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2020-08

8月2~8日のみことば - 2020.08.04 Tue

梅雨が明け、本格的な夏がやってきました。
梅雨明けと同時に暑~い毎日が続いています。
新型コロナウイルスだけでなく、熱中症にも注意が必要ですね。
また、豪雨被災地ではこの暑さの中での復旧作業。
体調を崩すことがありませんようにと祈るばかりです。

今週もみことばメールをまとめて掲載します。
皆さんの日々がみことばによってささえられますように。

***今週のみことば***

※聖書の箇所は日本聖書協会の聖書本文検索から読むことができます。⇒こちら
・訳名選択     : 新共同訳
・旧新約・続編選択 : 詩編→旧約聖書
・書名選択     : 詩編
・章選択      : 該当章数を入力(章まで入力するとその章すべてが表示されます。)

2日(日) 詩編106編1-48節
一言メッセージ:106編の詩人は長いですが、とても分かりやすい詩です。1-5節は神さまの偉大さを詠いながら、自分たちを再度、「御心に留めてほしい」と願っています。というのも、詩人は「わたしたちは先祖と同じく罪を犯し、不正を行い、神に逆らった(6節)」からです。詩人は自分たちの罪を思い返しながら、こんな自分たちをそれでも見捨てず、目を留め、手を差し伸べ、何度も何度も救おうとされる神さまに呼びかけているのです。
6節以下は出エジプトの際の神さまの奇跡の御業と民の裏切りを列挙しています。解説が必要なのは39節で、神さまへの罪を「淫行」と表現していることです。神さまと人間の「救われる、信じる」という関係が婚姻のイメージで考えられているのです。誰でも、浮気されたら怒りや悲しさを感じるものでしょうが、同じように、神さまも人間に裏切られる度に苦しさを経験されるのです。でも、神さまは忍耐強く何度も何度も、「きっともう気づくだろう」と民を愛し、救おうとされる。
私は106編を読む時、2つのことを思い起こしたいです。1つは、私たちの国の過ちである太平洋戦争です。「大東亜共栄圏」といった自分勝手な平和観を言い分に、アジア諸国を侵略し、自他ともに多大な犠牲を生み出してしまった私たち。当たり前ですが、平和を作るものが虐殺などするわけがありません。もう1つ思い起こしたいのは、自分たちがこれまで神さまを軽んじた過去、です。私たちが神さまを蔑ろにする度に神さまは悲しんできたでしょう。でも、そんな私たちの罪を全て知りながら神さまは、私たちを立ち帰らせようと今日も招いてくださるのです。今の私たちは、そんな神さまの赦しと期待によってあるのだと気付かされます。今朝は日曜日、礼拝の時です。今朝も神さまの招きをいただき、礼拝に集いましょうね。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝の106編、私たちはしみじみと味わいます。そこに書かれていたのは人間の罪とあなたの深い慈愛です。人間は自分たちの願望や一時的な感情のために、どれほどあなたを蔑ろにしてきたことでしょう。それでもあなたは私たちを見捨てられませんでした。何度も何度も私たちが立ち帰る機会を創り続けてくださいました。神さま、今日こそあなたをしっかりと心に刻み、信じ、従う者となりたいです。あなたを信じ、人生の本当の平安を味わうことができますように。救い主イエスさまのお名前で祈ります。アーメン。

3日(月) 詩編107編1-43節
一言メッセージ:107編は聖書の前に、この解説を読んだ方が分かりやすいかもしれません。
107編は、前半は4つの「苦境から救い出された民」の物語を語り、後半でイスラエルの救いの歴史を振り返る構成です。前半の4つの物語は①4-9節の「遭難」、②10-16節の「幽閉」、③17-22節の「重病」、④23-32節の「海難」です。それぞれに、最初は民が神さまを蔑ろにするのですが、「苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと、主は彼らを苦しみから救ってくださった」と「主に感謝せよ。主は慈しみ深く、人の子らに驚くべき御業を成し遂げられる」という言葉(一段下がった部分)が繰り返され、神さまの救いを体験していくのです。本題は後半です。詩人は前半の想起を経て、33節以下、今自分たちが直面している苦境を思っています。それは、理不尽な社会によって生まれた経済格差です。注目したいのは40-41節の「貴族ら」と「乏しい人」です。41節の「乏しい人」はヘブライ語エブヨーンといい、社会制度や経済格差によって生きる支えを奪われた貧しい人たちを指す言葉です。107編当時のイスラエルでは、貴族たちが自分たちの都合の良い制度を作ってますます富み栄えていくのに、貧しい人たちはますます追い詰められています。詩人はそんな苦境を神さまに訴えながら、「どうぞ過去同様に今、救ってください」と訴えているのです。
社会が作り出した格差。とても過去の出来事と思えないのは私だけでしょうか。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。107編は社会によって苦しめられた民の訴えの詩でした。詩人は苦しみを経験しながら、でもあなたという訴える相手、ちゃんと自分たちの声を聴いてくださるお方がいることを確信していました。あなたが顧みてくださると信じ抜いています。神さま、今、私たちの社会でも格差はどんどん広がり、多くの民が生活の苦しさを感じるのに、一部の権力者たちの横暴は度を越しています。現代の日本なのに、夏休みなどの長期休暇で学校給食が無くなると途端に食事がとれなくなる子どもたちもいます。神さま、この社会はやはり間違っています。皆が安心して、当たり前に生きられる社会を願います。どうか、どうか、あなたの平和を実現してください。民の訴えを受け止めてくださるあなたに祈ります。アーメン。

4日(火) 詩編108編1-14節
一言メッセージ:108編の詩人は周辺の国や民族の小競り合いに直面し、頭を抱えているようです。思うようにいかない現実に腹立たしさと力不足を感じる詩人は、神さまのへの信仰に固く立とうとします。その時、詩人は8節以下のイメージを得ます。8-10節で神さまは詩人たちを含め、近隣の諸国や民族の名を挙げながら、「それらは皆、私のもの」と宣言されます。それは詩人への励ましでした。自分たちの小競り合いに右往左往せず、主である神さまにどっかり頼り、安心して生きるように励まされるのです。とても印象的な言葉が13節後半-14節前半です。祈祷会で皆さんと読んでいる月本昭男さんの私訳はこうです。「人間による救いなど虚しいのです。神にあってこそ、われらは威力を発揮できる。」神さまと共にあってこそ、私たちは十分に力も知恵も命も、発揮して生きていられるのです。さぁ、今朝も新しい一日が始まります。今日も神さまを意識しながら、歩み出していきましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝のみことばはストレートでした。「あなたにあってこそ、わたしたちは十分に生きられる」。神さま、わたしたちはあなたを信じています。それは、自分の具合が悪い時だけでなく、私たちの良い時も悪い時も、強い時も弱い時も、いついかなる時もです。でも私たちは自分の直面する現実が大きいほどに、あなたを見失いがちです。神さま、どうか私たちの信仰を強めてください。いつもあなたと共にあることを喜び、期待し、誇りを持って生きる者としてください。一日の始まり、あなたに期待し、イエスさまのお名前で祈ります。アーメン。

5日(水) 詩編109編1-31節
一言メッセージ:109編は一読してもよく分からない詩です。というのも、6-20節で詩人を攻める敵対者の言葉が引用されているのですが、それが一読しただけでは分からないからです。
  要約しますと、1-5節で詩人は理由が分からないのに敵対者に責められ、4節で「ただ祈るしかない」と訴えています。敵意に善意をもって返しても、相手はますます敵意は強くします。6-20節は敵対者の発言ですが、読むと、とにかく詩人を滅ぼしてしまおうと勢い込んでいます。21-27節で詩人はやつれてしまいます。でも28-31節で詩人は神さまの救いを再度願います。印象的なのは28節「彼らは呪いますが、あなた(神さま)は祝福してくださいます」です。
  2日の礼拝宣教を思い出しましょう。キング牧師は黒人を差別する人々の根底には、恐れ、プライド(誇り)、無知、偏見、誤解があると説明しながら、これを克服するには「神さまに目を留め、神さまの愛に生きるしかない」と説きました。神さまの愛から敵対者を見る時、彼らにも神さまを信じて回心する可能性がある、だから敵対者を滅ぼすのでなく、彼らが変わることを願いました。
  それは109編の詩人にも見られることです。詩人は敵対者が28節「恥に落とされる(過ちを自覚する)」ことを予見しながら、彼らが滅びることまでは祈りません。詩人は、彼らが「恥に落とされた」後、どう変わると期待したのでしょうか?私はそこに詩人の真の期待を感じるのです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。109編に私たちは平和を考えさせられます。私たちも時に、理不尽や八つ当たりとしか見えない敵意に曝されることがあります。詩人は強く責められる中であなたへの期待を忘れず、あなたによる回復を願い続けました。神さま、わたしたちもあなたの御業に期待します。平和を実現する時にあなたは敵対者を滅ぼすのでなく、回心を与え、わたしたちの友としてくださることでしょう。神さま、どうか今こそ平和を実現してください。わたしたちにも、この社会にも、世界にも。イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

6日(木) 詩編85編11-12節
一言メッセージ:今朝は8月6日、75年目の広島の日です。75年前の今日8:15、広島上空に投下された一発の原子爆弾は、決して忘れてはならない記録となりました。2年前、教会裏にお住まいのおばあちゃんから戦争証言を伺いました。おばあちゃんのお姉さんは広島の原爆の真下で大やけどを負い、一週間後に亡くなったと話してくれました。その無残な姿、焦土となった広島。あれから75年。今朝、私は普段の詩編の続きでなく、詩編85編11-12節を読みたいのです。
昨年11月24日(日)、わたしは午後から広島に急ぎました。平和公園にて行われたローマ法王の平和集会に参加するためでした。集会で法王が語った平和の訴えはとても印象的でした。全文はネットにも掲載されていますからどうぞ検索してください。今朝は終盤から一部を紹介します。
  「思い出し、ともに歩み、守ること。この3つは倫理的命令です。これらは、まさにここ広島において、よりいっそう強く、より普遍的な意味をもちます。この3つには、平和となる真の道を切り開く力があります。したがって、現在と将来の世代がここで起きた出来事を忘れるようなことがあってはなりません。記憶は、より正義にかない、いっそう兄弟愛にあふれる将来を築くための保証であり起爆剤なのです。すべての人の良心を目覚めさせられる、広がる力のある記憶です。わけても、国々の運命に対し、今、特別な役割を負っているかたがたの良心に訴えるはずです。これからの世代に向かって、言い続ける助けとなる記憶です。二度と繰り返しません、と。
だからこそわたしたちは、ともに歩むよう求められているのです。理解とゆるしのまなざしで、希望の地平を切り開き、現代の空を覆うおびただしい黒雲の中に、一条の光をもたらすのです。希望に心を開きましょう。和解と平和の道具となりましょう。それは、わたしたちが互いを大切にし、運命共同体で結ばれていると知るなら、いつでも実現可能です。現代世界は、グローバル化で結ばれているだけでなく、共通の大地によっても、いつも相互に結ばれています。共通の未来を確実に安全なものとするために、責任をもって闘う偉大な人となるよう、それぞれのグループや集団が排他的利益を後回しにすることが、かつてないほど求められています。
神に向かい、すべての善意の人に向かい、一つの願いとして、原爆と核実験とあらゆる紛争のすべての犠牲者の名によって、声を合わせて叫びましょう。戦争はもういらない!兵器の轟音(ごうおん)はもういらない!こんな苦しみはもういらない!と。わたしたちの時代に、わたしたちのいるこの世界に、平和が来ますように。神よ、あなたは約束してくださいました。「いつくしみとまことは出会い、正義と平和は口づけし、まことは地から萌えいで、正義は天から注がれます」(詩編85.11-12)。主よ、急いで来てください。破壊があふれた場所に、今とは違う歴史を描き実現する希望があふれますように。平和の君である主よ、来てください。わたしたちをあなたの平和の道具、あなたの平和を響かせるものとしてください!」
祈り:神さま、平和を来たらせてください。戦後75年が経つ今も世界で戦争は無くならず、核兵器の危機は未だに高まったままです。私たちの身近なところでも原発という形で核の脅威は隣り合っています。歴史を紐解くと、権力が自分の思惑や都合、利権で、歴史と事実を歪曲して解釈する時、戦争が始まることが分かります。神さま、どうか人間に悔い改めを起こしてください。あなたが示される平和は、自分の身内だけの安定でなく、敵対者を共に作り変え、理解し合い、共に生きることにあります。神さま、どうか、どうか、私たち、子どもたち、孫たちへと時代が経過する度に、戦争がもはや起こらない世界を来たらせてください。そのために私たちを平和の道具として用いてください。主よ、来て下さい。平和の主イエス・キリストのお名前で祈ります。アーメン。

7日(金) 詩編110編1-7節
一言メッセージ:詩編110編は預言者が神さまの預言を王に告げる詩です。だから1節の「わが主」は王を指します。6節などは血なまぐさく、ちょっと目を背けたくなる言葉です。でも、注目したいのは4節です。神さまが預言者を通して示す理想の王の姿は「メルキゼデク」と明記されました。メルキゼデクは創世記14章に登場しますが、彼は王であり、同時に祭司でした。そこに見られるのは、「理想の指導者とは神にも民にも誠実である者」なのです。
  現代社会では権力を分散するのが基本的な考え方です。それは、人間は過ちを犯す存在だからです。憲法の三権分立(立法、行政、司法)などは、正に相互に抑制できる体制です(だから、安倍総理が数年前、「私は立法府の長として…」と発言したことは非常に危ういものでした)。
  繰り返しますが、人間は必ず過ちを犯します。だから、いつも自分を自制する神さまが必要なのです。メルキゼデクしかり、わたしたちしかり、神さまを覚え続けるからこそ、正しい生き方が見出されるのです。今、私たち自身もそうですし、本当に正しい指導者を願っています。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝わたしたちは詩編110編を通して、理想の指導者とはどのような者か、を分かち合いました。それは、神さまと民に誠実な者でした。神さま、私たちの社会を見ていますと、そんな指導者が見られず悲しいです。でもイスラエルの民も長年、そんな指導者を願い、祈り続け、そしてイエスさまがお生まれになりました。神さま、私たちも平和の指導者の登場を祈り続けることができますように。あなたの平和が実現しますように。主よ、来て下さい。平和の君イエスさまのお名前で祈ります。アーメン

8日(土) 詩編111編1-10節
一言メッセージ:111編は、ヘブライ語の22個のアルファベットを順々に行の頭文字に使いながら、最後まで読み上げたアルファベット詩です。文学としても、とてもよくできた詩なのです。
  でも私たちが興味を持つのはやはり内容です。111編の3節「主の成し遂げられた…恵みの御業」、4節「驚くべき御業」は出エジプトの出来事を詠っています。そんな中でとても目を惹くのは3節の「驚くべき御業」の範囲です。「驚くべき御業」と聞けば、一回限りのものすごいスケールの大きな奇跡、例えば出エジプト時では海を割るといった奇跡をイメージしますが、111編ではそれだけに限定されず、3節のように「永遠に続く(もの)」、例えば5節の「糧(毎日の食事)」などの日常の出来事も含んで考えていることです。平たく言えば、「毎日の生活も神さまの御業」と理解しているのです。毎日、当たり前と感じている出来事。そこに詩人は神さまの御業を見出すのです。
  人は勘違いしやすく、毎日続く出来事を「当たり前、当然」と思いがちです。特に神さまの御業は私たちが自覚的に思い起こさねば、「当たり前」にされがちです。例えば、戦後75年、私たちの国が戦火にさらされなかったことなども「当たり前」と思われがちです。でも、その「当たり前」のために、75年前、どれだけの命が奪われたでしょうか。日本の侵略によってアジア諸国がどれほど苦しみ、また私たちの国でもどれほどの命が奪われたでしょうか。あの戦争を経て、今があります。今の戦争を拒否する日本の姿は「当たり前」ではありません。守らねばならないものです。
わたしたちは今、私たちの毎日の中で、神さまのこと、平和のことを思い起こし、「当たり前」でなく感謝し。いかに守り続けるか、覚え続けるか、伝え続けるか、考えたいものです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。111編を通して、私たちの毎日の生活は当たり前でなく、あなたの有り得難い、ありがたい恵みであることを思い起こしました。神さま、わたしたちは日常に慣れきってしまう時、大事なことを忘れがちになるものです。戦争の記憶もそうです。先日の広島の日、明日の長崎の日、11日の久留米空襲の日、15日の敗戦記念日と続く時期ですが、どうぞわたしたちが戦争の記憶を受け継ぎ、平和な未来を実現する決意を新たにできますように。今日の一日を守り、明日も伴い、明後日、一週間後、一年後、十年後もどうぞ導き続けてください。私たちの神さまに心から感謝し、平和の君、イエスさまのお名前で祈ります。アーメン。


***

今週も皆さんの上に神さまの祝福がありますように。。。

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7月26日~8月1日のみことば - 2020.07.28 Tue

長く続いた梅雨もようやく終わりそうな天気予報。
今度は東日本で大雨の予報のニュースに、先日の九州での大雨を思い出し、心配しています。
どうか、被害が出ませんように…。

今週も毎日のみことばメールをまとめて掲載します。
みことばによって皆さんが元気になりますように!!

***今週のみことば***

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26日(日) 詩編99編1-9節
一言メッセージ:99編は「聖なる主が私たちの神さまだ」ということを喜ぶ詩です。3節、5節、9節で繰り返される「聖なる(カドーシュ)」の「きよさ」は、何か汚れていたものを綺麗に洗って綺麗になる「清さ」ではなく、そもそも一切汚れることすらないほどの絶対的な聖さを表す言葉です。そんな極めて偉大な神を詩人は5節、8節、9節と身近な存在として「我らの神」と繰り返す。何故、詩人はそんなに神さまを「我らの神」と連呼するのか。それは、6節以降にあるように、神さまが私たち民の呼びかけに応えてくださる方だからです。本来、神さまには私たちの呼びかけに応える義務など無い。けれど応えてくださる。その理由を、私は「神さまの愛」としか表現できません。ヨハネの手紙一で「神は愛である」とありますが、神さまが私たちに応えてくださること自体が、神さまの愛であり恵みなのだと思わされるのです。
  今日は日曜日。礼拝の時です。新型コロナウイルスの感染再拡大が懸念される中ですが、今朝も神さまに呼びかけましょう。神さま、どうぞ私たちの呼びかけに応えてください。
祈り:天のお父さま、今朝もこうしてみことばをありがとうございます。今、私たちは新型コロナウイルスの感染再拡大のニュースを前に不安を強くしています。神さま、どうぞ私たちの呼びかけに応えてください。一刻も早く、病を終息させてください。感染している方々に癒しを、不安を覚えている方々に平安を、私たちに守りを、そして日々、みことばとあなたが伴ってくださっている実感をお与えください。今日の礼拝も、どうぞあなたの恵みを分かち合うことができますように。救い主イエスさまのお名前でお祈りします。アーメン。

27日(月) 詩編100編1-5節
一言メッセージ:詩編100編まで来ましたねぇ(前半は幾つか詩を省略してきましたが(笑))。100編はスケールの大きな歌です。詩人は「全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ」と呼びかけます。「喜びの叫び」は別の訳をすれば「凱歌、勝利の歌」です。詩人は「全世界よ、勝利の歌を歌い喜べ」と呼びかける。私たちは「勝利」と言われると勝者と敗者があるのだと思いますが、詩人は敗者を記しません。何故なら全世界の民が勝者であり、敗者がいないのです。あえて言うならば、敗者とは今の「自己責任の風潮」のような、わたしたちの社会の持つ理不尽な現実です。神さまの御心に沿わぬあらゆる理屈が滅び、そんな理屈に支配されていた全ての民が今、勝利者となると詩人は歌うのです。それは3節「主こそ神」だからです。神さまが私たちの神であってくださる。だから「わたしたちは主のもの、その民。主に養われる羊の群れ」です。
今朝から、一週間の働きが始まりました。理不尽な現実はいっぱい広がっています。でも、不安に沈みこまないでくださいね。ちゃんと神さまの勝利宣言を覚えて一週間を歩み始めましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝、わたしたちは一週間の仕事の始まりに、あなたによる勝利の詩をいただきました。あなたが私たちの神さまでいてくださるから、一時的に直面する理不尽な現実があっても、あなたはちゃんと適切な時に全てを整えてくださるでしょう。どうか、この世界にあなたの御心を現わしてください。イエスさまのお名前で祈ります。アーメン。

28日(火) 詩編101編1-8節
一言メッセージ:101編の詩人は王さまです。王の基本的な信念は「慈しみと裁き」です(1節)。ヘブライ語を見ますと「慈しみ」はヘセドという言葉で、神さまから人への祝福を意味する言葉、「裁き」ミツファートは人と人の公正を指す言葉です。王は「私は神さまから与えられる御心と、他者と共に生きるための公正に従って政治を行う」と宣言しているのです。「慈しみと裁き」が守られることはイスラエルに限らず、王にとって大事な資質です。古代アッカド語の文書でも「もし、王が正しい裁きに意を介さないならば、その民は弱体化し、その国は荒廃する。」と書き残しています。
  ひるがえって、今の世界に目を向けてみましょう。世界のリーダーたちは「慈しみと裁き」に従った政治をしているでしょうか。「私欲とひいき」にまみれていませんか。だとすると、このままでいいのでしょうか?古代と違い、現代の私たちはそんな指導者の姿をちゃんとチェックし、「否は否」と意志表示することができるし、することが役割です。間もなく8月、平和を覚える月間です。かつての過ちを繰り返さないために、子どもや孫たちを犠牲者にしないために、今、大人は「慈しみと裁き」の政治を求めて声を上げる役割があるように思います。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。わたしたちは詩編101編を通して、王や指導者のあるべき姿を分かち合いました。それは「慈しみと裁き」、あなたの示唆と民の公平を守る者でした。残念ながら、私たちは今、世界の指導者の多くにそのような姿を見出せません。でも神さま、古代と違い今の私たちは、おかしなことはおかしいと声を出すことができます。私たちはあなたの御心に沿った社会であるかの監視者でもあるのでしょう。神さま、私たちはちゃんと世界を監視し、声をあげる者であれますように。そして私たち、子どもたち、孫たち、これから生まれ来る子どもたちの未来に、あなたの平和を実現させ、世界を御心に基づいて正しく導いてください。救い主イエスさまのお名前で祈ります。アーメン。

29日(水) 詩編102編1-29節
一言メッセージ:102編は私がとても大事にしてる詩の1つです。詩人の状況が1節に書かれていますが、他の詩と比べてとても具体的で詳しいです。親しい旧約学者の方によると、102編は「国の都合による構造改革によって貧しくされ、子を持つ望みを絶たれ、神さまに切実に不平不満を叫ぶ詩人の詩」だそうです。大変厳しい状況に置かれた詩人なのですが、とても印象的な言葉が19節に記されています。「後の世代のためにこのことは書き記されねばならない。『主を賛美するために民は創造された。』」詩人の語る「後の世代」は血の繋がりのある子ども、孫ではありません。でも、彼は今、切実に社会の不正を神さまに訴えながら、未来の子どもたちを思い起こしています。彼らが理不尽な社会の犠牲とならないように、希望を失わないように、生きる力を得られるように、と詩人は歌います。それが19節「主を賛美するために民は創造された」です。
  かつて、筑後キリスト者平和の会の2.11集会で、沖縄の平和運動をされている牧師が講演の中でこう語りました。「私たちの目標は沖縄から基地が無くなることに留まらず、世界中から武器が無くなることにあります。それは私たちの世代で実現できる事柄とは思っていません。でも、世界の平和は神さまの御心です。今の私たちは、そんな神さまの御心の実現のために、一時代を担わせていただいている。それが私たちの誇りです。」
  102編の詩人も同様なのだと思います。社会の不正義は簡単に無くならない。でも、彼の叫びは神さまと民にちゃんと届いている。彼の叫びは神さまの平和の一端を担っており、その想いは次の世代によって引き継がれていく。事実、そうだからこそ102編の詩は歴史に埋没するのでなく、語り継がれ、詩編に加えられたのでしょう。私も今、同じ思いでありたいのです。私たちも後の世代のために、今、何を語り伝えるのでしょうか。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。102編の詩人は大変厳しい苦境の中で、それでも自分の叫びが神さまの御業の一端に加えられていること、自分の叫びがちゃんと後の世代に引き継がれていくこと、そして後の世代が受け取るであろう神さまの平和実現の一助であることを確信していました。神さま、私たちはすぐに自分の目先のことで捉われ、大きな障害には諦めやすいです。でも、そんなちっぽけな私たちもあなたの御業の一端を担わせていただける。その幸いを今日分かち合えました。神さま、どうぞあなたの平和の御業を実現してください。そのために私たちにも一端を担わせてください。平和の君イエス・キリストの御名で祈ります。アーメン。

30日(木) 詩編103編1-22節
一言メッセージ:103編を理解するため、3つのブロックに分けて考えてみましょう。最初のブロックは1-5節です。3-4節から、詩人は何かしらの重病にかかり、死を意識していたようです。でも神さまによって奇跡的に回復させられる。5節に出る鷲は一年に一度、羽が生え変わるので、若々しく見えるのだそうですが、同じように、詩人も病から劇的な回復を経験したのです。
第二ブロックは6-13節です。詩人は病から回復し、神さまの御業の偉大さを知ります。その時に、彼はこの神さまの御業が私だけでなく、全ての虐げられている人々にも及んでいることを知ります。私たちは辛い時に「私は、わたしは」と自分のことでいっぱいいっぱいになりますが、詩人は今、冷静に周囲に目が向けられたのです。
第三ブロックは14-22節です。詩人は改めて、塵芥に過ぎない私たち人間に目を留め、御業を行ってくださる神さまの偉大さに賛美させられていきます。
  3つのブロックに分けて103編を味わいましたが、詩人は詩の中で大きく変化しました。最初は「私は、私は」と自分の主張だけだったのに、最後には同じ時代に生きる多くの人々に目が留まり、共に生きる者となっています。神さまは私たちを、癒しと同時に成長させてくださるのです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。103編の詩人は病に苦しみ、自分のことしか見えていませんでした。けれど、あなたの癒しを経験する中で、視野が広げられ、同じように苦しみながら、整えられていく同胞にも目が留まり、自分が一人で生きているのではなく、民と共にあなたを賛美して生きるのだと悟りました。神さま、現代の社会はすぐに「自己責任」の言葉で人と人を分断し、苦しむ者にさらに孤独を感じさせます。でも、私たちはあなたの御業に生かされ、「共に礼拝し、共に生きる教会」であろうと願います。神さま、私たちも詩人のように、あなたによって整えられ、成長させていただけますように。今の時代に苦しむ人々と共に礼拝し、共に生きる教会となれますように。イエスさまのお名前で祈ります。アーメン。

31日(金) 104編1-35節
一言メッセージ:104編は創世記1章の創造物語を思い浮かべ、イメージを膨らませて読むユニークな詩です。2節の「光を衣として」は創造の始まりの言葉「光あれ」と重なります。3節「天井の宮の梁を水の中にわたされた」は、古代人の世界のイメージを理解せねば分からないです。彼らは、世界は半円球体をしており、空は地表をドーム状に覆っていて、その天井には雨を降らせるための水槽があると考えていました。3節はそんなイメージに基づく描写です。5節で神さまは創造物語にあるように、水を分けて大地を作り、大地を確固たるものとします。さらに、山や谷を作り、水に秩序を与えます。10節以降は秩序ができた水によって生き物や植物が育まれます。動物の描写も盛んですが、私が個人的に好きなのは11節の「野ろば(野良ろば)」です。きっと当時のイスラエル人にとって「いるよね~」と思い浮かぶ身近な動物だったのでしょう。コミカルです。他にも、25節以降は水の生き物も神さまによって養われていくと描かれています。
  104編のメッセージは、端的にいって「神さまは無秩序だった世界に秩序を与え、私たちをはじめあらゆる命を生かし、育むようにしてくださった」です。私たちは神さまの秩序と守りの中で今日も生きているのです。何だかとてもホッとします。今日も一日、ホッとして歩み始めましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝は、あなたが世界に秩序を与えてくださっていることを覚えました。今の時代はその秩序を破壊し、命の価値に差をつけますが、神さま、あなたは全ての命を祝福し生かそうとされます。どうぞ今日の一日もあなたの秩序を思い起こして歩ませてください。あなたの祝福に感謝し、イエスさまのお名前で祈ります。アーメン。

8月1日(土) 詩編105編1-45節
一言メッセージ:詩編105編はイスラエルの歴史を紐解く詩です。1-5節は神さまの御業を賛美し、6-12節は創世記のアブラハム、イサク、ヤコブの族長物語。13-24節は創世記終わりのヨセフ物語、25-44節は出エジプトの物語を描き、神さまの御業がずっと続いていることを歌っています。
  さて、今朝注目したいのはヘブライ語のシャラハという言葉が4回使われていることです。1回目は17節、ヨセフがエジプトに奴隷として売られる時の「遣わしておられた」。2回目は20節「彼を解き放った」。3回目は26節でモーセを「遣わした」。4回目は28節にあるエジプトへの10個目の災いで「地を暗くされた(直訳は「闇を送られた」)」です。シャラハは「遣わす、送る」という言葉ですが、4つを見ると、人間的には必ずしも嬉しい派遣ばかりではありません。ヨセフにいたっては兄たちによって奴隷として叩き売られた、悲しい出来事です。でも、105編はそれらを全てシャラハと表現し、一見ひどい出来事でも、その背後に神さまの御心があったことを示唆しています。
  私たちは往々にして、目先の事柄に心がとらわれ、一喜一憂します。嬉しい時には「さすが神さま、信じて良かった」と素直に喜ぶのに、困難の時には「何故こんな事態が起こるのか。神さまに見捨てられたか」と文句と批判を始める。でも、105編は「目先で一喜一憂するのでなく、神さまの壮大な御業の中で自分を客観視しなさい」と告げます。例えば、今朝の詩で言及されたヨセフは兄たちに奴隷として売られてから再会まで少なくとも11年が経過して初めて自分は神さまに派遣されていたのだと悟りました(創世記45.7-8)。モーセが出エジプト記3章で神さまと初めて出会ったのは80歳の時でした。そう考える時、私たちは一日二日悩んだからといって「神さまのことが分からない」と結論付けられない。分からなくても神さまの壮大な導きに期待したらいいのです。
今、あなたが何か、悩んでいるならば、「神さま、どうぞひとつよろしく」と祈ってみてください。祈ったからには神さまに任せ、この一日を心静かに過ごしましょう。それで良いのです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。詩編105編は近視眼的になっていた私たちに「神さまの視野で広く物事を見らんね」と諭します。あなたの導きは壮大ですから、時に私たちには何も動いていないように思えてしまいます。でも、それは私たちが一日二日で早急な解決を求めるからでした。あなたの御業はもっと長く、でもだからこそ、決してゆるぎなく進められていきます。神さま、あなたの導きを信じます。どうぞ御心のままに私たちをお導きください。救い主イエスさまのお名前で祈ります。アーメン。



***

最近、YouTubeのライブ配信がトラブル続きで申し訳ないです。
今度の礼拝ではうまくいきますように・・・

7月19~25日のみことば - 2020.07.21 Tue

2ヶ月以上感染者の出ていなかった久留米ですが、ついに先週再び感染者が出てしまいました。
感染された方が重症化しませんように。またできるだけ感染が広がりませんように祈るばかりです。
特に先日の豪雨で被害を受けた方々、暑い中片付け作業などをしておられる方々が感染してこれ以上の痛みを負うことがありませんようにと切に祈ります。
久留米教会も今のところは感染防止対策を強化しつつ礼拝をおこなっていますが、対応に変更が出てくる場合はまたホームページでお知らせいたします。

***今週のみことば***

※聖書の箇所は日本聖書協会の聖書本文検索から読むことができます。⇒こちら
・訳名選択     : 新共同訳
・旧新約・続編選択 : 詩編→旧約聖書
・書名選択     : 詩編
・章選択      : 該当章数を入力(章まで入力するとその章すべてが表示されます。)

19日(日) 詩編92編1-16節
一言メッセージ:92編は1節で「安息日に」とあるように、礼拝の喜びを歌った詩です。詩人は神さまに従う者と逆らう者を対比させて詩を書きました。ユニークなのは、それぞれを個性がまるで違う植物で譬えたことです。神さまに逆らう者は8節で「野の草花」に譬えられます。それらは美しく咲き誇ります。それは詩人も認めています。でもイスラエルの雨季と乾季を考えれば、花の咲く期間は数か月と短いものです。一方、神さまに従う者が13節でなつめやしやレバノン杉に譬えられています。なつめやしは10~30mにも育つ巨木で、樹齢は80~150年。葉は樹頂に王冠のように茂る華やかな植物なので、繁栄の象徴と見られる木です。さらに、その実は甘い上に、一本の木に12房ほど、ひと房で1,000個ほどの実がなるのです。祝福の規模がものすごいのです。レバノン杉は屋久杉をイメージしてください。樹齢1,000年を超えることもあり、30-50mに育つ巨木です。まっすぐに聳え立つ木は、神殿や宮殿などの柱に用いられました。
さらに、植えられた土地も比較がされます。逆らう人々は「野の草花」ですから、野原に咲きます。一方、神さまに従う人は14節で「主の家、神の庭」に植えられます。その木々は神さまの許可なく伐採されることはなく、日々、成長し続けるのです。
詩人のこの描写は(極端ですが)私たちに大事なことを教えます。それは、何を人生の基盤に据えれば良いのか、ということです。一時的に我が世の春を誇る人はいるでしょう。でも神さまが与えてくださる大繁栄の前では一時に過ぎないのです。大事なことは神さまに従うこと。だから、安心して信じましょう。今日は日曜日、礼拝の時。今日もド~ンとみことばを分かち合いましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。詩編92編は私たちに、あなたに従うことが人生の盤石な基盤と教えてくれます。私たちはすぐに目先のことに右往左往しがちです。でも神さま、あなたの祝福は一時的なものでなく、私たちに永遠を約束くださいます。あなたの深い恵みに感謝し、救い主イエスさまのお名前で祈ります。アーメン。

20日(月) 詩編93編1-5節
一言メッセージ:「神さまこそが王なるお方」と歌う93編ですが、注目したいのは1節終わりの「世界は固く据えられ」という言葉です。続きの「決して揺らぐことはない」という言葉を合わせると、まるで「世界は完成されていて変化しようがない」とイメージしてしまいます。でもヘブライ語原文を見ますと「固く据えられ」という言葉は未完了形で、「固く据えられ続けていて」と、今も神さまの創造の御業が続いていることを示しています。
  神さまが世界を創造し続けておられるとは新しい視点です。神さまの創造が今も続いている、神さまの世界は今も変化していると考える時、私たちは自分をふり返ってみてどう感じますか?私たちはもはや完成されていて、変わる必要、成長する必要など無い存在なのでしょうか。いいえ、そんなことはありません。人間は日々、学ぶし、成長し続けられるのです。私たちも日々、より信仰を強く、だからこそ形式は柔軟に、変化し続けることができるのです。
僕が通った西南教会の付属幼稚園、当時の園長は坪井正之先生というおじいちゃん先生でした。元々、西南高校の校長だった方ですが、校長引退後に園長をお引き受けされたそうです。この坪井先生、学ぶことがライフワークで、校長引退後から18世紀の神学者マルチン・ベンゲルの『グノーモン』という新約注解を私訳(ありがたいことに私はデータをいただいています)され、亡くなる直前まで現代の新約学の大家ゲルト・タイセンのドイツ語の著書を辞書を引きながら読み続けていたそうです。坪井先生を思い出すと、私たちも日々、学び、発見し、驚き、喜ぶことができるのだと思わされます。
ちなみに、このみことばメールもそんな1つにしてください。聖書、ひとことメッセージを読んで、ご自分なりに考えてみてください。賛同だけじゃなく、批判だって構いません。大事なことはみ言葉と向き合うこと。ご自分の人生と重ねて、みことばを味わってほしいと願っています。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。詩編93編であなたは、今も創造の業をし続けておられることを知りました。あなたが今も私たちに目を留め、だからこそ世界を整えてくださるから、私たちもまた日々、自分たちの人生の中で働くあなたの御業を模索してまいります。どうぞ今日もあなたの御業を発見し、感動し、喜ぶことができますように。気づきに期待し、救い主イエスさまのお名前で祈ります。アーメン。

21日(火) 詩編94編1-23節
一言メッセージ:神さまのことを「報復の神」と表現する詩編は今朝の94編だけです。私たちは「報復」と聞くと恐ろしい復讐をイメージしますが、今朝の箇所をよく読むと、神さまは悪には悪を、善には善をもって応じています。ちゃんと正しい者にも祝福をもって報いてくださるとある。だからこそ、詩人は神さまに正しく生きることを訴えるのです。
  そんな94編の中で特に注目したいのは13節です。「幸い」な人とは、悪に対して復讐するのでなく、「静かに待つ」者と書かれています。彼は、今は苦しくとも、神さまが与えられる次の展開に期待しているからこそ待つのです。昔、恩師の関田寛雄牧師から言われました。「たとえ這いつくばってでも生きることが大事。生きることは時間が経過すること。時間が経過するということは物事が変化するということ。変化する時には神さまが働いてくださる。神さまが働かれるならば、物事が不幸で終わるわけがない。だから生きて待つことが大事です。」今朝のみことばも私たちに信じて待つことを促すのです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝わたしたちは94編を通して、待つことを教えられました。私たちは実に短気で、課題に直面すると直ちに状況が変わらねば、ずっと悪い状態が続くように思い込みますし、あなたが私を見捨てられたのでないかと不安になります。でも94編は信じて待つことを告げます。信じて待てば、あなたがちゃんと時と状況を整えてくださいます。神さま、あなたを信じています。どうか私たちが短気を起こさず、あなたの御業を待ち続けることができますように。期待し、イエスさまのお名前で祈ります。アーメン。

22日(水) 詩編95編1-11節
一言メッセージ:95編は50編、81編と並ぶ祝祭の詩編です。詩人は聴衆である私たちに「さぁ、主に向かって喜び歌おう」と呼びかけます。1節後半2節後半の「喜びの叫び」は別訳では「凱歌、勝利の歌」です。95編の祝いの理由は、神さまによる勝利です。
  でも勝利の歌のはずなのに、7節3行目で詩人は苦言も呈します。「今日こそ、主の声に聞き従わなければならない。」「今日こそ」と書かれるということは、イスラエルの民は今まで失敗を繰り返してきたのでしょう。実際、詩人は8節で出エジプト17章のメリバ、マサの出来事を引き合いに出します。民が神さまへの信頼よりも、自分たちの願望や算段、思惑を優先した出来事です。メリバ、マサの出来事を指摘しながら、「心を頑なにしてはならない」、「心迷う民(10節)」であるな、と訴えます。信仰は文字の如く「信じて仰ぐ」ものです。自分の願望に沿った保証があって「じゃあ、信じようかな」ではない。神さまへの信頼を根拠に「えいやっ!」と飛び込んでみるものです。詩人は今、あなたに「信じて、飛び込んでごらん」と語り掛けます。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。95編は私たちに信仰を問います。私たちの信仰はあなたの目に義とされていますでしょうか。自分の願望や算段や思惑を置いて、先ずあなたの御心を求めていますでしょうか。その御心に従えているでしょうか。自信がありません。でも、あなたは私たちに呆れることなく、それでも私たちを「主の民(7節)」と呼んでくださいます。辛抱強く呼びかけ続け、守り、導き続けてくださいます。どうか今日こそ、あなたを信じて「えいやっ!」と応答できますように。救い主イエスさまのお名前で祈ります。アーメン。

23日(木) 詩編96編1-13節
一言メッセージ:96編は「新しい歌を主に向かって歌え」と呼びかけます。今朝は「新しい歌とは何か」を考えてみましょう。
詩を読み解くためのヒントは「呼びかけられる対象が誰か」です。1節ではイスラエルに限定されるのでなく「全地よ」、7節でも「諸国の民よ、こぞって主に帰せよ」と呼びかけられています。詩人は全世界に向けて、神さまの前に集い、ひれ伏し、礼拝し、新しい歌を歌え、と呼びかけます。
  でも、実際のイスラエルの歴史を考えてみると、その訴えは夢物語にも思えます。新共同訳聖書後ろの地図①「聖書の古代世界」を見ると、イスラエルは南に行けばエジプト、東にはアラビア世界が広がり、北にはヨーロッパへとつながる土地、いわば交通の要所だと分かります。だから、イスラエルは世界の覇権を得ようとする強国の足掛かりとして狙われる弱小国でした。だから、歴史を見ると、イスラエルは強国に翻弄され、庇護に入りながら存続してきた国です。そんなイスラエルに「全地」「諸国の民」が参集して礼拝することは人間的な常識では不可能なはずです。でも、詩人は繰り返し、「全地よ、諸国の民よ、主に向かって歌え」と呼びかけ続ける。それほどに詩人が訴え続けた根拠は何でしょう?それは今朝96編で16回も繰り返される「主」です。神さまが詩人の呼びかけの根拠なのです。
詩人は人間的常識で物事をはかるのでなく、主なる神さまを土台にして訴えた。人間のモノの見方は限界だらけです。でも神さまの視野は私たちには計り知れない未来をもちゃんと見据えています。だからこそ詩人は、人間的不可能を超えて神さまに期待しました。これこそが96編の記す「新しい歌」です。自分たちの力、理解、常識、思惑、算段でなく、神さまに期待して世界を見直すこと。それが「新しい歌」なのです。私たちも今、「新しい歌」を歌いましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝、私たちは96編から励ましと問いかけと揺さぶりをいただきました。詩人は人間的には不可能としか思えないけれど、あなたには全てが可能だと知っていました。だからあなたに期待して大胆に詩を歌いました。神さま、あなたが神さまであることに感謝しつつ、私たちは本当にあなたに期待し、信じているかが問われます。できていなかったならば、神さま、どうぞ今から私たちに「新しい歌」を歌わせてください。人間的常識や算段ばかりでなく、あなたに期待して、全てを見つめ直し、応答することができますように。救い主イエスさまのお名前で祈ります。アーメン。

24日(金) 詩編97編1-12節
一言メッセージ:昨日の96編は全世界に向けたスケールのでっかい詩でした。印象として、私たちは「全世界の中の私、集団としての私」という印象も出てきますが、今朝の97編は私たち一人ひとりに向かって語り掛けてくる詩です。
1節で「全地よ」と呼びかけられ、6節では「すべての民は(主の)栄光を仰ぎ見る」と言われていますが、10節では突然、単数形で「主を愛する人」と呼びかけられるのです。すなわち、この言葉は私たちを集団の一人でなく、「あなたはどうか?」と直接問いかけてくるのです。
詩人は神さまを愛し、従う人たちに将来の約束を告げます。特に注目したいのは11節です。「(主は)神に従う人のためには光を、心のまっすぐな人のためには喜びを、種蒔いてくださる。」注目は「種蒔いてくださる」とあること。言うなれば、今私たちが得ている光や喜びはまだ種のようなものに過ぎないのです。種を成長させ、本当の祝福を得るために、私たちは「神さまに応答して『えいやっ!』と一歩踏み出してごらん」と求められているのです。神学者D.ボンヘッファーは語っています。「信じる者が従い、従う者は信じる」。神さまを信じた者は従うべく一歩踏み出す。従った者は神さまの祝福が確かだと、実際に与えられることを経験し、また新たに従う者となっていくのです。今朝もわたしたちは、その種をいただいています。種を育てていきたいものですね。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。詩編97編は祝福の種の話をしました。神さまが今、私たちに与えてくださっている祝福は感染ではなく、まだ種に過ぎないのですね。ならば、私たちはますますの祝福に期待します。私の人生も家族や周囲の人々のことも全てお委ねします。どうか祝福の種をぐんぐんと成長させ、どうか祝福を、私個人を超え、周囲の人々にも経験させてください。イエスさまのお名前で祈ります。アーメン。

25日(土) 詩編98編1-9節
一言メッセージ: 98編はバビロン捕囚からの解放を喜ぶ詩です。最初に歴史を説明しますが、世界史的に見ると、バビロン捕囚からの解放は、ペルシャ帝国がバビロニア帝国を滅ぼし、捕囚とされていたイスラエルの民を解放した、という出来事です。でも、これをイスラエルの民の立場で考えてみましょう。イスラエルの民はこの出来事を「わぉ!ミラクル!」と感じたのです。
「ミラクル!」と訳した言葉は1節の「驚くべき御業」です。ヘブライ語ではニフラオートで、その意味は「人間の理解では有り得ないとしか思えない不思議な業」です。イスラエルの民はバビロン捕囚を経験しながら考えたのです。「むちゃくちゃ強くて、『未来永劫、奴隷のままなんじゃなかろうか』と思っていたのに、そのバビロンが滅びたことも信じられないけど、さらに信じられんのは、倒したペルシャが『かえっていいよ』って言ったこと。何これ?何でこんなことになるの?もう訳が分からん。・・・・・・・あっ!これって、神さまの御業なんや!私たちには訳わからんけど、神さまの御業は、私たちにでっかいでっかい祝福を与えてくださった!」と理解したのです。
私たちは今、98編を見ながら教えられるのです。皆さん、神さまに期待してますか?今の不安や苦境の中で、考えも及ばないミラクルが起こるのですよ。人はそれを「ラッキー」と言うかもしれない。でもそれはラッキーじゃない、偶然じゃない。神さまの必然です。だから祈りましょう。「神さま、私の想像も及ばない度肝抜くようなミラクルをよろしくお願いします!」って。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝98編に私たちは嬉しくなります。あなたは私たちの想像をはるかに超える御業を行われる方です。神さま、今わたしたちは改めてあなたに期待します。新型コロナや水害や、自己責任の風潮、人間関係などなど、私たちが抱える課題は重いですが、あなたに期待します。考えてみたら、あなたはこれまでも度肝を抜くような御業を行ってこられました。最たるものは、イエスさまの十字架です。まさか私たちを救うためにあなたの独り子イエスさまが十字架にかかるなんて、私たちは想像もしませんでした。でも、あなたはその出来事を通して、私たちの罪も弱さも痛みも叫びも丸ごと引き受け、救ってくださいました。あの御業を知っているからこそ、私たちは信じます。私たちが度肝抜かれて、一時的に怯え、慄いたとしても、最後には「神さま、ありがとう!」と賛美できるような、あなたの御業を行ってください。救い主イエスさまの御名によって祈ります。アーメン。

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今週も皆さんの上に神さまの守りがあります様に。

7月12~18日のみことば - 2020.07.16 Thu

雨のピークはどうやら過ぎたようで少しのほっとしています。
今週も遅くなってしまいましたが、「今日のみことば」を1週間分シェアします。
皆さんの一日一日がみことばによって支えれますように!

***今週のみことば***

※聖書の箇所は日本聖書協会の聖書本文検索から読むことができます。⇒こちら
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12日(日) 詩編85編1-14節
一言メッセージ: 85編はバビロン捕囚から祖国イスラエルに帰還した民の歌です。50年を超える捕囚期間、イスラエルの人々が捕囚地バビロンにてひたすら耐えてきたのは「神さまがいつか私たちを救い出してくださり、祖国に帰らせてくださる。祖国は豊かな土地があり、私たちは安心して暮らせるようになる」との願いでした。1-4節で詩人はバビロンからの解放を経験します。喜び勇んでイスラエルに戻るのですが、祖国は荒れ果て、厳しい生活が待っていました。5-8節で詩人は神さまに嘆いています。この状況が変わっていくのが9節です。
8節まで詩人は「私は私は」と自分の思いばかりで神さまに訴えかけていました。けれど9節で詩人は「神が宣言なさるのを聞きます」と語る。「私のこと」でなく「神さまの御心」を集中して聞くのです。その時詩人は、神さまがイスラエルの民が過去の過ちに戻らないように願い(9節)、神を畏れて正しく生きるように願っておられること(10節)を理解します。さらに神さまは具体的な民の回復の計画も示されました。11節以降です。「慈しみとまことを出会い、正義と平和は口づけし」は、社会が愛をもって神さまの真実に目が止め、神さまの正義と平和を実現しようと努力し始めたことを指しています。その時13節、大地は実りをもたらし、人々は厳しい生活から脱却していく、そんな展望が与えられたのです。
  大事なことは9節、目先の現状に一喜一憂して「私は私は」と騒ぐのでなく常に神さまに目を留め、そこから物事を見定めていくことです。大きな課題を抱え苦しんでいたとしても神さまがおられるから大丈夫。私たちが一時的に神さまを見失っても、神さまは私たちから目を放さない。だから心静め、神さまの御心に聴くのです。今朝は日曜日。共に礼拝で神さまに聴いていきましょう。
祈り:天のお父さま、今朝の主の日もみことばをありがとうございます。詩編85編は私たちに「自分の思いでいっぱいいっぱいになるのでなく、神さまに目を向け、耳を傾けよ」と告げます。その時、私たちが目先に振り回されず、あなたの導きに期待して、安心して生きていけるからです。神さま、どうぞ私たちをいつもお導きください。今朝の主の日の礼拝も私たちが自分の理解を超えて、あなたと出会うことができますように。救い主イエスさまのお名前で祈ります。アーメン。

13日(月) 詩編86編1-17節
一言メッセージ:86編は全編を通して神さまに助けを求めた詩です。注目したいのは「主よ」という呼びかけの言葉です。1節、3節、4節、5節、8節、9節、11節、12節、15節で詩人は「主よ」と呼びかけますが、日本語でちゃんと訳出すると「我が主よ」です(6節は厳密には「ヤハウェよ」)。
これはとても大事な約だなぁと思います。詩人は神さまを「いつもわたしに目を留めてくださっておられ、導いてくださり、救い出してくださる、わたしの神さま」と信じ、訴えているのです。そこには単なる「神さま」以上の信頼が見られるのです。
  これは言われた側もそうですよ。次男がよく「誰か~、〇〇して~」と言っています。私しかいなくても「誰か~」と言っています(笑)。私としては「父ちゃん」と名指しで言われた方が良いですが、神さまも一緒じゃないかな、と思うのです。「誰でもいいから助けて」じゃなくて「わたしの神さま、助けて」と訴えた方が嬉しいでしょう。神さまはいつも私たちに目を留めていてくださる。その神さまにわたしたちの側がちゃんと真正面から向き合うのが「わたしの神さま」なのです。
  さあ今週も仕事が始まります。神さまと向き合いながら歩み始めましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝86編から「ちゃんとあなたに目も心も向けて呼びかけること」を示唆されました。あなたがいつも私たちに目を留めてくださっているのに、私たちの方が時々、「誰か~」とあっちこっちに目が移ってしまっていました。神さま、今週わたしたちはちゃんとあなたに目を向けて歩みます。どうかいつもあなたが伴ってくださっていることの確信と期待に満ちた週を過ごさせてください。わたしの神さまに祈ります。アーメン。

14日(火) 詩編87編1-7節
一言メッセージ:87編は難解な詩です。あれこれ省略しますが、この時のエルサレム(1節の「シオンの城門、神の都」)は滅ぼされ、荒廃していました。なのに詩人はエルサレムで全ての民、他国の民は生まれたと歌います。4節のエジプト(ラハブはエジプトのこと)もバビロンも、ペリシテ、ティルス、クシュもイスラエルを侵略してきた民族です。その国々も神さまが創造されたと詩は歌う。歴史的、民族的に言えば盛大な負け惜しみに聞こえます。でも、ここで私たちの常識に凝り固まったモノの見方を変えてみましょう。国といった所属で考えるから、「エジプトやバビロンはイスラエルの敵。ペリシテ、ティルス、クシュもちょっかいかけてくる面倒な国々」と対立構図をイメージしてしまう。でも、神さまの視点では国や国籍、人種、民族、文化、伝統、性別、年齢、個々の人間的違いは決定的な違いにならないのかもしれない。宗教的な違いすら、神さまから言えば「あなたたちが作った区別であって、神はわたしただ一人」と言われるでしょう。神さまの前で私たち人類は皆兄弟であって、詩人はその示しから、「皆が神さまの前で歌い踊る」と歌ったのです。
  教団賛美歌465番「うれしき朝よ」の3節を思い出します。歌詞はこうです。「ものみな声をうち揃えて、神のさかえをほめうたえり。楽しきこの日、きよきこの日。歌ごえ合わせ、神をたたえん。」新しい一日の始まりです。神さまをほめたたえてスタートしましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝わたしは87編を通して「人類みな兄弟」という言葉を思い出しました。今の社会のピリピリした対立や緊張関係を見ると、夢物語のようにも思えます。でも、きっとあなたから見れば、私たちが抱える対立などは本来不要ないさかいに見えるのでしょう。誰もがあなたの前に兄弟姉妹とされ、仲良く生きられるはずなのに、私たちの側が勝手に区別を作り、対立を生み出したのでしょう。神さま、どうぞ、あなたの壮大なスケールの中で世界の考えも風潮も整えてください。私たちの思惑でなく、あなたの御心が実現しますように。期待し、主の御名で祈ります。アーメン。

15日(水) 詩編88編1-19節
一言メッセージ:88編はひたすら暗い詩です。詩人は何らかの重病を患って、死ぬかもしれないと考えています。古代、病は神さまに罪を犯し、神さまが離れてしまったから悪霊に憑りつかれて患うものだと思われていました。だから、親しい友も彼を「罪人」と見て離れ去り、詩人はひとりぼっちです。読み進めていく中で、どこで「しかし主よ、あなたは私を顧みてくださいました」的な回復が歌われるかと思ったら、最後まで苦難を訴えて詩が終わりました。暗い詩です。
  でも私は、この88編が盛大な新約聖書への前フリに思えてしまう。例えば11節「あなたが使者に対して驚くべき御業をなさったり、死霊が起き上がってあなたに感謝したりすることがあるでしょうか」と、「人間死んでしまったらもうおしまいだ」と訴えますが、いえいえ、私たちはイエスさまの十字架を思い起こす。イエスさまは罪だらけの民に最後まで徹底的に寄り添って死なれました。でも死者の中からイエスさまを復活させた神さまがおられる。そう思う時、私たちは詩人に「大丈夫、神さまは死者の中からすらイエスさまを復活させられた。それは神さまからの希望のメッセージだ。私たちがどんな苦境にあっても、たとえ私自身や親しい者が命を終えたとしても、私たちにはその先が約束されている。この希望は決して潰えない」と教えてあげたくなるのです。昨日の87編7節の言葉を引用して今朝のメッセージを終わりましょう。「わたしの源はすべてあなた(神さま)の中にある。」
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。88編の詩人は重い病のために絶望的になり、必死になってあなたに「人間、死んだらおしまいだ」と訴えました。しかし私たちは、その訴えをみながら、「死んでも終わりじゃない」と思い起こします。イエスさまの復活はあなたの恵みが私たちの思いを遥かに超えて強く、深いことを示してくれます。神さま、私たちの希望の源はあなたです。あなたがおられ、私たちの神さまであってくださるから、私たちの希望は尽きません。あなたの御名を心から賛美し、救い主イエスさまのお名前で祈ります。アーメン。

16日(木) 詩編89編1-53節
一言メッセージ:89編は長い!長すぎるのでポイントだけ見ていきましょう。1―19節の要約は「神さま、あなたに並ぶ者などいません」です。20-38節は「あなたはダビデを祝福し、その一族に永久の祝福を約束くださいました」です。39-53節は「じゃあ、なんで今、ダビデの末裔である僕らはこんなに苦しんでいるんですか?」です。詩人は「自分たちの苦しみは神さまに見捨てられたからだ。神さま、約束破った!ずるい!」と考えるのです。心情としてとてもよく分かる詩ですね。共感しつつ、でも気づかされることもある。詩人は神さまに文句言いながら、「早く助けてください」と期待もしています。「神さまが助けられないわけがない」と信じているからこそ、彼は「早くして!」と叫ぶ。そこにはやっぱり信頼があるのです。
  日本基督教団に春名康範という牧師がおられます。4コママンガでユーモラスに聖書のメッセージを表現する牧師ですが、著書のタイトルが『人生、一歩先は光』です。「一歩先は闇」でなく「光」。その根拠は神さまがおられるから。実にシンプルですが、これ以上に強い理由など無い。神さまがおられるから、私たちの未来に不幸はないのです。一時期の不幸はあっても、その先に希望は光のように満ち溢れているのです。
  もし皆さんが今、課題を抱えているならば、どうぞ89編の詩人のように訴えて祈ってみてください。「神さま、おらるっとでしょ?もうしんどいけん、はよう助けてくれんですか」と。そう祈りながら、「人生、一歩先は光」と思い起こして一日をスタートしましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。「人生、一歩先は光」。どんなに課題を抱えていても、あなたがいてくださるから私たちは人生に希望を見出します。私たちの手でどうにもならない時には、いつも以上に丸投げにしてあなたに頼ります。どうぞ整えてください。開き直って、心からあなたに期待して、イエスさまのお名前でお祈りします。アーメン。

17日(金) 詩編90編1-17節
一言メッセージ:いきなり自分のことで恐縮ですが、私はモノを考える時に複数の視点で物事を考えようとします。経験や常識で「きっと〇〇だろう』と思っても、「自分の好みじゃない」と思っても、いろいろな可能性や方法を考えてみるのです。その上で、自分の願望を脇に置いて、「神さまが望むのはどれだろう」と考えるようにしています。そうやって考えていきますと、自分でも気づかなかった発見や喜びや自信を見出せます。今朝はそんな読み方をしてみたい詩編です。
  90編は、人間の儚さと神さまの永遠を歌った詩です。人間の生涯は短く、草花のように萎れたり枯れるし、塵芥にすぎない存在と歌われます。儚さにがっかりしそうですが、でもここで3節に注目し、発想を変えましょう。神さまが人間に「人の子よ、帰れ」と呼びかけています。人間は儚い存在であるのに、神さまは人間を御自分に招いているのです。これを自分への呼びかけと受け止めてください。神さまは私たちを招く。では私たちはどうするのか?自分の思惑や願望にしがみ付いて失敗と後悔を繰り返して生きるよりも、早いところ神さまを信じて立ち帰った方が良くないか。
  年輩の方の中には「この年になって信じることはちょっと…」と躊躇される方もありますが、発想を変えてみましょう。これまでの何十年を振りかえって躊躇するのでなく、これからの永遠を大事にするから神さまを信じるのです。若い人たちでは「そのうちに信じようとは思うけど…」と考える人もいますが、それももったいない。自分の限界だらけの力で生きるより、神さまの無限の可能性に生きるからこそ人生は希望に満ちるのです。
90編は「私は変わらないぞ」と思う方には儚さを突き付ける詩ですが、「私は変われる」と思う方には神さまの永遠の祝福にワクワクさせられる詩なのです。あなたはどう90編を読みますか?
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。詩編90編は不思議な詩です。人間の儚さに目が留まる方には気持ちが沈む詩でしょう。でも、私たちが儚い存在だろうが、あなたが永遠の神さまであられ、私たちに「帰っておいで、信じなさい」と呼びかけておられることに注目する方には、どでかい祝福の詩です。神さま、私たちは後者で詩を味わいたいです。どうか私たちに信仰を増し加え、あなたへの期待を湧きおこらせ、必要なら私たちを成長させて作り変えてください。私たちと共に生きて、救いに導いてくださるイエスさまのお名前で祈ります。アーメン。

18日(土) 詩編91編1-16節
一言メッセージ:91編はどこをとっても「神が信じる者を守って下さる」と言い続けています。守りについては特に6節の「疫病、病魔」が想定されています。10節では「あなたには…疫病も触れることはない」とありますが、あくまでも例えですからね。「じゃあ新型コロナウイルスも安心」と考えて、感染リスクの高い行動をとるのは止めておきましょう。今朝わたしが注目したいのはそこではなく、以下の2点です。
1つ目は詩人の安心の根拠です。14節「彼はわたし(神)を慕う者だから」であり、「わたしの名を知る者だから(「信じる者だから」と理解)」です。いつも話す神さまへの信頼が根拠です。
2つ目の注目ポイントは信頼の仕方として、4節にあるように神さまと私たちを「親鳥とひな鳥」になぞらえていることです。親鳥が「翼の下」に守ってくれるためには、ひな鳥は翼の中に居らねばいけません。自分勝手に翼から飛び出して「守ってくれ」ではない。長男や次男が小さかった頃、「だっこ」とせがまれて抱っこした際に、彼らが腕の中で暴れると言ったものです。「暴れると落っことす。危ないけん止めんね」。同じように思うのです。守られるためには守られる側の姿勢も大事。それが「信じる」ということだと思うのです。
  今週も私たちはそれぞれに働き、課題と向き合って過ごしてきました。明日、私たちは親鳥なる神さまの御翼にホッとさせられるように、礼拝へと集ってきましょうね。
祈り:天のお父さま、今週もみことばをありがとうございました。今週最期に私たちがいただいたみことばは神さまへの信頼の大事さと、信頼する姿勢でした。神さま、私たちはあなたを信じ、誠実に御心を求めて生きたいと願います。できることは小さなことばかりですが、どうか小さな決断の時もあなたの御心を求めることができますように。被災された方々も病の方々のことをどうぞあなたが守り、導き、回復させてください。主の御名によって祈ります。アーメン。

7月5日~7月11日のみことば  - 2020.07.09 Thu

更新が遅れてすみません(>_<)

月曜日から降り続いた雨。各地に大きな被害をもたらしています。
久留米でも記録的な雨が降り、様々なとことから「久留米教会は大丈夫?」とご連絡いただきました。
幸い教会・幼児園ともに被害はありませんでした。
ですが、久留米市も広いので城島や三潴などの地域では大きな被害が出ているようです。
また、朝倉やお隣大分県の日田などでは甚大な被害が出ています。
昨日は久しぶりの晴れ間が広がっていましたが、今日からまた雨予報。
長く続く雨で土砂災害の危険も増しています。

これ以上の被害がでませんように。また、被害に遭った方々のためにいのりつつ、教会としてどんな支援ができるか、考えていきたいと思っています。


***今週のみことば***

※聖書の箇所は日本聖書協会の聖書本文検索から読むことができます。⇒こちら
・訳名選択     : 新共同訳
・旧新約・続編選択 : 詩編→旧約聖書
・書名選択     : 詩編
・章選択      : 該当章数を入力(章まで入力するとその章すべてが表示されます。)


5日(土) 詩編78編1-21節
一言メッセージ: 詩編78編は詩人が後の世代のためにイスラエルの歴史を語り伝えようとする詩です。12節からは出エジプトの歴史を振り返りますが、詩人は4節で「子孫に隠さず」と言ったように、自分たちの先祖が奴隷であったエジプトから神さまによって救い出されたの旅の中ですら何度も何度も神さまに歯向かい、裏切ってきた事実を語り伝えます。人は都合の悪い事柄は隠したがりますが、詩人は罪もちゃんと告白するのです。何故なら、自分たちの罪を理解するからこそ、罪深い人間をそれでも愛し、救ってくださった神さまの御業を知るからです。だから詩人は78編を通して、自分たちの思惑を超えて神さまに従い続けることを呼びかけたのです。
  九大名誉教授で憲法学者の横田耕一さんという方がおられます。以前、筑後キリスト者平和の会の2.11集会に来られたこともある方です。クリスチャンではない方ですが、彼の著書『自民党改憲草案を読む』はキリスト教系出版社の新教出版社から出ています。それくらい、今の自民党改憲草案は危うい。話を戻しますが、横田さんはこの本の中でドキッとする指摘をしています。要約します。「民意重視は大変民主的なようだが、一方で、安易な民意を振り回すことは危うい。何故なら、民意はその時々の風潮でしかなく、そんな風潮が恒久の権利を侵害することは許されないからだ。」確かに、私たちの思考は時に易きに流れやすいのです。自分たちに都合の悪い事柄に目を背けがちです。その結果、歴史を見ると、民意という名のその時の風潮に流されて、戦争のような取り返しのつかない事態が陥った事実は数知れずです。詩人は後の世代が過ちを繰り返さないために、民族の罪を隠さずに伝え、何よりも神さまへの信仰を第一に守り続けるようにと語り伝えたのです。
  今朝は日曜日、私たちも神さまとしっかり向き合いましょう。
祈り:天のお父さま、今朝の主の日もわたしたちにみことばを与えてくださり、ありがとうございます。今朝わたしたちは78編を分かち合いました。人は弱く、自分たちの弱さや罪を隠しがちですが、詩人は後の世代が過ちを繰り返さないために先祖の罪と、そしてそんな罪深い民をも顧み、導き続けてくださった神さまへの信仰を示しました。神さま、今、私たちも同じ気持ちであなたの御前に集います。どうぞ、この社会も世界も私たち一人ひとりも易きに流されず、あなたの御心を模索し、堅実に従うことができますようにお導き下さい。今日も礼拝に集います。集えない方もネットで礼拝に参加してくださいますように。皆があなたの御前に集うことができますように。救い主イエスさまのお名前で祈ります。アーメン。

6日(月) 詩編79編1-13節
一言メッセージ:79編はバビロニアによるエルサレム陥落と南王国滅亡を取り上げますが、興味深いことに、同じ出来事について2つの見方が描かれています。1-7節は、「イスラエルの惨状は、神さまを信じない異邦人が神さまを侮り、嘲っているようだ」という見方です。そこに見られるのは自分たちを被害者とする見方です。けれど8-11節は祖国滅亡を「神さまを蔑ろにした自分たちへの神さまの懲らしめ」とする理解です。同じ出来事を2つの見方で見る。矛盾かのようですが、私は「それが人間だ」と思うのです。例えば、相手と喧嘩したことを思い浮かべてください。周囲に「私が正しい」と訴えながら、一方で言わないけれど、ひそかに自分の過ちや罪を覚えていて胸にチクチク痛む、みたいな、相反する思いを抱えるじゃないですか。79編の詩人も同じなのです。自分を被害者と見ながら、でも自分の罪も認めている。人間は複雑だから悩むのですよね。
でも、悩み疲れた時、私はひとつの選び方をお薦めします。「えーい、十分悩んだ。あとは神さまが喜ばれる方を決断する。神さま、あとはよろしく!」と決断するのです。神さまに放り投げちゃうのです。大丈夫ですよ。私の経験上もそうですが、悩んで悩んで悩んだ後の「神さま、よろしく」との決断を神さまはちゃんと受け止め、整えてくださいますから。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝の詩編79編はとても不思議な詩でした。ひとつの出来事を前に、詩人が全然違うモノの見方をしています。それは矛盾するようですが、でも、それが私たち人間です。神さま、私たちは悩むのです。でもどうか悩んだ末に御心に従わせてください。人生の導き手なる神さまに期待して祈ります。アーメン。

7日(火) 詩編80編1-20節
一言メッセージ:79編が南王国滅亡の詩でしたが、今朝の80編は北王国滅亡の詩です。詩人は「神さま、どうして北王国を見捨てられたのですか?」と訴え続け、4節、8節、20節と三度にわたり、同じ懇願の言葉を重ねています。
  さて今朝は普段と違う観点、ヘブライ語の表記から80編の面白さを分かち合います。古代ユダヤ人は「聖書はむっちゃ大事!」と考え、書き写す時も絶対に間違わないように、たくさんのチェックの仕方を持っていました。例えば詩編は、使われるアルファベット数を数え上げ、その真ん中の文字は何編何節が正しいとチェックしたのです(決して暇とか言わないように)。実はそんな詩編の真ん中の文字が今朝80編14節の「森の」という言葉ヤアルの2つめの文字アインになります。だから、ヘブライ語聖書では「ここが真ん中ですよ」と示すために、このアインだけ半分浮き上がるように印刷されます。「中づりのアイン」と呼びますが、ここからさらに一工夫あるのです。
15節に注目しましょう。そこには「天から目を注いでご覧ください」との嘆願の言葉が出ています。ヘブライ語の「目」という言葉は、アルファベットと同じ「アイン」という呼び方です。そこでユダヤ人は、15節の願いと先ほどの「中づりのアイン」を重ねて、こう理解しました。「詩人は神さまに『天から目を注いで』と嘆願したが、その嘆願の前に既に、神さまは『宙づりのアイン』で詩人たちの状況に目(アイン)を注いでいた」と意味づけたのです。こじつけっぽいですが、何事も神さまと結び付けて考えたユダヤ人の柔軟でユーモラスで根強い信仰に感心します。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝わたしたちは80編の「宙づりのアイン」と15節の詩人の嘆願を重ね、神さまの目はいつもわたしたち人間の上に注がれていることを分かち合いました。私たちはユダヤの人々の柔軟でユーモラスで根強い信仰を教えられます。神さま、どうぞ私たちにも、苦難の中でもへこたれない柔軟さと、いつも余裕を見出せるユーモアと、何があってもあなたの私たちを結びつける根強い信仰をお与えください。一日の始まりにあなたの眼差しに期待し、イエスさまのお名前でお祈りします。アーメン。

8日(水) 詩編81編1-17節
一言メッセージ:詩編81編も神さまの言葉が直接語られる珍しい詩の1つです。6-15節と17節に神さまの言葉が記されています。さて、そんな言葉の中で注目したいのは、8節で神さまがイスラエルの民を「試した」とあることです。具体的には出エジプトの旅の中で、9節にあるような「わたしに聞き従うか」です。残念ながらイスラエルの民は神さまを蔑ろにしたため、神さまは14-15節「わたしの民がわたしに聞き従い、わたしの道に歩む者であったなら、わたしはたちどころに彼らの敵を屈服させたであろうに…」と嘆いたのです。
  神さまは時々、私たちを試します。それは鍛えるため、神さまに気づかせるためです(ヘブライ人への手紙12章5-6節参照)。例えば、アブラハムのイサク奉献の始まりは神さまがアブラハムを試みでした(創世記22章1節)。新約聖書でイエスさまは荒野で40日悪霊と対峙したのは「試みを受けるため」(マタイ4.1)でした。Ⅰコリント10章13節でパウロは「(神は)試練と共に逃れる道をも備えていてくださる」と記しましたが、この「逃れる道」はギリシア語でエクバシスと言い、正確な訳は「出口」です。「試練から逃げる逃げ道ではなく、試練の中で解決のために神さまが与えてくださっている出口がある」がパウロの意図でした。だけど私たちは願望が先走り、「神さまは私たちから苦しいことや悩みを遠ざけ、何でも安全、安心な“温室状態”を与えてくれる」とご利益宗教のように信仰を思い込むことがある。繰り返しますが、神さまは時に私たちを試すのです。
  でも同時に注目したいことは、「神さまは私たちを試みますが、鍛えるためであって切り捨てるためではない」ということです。今朝の箇所でも14-15節で「わたしに聞き従っていれば…」と言いながら、イスラエルの民に目を留め続けておられますもんね。今日は一日の始まりに、神さまの目と試みを意識して歩み出しましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝の81編はあなたによる試みの話でした。神さま、あなたは私たちに期待してくださるから鍛えよう、試みようとされるのでしょう。若干、時にしんどいですが、あなたの試みならば必ず解決もあるはずです。どうか私たちはあなたを信頼し、あなたの試みに応えることができますように。どうぞパウロが語った「出口(エクバシス)」を私たちにも体験させてください。救い主イエスさまのお名前で祈ります。アーメン。

9日(木) 詩編82編1-8節
一言メッセージ:詩編82編は神さまの最後の審判のイメージを歌った詩です。2-4節は神さまの発言だろうと思われますが、6節は神さまなのか。陪席する人々の言葉なのか、分かりません。
  この詩を理解するために知って欲しいことは、当時、各国にはそれぞれの守護者たる神々がいると考えられていたことです。だから、国と国の戦争は神と神との争いと見られました。1節の「神々の間で裁きを行う」とは、神さまが他の神の存在を認めているという意味ではなく、イスラエルの周辺の強国に対して語り掛けた表現です。そこで神さまが強調しておられるのは、「弱い民を蔑ろにすることを認めない」ということです。それは神さまの御心の大前提です。神さまは人々の命や尊厳が踏みにじられることを認めないのです。そして周辺の国々が力を誇ることに対して、「しかし、あなたたちも人間でしかない(周辺国の神に対しては「所詮、人間のつくった偶像に過ぎない」の意)。皆、一斉に没落する」と断言されるのです。今朝の箇所はわたしたちに「神とはどなたか?」と尋ねてきます。
  追い詰められ、余裕を無くす時、私たちは目先のことに右往左往してしまいます。神さまがおられるのに、神さまより目の前の不安や焦りでいっぱいいっぱいになる。その結果、神さまそっちのけで自分たちの経験や常識の中だけで「もうだめだ」と結論付けてしまっていないでしょうか。82編は「それじゃだめ」と教えます。神さまがおられる。神さまが目を留めていてくださっている。だから、私たちはもっと神さまを信頼し、安心し、期待すればいいのです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。詩編82編であなたは、民の命や尊厳を踏みにじる国々や社会を叱責されました。あなたの御心は誰もが違いを認め合い、共に生きる社会と教えられます。神さま、今、私たちはその御心に基づく社会を望みます。あなたの御心に基づく社会を来たらせてください。いつも民の傍らにいてくださった救い主イエスさまのお名前で祈ります。アーメン。

10日(金) 詩編83編1-19節
一言メッセージ:83編の詩人は、周囲の国々が結託して自分たちを攻めようとしていると怯えています。そんな歴史は実際にはありませんが、心情としてはとてもよく分かります。心身ともに疲れた時、私たちにネガティブな勘違いをしてしまうものですから。詩人もそういう状態です。でも、詩人はそんなピンチの中で神さまに期待するのです。詩の表現はユニークです。14節に出てくる「車の輪」とは、西部劇の映画に出てくる荒野をカラカラと回っている植物です。ある程度まで育つと植物の上部がぽっきり折れて風に吹かれてカラカラと吹き飛んでいく。詩人はそんな植物と近隣の敵国を重ね、「一時的に勢いがあっても、神さまの叱責にポッキリと折れて頭が落ちる(国が亡びる)」と見ています。その根拠は「だって神さまがおられるんだもの」です。
  「神さまがおられるんだもの」、それは私たちの信仰の最も基本の部分です。神さまがおられるから、私たちは結構ヘビーな課題を負い、試練を受けていても期待を失わない。神さまがおられるのだから、「今の状況は変わっていくさ」と希望が湧いて来る。さぁ、今日も新しい一日が始まります。「神さまがおられるんだもの」と祈って、初めてまいりましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もわたしたちにみことばをありがとうございます。今朝詩編83編を読みながら、「神さまがおられるんだもの」との希望をいただきました。あなたがおられる、その信仰に立つからこそ私たちはいつも前を向いて生きられます。たとえ自分たちでは太刀打ちできない事態にも、笑えない悲しみにも、嘆きばかりの苦しみにも、でもあなたがおられるとの信仰は私たちを立ち上がらせ、一歩を踏み出させます。神さま、どうぞ今日もあなたがおられるからの希望に生きる者としてください。救い主イエスさまのお名前で祈ります。アーメン。

11日(土) 詩編84編1-13節
一言メッセージ:84編は神殿に巡礼する(礼拝するために集う)ことを願う詩です。何だか久しぶりに嘆きでない詩に嬉しくなります(笑)
  さて、84編の詩人は様々な表現で神殿に集うこと、礼拝に集うことの幸いを歌います。幾つか注目したい箇所に目を留めてみましょう。
6節で詩人は「幸い」な人として「あなたによって勇気を出し、心に広い道を見ている人」と歌います。日本語で「道」は「生き方、信念」を意味しますが、ヘブライ語も同じです。詩人は「神さまを信じて勇気を得て、自分の生き方をしっかりと見出している人は本当に幸せ」と歌う。
8節で「彼ら(巡礼者)はいよいよ力を増して進み」と書かれますが、ヘブライ語では「彼らは力から力へと歩み」と書かれています。面白いことに「力から力」の「力」というヘブライ語は使い分けられています。最初の力(ハイル)が「(勢いのある動的な)力」に対して、次の力(オーズ)は「(静的な)力」で「砦」とも訳される言葉です。詩人は、神さまによって揺るぎない生き方(6節)と祝福(7節)を得た巡礼者は、若い時の勢いある強さから老練の確固不動、ブレない強さへと変化し、そんな変化を通して神さまと本気で出会っていくと歌ったのです。
その時に出会う神さまは9節「万軍の神」と表現されていますが、これも厳密には訳が違います。通常「万軍の神」と訳されるヘブライ語はエロヘー・ツェバオートですが、ここはエロヒーム・ツェバオート「万軍なる神」です。「何万もの軍の上に君臨する神さま」でなく、「神さま自らが何万もの軍に匹敵する力、絶対的な存在」です。巡礼者はそんな神さまと向き合って平安と希望を見出すし、そんな神さまがわたしの祈りを(直接)聞いてくださることを幸いと歌うのです。だから11節にあるように、神さまと出会う一日は、わたしたちの「千日にまさる恵み」なのです。
84編は、こんなにも神さまを礼拝することを楽しみにする巡礼者の歌です。明日は日曜日、私たちも礼拝に集います。私たちも切望して礼拝に集いたいですね。牧師も必死に御言葉の準備に取り組んでいますし、奉仕の方々も祈って明日に備えておられます。どうぞ皆さんも礼拝奉仕のお一人おひとりのために祈ってください。また明日、礼拝でお会いしましょうね。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝の詩編84編はあなたを礼拝することがどれほど楽しみで、恵みであるかを語った詩でした。神さま、わたしたちもあなたを礼拝することを心待ちにします。明日の宣教は詩編122編から「礼拝さ、行こう」です。どうぞ明日の礼拝も祝福に満たしてください。また明日の礼拝のために一生懸命にご準備くださっている奉仕者お一人おひとりを祝福してください。明日の礼拝に期待し、今日の一日を過ごせますように。イエスさまのお名前で祈ります。アーメン。


***

今度の日曜日も、礼拝にてあなたのお越しをお待ちしています(^^)


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Author:久留米キリスト教会
福岡県久留米市にある久留米キリスト教会のブログです。
わたしたちの教会は、日本バプテスト連盟に加盟する、プロテスタント派のキリスト教会です。
(※ブログに掲載した文章の無断転載はご遠慮ください)

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