やその家族はその日、どうやって生きられるのでしょう。「それだけしか働かなかったから、食えなくても当然だ」というのは、弱い者を切り捨て、殺す理屈なのです。続けて考えたいのは、この最後に来た人物です。私たちはどこかで「彼は夕方までダラダラしていた怠け者」のように思っていませんでしょうか。でも聖書を見ますと、6節でぶどう園の主人はこう問いかけている。「なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか。」言い換えるならば、主人は彼が朝から立ち続けていることを知っているのです。彼は言います、「だれも雇ってくれないのです。」彼は一日中、広場に立ち続け、雇ってもらえることを願い続けた。けれど、誰も相手してくれない。彼は社会から「不要」と突き付けられ、でも家族のためか、諦められず、自分を奮い起こして立ち続けました。たとえ話の主人は彼の痛みを理解し、最後の一時間でも雇い入れた。主人は支払いの時に、最後に来た人から賃金を払います。当然文句も出ます。その時に主人は言うのです、14節「わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。」イエスさまはこの譬え話をしながら、「天の国はこんなものだ」と語りました。これは、全ての民を救いたいと願い、受け止め、祝福し、生かしてくださる神さまの愛がいっぱいに表れた物語なのです。私たちは今、神さまの愛を知らされているのです。そしてその愛は今も私たちに注がれています。不要な人などいないのです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝の物語を最初に読んだ時、意味がわかりませんでした。けれどあなたの愛を思って読む時、こんなにも深く、慰めと希望に満ちた物語であることを知りました。あなたの愛は今、私たちに同じように注がれています。神さま、深く感謝します。どうぞこの福音を私たちだけでなく、一人でも多くの人にお伝えすることができますように。私たちの居場所であり、今も新たな方を招いてくださる神さまに祈ります。アーメン。

8日(土) マタイによる福音書20章17-19節
一言メッセージ:今朝の箇所はイエスさまの三度目の死と復活の預言です。一度目は16.21で、二度目は17.22でした。回を重ねる度にイエスさまの預言はより詳細になっていきます。イエスさまはこのエルサレムへの旅が自らの死に向かう旅だと告げます。そして、「三日目に復活する」と告げました。注目したいのは、17節の「わたしたち」と17節以降の「人の子」という言葉が使い分けられていることです。「わたしたち」は弟子たちを含む集団ですが、「人の子」はイエスさまが自らを指すために用いた言葉です。つまり、イエスさまは、十字架で死に、三日目に復活するのは自分であるけれど、それを目撃し、復活の証人となるべく、弟子たちを伴うのです。
先の話ですが、弟子たちはイエスさまの逮捕に怯えて逃げ去り、イエスさまの十字架の死の後、「私たちはイエスさまを見捨てた」と深い後悔に苦しみます。けれど、だからこそ彼らはイエスさまの復活を知った時、自らの罪さえ許されたと語り得る証人、伝道者となっていきます。
私は弟子たちの姿を思い描きながら、私たちのことを重ねます。私たちは、弟子たちほどの苦しみは御免被りたいですが、でも自分たちなりに苦しい経験も抱えます。でも、その時に私たちは弟子たちの姿を思い起こせばいい。「弟子たちは苦しみながらイエスさまの復活という奇跡を知った。きっと私たちも同じように、この苦しみさえ後に感謝に変えられるだろう」と。だから、課題や苦しみを抱えた時は、後に与えられるでっかいでっかい祝福に目を向けながら、今を誠実に生きていきたいのです。忘れずにいましょう、「私たちには未来の祝福が約束されている」のです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。イエスさまの十字架と復活の預言は、そのまま弟子たちへの苦しみと感謝のプロセスとなりました。私たちは辛い目に遭いますと、勝手に「このまま苦しいだけではないか」とか「未来が無い」と嘆きます。でも、イエスさまは十字架の死と共に復活を預言されました。弟子たちも深い罪の自覚と後悔を経ながら、だからこそイエスさまの復活と赦しを深く味わいました。神さま、どうぞ私たちも、あなたの未来の祝福を信じ抜く信仰者とならせてください。倒れそうな時は教会の仲間たちに支えられながら、あなたを見上げ続けることができますように。何より、私たちに寄り添ってくださる救い主イエスさまの御名でお祈りします。アーメン。

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4月25日~5月1日のみことば - 2021.04.23 Fri

ニュースでも取り上げられている通り、ここ数日で久留米市の新型コロナ感染者が急増。
人口当たりの感染者で言うと福岡市や東京よりも多い状態です。
やむをえず、4月25日の礼拝よりネット礼拝(YouTubeによるライブ配信)を中心とした礼拝とすることにしました。日曜日は各ご家庭からライブ配信を通して礼拝にご参加ください。
(YouTubeで「日本バプテスト連盟久留米キリスト教会」と検索!)
また、通信制限などの理由でYouTubeのライブ配信視聴は難しいという方は、教会ホームページの「礼拝メッセージ」ページから聖書朗読とメッセージが聞けますので、どうぞそちらをご利用ください。
それから、日曜9時~10時の教会学校幼稚科・小学科、水曜日・木曜日の祈り会もしばらくの間お休みになります。お休みの間は下のみことばメールでそれぞれにみことばを学んでいただければと思います。

新型コロナウイルスの感染拡大から1年以上が過ぎ、自粛自粛の日々。さすがに疲れやしんどさを感じるようになりました。
でも、先日祈り会で「コヘレトの言葉」の学びをしたときに、お話の中で「この箇所での神さまは“与える神”として描かれています」という言葉を聞き、「あれもできないこれもできない。」という引き算の考え方ではなく、「神さまからあれも与えられている。これも与えられている。」という足し算の考え方をしながら1日1日を過ごしたいなと思わされました。
さて、今日皆さんは神さまからどんなもの・どんなことを備えていただいたでしょうか。
そんなことを考えつつ、またコロナの収束を心から祈りつつ、日々を過ごしたいと思います。



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25日(日) マタイによる福音書17章24-27節
一言メッセージ:今朝の箇所に出る神殿税は当時、一人あたり年間で2ドラクマ銀貨を納めることが義務付けられていたものです。税を徴収する人がペトロに「イエスは神殿税を納めないのか?」と問います。「払わない」という反応もあり得るのでしょうが、ペトロは「納めますよ」と告げる。それを聞いたイエスさまはペトロに「神殿税は神さまに納めるものならば、私たちは神の子なのだから、納めなくてもいいはずだ」と語る。でも、同時にイエスさまは「人々はその意味を悟る以前に、私たちを『神殿に逆らった』と騒いで無用な誤解を生じさせるだろうから、払うとしよう」と語り、魚釣りして、その魚の口の中に入っている銀貨で…という話につながるのです。
  この話に私たちは何を見出すのでしょうか。私たちの社会には、そもそもの意味や目的が不明になった伝統や風習や慣例があります。イエスさまは「意味が分からぬまま強いられて従うのでなく、その意味や本質を知った上で判断しなさい。理解した上で配慮するならば、自らの意志で慣習を行えばいい」と告げるのです。
先日、息子の入学式に参加した際、式の中で、君が代の斉唱が求められました。私は「国家」への畏敬を強要されるようで嫌で、また先の太平洋戦争後のアジア諸国との関係回復が十分と言えないと感じるので、昔から君が代を歌いません。歌詞もメロディーも内容も知っていますが、知るがゆえに歌わない自由を実践します。今朝のイエスさまの指摘は、いたるところで同調圧力が働く現代を生きる上でもとても大事な示唆に感じます。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝の物語は、物事の本質を理解した上で判断することの大事さを示してくれました。今の社会では伝統、風習、社会のルール、風潮といった理由での同調圧力が多々感じられます。でも神さま、どうぞ私たちはあなたの御心を模索しながら、理解した上で「行う、行わない」を判断できる自分たちであらせてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

26日(月) マタイによる福音書18章1-5節
一言メッセージ:今朝から始まるマタイ18章は、マタイ福音書にある5つの説教群の3つ目にあたります。この説教は「神さまと向き合い、へりくだって生きること」が語られていきます。弟子たちがイエスさまに尋ねます、「天国でいちばん偉いのはどういう人か」と。その時、イエスさまが示したのはひとりの子どもでした。子どもは当時の社会の中では半人前で、社会的な発言権も無く、父親の所有物と考えられています。イエスさまはそんな子どもを弟子たちの真ん中に立たせて、「よく聞きなさい。自らを高めようとするのでなく、子どもたちのように自らを低い存在と受け入れ、神さまを求める者こそが最も偉大なのだ」と告げたのです。
  このイエスさまの言葉は実は他の箇所にも通じます。例えば、6章でイエスさまが主の祈りを教える際には、祈りの呼びかけとして神さまに「アッバ(お父ちゃん)」と呼びかけるように教えます。「アッバ」は幼い子どもが父親を親しく呼ぶ表現です。それくらいに神さまを慕うように、イエスアさまは教えられました。また、5.3以下の「幸いの教え」でも神さまに頼る人こそが「幸い」だと繰り返されました。そういったイエスさまの姿勢は今朝の箇所に繋がるのです。
  今朝から一週間の働きが始まります。今週はどんな人と出会い、どんな出来事が起こるのでしょう。一日の始まりに神さまを身近に感じ、信頼し、期待してスタートし、一日の終わりには「神さまね、今日ね、こんなことがあったの」と祈る一週間でありたいものです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。週の働きの始まりに、あなたは幼子のように純粋に、誠実に、身を低くして始めることを示されました。どうぞ神と人に誠実に生きる一週間を過ごさせてください。週の始まりにイエスさまの御名で祈ります。アーメン。

27日(火) マタイによる福音書18章6-9節
一言メッセージ:今朝のみことばはとても恐ろしく、極端な排除の言葉に読めます。昨日は「幼子のように神さまを信じ、誠実に生きる」ことが勧められた直後に、躓かせる者への強烈な警告が語られるのです。この言葉の背後にあるイエスさまの感覚は、「もう神さまの御業がいつ実現するか分からないようなタイミングなのに、まだ己の願望や都合で神さまを蔑ろにするなんて、何考えてるんだ」という腹立たしさです。私たちの時間間隔と違う面が際立つため、私たちには「何だか、極端な言葉だな」と感じられます。でも今朝の箇所で考えさせられるのは、「神さまへの信仰を躓かせてはならない」ということです。信仰は、視野狭く、違う意見を一切受け付けない偏屈なものではないので、時には信仰の成長を促すために問うことは必要ではある。けれど、人の自尊心や人間関係、自分の意向と信仰を混同されるようなことがあってはならないのです。昨年度の連盟総会の中で、自分の意見と合わない主張について「信仰が足りない」と口走った代議員がいました。今朝の箇所を読みながら、そうはありたくないなぁと思い出しました。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。私たちは弱く、時に自分たちのプライドや人間関係、己の意向を正当化するあまり、願望と信仰と混同させ、人々を躓かせることがあるように思います。もし、私たちがあなたへの誠実な姿勢を捻じ曲げるならば、どうぞ私たちに気づきを与え、正してくださいますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

28日(水) マタイによる福音書18章10-14節
一言メッセージ:今朝の箇所は「神さまは迷い出た人がたった一人でも、その一人を必死で探し出し、救おうと願う」と語られた箇所です。神さまにとって「一人くらい、どうでもいいさ」じゃなくて、その一人をも絶対に救いたいのです。どれくらい必死かと言えば、12節の1つのギリシア語は私たちがこの物語に持つイメージを吹き飛ばすほどに強い必死さです。一匹の羊を探す際に九十九匹を山に「残して」と書かれていますが、この「残す」はギリシア語のアペーセイという言葉です。その意味は「放棄する」です。私たちのイメージでは「神さまは99匹を安全な柵か何かに入れておいて、残りの1匹を探しに行く」ですが、イエスさまの言葉では「99匹を山に放り出してまで1匹を探しに行く」です。ちなみに「山」は17.1の物語で見られるように、神さまと出会う場所、神さまの守りがある場所というイメージもあるので、護教的には「イエスさまは99匹を神さまに委ねて、1匹を探しに行く」とも読めますが、それにしてもアペーセイは非常に乱暴な言葉です。
でもこの言葉の真意を知るために、私たちはイエスさまの十字架を思い起こしたいのです。イエスさまは全ての人を救うべく、自らが十字架にかかって死んでまで、私たちを救ってくださいました。イエスさまは私たちを「大勢」という集団では見ません。私たち一人ひとり、その人格も個性もちゃんと認識して、「この一人ひとりを救う」ために十字架にかかられたのです。実は私たち一人ひとりが「迷い出た一匹」です。私は今朝のみことばを読みながら、私たちがどれほど必死で探し出され、救われたのか、改めて思い知らされるのです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝わたしたちは、私たち一人ひとりが、神さまから身勝手に離れて迷子になった一匹の羊と悟りました。その私たちを救うべく、イエスさまは私たちを探し回り、あの十字架にかかり、救ってくださいました。私たちがどれほど愛されて救われたのかを思い起こし、心から感謝します。どうぞ私たちがあなたを誠実に信じ、従って生きる者であれますように。また同時に今もあなたを知らず、救いを求めつつ迷う羊が多々いることも思い起こします。どうか、この救いの喜びをより多くの人と分かち合わせてください。お伝えする機会と勇気と言葉とをお与えください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

29日(木) マタイによる福音書18章15-17節
一言メッセージ:今朝の箇所は「兄弟への忠告」と題された箇所です。悪事を犯した仲間を諫めるのは大勢の前ではなく…という話ですが、話の最後では「どうしても聞き入れない者は教会に訴え出て、教会から忠告させなさい。それでも聞かなければ、その人を異邦人(神を知らぬ人)や徴税人(ローマ帝国に納める税金を集める者で、ローマへの税にプラスして徴収し、自分の懐に入れて私腹を肥やしていたので、同胞たちから極めて嫌われ、「罪人」と言われていた)と見なしなさい」と言われます。一見すると、「あいつはどうしようもない奴だから、縁を切ってしまえ」と言われたように理解しそうです。でもここで考えてみたいのです。これを語ったイエスさまは、異邦人に神さまを告げ知らせ、徴税人を弟子にした方です。であれば、イエスさまが語る「異邦人や徴税人と見なせ」とは「神さまの救いを必要とする者として対し、救いを受け入れて悔い改められるように祈り、働きかけなさい」との奨めです。伝え方や伝える時期は早急でなくてもいいかもしれません。でも、昨日の箇所のように一匹の羊を救うべく、十字架にかかられたイエスさまを思い起こす時、私たちは「諦めずに働きかけること」が教えられているように思うのです。
祈り:天のお父さま、今朝のみことばをありがとうございます。今朝、わたしたちは兄弟への忠告の中で、諦めずに伝え続けることを教えられました。伝え方や時は大事ですから、決して短気を起こさず、静かでも揺るぐことなく伝え続けさせてください。いつか、私たちの大事な仲間があなたを信じる時がきますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

30日(金) マタイによる福音書8章18-20節
一言メッセージ:今朝の箇所は「祈り」の奨めです。イエスさまは、祈りを合わせることを勧めますが、それは何百人何千人で無くて、先ずは2人または3人からでいいのです。嬉しいのは、2人または3人が「祈ったら私は聞こう」と言っているのではなく、「わたしもその中にいる」と言われたことです。「祈ったけど聞かれない」といった結果論で物事を判断するのでなく、「この祈りの中にイエスさまもいてくださるから、祈り続けよう」との励ましをいただけるのです。
  私の祖父は鹿児島の伊集院教会出身の牧師でした。彼が献身した時代は、何人もの仲間が同じように献身していたそうです。その一人に原田達夫先生という方がおられました。数年前に召されましたが、その葬儀に参列した際に、彼の聖書が飾ってありました。何気なく開いた時に目に飛び込んだのが18節の箇所でした。そこにはこう記されていました。「これはクリスチャンの特権ではなく義務である。」祈り続けること、それは私たちに託された役割なのです。私たちも真剣に家族や友人、この社会に住む方々の救いを祈る者でありたいです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝わたしたちは、人々のために祈ることを示唆されました。特に今の時代は、コロナ危機のために多くの人がそれまでの周囲との繋がりを希薄に感じ、孤独を抱えています。神さま、私たちはそんな中でもあなたに繋がれていること、またあなたによって繋げられた信仰の同胞がいてくれることを心強く思います。だからこそ神さま、私たちは自分たちの周囲の人々のことも祈ります。どうぞ新たにあなたを知り、信じ、あなたに繋がり、私たちに繋がる人々を起こしてください。よりいっそう、多くの人の居場所となる久留米教会として用いてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

5月1日(土) マタイによる福音書18章21-35節
一言メッセージ:今朝の箇所はここ数日分続いた18章のまとめの話です。ペトロが「兄弟の罪は何度まで赦したらいいか?」と尋ねます。イエスさまは「7の70倍」と語り、「もはや数を数えることを放棄して赦せ」と示します。でも私たちは自分を傷つける相手を赦すことは感情的に難しい。私たちは「これだけ傷つけられたのだから、簡単に赦されると思うなよ」と思うのです。イエスさまもそのことは分かっておられたのでしょう。だから1つの譬え話をされました。
ある家来が王に10,000タラントンの借金をしている。1タラントンは6,000デナリオンです。1デナリオンが1つの家族が1日生活するのに必要な金額です。であれば、1タラントンは6,000日分の額。10,000タラントンを払い終えるためには休みなく働いても16万4384年働かねばならない。もはや無茶な額です。家来は平身低頭、必死になって返済期間を待ってもらえるように願い出ます。王は彼を憐れに思い、まさかの全額免除を告げるのです。喜んで王宮を出た彼は、自分に謝金のある同僚を見つけると謝金返済を迫ります。そして、払えないと知ると牢に叩き込むのです。知らせを聞いた王は怒り、彼を改めて牢にいれ、借金返済までの罰を課した、という話です。
  新共同訳聖書では「仲間を赦さない家来」という表題が付いています。確かに話の出発点はペトロが「何回まで赦せばいいでしょう?」と尋ねたのだから「仲間を赦さない家来」でも間違いではない。でも物語を読みながら、私たちが心底驚くのは王の尋常じゃない寛大さです。王に観点を置いて表題をつけるならば、「際限の無い王の赦し」です。
そして、そう読む時に私たちは物語の印象を変えることができます。それまでは「仲間を許さねば赦されない」という恐ろしい話に見えたのに、改めて読むと「神さまの深い赦しに後押しされて、そこを出発点にして生きなさい」との促しに読めるのです。これは私たちにとって大事なヒントです。今、誰かを赦せない自分を責めるのでなく、赦せないなら先ずは自分が神さまの莫大な赦しをいただいていることを実感できるように祈ることから始めたらいいのです。神さまの愛と赦しを知る。だから私たちは他者にも愛と赦しをおすそ分けできる。その順序で良いのです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝は「際限の無い王の赦し」を見てきました。神さまがどれほどに私たちを愛し、赦してくださっているか、イエスさまは告げてくださり、だからこそ私たちも許しへと促されることを知りました。神さま、どうぞ先ず、私たちがしっかりとあなたの愛と赦しを実感することができますように。そして、いつか私たちもまた赦せる自分となれますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

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4月18日~24日のみことば - 2021.04.18 Sun

4月も折り返しを過ぎました。
今週の皆さんの歩みも神さまに守られますように!
毎日の生活にみことばの道しるべをどうぞ♪♪

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※聖書の箇所は日本聖書協会の聖書本文検索から読むことができます。⇒こちら
・訳名選択     : 新共同訳
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18日(土) マタイによる福音書16章5-12節
一言メッセージ:唐突ですが、私は思慮深い人間になりたいなぁと思います。表面的な出来事、聴いた言葉の一部分だけに反応してジタバタするのでなく、物事を俯瞰して熟慮できる、そんな人になりたいとつくづく思うのです。それは、今朝の箇所を読みながらも思います。
  今朝の箇所で、イエスさま一行は伝道のためにガリラヤ湖を渡ります。すると弟子たちはパンを忘れたと気付き、「何で持ってこんやったとや!」「お前も忘れたっちゃろうが!」と騒ぎます。その時、イエスさまが6節「ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種によく注意しなさい」と語る。パンを忘れたことで頭がいっぱいになっていた弟子たちは「ほらっ、イエスさまも『パン忘れたとか』って怒っとろうが」と責任になすり合いを始めるのです。自分の関心のため、言葉の一部分にだけ反応した弟子たちにイエスさまは「何が言われているか、ちゃんと考えて悟れ」と促します。イエスさまは14章の5,000人の供食と、15章の4,000人の供食の出来事を思い起こさせながら、ファリサイ派とサドカイ派への注意を促すのです。5,000人の供食の際に集めたパン屑でいっぱいになった籠は12、4,000人の供食の時は7。イスラエルでは数字には意味がありまして、12は神さまの業の完成、7は完全数です。イエスさまは数字を用いながら、「注意すべきものは律法を遵守して『自分たちは救われるが、律法を守れない民は救われない』と考えるファリサイ派と『復活なんてあり得ない』と断じる鼻持ちならないエリート集団のサドカイ派。ファリサイ派は神さまの業の完成を見誤り、サドカイ派は神の御心の完成が何であるかを悟っていない」と示したのでした。
  今朝の箇所は私たちに、神さまのみことばを自分の都合で切り取るのでなく、誠実に模索して受け取ることを示します。今朝は日曜日、礼拝の時です。自分たちの願望でなく、みことばが何を示すのかを思慮深く、模索しましょうね。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝私たちはイエスさまに、表面的な言葉、目先の出来事に翻弄されるのでなく、思慮深く神さまの御心を模索することを示されました。いきなり思慮深くは難しくても、一歩ずつでも神さまの御心を誠実に求める私たちにならせてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

19日(月) マタイによる福音書16章13-20節
一言メッセージ:今朝の箇所の中で18節以下はいろいろと議論のある箇所です。カトリック教会が法王をペトロの後継者と位置づけ、カトリックの最高位に据える根拠の箇所がここです。イエスさまがペトロに天の国の鍵を授けたことを根拠に制度を作っています。ただし、この記述はマタイにしか記載されないため、イエスさまの真正の発言かという学術的議論があるのです。
  今朝私たちはその議論を回避し、13-17節に注目します。昨日、「思慮深くありたい」と話しましたが、正に今朝の箇所はその好例です。イエスさま一行はローマ帝国の気風の強いフィリポ・カイサリア地方にいた。ローマ帝国は皇帝を「神の子」と位置づけ、権威付けしていました。そんな風潮が強い地域でイエスさまは弟子たちに「あなたがたはわたしを何者と考えるか?」と問う。ペトロは言います、「あなたはメシア(救い主)、生ける神の子です。」イエスさまは喜び、ペトロに17節「あなたにこのことを表したのは、人間ではなく、天の父だ」と語ります。周囲の顔色うかがって誤魔化すのでなく、神さまの御心に聞き従ったことをイエスさまは喜ぶのです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝、イエスさまは周囲の顔色に振り回されず、神さまを見失うことのなかったペトロの信仰を喜ばれました。私たちもペトロのように、あなたの御心を模索し、誠実に従う思慮深い者でありたいと願います。どうぞ私たちの信仰をいつも強めてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

20日(火) マタイによる福音書16章21-28節
一言メッセージ:今朝の箇所は昨日と一変して、イエスさまがペトロを痛烈に叱責した箇所です。イエスさまがご自分の死を預言し始めたため、ペトロがイエスさまを脇に引っ張っていき、「とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」と諫めた。普通に考えたら、イエスさまを励ます言葉のはずです。でもイエスさまの叱責は痛烈です。23節「サタン、引き下がれ!あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」イエスさまはペトロの言葉が優しさであっても、人間的な思いや願望で神さまの御心を否定したことを叱ったのです。たいへん厳しいようですが、しかし24節以下を読むとイエスさまのペトロへの愛情であり、訓練だと分かります。特に25節では「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る」という不可解な言葉を語ります。私たちは自分たちの願望通りに生きることが幸いだと勘違いしています。本当の幸いは神さまの導きの中で生きること。何故なら、神さまの導きの中でこそ、限界だらけの私たちが自分たちの願望を超える最善を神さまにいただけるからです。
  ニューヨーク州立大学病院物理療法リハビリテーション研究所に、アメリカ南北戦争で負傷した南軍兵士の死が掲げられています。こういう詩です。「大きなことを成し遂げるために力を与えてほしいと神に求めたのに、謙遜を学ぶように弱い者とされた。より偉大なことができるように健康を求めたのに、よりよいことができるようにと病気を戴いた。幸せになろうとして富を求めたのに、賢明であるようにと貧しさを授かった。世の中の人々の賞賛を得ようとして成功を求めたのに、神を求め続けるようにと弱さを授かった。人生を享楽しようとあらゆるものを求めたのに、あらゆることを喜べるようにと命を授かった。求めたものは一つとして与えられなかったが、願いはすべて聞き届けられた。神の意に沿わぬものであるにもかかわらず、心の中の言い表せない祈りはすべて叶えられた。私はあらゆる人の中で最も豊かに祝福されたのだ。」
  今朝の箇所も言います。人の願望成就が幸いなのでなく、神の御心の中に幸いがあるのだ、と。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。イエスさまはペトロを叱責されました。一見、ペトロの言動は配慮に見えます。けれど、イエスさまはペトロに「自分の願望ありきで物事を考えるのでなく、神の御心を模索しなさい」と示しました。その示唆は私たちにも必要な示唆です。神さま、どうぞ私たちも自分の願望ありきであなたをはかるのでなく、あなたの御心の中で生きる者とならせてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

21日(水) マタイによる福音書17章1-8節
一言メッセージ:今朝の箇所はとても不思議な箇所です。ある山の上で、イエスさまの姿が変わり、モーセとエリヤが現れて語らった箇所です。モーセは神さまの律法を象徴する存在であり、エリヤは預言者の代表格です。連れられて山に登ったペトロは、イエスさまとモーセとエリヤを見て、「(太陽の日差しを避けるために)お三人にテントのようなものを作りましょうか」と素っ頓狂な提案をします。舞い上がっていたのでしょう。すると、さらに舞い上がる経験をします。5節でペトロたちは神さまの声を聴いてしまうのです。この物語は何を意味するのか。それは、イエスさまという存在が何かを示しているのです。イエスさまとはマタイ5.17にあるように、神さまの御心たる律法と、神さまの御業の実現たる預言の完成であり、だからこそ神さまが「この者に聞け」と宣言される存在なのです。聖書は読者に「イエスさまの言動に注目し、自分たちの生活の中で思い起こしながら過ごしなさい」と示唆するのです。その示唆は私たちにも示されています。日々、みことばを読み、イエスさまを思い起こしつつ過ごしていきましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。当たり前のように思っていましたが、あなたのみことばは日々、私たちを励まし、強めます。あなたは日々、私たちに「イエスさまに注目するように」告げます。どうぞ、私たちの生活の中でイエスさまを想起し、日々励まされ、あなたに従う者であれますように。私たちの救い主たるイエスさまに御名で祈ります。アーメン。

22日(木) マタイによる福音書17章9-13節
一言メッセージ:今朝の箇所は昨日の山での変貌物語の終わりです。山から下りるイエスさま一行が会話します。その中で、イエスさまは「神の救いの御業の先駆けとしてエリヤが来る」ことを話すのですが、注意したいのは12節で「エリヤは既に来た」と語ったことです。それはイエスさまの先駆けとなったバプテスマのヨハネですが、彼は14章で殺害されている。イエスさまは「人々は神さまの救いの兆しを理解せず、好き勝手している」と指摘したのです。
  この箇所は、神さまの時について、私たちに注意するように告げます。私たちの願望ありき、都合ありきで物事を見ていると、神さまの示唆を見失うばかりか、神さまの示唆を疎外してしまう。それが私たち人間の罪なのです。今週のはじめ、私は「思慮深くありたい」と書きましたが、それは「神さまの御心の模索ありき」で物事を熟慮できる者です。いきなり思慮深くは難しくとも、一歩ずつ一歩ずつ、神さまの御心を模索することを意識づけてみます。ぜひご一緒にどうぞ。もし御心でなく己が願望に走る時には、互いに優しく指摘し合いましょうね(笑)。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝の箇所は神さまの御業、神さまの時を見極めることの難しさを示しました。私たちは自分たちの都合や願望ありきで物事を考えることが多すぎて、あなたの示唆を見落としてしまいます。どうか私たちがあなたの御心を模索する習慣を持つことが出来ますように。また教会の仲間たちと共に支え合い、諭し合いながら、一緒に信仰を育めますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

23日(金) マタイによる福音書17章14-20節
一言メッセージ:今朝の箇所は弟子たちの面目丸つぶれの箇所です。ある人がイエスさまに「息子を癒して下さい。お弟子さんたちに頼みましたが、まるでダメでした」と語るのです。最初に言いますが、今朝のみことばは、私たちへの叱責と励ましの言葉です。
イエスさまが子どもを癒した後、弟子たちはイエスさまに「何で私たちには悪霊を追い出して病を癒せなかったのでしょう」と尋ねる。その時イエスさまが語ったのはズバッと「信仰が薄いからだ」でした。これ、私たちが言われたら本当に悲しいですよね。そりゃ、私たちには病を癒すとか、奇跡を起こすといった事柄はできません。ええ、できませんとも。でも、だからって「信仰が薄い」と断言されたら、「そこまで叱りつけなくても…」と言いたくもなる。では、この「信仰が薄い」をどう受け取ったらいいでしょうか。山浦玄嗣さんのケセン語訳では「神さまを力に思う心が足りない」と訳されています。この言葉の方が分かりやすい。イエスさまの指摘は、どこかで「祈っても無理なんじゃないかな」と思ってしまう私たちを見透かしての叱責でした。
では、励ましを探してみましょう。イエスさまは弟子たちを「こんなこともできないなら破門だ」と放り出しはしません。信仰を育てるように諭されました。私たちは不出来な信仰者であってもイエスさまに見捨てられない。これは励ましです。
だから私たちはまず、叱責であり励ましである、「本気で祈る」ことを始めてみましょうね。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝の物語は私たちに「本気で祈ること」を示しました。どこかで私たちは「祈っても無駄だろうな」とあなたを疑っている部分があると指摘されます。ぐうの音もでません。だから神さま、どうぞ私たちに先ず何事も、自分の判断に先走るのでなく、あなたの御心の実現を求めて祈る信仰者とならせてください。あなたに期待する私たちであらせてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

24日(土) マタイによる福音書17章22-23節
一言メッセージ:今朝の箇所はイエスさまの死の預言の言葉です。最初に語られたのは16.21で、昨日の17.17でも「いつまであなたがたと共にいられようか」と語っていました。今朝の箇所23節で「弟子たちは非常に悲しんだ」とありますが、当然です。言われた方は辛いのです。イエスさまの言葉に弟子たちは悲しむのです。昨日も紹介したケセン語訳聖書でも補足部分で「中には、『旦那ぁ、そんなな悲しい事を語んねぁでけらっせぁ(言わないでください)』と目に涙を溜めて、チンと手鼻をかむ者もいたのでござった」とありました。
  ではここで発想を変えてみましょう。イエスさまはなんで弟子たちを悲しませてまでご自分の死を告げるのでしょう。それは、イエスさまが弟子たちに本当に示したい事柄があるからです。今一度イエスさまの言葉に注目しましょう。イエスさまは23節「殺されるが、三日目に復活する」と語りました。イエスさまが本当に伝えたいことは復活です。けれど弟子たちは復活の前に「死」で思考が止まってしまった。イエスさまはこの箇所以降も度々、弟子たちにご自分の死と復活の預言を繰り返します。それは、実際にイエスさまが亡くなった後、弟子たちが絶望したままで終わらないため。イエスさまの復活という希望を見出せるように、です。
  私たちは今朝のみことばに気づかされます。イエスさまは私たちに悲しみで思考が止まってしまわないように願い、繰り返し繰り返し、希望を告げられたのです。「己が理解で止まるのでなく、神さまの御業がどう導くかを模索しなさい」と示すのです。私たちはいつも、イエスアさまの示された希望を思い起こしつつ日々を過ごす者でありましょうね。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝の箇所は短いながら、イエスさまのメッセージがギュッと込められていました。イエスさまは私たちに、大きな課題に直面しても、その悲しみや困惑に立ち止り続けるのでなく、課題の先にある希望に目を向けるように示されました。神さま、どうぞ私たちにいつも希望を見出させてください。どうしようもなく落ち込み、悲しみに留まる時には、教会の仲間たちで互いに助け合い、希望を分かち合わせてください。あなたの導きに期待し、救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

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4月11日~17日のみことば - 2021.04.10 Sat

先日の日曜日(4月4日)はイースターでした。
昨年は新型コロナウイルスの流行第一波の真っ最中でしたから、イースターエッグを配ることも、イースター礼拝に積極的に集まることすらできなませんでした。
今年も引き続きコロナ禍の中ではありますが、今年は感染予防を行いながら、礼拝をすることができましたし、イースターエッグ(ゆでたまご)も直接触れないように準備して配ることができました!
やっぱり、イースターは「みんなで」祝うのがうれしいなと思った今年のイースターでした。
※はしゃいでいたら、イースターエッグと講壇のユリのお花の写真を撮り忘れました(^^;)

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今年は扉にもイースターの飾りつけをしました♪

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イラストはこどもたち。ありがと~♪


また、先日は今年度初めての礼拝でもありました。
新しい1年、どんなことが待っているのか。
ちょっぴり不安もあるけれど、「絶望しても必ずその先に希望がある!」と示してくださった復活のイエスさまの希望を胸にわくわくしながら新しい1年をまた歩んでいきたいと思います。

みなさんも、新しいとし、一緒に礼拝に参加してみませんか?
皆さんとお会いできることを心からお待ちしています♪

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11日(日) マタイによる福音書14章34-36節
一言メッセージ:イエスさまは13-21節の5,000人の供食物語の後、舟に乗り、嵐を鎮めて、ガリラヤ湖の北西岸にあるゲネサレトの地域に戻ってきました。ガリラヤ湖の西側はイエスさまの故郷ナザレを含むガリラヤ地域でした。すると大勢の人たちが「イエスさまが戻ってきた」と噂して集ってくる。病人たちを連れてきた人々はイエスさまに「服の裾にでも触れさせてほしい」と願います。普通は「先生、病気を癒してやってくれんですか」と頼みそうですが、「服の裾にでも触れさせてほしい」という願いには、イエスさまが一人ひとりに向き合えぬほどに超多忙だったことが背景にあるように思います。でも、そこで注目したいのは最期の言葉です。「(服の裾に)触れた者は皆いやされた。」以前も書きましたが、当時の病気は、罪を犯し、神さまの守りから外れたから悪霊に憑りつかれてなるもの、と理解されていました。逆を言えば、癒されたということは、神さまがその人の罪を赦したから癒されたと理解されるのです。その視点で読むとき、聖書のメッセージが見えてきます。「神さまは、イエスさまをもみくちゃにするほどに殺到した人々の一人ひとりの事情も、痛みも、思いも、全てを受け止め、愛し、赦し、癒してくださったのだ」と。今朝の箇所は、神さまが神さまの御業を求める一人ひとりと向き合ってくださることを示しているのです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝私たちは、イエスさまの超多忙さの中で、あなたは一人ひとりの病人としっかりと向き合ってくださったことを知りました。私たちは自分たちが小さな存在だと思い込み、時に「祈っても神さまには届かない」と勝手に考えてしまいます。でも今朝の箇所は、神さまが全ての者とちゃんと向き合ってくださると勇気づけてくれます。神さま、私たちはあなたに祈ります。どうぞ祈りの言葉も、言葉にできぬ思いも、呻きすらも受け止め、あなたの御業を行ってください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

12日(月) マタイによる福音書15章1-9節
一言メッセージ:ガリラヤにて神さまの御言葉を宣べ伝え、癒しを行うイエスさまの所へ、ユダヤ教の中心地エルサレムからファリサイ派と律法学者の集団がやってきます。いわば、保守本流の人たちです。彼らはイエスさまに「あなたの弟子たちは、昔からの伝統を破る。食事の前に手を洗わない」と批判します。するとイエスさまは逆に問います。「あなたたちが自分たちの伝統を守るために神の掟を破るのは何故だ?」4節の「父と母を敬え」は十戒の第五戒ですが、この律法の解釈として「『父母を敬う』は大事だけれど、世代交代して家長となった息子が扶養すべき父母に対して、『あなたがたに差し上げるものは神さまへの献げものにする』と告げる場合は、神さまを最優先することだから養いの義務は免除される」という理解がありました。そして、この解釈を言い訳にして親への義務を蔑ろにしながら、「あの人は敬虔だ」と思われようとする人々が多々いたようです。イエスさまは神さまを言い訳にしながら、神さまの御心を踏みにじる人々を極めて腹立たしく思い、イザヤ29.13を取り上げながら厳しく批判します。人間は「自分たちが守ってきたものこそが正しい」と思いがちです。けれど、本質を見失った伝統は形骸化し、人を裁くために基準にされてしまいます。今朝のファリサイ派たちのように、です。連盟や連合の集まりでもよく「教会に若者が少なくなった。信仰の継承が大事だ」と話題になりますが、私はいつも信仰の継承は形の継承ではなく祈りの継承でありたいと思います。先達がどういう状況下で、神さまとどう向き合い、どんな覚悟と希望を持って決断したか、その背後の祈りを知ることが本当の継承であり、形式の押し付けを継承と考えるのは浅はかです。私たちはイエスさまから「神さまの御心を台無しにしている」と叱責されないように、ちゃんと神さまの御心という本質から物事を考える者でありたいですね。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝わたしたちは、イエスさまの叱責から、「神さまの御心にこそ誠実にあれ」ということを再確認しました。時に私たちは長年慣れ親しんだ形に固執し、本質を見失いがちになります。教会の伝統を重んじるあまりに、イエスさまの御心を見失い過ちを犯します。どうぞ、私たちが過ちを犯さないように、いつもあなたの御心を模索する私たちであらせてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

13日(火) マタイによる福音書15章10-20節
一言メッセージ:昨日の箇所の続きです。イエスさまは自分たちの伝統に固執して神さまの御心を蔑ろにする宗教指導者たちによっぽど腹が立ったのでしょう。10節では自ら群衆を呼び寄せ、指導者たちの過ちを批判します。11節の内容は痛烈です。「穢れているから食べてはならない」との食物規定を真っ向から批判したのです。ファリサイ派はその規定を一言一句過たずに守っていました。だから弟子たちは12節で、「先生、ファリサイ派の人たちが決定的に敵意を持ちました」と告げ、留めようとします。けれどイエスさまは14節では「そのままにしておきなさい(ストレートに言うと「放っておけ!」)」と断じます。この際の譬え話の意味を尋ねられると、さらに17節では「食い物が『穢れ』だなんだと騒ぐ連中がいるが、食い物は必ず便所でひり出すから、人を穢すものか!より悪質なのは、人間の言葉だ。その言葉に含まれた悪意、殺意、すけべ心と行動、盗み、嘘、悪口が、人間を神さまの御心から引き離すんだ。正に、あの宗教指導者たちがその典型だ」と告げたのです。イエスさまは非常に激昂しています。それは、神さまが救いたいと願っている民衆を「罪」に定め、神さまから遠ざける者たちへの怒りでした。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝の箇所でイエスさまは珍しいくらいに激昂していました。それは、自分たちの伝統の固執して神さまの御心を蔑ろにするに飽き足らず、神さまが救いたいと願う民を神さまから遠ざける者たちへの怒りでした。私たちはこの箇所でも、イエスさまの行動原理が神さまの御心に従うことであったと悟ります。どうぞ私たち自身がイエスさまの怒りに合わないように、あなたの御心を模索して生きる者であらせてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

14日(水) マタイによる福音書15章21-28節
一言メッセージ:昨日の箇所の続きです。ファリサイ派や律法学者たちの敵意を受けたイエスさま一行はティルス、シドンの地方に行きます。新共同訳聖書の後ろの地図を見ますと、この地域はイスラエルの北部で地中海沿岸地域です。ローマ帝国の影響が特に強く、ユダヤ人の少ない地域です。イエスさまは宗教指導者たちの、神さまの御心を踏みにじりながら自分たちの伝統に固執する傲慢さに嫌気がさしたからか、この地域に行くのです。すると、カナン人の女性がやってきて、「娘が悪霊に憑りつかれ、病に苦しんでいます。どうか癒してください」と願います。イエスさまはその呼びかけに無視するくらいに、活動にもやる気を失いかけていた。でも彼女は叫びながらついて来る。弟子たちは「先生、追い払ってください」と願う。そこで24節、イエスさまは「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされてはいない」と告げ、拒否をします。でも彼女はなおもひれ伏し、願うのです。そこで26節、イエスさまは「こどもたちのパンをとって小犬にやってはいけない」と告げ、再度拒否します。ここで女性の言葉に注目しましょう。彼女はこう言います。ニュアンスを活かして訳しますと27節、「主よ、その通りです。小犬は主人の食卓から落ちるパン屑をいただくものです。」彼女はイエスさまの拒否の言葉を肯定的な返答につなげ、「小犬ならば、パン屑をいただけるのですね」と返した。さらに注目したいのはイエスさまへの呼びかけです。22節では「主よ、ダビデの子よ」と呼びかけています。「ダビデの子」は極めて政治的な期待を超えた言葉です。けれど27節で彼女は「主よ」とだけ呼びかけます。それは政治的な意味合いのない、純粋に神さまの救いを求める者の「救い主よ」との呼びかけでした。イエスさまは彼女が神さまに純粋に期待するからこそ自分のところに来たと悟り、28節で「あなたの信仰は立派だ」と告げ、彼女の娘を癒すのでした。この物語において癒されたのは女性の娘です。けれど、イエスさま自身もどれだけ勇気づけられたでしょう。ユダヤ人ではない女性も、神さまを純粋に求めている。イエスさまは民衆の神さまを求める姿勢にもう一度元気づけられた。それが今朝の物語なのです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝私たちは、一人の女性のしなやかで強さとユーモアを兼ね備えた信仰を見せられました。その信仰は算段にまみれた駆け引きではなく、ただただ神さまへの純粋な期待であり、その信仰にイエスさまをももう一度元気づけていきました。神さま、私たちも彼女のような信仰者でありたいと願います。純粋でしなやかな信仰によって、教会の家族も、未だイエスさまを知らない方々にもイエスさまへの信仰を求めさせる、そんな私たちであらせてください。どうぞ、これまで以上に厚かましく(笑)、あなたを信じる者であれますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

15日(木) マタイによる福音書15章29-31節
一言メッセージ:今朝の箇所は何気ない、イエスさまの活動報告と読めそうな箇所です。けれど、昨日の箇所を読んだ私たちは、29節でイエスさまが「ガリラヤ湖のほとり」に戻り、改めて多くの人を癒し、神さまの御業を実現しておられることに気づきます。イエスさま自身がティルスで出会った女性の信仰に元気づけられ、再度、活動を始められたのです。イエスさまは31節で「(人々が)イスラエルの神を賛美」する姿に、さらに確信と喜びを強くしたことでしょう。「偉そうな指導者たちは神さまの御心を蔑ろにしながら、自分たちの伝統に固執するが、民衆は神さまを純粋に求めている」と確認し、だからこそ人々と向き合い続けてくださったのでしょう。私は今、この群衆の一人のようにありたいと願います。私たちにも様々な課題がある。でもその時に、算段ではなく純粋に神さまの御心を求め、誠実にイエスさまを信じ従う者でありたいものです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝、私たちはイエスさまがガリラヤで活動を再開された物語を読みました。正直、イエスさまも疲れを覚え、苛立ち、失望していたことに安心もします。でも、同時にそんなイエスさまを再度元気づけたのが、民衆の純粋な信仰であったことが嬉しいです。神さま、どうぞ私たちも民衆のひとりとして、いつもあなたとイエスさまを信じ、誠実に生きるものであれますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

16日(金) マタイによる福音書15章32-39節
一言メッセージ:今朝の箇所は14章で見た「5,000人の供食」とそっくりの話です。人数が男性だけで4,000人であることや、そこにあったパンが7つで、食べた後のパンを集めた時の籠の数が7つなど、数字が若干違いますが、内容はほとんど同じです。
  では、こういう箇所をどう読むか。私は直前の話のつながりで読もうと思います。イエスさまと三日間いっしょにいて空腹だった民衆は、29-31節でイエスさまの傍にやってきた人々です。大勢の病人と、連れてきた人々です。病人は癒され、人々もイエスさまの傍を離れず、一緒に神さまを賛美していた。でも、彼らも帰らねばならない。イエスさまは共に礼拝し、神さまの御業を喜びあった人々が空腹のまま帰ること、まして空腹で行き倒れることを心配された。そこで、この奇跡を起こされた。そう思ってこの物語を読む時、「7」という数字が意味を持ちます。聖書では数字は意味を持ちます。例えば、3は神さまを表す数字ですし、6は悪魔をイメージする数字です。12は12弟子やイスラエル12部族など完成を表す数字です。では7は何かと言えば、それは神さまの御業を表します。つまり、この物語における「7つのパン、7つの籠いっぱいのパン屑」とは、彼らの今も、そして彼らの行く末も、神さまの守りと整えの中で導かれていくことを示唆するのです。
  私たちの人生にも課題や困窮は起こります。けれど、この話は、その時に、イエスさまが私たちと共にいて、私たちに先立って私たちを心配してくださっていること、そして私たちのために御業を行ってくださること、その一連の流れにも神さまの御業があることを知らせてくれるのです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝の物語は、イエスさまが私たちの生活を御存知であり、配慮くださっていることを知ります。私たちは困窮の時、自分の目の前の危機だけに目が留まり、不平不満ばかりに目が留まります。でも、その時にもイエスさまのご配慮と神さまの御業が与えられていることを忘れずに過ごさせてください。どうぞいつもあなたへの信仰を守る者としてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

17日(土) マタイによる福音書16章1-4節
一言メッセージ:今朝は「時代のしるし」という印象的なことばが出てきました。どういう流れで出てきたかと言えば、ある時、イエスさまのところにファリサイ派とサドカイ派の人々がやってきた。どちらもユダヤ教の一派ですが、ファリサイ派は通常の仕事を持ちながらも律法遵守をモットーにする、民衆に近い宗教指導者でもある。一方、サドカイ派はユダヤ教の上位階級の人々です。両者の信仰には決定的な違いがあり、ファリサイ派は復活を信じますが、サドカイ派は信じないので、両者は議論を戦わせる相手でした。けれど、ここでは一緒になってイエスさまに「お前が神から遣わされたのであれば、証拠をみせろ」と騒ぐ。イエスさまはウンザリしたのでしょう。「あなたたちは天気を予想するのに時代のしるし、時代の流れは見極められないのか。神の御心を知らぬ民らは証拠を求めたがるが、あなたたちには(旧約の)ヨナのしるし以外は与えられない」と告げて去る。では「ヨナのしるし」とは何か。それは、15.21-39で見てきたように、日々を必死に生きるために律法の掟を守れず「罪人」とされていた民や、神を知らぬ民(異邦人)たちがイエスさまを通して、神さまを知り、信じていく様子です。つまり、神さまへの信仰がユダヤ人の指導者層の自己満足ではなく、民の喜びとなって広がって行く様であり、ヨナ書を見ても分かるように神さま自らがそのことを喜ばれること、それが「ヨナのしるし」なのです。私は今の時代も「ヨナのしるし」が現れているように思います。多くの人が希望を求め、つながりを欲している。この時にこそ、教会はイエスさまの福音を証し、みことばを伝える群れでありたいですね。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。時に、人間はプライド高く、自分の願望や都合を優先し、神さまの示唆に目を閉ざします。けれど、イエスさまは常に民のただ中で生き、人々がどれほど神さまの福音を、慰めを、救いを求めているかを知り、神さまのみことばを語り、実践していかれました。神さま、どうぞ私たちもイエスさまに倣い、多くの人にあなたの福音を伝えさせてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

***








4月4日~10日のみことば - 2021.04.04 Sun

4月になり、いよいよ新年度がスタートしました。
まだまだコロナの収束は見えない中ですが、今年1年も神さまの導きに期待しつつ、歩んでいきたいと思います。

久留米教会では、最近ちょっとした変化が。
それは・・・教会の駐車場がアスファルトになりました!
雨が降るとどうしても水たまりができ、埋めてもやっぱりえぐれてくる…
付設幼児園の送迎の車も頻繁に出入りするので不便でしたが、すっかりきれいになりました!
202104tyuusyajou_2.jpg

なんだか、ひろ~くなったように感じます。
そして、このアスファルトの上にある白い点々・・・拡大すると・・・

202104tyuusyajou_1.jpg
見えにくいですが、桜の花びらです!!
幼児園のアーチ横に咲いている教会の桜の花びらが風で舞って、真黒な駐車場を素敵に飾ってくれています。
桜も葉桜になり、いよいよ新緑が力ずよく芽吹いてきました。
明日はイースター!
イエスさまの復活を覚える礼拝から教会の新年度が始まっていきます。
喜びのうちに、この1年をスタートしましょう♪

今年度も教会の礼拝堂で、またライブ配信の画面ごしにお会いできるのを楽しみにしています♪

***

※聖書の箇所は日本聖書協会の聖書本文検索から読むことができます。⇒こちら
・訳名選択     : 新共同訳
・旧新約・続編選択 : 新約聖書
・書名選択     : マタイによる福音書
・章選択      : 該当章数を入力(章まで入力するとその章すべてが表示されます。)

4日(日) マタイによる福音書13章44-50節
一言メッセージ:みなさん、イースターおめでとうございます。今年は礼拝だけでなく、みことばメールでもイエスさまの復活を祝えることを感謝します。当初の予定では、今朝のみことばメールでイエスさまの復活の記事を読もうと思っていましたが、いざ始めてみるとまだマタイが半分終わっていない(苦笑)。あと数ヶ月、マタイ福音書の講解にお付き合いください。
  さて、今朝は「天の国(神の国)」の3つのたとえ話です。一読しただけだと最初の2つの話と最後の話は色合いが違います。最初の2つは「天の国は何ものにも代えがたい素晴らしいもの。すぐに信じ、受け入れなさい」という促しですが、最後のたとえは36-43節の「毒麦のたとえ」のように「終末には悪人は救われない」という厳しい内容になります。ただし、最後の話について研究書を調べますと、49節以下の「より分けて悪人を棄てる」の話は本来のイエスさまの話には無く、福音書記者が付加したものと考えられています。つまり、本来のイエスさまの話しは47-48節だけでした。そこだけを読むと「天の国には、よい魚と悪い魚が混在していて、終末にはその魚がより分けられる。だから、あなたたちは一刻も早く、よい魚に育ちなさい」です。それこそ44節、45-46節のように、まだ畑の宝や高価な真珠を手にする前の人たちがとにかく一刻も早く手に入れようとしたように、「あなたも神さまの救いをいただくべく、信じて受け入れなさい」と促されたのです。
  私たち自身を振り変えると、良い面も悪い面も混在します。それを否定するのでなく、そんな自分でもそこから神さまの救いを信じられるのです。さぁ、イエスさまを信じましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝はイエスさまの復活のイースターです。イエスさまが罪人でしかない私たちをも顧み、私たちの罪も弱さも痛みも涙も、全てを丸ごと引き受けて救ってくださったことを喜び、私たちもイエスさまの救いを感謝して受け入れることができますように。救い主であり復活の主なるイエスさまの御名で祈ります。アーメン。

5日(月) マタイによる福音書13章51-52節
一言メッセージ:今朝の箇所はマタイ福音書に記されたイエスさまの3つ目の説教、たとえ話説教群の終わりの言葉です。イエスさまの言葉は「天の国のことを学んだ学者とかけまして、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人と説く」という謎かけのようです。「その答えは?」と問えば、イエスさまはその答えを言わない。聴衆に考えさせるのです。だから、私たちも考えてみましょう。私は「学者は真実を突き止めるべく研究するのが役割だが、彼はあまりに神さまの国が素晴らしいから、単なる研究を超えて、自ら信じて生きようとする。それが、倉の中身を入れ替える家の主人と似ている」のだと考えました。それくらいに神さまの国は素晴らしく、イエスさまは「何を躊躇しとると?早う信じて従えばいいとって」と促されるのです。信仰とは頭だけの事柄でなく生き方の事柄なのです。私たちも「信じて従う者、信じて生きる者」になりましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。イエスさまの言葉は度々、謎かけのようです。「あなたは神の御心をどう受け止め、どう理解し、どう生きるのか」と問われます。神さま、どうか私たちがいつもあなたの御心を模索し、応答して生きる者であれますように。救い主イエスさまの促しに正しく応えるあれますように。イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

6日(火) マタイによる福音書13章53-58節
一言メッセージ:今朝の箇所は、イエスさまが故郷ナザレで受け入れられなかったという物語です。人々は「ありゃ、マリアんところのイエスやなかか(父親ヨセフの名前が挙げられていないから、既に亡くなっていたと考えられます)」と口々に言い、イエスさまも「預言者は故郷では敬われない」と語ります。私なんかも休暇などで出身教会に行き、お世話になった方々にお会いすると、「あら、しんちゃん。元気してた?もう、しんちゃんなんて言っちゃいけんね」と言われたりします。言われる分には、何だか自分が昔に戻ったようで、それはそれでありがたい面もあるのですが、イエスさまの状況は違います。54節を見ると、ナザレの人々はイエスさまのみことばと奇跡に驚愕しています。彼らは神さまの御業を体験しているのに、神さまに目を向けるのでなく、「あのイエスがこげなことができるげな」と、イエスさま個人の力としか受け止めず、「なんで、こんな力があるとね?」と自分たちの常識や経験の中だけで判断しようとするのです。イエスさまは、神さまに目を向けず、自分たちの繋がり、理解、常識だけで判断する人々に落胆しました。「神さまを神さまとして敬う」、当たり前の事柄ですが、改めて大事なことと胸に刻みたいです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝の箇所を見ながら、私たちもナザレの人々のように、みことばが語られながらも自分たちの人間関係や理解でしか受け止めず、あなたの御心を矮小化する自分たちに気付かされます。どうかいつも、あなたへの畏敬を忘れずに過ごさせてください。あなたの御心に気づき、喜び、従える私たちでありますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

7日(水) マタイによる福音書14章1-12節
一言メッセージ:今朝の箇所は、イエスさまにバプテスマを授けたヨハネの死の物語です。死の経緯は聖書の通りですが、「領主ヘロデ」はヘロデ・アンティパスという人物で、彼はイスラエルを4分割した内の1つの領主でした。彼は異母兄弟フィリポの妻へロディアを奪い取り、自分の妻としたのですが、そのことをヨハネから糾弾されます。兄弟の妻との結婚は禁じられていたのです。ヘロデはヨハネを憎み、捕らえますが、彼の民衆への影響力を恐れ、手が出せません(これは、古代の歴史家ヨセフスも指摘しています)。そんな折、ヘロデは自分の誕生祝いの席上、みょんなことから、妻の前夫との子からヨハネの死を求められ、殺害することになるのです。
  この物語は非常に理不尽です。権力者の横暴を批判したため正しい者が殺害される。赦されてはならない暴挙ですが、しかし、今朝の箇所の中で注意したいのは2節と5節です。ヘロデはヨハネの死後もその陰に怯えます。それは、自分の行いが罪だと知っているからであり、民衆の怒りが恐いのです。これは今の時代も同じです。権力者が恐れるものは民衆です。けれど、民衆の側がこのことを理解していない。「自分たちが無力であり、何を言っても無駄だ」と思い込み、口を閉ざしてしまう。それこそが権力を持つ者の思うつぼなのに、勝手に無力感に諦めてしまう。この事実に対して、マタイ5.9でイエスさまは言われていました。「平和を実現する人々(民衆)は幸いである。その人たちは(他ならぬ神さまから)神の子と呼ばれ(祝福を受け)るだろう。」私たち、神さまを信じ、その祝福を期待するからこそ、「否は否」と言い抜く信仰者でありたいと願います。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。ヨハネの死はあまりの理不尽で、民衆は無力かのように感じました。けれど聖書は権力者が自らの罪と民衆を恐れていることを記します。それは今の私たちにも大事な示唆です。神さま、私たちはあなたによって祝福と尊厳をいただいた命です。どうぞ「自分を無力」と勘違いして、声を発さないのでなく、あなたの御心に基づいて声をあげる私たちであれますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

8日(木) マタイによる福音書14章13-21節
一言メッセージ:今朝の箇所は有名な「5,000人の供食」の物語です。イエスさまの周りに集まった人々は成人男性だけで5,000人にも及びます(当時の社会で社会的に数えられたのは成人男性のみ。女性や子どももいたと考えると単純計算で倍の10,000人ほど?とか言われる)。イエスさまは傍にあった5つのパンと2匹の魚を祈り、神さまの奇跡によってこれらの人々が満腹になるほどの食事を提供したという物語です(少年が5つのパンと2匹の魚をくれたというのはヨハネ福音書だけの記述です)。有名な話なのですが、今朝、わたしはこの時のイエスさまの心境を考えてみたいのです。13節でイエスさまは「これを聞くと、舟に乗ってそこを去り、ひとり人里離れた所に退かれた」とあります。「これを聞くと」とは直前、イエスさまにバプテスマを行ったヨハネの死の知らせです。それを聞くと、イエスさまは舟に乗って、その場を離れた。解釈者によっては「イエスさまが身の危険を感じて退いた」と理解する人もいますが、私は「ひとり人里離れたところに退かれた」といいう記述に、「祈るため」だったと考えます。明日の箇所22-23節に、イエスさまは「祈るためにひとり」残り、弟子たちは「強いて」舟に乗せて向こう岸に行かせているからです。この時のイエスさまはバプテスマのヨハネのことで祈りたかったし、心痛んでいたのでしょう。けれど群衆が来た。イエスさまは14節、「大勢の群衆を見て深く憐れみ」、心痛めます。それは、群衆と御自分が同じように理不尽な現実の中で神さまの希望と御業を求めていると重なって理解できたからでしょう。イエスさまはいつも、民衆と一緒に生きた方なのです。以前、説教で紹介した山浦玄嗣さんのケセン語訳聖書では19節でイエスさまが「群衆には草の上に座るように」言った言葉がこう訳されます。「さぁ、皆の衆、草の上に腰を下ろして、飯にすべぁ!(ケセン語)」。私たち民と一緒に生きてくださる救い主イエスさまの姿が思い浮かびます。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝、わたしたちは、イエスさまが民のただ中で、民と同じように心痛めながら、でも神さまを示して生きて下さったことを知ります。私たちは心痛める出来事があると、そればかりに捉われてしまいます。でもイエスさまはそんな中でも民と自分を重ねながら、慰めと希望が神さまにあることを示されました。神さま、私たちは改めて、あなたにこそ慰めと希望があることを悟ります。どうぞいつも、あなたを見上げて生きる者であらせてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

9日(金) マタイによる福音書14章22-23節
一言メッセージ:今朝は昨日の続きの物語です。あえて、短く刻みました。イエスさまはひとり祈るために弟子たちを舟に乗せてガリラヤ湖を渡らせた。22節で「強いて」とありますから、弟子たちは「先生、お祈りが終わるまで待っています」と言ったのでしょう。でもイエスさまは「いいから、先に行きなさい」と行かせた。そして群衆を解散させて、ひとり山に登り、祈るのです。「山」は出エジプト記3章のモーセの物語でも見られるように、神さまと出会う場所です。イエスさまは弟子や群衆の前と違い、ひとりで神さまと向き合いたかった、それが今朝の箇所です。
  私たちは周囲に人がいますと、どうしても周囲の目を意識してしまう。むかし、恩師から「誰かと一緒に祈ることも大事だけれど、誰もいないところで一人での祈りも大事にしなさい。そして自分の素直な思いを神さまにぶつけなさい。普段は心の奥底に秘めている思いを口にすることであなたは解放されるし、自分の全てを受け止めてもらえることで神さまへの信頼は強まる。ありがたいことに、神さまは口が堅く、決して口外されない(笑)」と言われました。皆さんもぜひ、一人の祈りを行ってみてください。教会を使ってもらってもいいですよ。会堂の入り口に張り紙して、誰も入らない状態にしますから。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝はイエスさまも一人で祈っていたことを知りました。イエスさまもあなたの前では全く素直な一人として、全てを曝け出して祈っておられたのでしょう。神さま、私たちもイエスさまに倣い、あなたに祈ります。周囲には言えないあれこれも、あなたにお話しします。どうぞあなたが私たちを丸ごと受け止めてくださっていることを、私たち自身がちゃんと自覚することができますように。私たちの模範になってくださったイエスさまの御名で祈ります。アーメン。

10日(土) マタイによる福音書14章24-33節
一言メッセージ:イエスさまが祈るため、先にガリラヤ湖を渡るように言われた弟子たちは、舟を出します。彼らの中には元漁師のペトロたちがいる。舟の操船などお手の物だったでしょう。けれど、その彼らをして、舟が進まないほどの逆風が起こった。24節で「舟は既に陸から数スタディオンか離れており」とあります。1スタディオンは約185m。10スタディオンでも1.9km弱。ペトロたちは何とか湖を渡ろうとしますが、舟は進まないのです。夜明け頃、イエスさまが湖を歩いて弟子たちのところに向かいます。「なんて無茶な」と思いますが、弟子たちも同じように思ったのでしょう。恐怖でパニックになり、「幽霊だ!」と騒ぐ。するとイエスさまは27節で「安心しなさい。わたしだ」と語る。この「わたしだ」をギリシア語で見ますと、「ほかの誰でもない、わたしだ」と強調されています。ペトロはイエスさまを確かめるべく、これまた素っ頓狂なことに「わたしも歩いて行かせてください」と言います。イエスさまが「来なさい」と言うと、ペトロは歩いてイエスさまへと近づく。けれど「風が恐い」と思った瞬間にドボンと沈むのです。イエスさまはすぐに手を差し伸べ、「信仰の小さな者、なんで疑ったか」と問う。そして、舟に乗り込むと嵐が静まる。非常に不思議な物語ですが、福音書記者が強調したかったのは、「人の手に負えぬ出来事の中で、私たちは自分たちの経験や常識で物事を判断し、恐怖に捉われる。でも大事なことは、他の誰でもなくイエスさまを想うこと。イエスさまが私たちに助けの手を差し伸べてくださっているから、その手を掴み、安心して出来事を乗り越えていきなさい」でした。私たちもイエスさまをいつも思いながら、日々を過ごしましょうね。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝私たちは、自分たちの経験や常識だけに頼るのでなく、イエスさまを信じ従うことを示されました。コロナ禍の昨年を思い起こす時、私たちは先の見えぬ不安の中で、それでもイエスさまを信じて元気に乗り切ってこれました。イエスさまへの信仰は確かな希望であり、平安です。どうぞ、この平安を私たちだけで味わうのでなく、家族や友人たちに伝えることができますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

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Author:久留米キリスト教会
福岡県久留米市にある久留米キリスト教会のブログです。
わたしたちの教会は、日本バプテスト連盟に加盟する、プロテスタント派のキリスト教会です。
(※ブログに掲載した文章の無断転載はご遠慮ください)

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