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2021-03

3月7日~13日のみことば - 2021.03.05 Fri

いよいよ3月!
卒業を迎えられる(迎えられた)皆さん、おめでとうございます。
新型コロナウイルスの影響で、いろんな制限がある中でのラストイヤー。何かと不自由を感じることが多かったと思います。日本、いえ世界が戸惑う中で、いつも通り過ごせない悔しさ。それでも進んでいく時間。今の状況の中で自分がどのように立ちふるまっていくのか、何をして何をしないのか、新しい生活の中で揺さぶられる1年だったと思います。
でも、そんなときだからこそ皆さんが学ぶべき業を終えて卒業されることにひとしおの思いもあるのではないでしょうか。ぜひ、自分をたくさんたくさんほめてあげてくださいね。

卒業を迎えるあなたも、そうでないあなたも、新しい1週間、またみことばに励まされながら歩んでいきましょう♪

**日々のみことば***

※聖書の箇所は日本聖書協会の聖書本文検索から読むことができます。⇒こちら
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7日(日) マタイによる福音書9章14-17節
一言メッセージ:今朝の箇所はマタイに時々ある、幾つかの短い例話が並んでて、「さぁ、共通するメッセージは何でしょう?」パターンの箇所です。ちょっと前に読んだ箇所では、5.38-42の「悪人に歯向かうな」といって非暴力抵抗が勧められた箇所もそうでした。では、今朝の箇所は何がメッセージなのでしょう。
  14節ではバプテスマのヨハネの弟子がやってきて、「どうして断食しないの?『神さまに立ち帰れ』と語っている僕らも、『律法を守れ』と主張するファリサイ派も、断食は大事にしてるのに?」と尋ねます。断食は自らの誠実さを神さまに訴える善行でした。そこでイエスさまは答えます。①15節、「結婚式の祝いの時に悲しむ人はいないでしょ?今はそういう時。そのうち、花婿が奪い取られる時がくれば、誰もが悲しくて『神さま、なんで?』と断食する時はくる。」イエスさまは自らが十字架で死んだ時の混乱を語りながら、「でも今は神さま救いの宣言が語られる時。喜ぶ時」と語りました。②16節、古い布と新しい布です。イメージするために昨年のアベノマスクを思い出してください。「洗うとすぐに縮む」と大不評でした。あの現象と同じく、「古い服の継ぎに新しい布を使うと、洗った際に縮んで服をダメにする」と言うのです。③17節も似た話です。新しいぶどう酒は発酵が進みますから、密封された空間で膨張します。古い革袋はその膨張に耐えれずに避けてしまう。イエスさまは3つの話を並べ、「今は神さまから与えられた救いの宣言の時。苦しみを分かち合う前に、神さまの救いを告げ知らせ、喜び合う時」とイエスさまは告げたのです。
  では今の私たちはこのみことばに何を考えましょう。それは「その時その時に神さまが私たちに示すメッセージを模索しよう」です。今日は日曜日、礼拝の時です。日々の労苦や課題はあっても、神さまと向き合うことで新たな力と示唆をいただく時。今朝も共に礼拝に与りましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝もみことばをありがとうございます。今朝の箇所に私たちは、その時その時にあなたが何を示唆されているのかを模索することに気づきました。今日は日曜日。どうぞあなたと向き合うことができますように。10:30の礼拝で、都合があわなければyoutubeのアーカイブで礼拝に集うことができますように。礼拝による慰めと力添えを皆がいただけますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

8日(月) マタイによる福音書9章18-26節
一言メッセージ:マルコ版と比べて、話がかなり省略されているのが今朝のマタイ版の箇所です。基本構造は同じで、2つの話が組み合わさっています。1つはある指導者(マルコでは会堂長ヤイロ)の娘の復活、もう1つは12年出血が続く女性の癒しです。
  指導者の娘はマルコと違い、物語のスタート時点で亡くなっています。父親はイエスさまに「おいでくださって手を置いてくだされば生き返るでしょう」とすがります。イエスさまは一緒に行くのですが、その時、12年出血が続く女性が近づいてきて、イエスさまの服の房に触れて癒される。律法では「血は命」だとされていますから、異常出血が続くことは、命が損なわれ続けていると理解され、何らかの罪による穢れが原因だと思われていました。穢れに対する人々の反応は非常に冷たい。今で言う「自己責任」や「家族の問題」とされるばかり。マルコでは彼女は医師や祭司を回って治療を続けますが、全財産を使い果たしても癒されなかったのです。彼女は藁にもすがる思いでイエスさまに近づく。正面からでなく「後ろから(20節)」なのも、穢れていると思われる者が他者に触れることは禁じられていたからです。彼女はタブーを破ってまでも救われたいと願った。イエスさまは彼女が触れたことに気づくと、彼女を責めるのでなく、「娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った」と告げます。マルコと違うのは、この言葉の後に彼女は癒されているところですが、ともかく彼女はイエスさまによって癒しをいただいたのでした。
  さて話は戻ります。指導者の娘の家に行くと、葬儀が始まっていた。笛を吹き、悲しみ騒ぐ人たちにイエスさまは言う。「少女は死んだのではない。眠っているだけだ。」人々はあざ笑いますが、イエスさまは彼女の手を取り、復活させられました。
  どちらの話にも共通するものはイエスさまの宣言が癒しに先駆けられていることです。この出血も死も、人の力、常識では覆せない現実です。けれど、なお諦めずに助けを求める人々をイエスさまは見捨てず、現実を覆す御業を為してくださる。葬儀に集まる人々のようにあざ笑う人々はいても、彼らは黙る。自分たちの常識で測れない御業を経験するからです。人の理解を超えるから奇跡、神さまの御手の業だから神業。今日も奇跡、神業を期待し、一日をスタートしましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。私たちはあなたの御手の中、神業の中で生かされていることを感謝します。どうぞ、今日の一日もあなたへの期待の中で歩ませてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

9日(火) マタイによる福音書9章27-31節
一言メッセージ:今朝のみことばは、癒しの話です。二人の盲人がイエスさまに「癒してください」と願い、イエスさまは癒される。イエスさまは「人々に言っちゃだめよ」と言うのに、彼らはみんなに「見て、僕ら、癒された~♪イエスさまがやってくれた~♪」と言いふらしちゃう、という話です。目を開いてもらった二人には「あんた、何で言うとね?」と思うし、イエスさまにも「言うてほしくなかったら、癒さん方がよかったんやない?」という疑問が沸く。でも、どちらも心境を考えると理解できるのです。私たちも、身体が回復されたら嬉しいし、感謝を伝えたいものです。そして、イエスさまの立場で考えても、助けを必要とする人が目の前にいれば、放っておけないものです。私には、どちらの気持ちも分かる気がする。そんな物語の中で1つだけ注目しましょう。盲人たちにイエスさまが問う言葉です。「わたしにできると信じるか。」「理解するか」ではありません。人の理屈、理解を超え、でも信じるか、と問うのです。昨日の箇所では亡くなった少女の復活前、人々はイエスさまをあざ笑いました。常識では死者が復活するなんてあり得ないから。でも不思議です。彼らに復活信仰はある。彼らは復活を信じていながら、それが現実に起こるとは意識していなかった。イエスさまは強く問います。「あなたは信じるか、わたしが人の理解や常識を超えた神さまの御業を示すと信じるか?」その問いは今日、私たちにも投げかけられます。あなたは自分の常識や経験を超え、イエスさまを信じているか、と。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝わたしたちはイエスさまから「信じるか」と問われました。いつも自分たちの常識や経験に捉われがちな私たちに、あなたの理解を超える神さまの御業を信じるか、と問われます。神さま、私たちはあなたを信じます。どうぞ、あなたの御業を私たちに行ってください。私たちの理解を超える喜びを実現してください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

10日(水) マタイによる福音書9章32-34節
一言メッセージ:今朝は口のきけない人の癒しです。イエスさまはいつものように、人を癒される。その御業に驚嘆した人たちは大騒ぎする。すると34節、ファリサイ派の人たちは「あの男は悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と騒ぐ。今朝はここに注目したい。私たちは自分たちの理解や経験は絶対ではないことを知らないといけません。理解できない出来事があると、何でも自分の経験や常識の中に無理やりはめ込もうとするのは人間の悪いところです。分からないことは恥ではない。分からないなら素直に驚嘆し、周囲に教えてもらったらいい。神さまの御業ならば喜んで感謝すればいい。そうしなければ、大事なものを見失うのです。正に今朝のファリサイ派のように、神さまを信じるがゆえに律法を遵守しようとするのに、律法を遵守する自分たちを誇るあまりに神さまの御業を、事もあろうに「悪霊の頭の力」と断じてしまう。今朝の箇所は「人の振り見て我が振り直せ」のように、ファリサイ派の傲慢見て自分たちの傲慢を改めねば、と思わされるのです。
祈り:天のお父さま、今朝のみことばもありがとうございます。今朝は人間の傲慢さを思いました。あなたの前に私たちはちっぽけな存在でしかないのに、プライドに捉われ、あなたの御業を自分たちのちっぽけな理解の枠に当てはめ、誤解してしまいます。神さま、どうぞ私たちを日々驕り高ぶりから解放し、知らぬを受け入れ、新たを喜び、御業に素直に感動し、神業を行われるあなたに期待する、そんな私たちにならせてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

11日(木) マタイによる福音書9章35-38節
一言メッセージ:私は今朝のみことばを読みながら、今の時代と重なって読めてきます。イエスさまは町や村を残らず周り、神さまの御言葉を伝え、病人に寄り添い、貧しい人々の友になります。その時、人々はそれまで表情が固まっているようだったのに、神さまのみことばを聞き、心ほぐれ、涙が滲み、抑え込んできた思いを吐露していく。イエスさまはそんな出会いを経験しながら、切実に思う。「こんなにも今、みことばを必要とする人々が溢れているのに、伝える者が足りない。」
さて、ここで注目したいのは37-38節。イエスさまは弟子たちに「あなたたちが行きなさい」と言うのではなく、「神さまに働き手を送ってくださるように祈りなさい」と告げるのです。
  今日は東日本大震災から10年目の記念日です。あの日も金曜日でした。あれから10年、被災された方々は今、何を思っているでしょうか。10年前に失った大事なものを思い起こし、打ちひしがれるのでなく、希望を見出していたほしいと願います。人間、本当につらい時、欲しいものは傍にいてくれる存在であり、いつ如何なる時にも変わることのない希望なのです。正に、それはイエスさまという存在であり、神さまのみことばです。
  2021年3月11日の今日、私たちは東日本大震災を思い起こしつつ、また自分たち自身も新型コロナウイルスという災害の真っただ中にいる。その時に、私は今朝のイエスさまのみことばを痛感します。「神さま、どうか、この時代にあなたのみことばを伝える働き手を送ってください。あなたの希望を伝える者を起こしてください。もし私たちで良いならば、どうか今、私たちを創り変えてください。困難の中で自分のうちに籠るのでなく、いかなる時にもあなたを見上げ続ける者に、何があろうと心折れずに立ち続ける自分たちであらせてください。神さま、どうか、今を生きる人々をお救い下さい」と祈らされるのです。今日は3.11、東北の友を想って過ごしましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝は3.11、東日本大震災から10年です。あの日、私たちは海岸に迫りくる津波の映像を前に言葉を失いました。水が家や車を飲み込んでいく様、生活や命が奪われていく様を見ました。あれから10年、東北の方々の心はまだ痛んでおられますし、私たち自身も新型コロナウイルスという災害に直面しています。神さま、今の時代もイエスさまの言われたように働き手が必要です。どうか、傷つく者と共におり、みことばを告げる者を起こしてください。私たちで良いながら、どうぞあなたの整えの中で、御用に用いてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

12日(金) マタイによる福音書10章1-4節
一言メッセージ:今朝の10章はマタイ福音書のイエスさまの5つの大きな説教集の2つ目の始まりです(1つ目は5-7章の山上の説教)。この10章のテーマは「弟子派遣説教」です。今朝はその直前でイエスさまが12弟子を選んだという箇所になります。さて、ありがちな誤解なのですが、イエスさまの弟子はこの12人だけではありません。他にも、イエスさまの手助けをしている人たちがいます。また、マグダラのマリアのように従っていた女性たちも大勢います。どうもついて来るスタイルの弟子や各地に定住している弟子を含め、大勢の弟子がいたのです。そうなると「では、この12弟子とは何か」という疑問が沸く。実はこの12弟子という仕組みはイエスさまのメッセージが込められた存在です。旧約時代、イスラエルはヤコブの息子たち10名(12人の息子からヨセフとレビを除いて)と、ヨセフの息子(エフライムとマナセ)を含めることで、12部族が制定されます。これがイスラエルです。イエスさまは人々にこの12部族をイメージさせ、神さまの御国において新しいイスラエルが始まることを示すために12弟子を選ばれたのです。イエスさまはここでも民の生活のただ中で神さまの救い、神さまの御国が始まることを示されたのです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝、わたしたちは12弟子について考えました。イエスさまは神さまの御国の始まり、神さまの救いの到来を、12弟子を選ぶことによって示されました。弟子たち自身は特別、秀でた人物たちではありません。普通の人たちです。いや、ユダを考えると、イエスさまを裏切るさえもいる。でも、イエスさまはそんな人々を選びながら、神さまの御国を象徴する存在としてくださいました。今、私たちは12弟子を見ながら、あなたの救いがユダのような罪深い者さえも含んでくださっていることを知ります。神さま、どうぞ私たちの社会に御国を来たらせ、お救いください。あなたの御業の実現を心から祈ります。アーメン。

13日(土) マタイによる福音書10章5-15節
一言メッセージ:今朝の箇所から10章の終わりまでがイエスさまの「弟子派遣説教」です。読み始めから私たちはびっくりします。「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の道に入ってはならない。」私たちは「えっ?ユダヤ人以外は無視なの?」と驚く。でも誤解してはいけません。ユダヤ教的な理解では、ユダヤ人が世界の救いのために最初に選ばれた、と思われていました。これは順序の問題です。5-6節は「ユダヤ人以外の排斥ではなく順序」なのです。
  大事なのは7節以降です。イエスさまはあれこれ準備して万全を期して伝道…ではなく、ひょいと伝道することを告げます。注目したいのは11節「町や村に入ったら、そこで、ふさわしい人はだれかとよく調べ…」と語りました。それは、伝道の理解者のリサーチであり、何よりみことばを必要としている方を見極めるように、とのススメです。誰も相手にしないのであれば、14節「足の埃を払い落とし」て去るように言います。あっさり、次の必要としている人に告げるように言われます。それほどに、神さまの救いの時は近づいているから、でした。
  先日、鳥栖の濱野先生が経済学者の島田恒さん(関西学院大学神学部客員講師、教団の信徒さん)との共著『教会のマネジメント』を読みました。教会の使命の確認と、使命に適した体制や行事の確認、みんなでどう取り組むか、などヒントいっぱいでした。いつか皆さんと分かち合いたいですが、その中でも「福音を必要としている人は誰かを定め、どう伝えるのが適格か」ということも語られています。イエスさまの今朝の言葉にも通じます。
  今、私たちの周りでイエスさまの福音を必要としているのは誰でしょう。そして、どう伝えるのが適当でしょう。私たちは今、「考えてごらん」と促されていると思うのです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝私たちは、私たちの周りでイエスさまの福音を必要としているのは誰で、どう伝えるのが適当か、と問われました。私たちは「伝道」と聞くと、何だか難しいことのように思ってしまいます。でも、どうぞ身近なところから、ひょいとみことばをお伝えすることができますように。どうぞ、聴いてもらえるチャンスと適切な伝え方を考えさせてください。いのちの御言葉と、軽いフットワークをお与えください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

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2月28日~3月6日のみことば - 2021.02.26 Fri

2月も終わり、まもなく3月です。
ようやく暖かくなり春を感じる日が増えてきましたね。
付設幼児園の子供たちが植えたチューリップの球根もつぎつぎと芽を出し始めました。
イースター(復活祭)の讃美歌に「球根の中には」という讃美歌があり、1番の歌詞は「球根の中には花が秘められ さなぎの中から命輝く 寒い冬の中春は目覚める その日その時をただ神が知る」です。今は何かと忍耐のときですが、球根から花が開くように今の忍耐もいつの日か報われるときが来ることを願いつつ、その日その時を知る神さまに祈りつつ歩みたいと思います。
今週も皆さんの上に神さまの守りがありますように♪



**今週のみことば***

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28日(日) マタイによる福音書8章5-13節
一言メッセージ:イエスさまの傍に一人の百人隊長が近づいてきたことから今朝の物語は始まります。百人隊長とはローマ軍の隊長であり、当時の社会的な地位でみれば、かなりの「お偉いさん」でした。しかし彼は自分の僕の中風の癒しを願うため、イエスさまに懇願します。とても不思議なことに、彼はイエスさまが「そら大変、すぐ行こう」と言われるのに、「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません」と辞退し、「ただ一言、『癒されよ』と命じてください」と願います。これ、どういうことかと言えば、ユダヤ教的な文化では異邦人と交わることはその人が汚れてしまうと考えるため、交わりそのものを禁じていました。百人隊長は社会的身分ではかなり上の人なのに、とても謙遜にユダヤ教的な文化を尊重し、イエスさまにへりくだりつつ、神さまの御業を信じていたのです。イエスさまは10節「イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない」と称賛し、百人隊長の願い通りに癒しを宣言しました。この物語の中でイエスさまが「良し」となさったのは、社会的地位に左右されず、神さまの前にへりくだる信仰です。そして、イエスさまはそんな信仰に感心し、病人自身でなく、彼の信仰の故に御業を行ってくださるのでした。私たちはこのみことばに、大切な可能性を見出します。私たちもこの百人隊長のように、自分たちの大事な家族や友人の救いを純粋に祈れると感じるのです。ぜひ、以下の祈りの〇〇の部分にあなたの祈りたい方の名を当てはめて祈ってみてくださいね。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝私たちは百人隊長の信仰の物語を読みました。イエスさまは彼の信仰のゆえに、彼の僕を癒してくださいました。神さま、今、私たちはこの物語に励まされ、同じように祈り、願います。どうぞわたしの大事な○○をお救いください。どうぞ私たちと共に御前に集い、礼拝することができるように御業を行ってください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

3月1日(月) マタイによる福音書8章14-17節
一言メッセージ:時々、「キリスト教に入ったら、家の宗教を否定したり、墓を拒否したり、家族を蔑ろにしたりしないといけないのでは?」という疑問を持つ人と出会います。結論を言えば、そんなことはありません。例えば、私の家も母方の祖父母は仏教徒でした。祖母は私が生まれて半年で亡くなったので、佐世保の母の実家に行った際には骨が納められていたお寺さんに出向き、花を手向けたりしていました。祖父が亡くなった後は親戚のお寺さん(母方の遠縁がお寺の住職さん)に祖母ともども、遺骨を移して永代供養をお願いしています。祖父たちの納骨の時には近しい親戚が集まりましたが、お寺で14人中クリスチャンが10人、内、牧師2人いました。でも我が家は「お寺さんにお願いするなんて」みたいな感覚は何一つ感じません。私が大事にしているのは「“人は死んだら仏(神)になる”という理解ではなく、自分のルーツにありがとうと感謝する気持ちと理解すること」であって、家の宗教や墓や家族を蔑ろにすることは全く求めません。その区別をしっかりつけながら、自分のルーツに感謝しています。
実際、今朝の箇所を見ると、イエスさまは信じて従う者の家族のこともちゃんと理解し、働きかけてくださっています。イエスさまは弟子のペトロの母の病を知り、駆け付け、自ら手で触れ(手当てした)、癒されました。イエスさまは「家族を棄てろ」と言うのでなく、「何よりも先ず神さまを信じ、従いなさい。そうすれば全ては整えられる」と示されました。
その上で、今朝の最期に17節のイザヤ53.4の引用に注目しましょう。ここは「苦難の僕」と呼ばれる箇所です。一人の神の僕が一身に人々の罪を背負って死に、全ての罪人を救うと記される箇所です。マタイ福音書はその箇所を引用し、「イエスさまは私たちの実際の生活の様々な出来事においても、私たちを負い、担ってくださる(「病を取り去り、無くした」のではなく「自らが背負い、担った」ということにも注目したい)」と示したのです。私たちは今日もイエスさまに背負われ、担われています。安心して、感謝して、一日を始めていきましょうね。
祈り:天のお父さま、今朝わたしたちは、「イエスさまを信じると家族を棄てねばならない」といった誤解を解く物語を読みました。イエスさまは「人間を神にしてはならない」と示されますが、自分の家族や家を大事にすることをイエスさまも大事にしてくださいました。神さま、私たちは安心してあなたに従い、また周囲の大事な家族や仲間たちにもあなたをお伝えできます。どうぞ、どうぞ私たちの家族や仲間たちにもあなたの救いを実感させ、信じさせてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

2日(火) マタイによる福音書8章18-22節
一言メッセージ:今朝の箇所は、昨日の「イエスさまは私たちの家族のことを大事に思ってくださる」というメッセージと相反するように見えるみことばです。でも、そうではありません。新共同訳聖書の表題に示されるように「覚悟」、言い換えるならば「姿勢」を問うたのです。
  今朝の箇所を読む際に、3つのことを覚えながら読みたいと思います。1つ目はイエスさまの基本理解です。イエスさまは4.17で「神さまの国はもうすぐにでも実現するかもしれない。だから、早急に悔い改めて神さまを信じなさい」と語っています。今朝の箇所を読む上で覚えたい1つ目のことは、この切迫した「信じなさい」という感覚です。
2つ目は、今朝の物語が起こった時間です。今朝の箇所には、この出来事がいつ起こっているのかが記されていません。でも直前の16節を見ますと、「夕方」と記されています。そこから大勢の群衆が集まってきて、次々に癒しを求められ、イエスさまは癒し続けていました。けれど、今朝の箇所でイエスさまは弟子たちに「(ガリラヤ湖の)向こう岸に渡ろう」と言われます。ユダヤ社会では一日は日暮れから始まります。つまり、「夕方」とは一日の終わりの時間でした。
3つ目は、昨日の物語や6.33で見たように、「神さまに従うことが最優先されれば、必要は皆加えて与えられる。だから神の国と神の義を最優先しなさい」でした。
この3つを覚えて、改めて今朝の物語を読むとこうなります。イエスさまは律法学者に「狐には穴があるが…人の子には枕する所もない」と語りましたが、それは「今、神さまの救いまで時間がない。だから、悠長に構えずに、神さまに従うことを最優先しなさい」でした。「父を葬りに行かせてください」と語る弟子には「神さまによる復活は既に約束され、間もなく迫っている。あなたの悲しみが祝福に変わろうとしていることを先ず覚えなさい」でした。イエスさまはいつも私たちに最善を示し、「信じて従いなさい」と示されるのです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝のみことばは「あなたを信じ、イエスさまに従うことは、人生も家族も棄てる厳しいこと」との誤解を生じさせていました。でもイエスさまの真意は「何よりも神さまの御心に従いなさい。その時、全ては整えられる」でした。神さま、私たちはあなたを信じ、イエスさまに従います。どうぞ私たちの不安も困難も後悔も、全てがあなたの御手の中で整えられますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

3日(水) マタイによる福音書8章23-27節
一言メッセージ:昨日の物語の続きです。8.5以降、カファルナウムに入って百人隊長の僕を癒し、ペトロのしゅうとめを癒し、大勢の病人を癒し、舟に乗り込んでガリラヤ湖を渡ろうとしたイエスさまはよっぽど疲れ切っていたのでしょう、舟の中でぐっすりと眠り込んでしまった。舟がガリラヤ湖を進みますと、途中、激しい風のために転覆しそうになる。当時の舟は10数人乗りの手漕ぎの舟ですが、操船するのはついこの間までプロの漁師だったペトロたちです。その彼らにして、「やばい、沈む」と恐怖するような大風でした。彼らは25節で「主よ、助けて」と訴えて起こす。イエスさまは起き上がると、「信仰が薄い!なぜ怖がるか」と叱ると、風と湖を叱って鎮めるのです。この話の大事なポイントは「イエスさまの寝起きが悪かった」ではなく、「なぜ信じ抜こうとしないのか」ということです。今、弟子たちは誰と共にいるのか?イエスさまです。にも拘わらず、彼らは自分たちの経験や常識に捉われました。でも、彼らも恐れながらも、大事な選択をしています。それは「主よ、助けて下さい」とイエスさまに頼ったことです。もし彼らがイエスさまに頼らなければ、イエスさまは「信仰が皆無の者たちよ!」と叱ったでしょう。でもイエスさまは彼らがギリギリでまだ信じていることを認めておられた。だから「信仰の薄い者」なのです。さて、私たちの信仰はどうでしょう。8.5の百人隊長のように「これほどの信仰は見たことがない」と言われるか、それとも「薄い」のか、はたまた「皆無」なのか?「薄く」とも、信じ抜く者でありたいですね。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝の物語で私たちは自分たちの信仰を振り返ります。決して賞賛されるような信仰者ではないと自覚していますが、でもどうか「薄い」と叱られながらもいつもあなたに頼る私たちであれますように。どうぞ如何なる時にもあなたを見失わないで生きる者であらせてください。時に今、コロナ禍で多くの人が希望を失い、先の展望が見えずに苦しんでいます。その中で、私たちは薄くとも、あなたを信じ、従い続けることを周囲に示すことができますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

4日(木) マタイによる福音書8章28節-9章1節
一言メッセージ:今朝の箇所は昨日の「ガリラヤ湖の向こう岸」での物語です。28節で「ガダラ人の地方」とありますので、ユダヤ人の居住地ではありません。後に「豚」が出て来ますが、ユダヤ人は豚を穢れた生き物と見ていましたから、飼育しません。その豚が飼育されているとなると、やはりユダヤ人ではない人たちの住む土地です。さて、イエスさまがやってくると、悪霊に憑りつかれた人が二人出てきて、「神の子、かまうな」と騒ぎます。ここで「神の子」と叫んでいるのは、当時「霊的な存在の名前を知ることで相手を支配できる」と理解されていたことと関係して、イエスさまの素性を宣言することで、少しでも優位に立とうとした叫びでした。でもイエスさまは「知らんがな!」と言わんばかりに悪霊を二人の人から追い出すのです。豚に乗り移った悪霊が豚ともども崖から飛び降りて死んだことで、町の人たちがイエスさまのところにやってきます。てっきりお礼のひとつも言うのかと思いますが、彼らはイエスさまに「出て行ってくれ」と言うのです。こうしてイエスさまはまた舟に乗って、対岸のカファルナウムに帰るのです。
  さて、この物語で大事なポイントが1つ。そもそも、イエスさまは何故夕方から(昨日のみことばメールを思い起こしてください)ガリラヤ湖を渡ったのか。イエスさまの本拠地がカファルナウムだとすると、何のために湖を渡ったのか、理由が分からないのです。でも、そこで発想の転換をしましょう。イエスさまがガリラヤ湖を渡った理由は、この悪霊に憑りつかれた二人の人を救うためだったのではないか?同胞のユダヤ人でもないし、彼らは墓場に住み、町の人たちから見捨てられた存在でした。でもその彼らをもイエスさまは救いたいと願い、嵐の舟中で寝入るほどくたびれきっていたのに行動くださったのです。今朝の物語にて示される本当に奇跡は「悪霊が追い出された」よりも「イエスさまは見捨てられた民にここまで親身に寄り添われた」ことなのです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝わたしたちは、イエスさまがどれほど一人ひとりの人間に向き合ってくださったを知りました。悪霊に憑りつかれ、町の人たちや家族さえ見捨てた人にもイエスさまは自ら出会い、救いに来てくださいました。神さま、私たち自身もイエスさまに出会っていただき、救いを知りました。あの感動を思い起こしました。神さま、ありがとうございました。加えてお願いします。どうぞ私たちの大事な家族や友人、まだ出会っていなくともあなたを必要とする人々にもこの救いを伝えさせてください。久留米教会が多くの人と「共に礼拝し、共に生きる」よう用いられますように。イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

5日(金) マタイによる福音書9章2-8節
一言メッセージ:今朝は有名な「中風の人の癒し」物語です。細部はマルコ2.1-12の方が詳細です(2019年にマルコ版で落語的説教をしたくて取り上げました。サゲで皆さんに笑ってもらえませんでしたので、そのうちまたチャレンジしますからね(笑))。マルコで読みますと、4人の友人が中風の男を癒して欲しいと戸板に乗せてやってくるのですが、既に人がいっぱいでイエスさまの前まで病人を連れて行けない。そこで屋根を引っぺがして癒してもらおうとします。「なんて無茶な!」という物語ですが、実はイエスさまの反応も飛んでいます。イエスさまは2節、病人を連れてきた「その人たちの信仰を見て」、喜び、病人を癒すのです。けれど、そんな癒しの行為を見ていた律法学者は「神を冒涜している」と思うのです。何故なら、当時、「病気は何らかの罪のために神さまの守りから外れた人が悪霊に憑りつかれてかかるもの」と思われていましたから、病の癒しは「神さまから権限が与えられた祭司の専売行為」と思われていたのです。だから、祭司で無いイエスさまが癒しを宣言したことに、律法学者は「神さまへの冒涜」と考えたのです。イエスさまは「杓子定規にモノを考えた挙句に本質が見えなくなってる。ほら、ちゃんと気づかんね」と示したのです。私たちもちゃんと目を見開いて、神さまの御業に気づく者でありたいですね。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝、私たちはイエスさまが、泥臭くても、親身になって他人のことを案じる人を喜び、神さまの御業を行ってくださった物語を読みました。一方、イエスさまは杓子定規に規定でモノを測ろうとした律法学者には「本質を見なさい」と示しました。神さま、どうぞ私たちも「今、イエスさまの御心を模索しながら、誰とともに、どう生きるのか」を考え、行動する者であれますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

6日(土) マタイによる福音書9章9-13節
一言メッセージ:何気ない物語のようですが、実はこの物語ってものすごい話です。イエスさまはたまたま道を歩いていて徴税所に座るマタイを見つけ、「従ってきなさい」と声かけたように書かれています。でも徴税人はローマ帝国の手先として既定の税金を集めるだけでなく、さらに自分の収入を上乗せしていました。だから同胞から毛嫌いされていました。でもイエスさまはそんな徴税人マタイに自ら声をかけ、弟子にしたのです。マタイは喜び、徴税人を止めます。先ずは自宅で大宴会。その場には徴税人や罪人がわんさか集まります。おそらく、身を売って生活する男女や、ヤクザまがいの人たちもいたでしょう。彼らは皆で仲間であるマタイが救われたことを喜び、宴会していた。すると、律法遵守をモットーにするファリサイ派が眉をしかめ、イエスさまの弟子たちに言うのです。「おたくの先生は何であんな連中と一緒に食事をして、仲間になってるのか」と。するとこの発言を聞きつけたイエスさまが語る。ホセア書6.6を引用しながら、「医者を必要とするのは健康な人間じゃなくて病人やろうもん。じゃあ、神さまを本当に必要と考えるのは誰やろうな。」このイエスさまの言葉で私たちが今最も聞きたいのは13節「(ホセア書の御言葉が)どういう意味か、行って学びなさい」と言われたことです。「行って学ぶ」とは「出会いなさい」です。現代の私たちに向けて言うなれば、「教会の中のことであれこれする前に、今、神さまの救いを必要としている人たちに出会い伝えるべく、ほら、一歩踏み出しなさい」です。ずっと語っていますが、本当に今、コロナ禍で多くの人が「変わらないもの、永遠のもの、私をモノ扱いしない救い」を必要としています。今ほど福音が必要とされる状況は無いのです。だから、私は皆さんにお願いしたいのです。どうか、あなたの周囲で福音を必要とする人に神さまを伝えてほしい。教会のトラクトを配ってくださっても、youtubeを紹介してくださっても、礼拝に連れてきてくださっても、毎朝のメールを転送してくださっても構いません。一人で伝えられる人は少なくても、皆が声をかけてくだされば、多くの人にイエスさまのことを知ってもらえる。イエスさまは今日も徴税人のように「えっ?この人にも?」という人に出会っておられます。私たちもそんなイエスさまに倣いたいのです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝、徴税人マタイがイエスさまに声をかけていただき、弟子になった物語を読みました。周囲が「えっ?あいつに?」と驚いても、イエスさまは福音を必要とする人に自ら出会い、救いを告げてくださいました。神さま、今の時代も多くの人があなたの救いを欲しています。本人が気づいていなくても、不安定な時代の中で変わらぬ希望を求めています。どうぞ、私たちにお伝えする勇気を与えてください。かつて私たちに福音を伝えてくださった先達と同じだけ、私たちにも勇気をお与えください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

***



2月21日~27日のみことば - 2021.02.20 Sat

緊急事態宣言はまだ解除されていませんが、久留米での感染者がかなり減ってきていることや、幸い私たちの会堂は広いので蜜を避けられることを考え、日曜日の教会学校(小学科・幼稚科)と10:30からの礼拝で集まることを再開したいと思います。
もちろんマスク着用や手指消毒、間隔をあけての着席など感染防止対策をしながら行います。
集まることのできる方は、ぜひともに礼拝を守りましょう。
また、引き続きYouTubeのライブ配信も行っていますから、こちらもご視聴お待ちしています♪



**今週のみことば***

※聖書の箇所は日本聖書協会の聖書本文検索から読むことができます。⇒こちら
・訳名選択     : 新共同訳
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14日(日) マタイによる福音書6章1-4節
一言メッセージ:マタイ6章は1-4節で「施し」、5-15節で「祈り」、16-18節で「断食」と、善行と考えられた行為についての注意を呼びかけます。それは、「いったい何のためにそれをするの?」という問いかけです。今朝の箇所1-4節では「施し」をする人に、「人に見てもらおうと(1節)」願い、「ほめられようと(2節)」考え、「人までラッパを鳴らし(目立とうとする)」ことを止めなさい、とイエスさまは言われます。むしろ3節にあるように「右の手のすることを左の手に知らせてはならない(最も身近な人にすら知られないで良い)」と語ります。何故なら、神さまがちゃんと私たちに目を留め、神さまが覚えてくださり、神さまが報いてくださるからです。
  考えてみると、現代社会は常に他人の評価に振り回される社会です。まるで評価されることがその人の価値かのような誤解すら生じています。でも、評価のために生きていると、評価されなくなった時に自分が不要な者と感じてしまい、生きることが虚しくなる。それよりも「僕のことはぜ~んぶ、創造主なる神さまが分かってくださっている」と安心して平安に生きる方が遥かに幸いです。神さまを信じること、それはいつも神さまの目に留められている安心に生きること。今朝も安心して歩み出しましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝は、周囲の評価のために生きるより、あなたの目に留められている平安と期待感に生きる方が幸いと気づかされました。どうぞ、私たちにいつもあなたの平安を与えてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

15日(月) マタイによる福音書6章5-8節
一言メッセージ:今朝は「祈り」についてのススメです。昨日同様、イエスさまは「偽善者たちが他人に見てもらおうと、派手に祈る。はっきり言っておく(この言い方は、イエスさまが大事なことを語る時の定型句です)。彼らに神さまの祝福は無い。何故なら、彼らが求めていたのは他人の評価であり、神さまの祝福ではなかったのだから。」祈りは神さまと向き合い、対話する行為です。こちらから神さまにお願いもするでしょうが、でも先日の宣教同様、神さまの示唆を聞くことが大事です。実際、8節でイエスさまは「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものを御存じなのだ」と言われました。注目したいのは「あなたがたが欲しいもの」でなく「必要なもの」と言われたことです。親は子の願望通りに何でも行いません。願って叶えられないと不平不満をまき散らすワガママな子に育ってしまうからです。だから、不要なものは与えない。神さまも同じように、私たちの祈りを聞かれながらも神さまのご判断がある。だからイエスさまは「他人の評価のために祈りのでなく、神さまと向き合いなさい」と言われたのでした。今朝から一週間の働きが始まります。神さまと向き合ってスタートしましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝は「祈り」について考えました。どうぞ、私たちがいつもあなたと向き合って、祈ることができますように。7節にあるように、くどくどは祈りません。どうぞよろしくです。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

16日(火) マタイによる福音書6章9-15節
一言メッセージ:今朝の箇所は、イエスさまが弟子たちに祈り方として教えられた「主の祈り」の箇所です。実は既に何度も書かれていながら、今日まで指摘しなかった事柄があります。それは9節、神さまを「父」と呼んでいることです。これはイエスさまの独自色の強い教えです。
いきなりの脱線で申し訳ないですが、面白い余談を1つ。ユダヤ人は十戒に「主の名をみだりに唱えてはならない(出エジ20.7、申命記5.11)」とあるので、古代から神さまの名を直接的には表現しませんでした。ヘブライ語アルファベットは皆さんのスマホやパソコンのフォントの都合上書けませんが、英語アルファベットではYHWHと表記します。普通の表記は子音だけで、母音は書かないのが一般的です。ユダヤ人はこの表記すら畏れ多いと考え、長年、「アドナイ」とか「ヤー」という言葉に読み替えて神さまの名前を表記しました。そうやって数百年に亘って神さまの正式名称を呼ばなかったので、ユダヤ人たちはYHWHで神さまの名前は実際にどう読むのか、分からなくなりました。そこで中世期以降、YeHoWaHという母音を加えて「イェホバ(エホバ)」という表記が神さまの名前だと言われたのです。ただ、これも後の研究者によって「YaHaWeH(ヤハウェ)が本来の読み方」と発表され、今はこちらが定説です。余談終わりです。余談で何が言いたかったかと言えば、ユダヤ人はそれくらいに神さまを畏れ多い存在と扱うのです。でもイエスさまはそんな神さまのことを「父」と呼ぶのです。それもアラム語(ヘブライ語の方言)で「アッバ(小さな子が父親を呼ぶ時の「お父ちゃん」)」と表現しました。ユダヤ人から見れば不遜極まりないが、ここにイエスさまのメッセージがあります。「神さまは私たちにとって近しくて、優しくて、いつも傍にいて下さる方。畏れすぎて、神さまを遠く遠―くにおしやってしまうのでなく、もっと身近な方と知りなさい」なのです。それも「インマヌエル(神は我々と共におられる)」の表れなのです。
さて一日のスタートです。傍に神さまがいてくださると確信し、安心して始めましょう。
祈り:アッバ、おとうちゃん。今朝もみことばをありがとうございます。今朝もあなたの守りと整えの中でスタートします。どうぞいっぱいの祝福と示唆を与えてください。出会う人々にあなたの福音の一片でも伝えることができますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

17日(水) マタイによる福音書6章16-18節
一言メッセージ:今朝の箇所は6章に並ぶ、善行3つの最後「断食」について、です。イエスさまは「偽善者は断食していることを他人に見てもらおうと、わざわざ苦しそうな顔をする」と語ります。不幸自慢、疲労自慢をしたがるというのです。でも、既に見てきたように、イエスさまは「他人から『大変やねぇ』と言われた時点で、報いられてる。だって彼らの目的は他人の評価だもの」と語ります。イエスさまは「何のために善行を行うの?」と問うのです。
  私たちも時に「忙しさ自慢、大変さ自慢」をしたがりますが、気をつけねばなりません。それは謙遜しているようで、「大変やねぇ」の言葉を求め、自分の自尊心を満足させていないか、傲慢(ごうまん)になっていないか。イエスさまは「善い行動をするな」と言ってはいません。「善行は神さまに分かってもらえば、それでいい」と言われるのです。周囲の人が分からなくても安心しましょう。さぁ今日も、神さまのあたたかな眼差しを感じながらスタートです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝のみことばを読みながら、私たちは自分たちを振り返りました。私たち、時に謙遜傲慢になっていませんでしたか?一生懸命アピールが鼻に着くことがありませんでしたか?忙しさも大変さも、神さま、どうぞあなたが受け止めてください。他人の目でなく、あなたに応えて生きる私たちであれますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

18日(木) マタイによる福音書6章19-21節
一言メッセージ:今朝の箇所に関連する1つの伝説を紹介します。今のインドの王様が、誰も見たことないような大宮殿を建築することにした。そこで、遠くイスラエルまで最高の建築士を求めて、家臣を派遣した。イスラエルについた家臣は一人の人物と出会い、最高の建築士を知らないかと問う。すると彼は「私の弟子でトマスという男がいる。彼を連れて行きなさい」と告げる。家臣は喜んでトマスを連れて帰り、王様に接見させます。王様は「いくら費用をかけても良い。誰も見たことのない大宮殿を作れ」と命じます。トマスは早速、多額の費用を持ち出し、貧しい人々に分け与えていく。しばらく経ち、王様が「どれだけ建築が進んだろうか」と見に行くと、何もできていない。烈火の如くに怒った王様はトマスを投獄します。その夜、王様は夢を見ます。すると、夢の中で見たこともない大宮殿が建っている。その素晴らしさに感動した王様は傍にいた人に、「これは誰の宮殿ですか」と問う。すると彼はこう答えます。「これは、私の弟子トマスがあなたのために天に立てた宮殿です。」その男性はイエスさまだった、という伝説です。
  マタイ6章は「施し、祈り、断食」と3つの善行を語ってきました。全て「他人の評価のために善行を行うのでない」と告げてきました。そして今朝の箇所は「天に富を積みなさい」と語ります。神さまの目に留まっていることに安心し、誠実に生きるように勧められるのです。今の社会に訴えたいみことばであり、物語です。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝は「天に富を積め」と語られました。今の時代、人々は周囲の評価によって自分の価値を測ろうとします。でも神さま、私たちはあなたの目に留まっていることに安心し、誠実に生きていくことを願います。今は課題が多くても、どうぞあなたの整えと導きと祝福とを確信し、今日も歩めますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

19日(金) マタイによる福音書6章22-24節
一言メッセージ:今朝は2つの話を選びました。1つは「身体の灯」の話です。日本語で「目は口ほどに物を言う」という諺がありますが、ユダヤ人は「目は心を表す」と考えていたようです。イエスさまは「今、お前の目は輝いているか?」と問われるのです。もう1つは「神さまと富、どっちを大事に生きるの?」という問いかけです。富が義人化され、人間を神さまから引き離そうとする存在として描かれています。どちらの話も、「お前は今、どう生きている?神さまに目を向け、誠実に生きているか?」と問う言葉です。
  人間は誘惑にとても弱いです。力や富の誘惑はとても魅力的ですが、では果たして、力や富は果たして人を幸せにできるのでしょうか?今から20年前の2001年、「ロード・オブ・ザ・リング」というファンタジー映画が公開されました。ホビットという弱い種族の主人公が世界を支配できる力を秘めた指輪を手にしてしまいます。その指輪はかつて封印された魔族の王の力を閉じ込めた指輪でした。物語は指輪をめぐり、誘惑に翻弄される者たちと、誘惑に必死に抗いながら皆で生きることを願う主人公、という物語です。作者のトールキンは熱心なカトリック教徒でした。彼もまた、「人は誘惑に屈するのでなく、神に誠実に、他者と愛し合って生きるべきだ」と訴えたのでした。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝、私たちはイエスさまから「お前は今、どう生きている?神さまにまっすぐに向き合い、誠実に生きているか?」と問われます。神さま、私たちは誘惑に弱いです。でも、誘惑に屈することが幸いではないとも知っています。どうか一時的な誘惑に負けぬように、神と他人に誠実に生きる私たちであり続けさせてください。私たちの人生の同伴者であり、導き手であるイエスさまの御名で祈ります。アーメン。

20日(土) マタイによる福音書6章25-34節
一言メッセージ:今朝の箇所はマタイ6章のまとめです。イエスさまは神を信じる人と信じぬ人を対比して語っています。両者は「今」の理解が異なります。神を知らぬ人々は、神の祝福や導きを信じませんから、自分や周囲の能力によって「今」を少しでも良くしようと努力します。けれど、人の力には限界があるため、自分の能力や周囲の協力がその人の限界になってしまいます。イエスさまも「飲み食いや富(衣服)のために今を生きようとするが、でも自らの寿命を延ばすことはできない」と指摘します。一方、信仰者は神さまの導きと祝福を信じます。だから、空の鳥や野の花(野の花は貧しい人が竈の焚き付けにするために前日にちぎって輪を作り、一晩乾燥させて使った)のように、自分の努力や能力を超えるときにも神さまの御業への信頼によって今を誠実に生きるのです。たとえ自分たちの人生が終わろうと、その先に神さまの永遠の命という祝福が約束されています。だから安心して、今を誠実に生きるのです。
ここで注目したいのは30節の終わりから。イエスさまは私たちを「信仰の薄い者たち」と言われました。「信仰が無い」ではなく、「あるのだが薄い」です。でもイエスさまはそんな「薄い信仰」の私たちを切り捨てるのでなく、「その信仰からでも良い。思い悩むな(原意は「心をちりぢりにするな」)」と呼びかけます。何故なら、「父なる神さまはいつも私たちに目を留め、傍にいてくださるのだから、私たちの必要なもの(欲しいものではない)を既にご存知だ」と語ります。そして33節「だから、何よりも優先すべきは、神さまの国と神さまの正義。そうすれば、必要なものは全て、加えて与えられる」と語るのです。「加えて」です。必要な全て満たされるのです。
  既に何度も話しましたが、私が神学生だった頃の話です。ある日、仲間の神学生たちと息抜きにビリアードに行きました。帰りがけ、商店街を原付バイクで帰っていると、神学部の人文科(牧師コースでなく一般コース)の学生がいる。声をかけ、原付を降り、エンジンを入れたまま押して歩いてしまいました。すると後ろからタクシーがクラクションを鳴らす。道の端に避けようとハンドルをきった弾みで、アクセルが入ってしまいました。原付はファーンとウイリーして、前輪が24時間果物屋さん(何でこんな店があったのだろう?)に商品台の端に落ちました。ガッシャーン。で、季節外れのブドウやリンゴなど,6810円分弁償させられました。がっかりして寮に帰り、寮母さんに果物を渡すと翌朝からデザートが豪勢に。同期の一人は「主よ、『日用の糧を今日も』でなく、『今日の豪勢な糧を日々』」と祈っていましたが、痛むのは私の懐です。貧乏学生にとって6,810円は痛い。するとタイミングよく、数日後に神学部に短期のバイトの話が来ました。早速飛びついた私は10時間働きましたが、後日、バイト代をもらってびっくり。金額は6,890円でした。神さまは弁償代を補い、加えて80円と、生涯にわたって語れる説教ネタをプレゼントしてくれました。
  だから今日も自信満々で皆さんに言います。「何よりも先ず、神の国と神の義を求めましょう。そうすれば、必要は皆、加えて与えられます。」
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝は一週間読んできたマタイ6章をまとめるみことばでした。私たちは他人の評価を求め、誘惑に弱く、すぐに目先のことに翻弄される者です。でもイエスさまは、そんな私たちの「薄い信仰」を認めてくださりながら、「最も優先すべきは神さまの御業と神さまの正義」と告げられます。神さま、どうぞ私たちにいつもあなたに目を向け続ける信仰と、実直にあなたに従い得る行動をお与えください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

***




2月14日~20日のみことば - 2021.02.12 Fri

久留米市内の新型コロナウイルス感染者は少しずつ人数が減ってきました。
しかしまだ油断は禁物ということで、緊急事態宣言の延長に伴って久留米教会の礼拝も今しばらくは可能な方はYouTubeのライブ配信を通して礼拝に参加していただけるようにと呼びかけています。
集まれないのはさみしいですが、どこにいても参加できるのがYouTubeの良いところでもあります。
どうか、まだ会堂に足を運ぶことはできないけど…という方もYouTubeのライブ配信にて礼拝にご参加ください♪

今週は比較的あたたかかったのに、来週はまたぐんと冷え込むとのこと。どうか皆さんあったかくして、ご自愛ください!
心の健康には、今週の日々のみことばをどうぞ!!

**今週のみことば***

※聖書の箇所は日本聖書協会の聖書本文検索から読むことができます。⇒こちら
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・旧新約・続編選択 : 新約聖書
・書名選択     : マタイによる福音書
・章選択      : 該当章数を入力(章まで入力するとその章すべてが表示されます。)

14日(日) マタイによる福音書6章1-4節
一言メッセージ:マタイ6章は1-4節で「施し」、5-15節で「祈り」、16-18節で「断食」と、善行と考えられた行為についての注意を呼びかけます。それは、「いったい何のためにそれをするの?」という問いかけです。今朝の箇所1-4節では「施し」をする人に、「人に見てもらおうと(1節)」願い、「ほめられようと(2節)」考え、「人までラッパを鳴らし(目立とうとする)」ことを止めなさい、とイエスさまは言われます。むしろ3節にあるように「右の手のすることを左の手に知らせてはならない(最も身近な人にすら知られないで良い)」と語ります。何故なら、神さまがちゃんと私たちに目を留め、神さまが覚えてくださり、神さまが報いてくださるからです。
  考えてみると、現代社会は常に他人の評価に振り回される社会です。まるで評価されることがその人の価値かのような誤解すら生じています。でも、評価のために生きていると、評価されなくなった時に自分が不要な者と感じてしまい、生きることが虚しくなる。それよりも「僕のことはぜ~んぶ、創造主なる神さまが分かってくださっている」と安心して平安に生きる方が遥かに幸いです。神さまを信じること、それはいつも神さまの目に留められている安心に生きること。今朝も安心して歩み出しましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝は、周囲の評価のために生きるより、あなたの目に留められている平安と期待感に生きる方が幸いと気づかされました。どうぞ、私たちにいつもあなたの平安を与えてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

15日(月) マタイによる福音書6章5-8節
一言メッセージ:今朝は「祈り」についてのススメです。昨日同様、イエスさまは「偽善者たちが他人に見てもらおうと、派手に祈る。はっきり言っておく(この言い方は、イエスさまが大事なことを語る時の定型句です)。彼らに神さまの祝福は無い。何故なら、彼らが求めていたのは他人の評価であり、神さまの祝福ではなかったのだから。」祈りは神さまと向き合い、対話する行為です。こちらから神さまにお願いもするでしょうが、でも先日の宣教同様、神さまの示唆を聞くことが大事です。実際、8節でイエスさまは「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものを御存じなのだ」と言われました。注目したいのは「あなたがたが欲しいもの」でなく「必要なもの」と言われたことです。親は子の願望通りに何でも行いません。そうすると、願って叶えられないと不平不満をまき散らすワガママな子に育ってしまうからです。だから、どれほど求められても不要なものは与えない。神さまも同じように、私たちの祈りを聞かれながらも神さまのご判断がある。だからイエスさまは「他人の評価のために祈りのでなく、神さまと向き合いなさい」と言われたのでした。今朝から一週間の働きが始まります。神さまと向き合ってスタートしましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝は「祈り」について考えました。どうぞ、私たちがいつもあなたと向き合って、祈ることができますように。7節にあるように、くどくどは祈りません。どうぞよろしくです。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

16日(火) マタイによる福音書6章9-15節
一言メッセージ:今朝の箇所は、イエスさまが弟子たちに祈り方として教えられた「主の祈り」の箇所です。実は既に何度も書かれていながら、今日まで指摘しなかった事柄があります。それは9節、神さまを「父」と呼んでいることです。これはイエスさまの独自色の強い教えです。
いきなりの脱線で申し訳ないですが、面白い余談を1つ。ユダヤ人は十戒に「主の名をみだりに唱えてはならない(出エジ20.7、申命記5.11)」とあるので、古代から神さまの名を直接的には表現しませんでした。ヘブライ語アルファベットは皆さんのスマホやパソコンのフォントの都合上書けませんが、英語アルファベットではYHWHと表記します。普通の表記は子音だけで、母音は書かないのが一般的です。ユダヤ人はこの表記すら畏れ多いと考え、長年、「アドナイ」とか「ヤー」という言葉に読み替えて神さまの名前を表記しました。そうやって数百年に亘って神さまの正式名称を呼ばなかったので、ユダヤ人たちはYHWHで神さまの名前は実際にどう読むのか、分からなくなりました。そこで中世期以降、YeHoWaHという母音を加えて「イェホバ(エホバ)」という表記が神さまの名前だと言われたのです。ただ、これも後の研究者によって「YaHaWeH(ヤハウェ)が本来の読み方」と発表され、今はこちらが定説です。余談終わりです。余談で何が言いたかったかと言えば、ユダヤ人はそれくらいに神さまを畏れ多い存在と扱うのです。でもイエスさまはそんな神さまのことを「父」と呼ぶのです。それもアラム語(ヘブライ語の方言)で「アッバ(小さな子が父親を呼ぶ時の「お父ちゃん」)」と表現しました。ユダヤ人から見れば不遜極まりないが、ここにイエスさまのメッセージがあります。「神さまは私たちにとって近しくて、優しくて、いつも傍にいて下さる方」なのです。それも「インマヌエル(神は我々と共におられる)」の表れなのです。
さて一日のスタートです。傍に神さまがいてくださると確信し、安心して始めましょう。
祈り:アッバ、おとうちゃん。今朝もみことばをありがとうございます。今朝もあなたの守りと整えの中でスタートします。どうぞいっぱいの祝福と示唆を与えてください。出会う人々にあなたの福音の一片でも伝えることができますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

17日(水) マタイによる福音書6章16-18節
一言メッセージ:今朝の箇所は6章に並ぶ、善行3つの最後「断食」について、です。イエスさまは「偽善者は断食していることを他人に見てもらおうと、わざわざ苦しそうな顔をする」と語ります。不幸自慢、疲労自慢をしたがるというのです。でも、既に見てきたように、イエスさまは「他人から『大変やねぇ』と言われた時点で、報いられてる。だって彼らの目的は他人の評価だもの」と語ります。イエスさまは「何のために善行を行うの?」と問うのです。
  私たちも時に、「忙しさ自慢、大変さ自慢」をしたがりますが、気をつけねばなりません。それは謙遜しているようで傲慢なのです。イエスさまは「善い行動をするな」と言ってはいません。「善行は神さまに分かってもらえば、それでいい」と言われるのです。今日も私たち、神さまの眼差しを感じながらスタートしましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝のみことばを読みながら、私たちは自分たちを振り返りました。私たち、時に謙遜傲慢になっていませんでしたか?一生懸命アピールが鼻に着くことがありませんでしたか?忙しさも大変さも、神さま、どうぞあなたが受け止めてください。他人の目でなく、あなたに応えて生きる私たちであれますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

18日(木) マタイによる福音書6章19-21節
一言メッセージ:今朝の箇所に関連する1つの伝説を紹介します。今のインドの王様が、誰も見たことないような大宮殿を建築することにした。そこで、遠くイスラエルまで最高の建築士を求めて、家臣を派遣した。イスラエルについた家臣は一人の人物と出会い、最高の建築士を知らないかと問う。すると彼は「私の弟子でトマスという男がいる。彼を連れて行きなさい」と告げる。家臣は喜んでトマスを連れて帰り、王様に接見させます。王様は「いくら費用をかけても良い。誰も見たことのない大宮殿を作れ」と命じます。トマスは早速、多額の費用を持ち出し、貧しい人々に分け与えていく。しばらく経ち、王様が「どれだけ建築が進んだろう」と見に行くと、何もできていない。烈火の如くに怒った王様はトマスを投獄します。その夜、王様は夢を見ます。すると、夢の中で見たこともない大宮殿が建っている。その素晴らしさに感動した王様は傍にいた人に、「これは誰の宮殿ですか」と問う。すると彼はこう答えます。「これは、私の弟子トマスがあなたのために天に立てた宮殿です。」その男性はイエスさまだった、という伝説です。
  マタイ6章は「施し、祈り、断食」と3つの善行を語ってきました。全て「他人の評価のために善行を行うのでない」と告げてきました。そして今朝の箇所は「天に富を積みなさい」と語ります。神さまの目に留まっていることに安心し、誠実に生きるように勧められるのです。今の社会に訴えたいみことばであり、物語です。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝は「天に富を積め」と語られました。今の時代、人々は周囲の評価によって自分の価値を測ろうとします。でも神さま、私たちはあなたの目に留まっていることに安心し、誠実に生きていくことを願います。今は課題が多くても、どうぞあなたの整えと導きと祝福とを確信し、今日も歩めますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

19日(金) マタイによる福音書6章22-24節
一言メッセージ:今朝は2つの話を選びました。1つは「身体の灯」の話です。日本語で「目は口程に物を言う」という諺がありますが、ユダヤ人は「目は心を表す」と考えていたようです。イエスさまは「今、お前の目は輝いているか?」と問われるのです。もう1つは「神さまと富、どっちを大事に生きるの?」という問いかけです。富が義人化され、人間を神さまから引き離そうとする存在として描かれています。どちらの話も、「お前は今、どう生きている?神さまに目を向け、誠実に生きているか?」と問う言葉です。
  人間は誘惑にとても弱いです。力や富の誘惑はとても魅力的ですが、では果たして、力や富は果たして人を幸せにできるのでしょうか?今から20年前の2001年、「ロード・オブ・ザ・リング」というファンタジー映画が公開されました。ホビットという弱い種族の主人公が世界を支配できる力を秘めた指輪を手にしてしまいます。その指輪はかつて封印された魔族の王の力を閉じ込めた指輪でした。物語は指輪をめぐり、誘惑に翻弄される者たちと、誘惑に必死に抗いながら皆で生きることを願う主人公、という物語です。作者のトールキンは熱心なカトリック教徒でした。彼もまた、「人は誘惑に屈するのでなく、神に誠実に、他者と愛し合って生きるべきだ」と訴えたのでした。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝、私たちはイエスさまから「お前は今、どう生きている?神さまにまっすぐに向き合い、誠実に生きているか?」と問われます。神さま、私たちは誘惑に弱いです。でも、誘惑に屈することが幸いではないとも知っています。どうか一時的な誘惑に負けぬように、神と他人に誠実に生きる私たちであり続けさせてください。私たちの人生の同伴者であり、導き手であるイエスさまの御名で祈ります。アーメン。

20日(土) マタイによる福音書6章25-34節
一言メッセージ:今朝の箇所はマタイ6章のまとめの話です。イエスさまは神を信じる者と知らぬ者(異邦人)とを対比させながら語っています。神を知らぬ人々は、神さまの祝福や導きを信じませんから、先の事ではなく今のことに固執します。でも、信仰者は神さまの導きを信じて、空の鳥や野の花(野の花は貧しい人が竈の焚き付けにするために前日にちぎって輪を作り、一晩乾燥させて使ったというのが、この話です)のように、誠実に今を生きると語られます。注目したいのは30節の終わりから。イエスさまは私たちを「信仰の薄い者たち」と言われました。「信仰が無い」ではなく、「あるのだが薄い」です。でもイエスさまはそんな「薄い信仰」の私たちを切り捨てるのでなく、「その信仰からでも良い。思い悩むな」と呼びかけます。何故なら、「父なる神さまはいつも私たちに目を留め、傍にいてくださるのだから、私たちの必要なもの(欲しいものではない)を既にご存知だ」と語ります。そして33節「だから、何よりも優先すべきは、神さまの国と神さまの正義。そうすれば、必要なものは全て、加えて与えられる」と語るのです。「加えて」です。必要な全て満たされるのです。
  既に何度も話しましたが、私が神学生だった頃の話です。ある日、仲間の神学生たちと息抜きにビリアードに行きました。帰りがけ、商店街を原付で帰っていると、顔見知りの学生がいる。「何してるの?」と声をかけ、原付を降り、エンジンを入れたまま押して歩いてしまいました。すると後ろからタクシーがクラクションを鳴らす。道の端に避けようとハンドルをきった弾みで、アクセルが入ってしまいました。原付はファーンとウイリーして、前輪が24時間果物屋さん(何でこんな店があったのだろう?)に商品台の端に落ちました。ガッシャーン。で、季節外れのブドウやリンゴなど,6810円分弁償させられました。がっかりして寮に帰り、寮母さんに果物を渡すと翌朝からデザートが豪勢に。同期の一人は「主よ、『日用の糧を今日も』でなく、『今日の豪勢な糧を日々』」と祈っていましたが、痛むのは私の懐です。貧乏学生にとって6,810円は痛い。するとタイミングよく、数日後に神学部に短期のバイトの話が来ました。早速飛びついた私は10時間働きましたが、後日、バイト代をもらってびっくり。金額は6,890円でした。神さまは弁償代を補い、加えて80円と、生涯にわたって語れる説教ネタをプレゼントしてくれました。
  だから今日も自信満々で皆さんに言います。「何よりも先ず、神の国と神の義を求めましょう。そうすれば、必要は皆、加えて与えられます。」
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝は一週間読んできたマタイ6章をまとめるみことばでした。私たちは他人の評価を求め、誘惑に弱く、すぐに目先のことに翻弄される者です。でもイエスさまは、そんな私たちの「薄い信仰」を認めてくださりながら、「最も優先すべきは神さまの御業と神さまの正義」と告げられます。神さま、どうぞ私たちにいつもあなたに目を向け続ける信仰と、実直にあなたに従い得る行動をお与えください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

***





2月7日~13日のみことば - 2021.02.07 Sun

2月になりました。
今年は新型コロナウイルスで様々な行事もできなかったこともあり、例年とはまた違った意味で一年があっという間に過ぎている気がします。
緊急事態宣言の延長も発表され、まだまだ我慢の時が続きますね。
心が沈みそうなとき、独りぼっちのような気持にさいなまれるとき、よかったら礼拝のライブ配信や過去動画をみてみてください。
少しでも、一緒に礼拝する喜び、見えないけれど神さまは私たちと共にいてくださることが伝わったらいいなと思います。
YouTubeでは、検索すれば讃美歌の動画なんかもたくさんありますね。こちらもおすすめです。
この長いトンネル、先が見通せないのは怖いけれど、どんな状況になっても私たちと共にいてくださる方。神さまの伴いを信じて一歩一歩毎日を歩んでいけたらいいなと願っています。

今週も、毎日のみことばで心に栄養を!!


**今週のみことば***

※聖書の箇所は日本聖書協会の聖書本文検索から読むことができます。⇒こちら
・訳名選択     : 新共同訳
・旧新約・続編選択 : 新約聖書
・書名選択     : マタイによる福音書
・章選択      : 該当章数を入力(章まで入力するとその章すべてが表示されます。)

7日(日) マタイによる福音書5章21-26節
一言メッセージ:昨日予告したように、今朝からはイエスさまによる、神さまの御心の先鋭化の箇所です。全部で6つの話が続きますが、全て「これまで〇〇と言われてきた。しかし、他ならぬこの私が言う・・・」という反対命題という定式を持ちます。これがなかなかにすごい言葉なのです。
  今朝の箇所5.21でイエスさまは「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、(他ならぬこの)わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。」注目したいのは「殺すな」という命令が出エジプト記20.13の十戒のことば、神さまのみことばだということです。私たちは「イエスさまが救い主だし、神の子」と知っていますからすんなり受け入れられますが、当時の人々はイエスさまの十字架も復活も神さまの御心もまだ分からない。だから、「なんて不届きな!冒涜だ」と感じた人々もいたことでしょう。それくらい大胆な言葉なのです。でも、言い方は挑戦的でも、内容はより神さまの御心を深め、先鋭化しています。これもイエスさまの世界観に基づいて理解せねば分かりにくいですが、イエスさまは「もうすぐにでも神さまの救いは完成するよ。時間が無いよ。あなたが兄弟に怒っている(ギリシア語のオルゲー。「根深い怒り」を指す)間に神さまの救いは完成するかもしれない。だから敵対を止め、神さまに目を向けて、神さまの救いに期待しなさい」と語っているのです。イエスさまの御言葉は常に神さまへの「全集中!」でした。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。イエスさまは私たちに、あなたの祝福を逃さぬために早々の和解を促します。神さま、他者への憤りは一時的なファイトを湧かせますが、でも、苦しさが長引きます。神さま、どうか私たちの中の怒りを適切に鎮めさせ、和解の御業を私たちに実現してください。イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

8日(月) マタイによる福音書5章27-30節
一言メッセージ:今朝の「姦淫するな」も十戒の言葉です。イエスさまは「『姦淫するな』と命じられてきたが、しかし、他ならぬ私は言う。姦淫どころか、みだらな思いで異性を見る者はだれでも、既に心の中でその相手と性的関係をもったのである。」かなり極端に思える言葉です。また29節以下の「もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまえ…」も、むちゃくちゃ過激です。「かわいい」とか「綺麗」とか「かっこいい」とかは、誰でも反射的に思ってしまう事柄ですから、それを否定されるのは「無茶な」と思ってしまうのです。昔、古代のキリスト教指導者オリゲネスは性欲を断つために自ら男性器を切断したと聞いて「うわぁー」と思ったものです。今朝のイエスさまの意図も、昨日のみことばメール同様、イエスさまの「すぐにでも終末(神の国)が来る」という切迫感を理解せねば分かりません。イエスさまは「本能的な欲に突っ走って、神さまの救いを見過ごさないようにしなさい」と告げているのです。私たちも、自分たちの願望に甘えて誘惑に流されやすいですが、、神さまの御心を見過ごさないように今日を過ごしましょうね。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。イエスさまは私たちが誘惑に弱いことを知っておられたから、「神さまの救いをちゃんといただきなさい」と告げられました。神さま、イエスさまの言葉のような痛さは勘弁してほしいですが、その真意を受け止めます。どうぞ今日もあなたを見上げて歩めますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

9日(火) マタイによる福音書5章31-32節
一言メッセージ:「妻を離縁する者は、離縁状を渡せ」とは申命記24.1の言葉です。イエスさまはその律法をがっつりと否定し、「不法な結婚(淫行、不倫)」以外の理由による離縁を禁じました。この掟を知るには、時代背景を知る必要があります。当時の社会は男性中心の社会で、女性や子どもは家の財産という理解でした。ですから、離縁された女性は頼る相手のいない社会的弱者の扱いをされました。そして、当時、この掟や理解を悪用する男性たちがいたようです。調べますと、結婚すれば性的関係は姦淫にならないから、一日だけ結婚して関係をもち、翌日には一方的に離縁する男もいたようです。この律法は、そんな男性の身勝手な欲望のために翻弄される女性たちを守るための教えです。今朝は、弱い民を見捨てない神さまの御心を具体的に先鋭化した教えなのです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝のみことばは、イエスさまの離縁についての教えでしたが、その真意にあったのは、弱い立場に追いやられる人たちを守り、寄り添うあなたの御心の体現でした。神さま、今も昔も、自分本位に身勝手を押し通す者はいます。けれど、そんな現実に目を瞑るのでなく、苦しむ人に寄り添う私たちであれますように。最後まで弱い民に寄り添ってくださった救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

10日(水) マタイによる福音書5章33-37節
一言メッセージ:「偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ」はレビ19.12、民数記30.3、申命記23.2に関連する引用です。イエスさまはこの掟を語りながら、「しかし、他ならぬこの私は言う。一切誓うな。天にかけても、地にかけても誓うな」と禁じました。これは、当時の人たちが「神さまにかけて誓う」という言い方を濫用し、自分の言い分を正当化していたからです。イエスさまは続けて「それは神さまを軽んじる行為だ。自分がいかに先も見通せぬ者であるかを自覚し、日々、誠実に生きよ」と告げるのです(「然り、然り」「否、否」は誠実で率直であることの勧め)。イエスさまは「自分を主張する時に神さまを言い訳にするな」と告げたのです。神さまを言い訳にせず、自分の意見として正々堂々と言えばいいのだと思うのです。
  以前、ある会議の休憩中、一人の方が私に「みんな言っていますが…」と言って意見してきたことがあります。「自分の発言は大多数の意見」と言いたかったのでしょうが、私にはとても納得がいきませんでした。それで「みんなとは具体的にどなたですか?」と問い直しました。するとその方は口ごもりながら「自分の周りのみんな」と言う。それで「では、皆さんに尋ねましょう」と語り、会議の休憩明けに「今、ある方から『皆さんが〇〇と言われている』と聞きましたが、より詳しくご意見が知りたいので、どうぞこの場で教えてください」と切り出しました。結果、どなたからも反論はなく、むしろ、私への同調意見が多数出てきました。若気の至りからか、その方の面子を潰してしまいましたが、でも私は今も「みんなが言っている」との言い方は嫌いです。
今朝のみことばも「神さまを言い訳にするな。あなたはあなたらしく、自分の思いとして率直に語ればいい」と促しているように感じています。私はわたし、他人と比べずにありたいです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝のみことばは、自らを尊大に見せたがる人間の弱さを教えられました。自分を正当化するため、人は時に「みんなが言っている」とか、「神さまに誓って」と語ります。でも、私たちはいつも、誰かを言い訳に利用せず、誰に対しても真っ正直に向き合いたいと願います。神さま、どうぞ私たちの考えが正しければ何があろうと守り、誤っていればどうぞ正して、お導きください。イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

11日(木) マタイによる福音書5章38-39節
一言メッセージ:今朝は「建国記念の日」です。どうぞお時間があれば、youtubeで筑後キリスト者平和の会での踊の講演をご覧ください。(※2月11日までには教会のホームページから見れるようする予定です。)さて、今朝はそんな講演とも繋がって来る「非暴力抵抗のススメ」のメッセージです。大事なことなので強調しますと、「非暴力無抵抗」ではなく「非暴力抵抗のススメ」です。
38節の「目には目を、歯には歯を」はハムラビ法典にも記される掟です(聖書では出エジプト21.23-25、レビ24.20、申命記19.21)。私たちから見れば「やられたらやり返せ」との復讐のススメに読めますが、その意図は逆で「復讐は同程度に留めなさい」です。人間は自分が受けたら以上の痛みを相手にしてやりたくなります。ドラマ半沢直樹でも「やられたらやり返す。倍返しだ」が決め台詞でしたが、そこには人間の強烈な復讐願望が見えるのです。しかしイエスさまは「悪人に手向かうな」と語り、3つの例を挙げました。今朝はその1つ目だけを読みます。
39節「誰かがあなたの右の頬を打つなら左の頬をも向けなさい。」想像してください。目の前の相手の右の頬を打つ時、私たちは左の手のひらで叩こうとします。でも、ユダヤ人にとって左は不浄の手なので用いません。では右手を使って相手の右の頬を叩くにはどうするか。右手の甲で相手を叩くことになる。それは「相手を侮辱する」意味合いを持つ行為です。そう気づく時、イエスさまの意図が見えてきます。「あなたの右の頬が打たれたら…」は、「力関係を根拠に、あなたの尊厳を踏みにじる者があなたの頬を打ってくるならば、左の頬を向けなさい。そうすると、相手は右の手のひらであなたを叩くだろう。それはもはや侮辱行為ではなく、あなたを対等な相手と見据えての暴力行為にしかならない。でもあなたはそうやって、『私も神さまから尊厳をいただいた人間だ。あなたに不当に踏みにじらせない』と示すことになる」なのです。今朝の箇所は「非暴力抵抗のススメ」です。インド解放の父ガンジーはこのイエスさまの言葉によってインドでの非暴力抵抗運動を指導したのでした。イエスさまの言葉は単なる絵空事でなく、確かな示唆なのです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今の社会は力ある者と弱き民の格差が際立ち、「自己責任、自助」という言葉が弱い民を切り捨てる雰囲気を出す、大変生きにくい時代です。でも今朝のみことばを通してイエスさまは、「神さまから与えられている命と尊厳を誇り、卑屈にならず、互いを認め合って生きること」と示されました。神さま、どうぞ社会が互いの尊厳を認め合い、違いを受け入れ合い、共に助け合って生きるように整えられていきますように。あなたの平和をどうぞ実現させてください。平和の君イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

12日(金) マタイによる福音書5章40-42節
一言メッセージ:昨日のみことばの続きです。イエスさまの「『目には目を、歯には歯を』でなく、悪人に手向かうな」との言葉は「非暴力抵抗のススメ」でした。
  40節「あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい」を不思議に思いませんか?身ぐるみ剥がれるなら上着が先で下着が後のはずなのに、順序が逆です。これは、借金のカタに身ぐるみ剥がされる状況を想定した言葉です。ユダヤには「上着は夜寝る時の毛布代わりになるので、どれだけ貧しい人からも上着はとってはならない」という人道的な思想がありました。でも、その掟を最低限で守るが、上着以外、家も財産も家族も根こそぎ奪っていく借金取りがいたのです。イエスさまは「ならば、上着をも与えてしまえ。すると周囲の人々が真っ裸のあなたを見て『何があったん?そんなひどいことになって』と問うだろう。その時、あなたは借金のためとは言え、相手が非情で、いかに非道であるかを周囲に訴えることができる」と言われたのです。
  41節の「だれかが1ミリオン行くように強いるなら、一緒に2ミリオン行きなさい」も、ローマ兵による強制徴用が想定されています。イスラエルでは「支配者側のローマ兵から命じられたら1ミリオン(約1.5km)は荷物を背負わねばならない」という法律がありました。イエスさまの十字架の場面でシモンという人物がイエスさまの十字架を代わって背負ったのはこの掟のゆえです。イエスさまはその掟を引っ張り出し、「強要されたら倍の2ミリオン行きなさい」と告げます。それは「最初の1ミリオンは支配関係ゆえ強要だが、次の1ミリオンはあなたが相手を助ける行動。あなたは被支配の民ではなく、対等な存在として相手と向き合いなさい」とのススメなのです。
  38-42節で一貫しているのは「私たちが支配や侮辱に卑屈にならず、一人格として相手と向き合うこと」のススメです。神さまが与えてくださった尊厳を根拠に、誇りある生き方を促すのです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝もイエスさまの非暴力抵抗のススメを分かち合いました。イエスさまは私たちに、神さまから与えられた命と尊厳を誇って生きることを示されます。私たちは誰かの支配や侮辱の中で生きる者ではありません。時に人は地位や力関係によって上下関係を作ろうとしますが、神さま、どうぞ私たちはあなた以外に私たちの上に何かを作ることなく生きる者でありますように。また、いつも相手と対等な立場で向き合い、真正面から向き合って対話することができますように。イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

13日(土) マタイによる福音書5章43-48節
一言メッセージ:今日10:00から地方連合の「どげんすっと?宣教協力」が行われます。コロナ禍で教会が直面した課題だけでなく、これから教会がどう地域で伝道できるかも話します。教会ホールで大きいスクリーンで映しますので、10:00からのディスカッションだけでもご覧に来て下さい。
  さて、今朝の箇所です。「隣人を愛し、敵を憎め」は聖書に記載はないのですが、当時のユダヤ教では掟の1つと考えられていた言葉です。でもイエスさまは「敵をも愛し、迫害する者のために祈れ」と語りました。自分を苦しめる者のために祈り、愛するなんて、ムチャクチャに思えます。でもアメリカの公民権運動指導者キング牧師はこの箇所でこう説教しています。「イエスは『敵を好きになれ』と言わなかった。『好きになる』は感情の事柄。私たちは、自分たちを殴りつける者たちを好きにはなれない。しかしイエスは『愛せ』と言われた。それは意志の呼びかけである。」そこからキング牧師は、太陽が悪人にも善人にも降り注ぐように、神さまが全ての存在を無条件のアガペーの愛で愛してくださっていることを説き起こし、『我々は敵を憎むのでなく、相手の中にある敵意を滅ぼそう』と呼びかけていきました。キング牧師の呼びかけと運動は確かにアメリカを変えました。なんせ、先々代のアメリカの大統領は初のアフリカにルーツを持つオバマさんでした。今もまだ、世界には黒人差別は根強くあり、この不況下では人種差別が表面化してきます。けれど世界は確かに変わりつつあります。何故なら、神さまの御心は決して廃れず、実現されていくからです。
  さて、最後に48節に注目しましょう。「完全な者となりなさい」とはどういう意味でしょう。イエスさまが語ったアラム語で見ると、これはシャレブという言葉です。その派生語はシャロームです。シャロームの原意は「神さまの祝福がありますように」。つまり、神さまの御心の成就を願う言葉です。そこから考えると、「完全な者になりなさい」の意味は「自分で努力して完全な者になりなさい」ではなく、「神さまの御心によって正しい者へと導かれていきなさい」です。大事なことは、「自力で完全な者になる」ではなく、「神さまの御心に従って生きていこう」です。その先に「敵を愛する」こと、相手の敵意を滅ぼし友に変えること、も見えてくるのですね。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝わたしたちは「敵を愛せ」とのみことばから、キング牧師の活動や、神さまの御心によって人が変わっていくことを考えてきました。神さま、私たちが自ら「完全な者」にはなれません。でもあなたの御心を追い求めます。どうぞいつも私たちを導き、私たちが「無理」と思う事柄にも勇気をもって一歩踏み出させ、あなたの御心の実現の一助を担わせてくださいますように。神さま、御国を来たらせてください。御心の天になるごとく、地にもなさせてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

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Author:久留米キリスト教会
福岡県久留米市にある久留米キリスト教会のブログです。
わたしたちの教会は、日本バプテスト連盟に加盟する、プロテスタント派のキリスト教会です。
(※ブログに掲載した文章の無断転載はご遠慮ください)

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